嵐の中で3

 カナタが師匠から教わった禁呪は、水の極大魔法であった。


 師匠は、そのまた師匠から教わったのだという。五十年前に魔法使いたちによって使用されて以降、呪文の言葉は封印された。禁呪を教えるとき、師匠はカナタにこう言った。


「教える者がそれを知りたいと欲する者に、お前はまだ足りないから知るべきではない、と言ってはならない。知りたいなら、知るべきだ。そのことに気づいたという点で、お前は知る資格を持ったのだ。それをどう使うかはお前次第。お前ならこれをどう使うか、ただしく判断できると確信している。なにせお前は、私の弟子なのだから」


 ――師匠。今こそ封印を解きます。


 カナタは両手を左右に広げ、深呼吸するように大きく息を吸った。そしてゆっくりと、呪文を唱えはじめた。


「エキコ エオコ ネラウォ ユジム

 エキコ イアネ ナガウォ ユジム

 オエアナ コイアゲ ノノス

 オイェクザ シネラ ウォアラキ トニズナン

 オイェアタ アイネラ ウォアラキ トニズナン

 イラ ニアチア ヘラウェレアウ

 イラ ノトマニマ ネラウェレアウ

 イラ ノノムアク テティソ タラキト エラウェラ ワヘラウェレアウ

 我は守り手なり。我は壁なり。我は盾なり。我が力、今こそ示すとき!」


 身体の奥底に、滾々と湧き出る源泉がある。そこから生まれ出たものは全身をかけめぐり、生命を維持する。カナタはこの源に手を差し入れ、いずる出口に触れた。その根元をギュッと掴み、なみなみとしたそれをすくいあげ、手の上で転がすようにしばらくもてあそんだ。それは、規則正しく鼓動しており、温かささえも感じられた。カナタはその塊をじっと見つめ、やや躊躇したあとに、少しだけ息を吸っから握りつぶした。


 直後、カナタを中心として、半透明の泡が急速に広がっていく。それは甲板の上を広がっていき、瞬く間に艦橋を越して艦首から艦尾まで拡大すると、艦全体がぷっくりとしたシャボン玉のような膜に覆われた。しかし拡大は止まらなかった。巨大化は留まるどころか加速し、隣接する蒸気空船を次々と飲みこんでいく。

 そのとき、全身の鳥肌が立つような怖気が、全艦の船員たちを襲った。すさまじい閃光に艦隊は包まれ、続く雷撃の轟音は、機関銃さながら、雨のような数が降りそそいできた。どんな爆発をもってしても再現できない破壊音の破滅的な合唱に、艦内の計器類が次々と破損する。艦内中に張り巡らされている大小さまざまなパイプが、恐ろしい不協和音を乱反射させ、あちこちに亀裂が生じた。

 しかしそれは直撃していなかった。雷撃のすべてはカナタの作り出した膜によって防がれていたのだ。閃光に目が慣れた蒸気空船の兵士たちは、黄金色の繭がもう眼前に迫ってきていることを理解した。あまりに巨大な雷の壁は、自身と比較して米粒ほどしかない蒸気空船に向かって、雷の豪雨を無慈悲に投げつけはじめた。


 艦隊を包む泡は帯電して発光し、薄い表面が虹色に輝いた。雷撃がひとつ膜に刺さって霧散するたびに、カナタは自身が刺されたような激痛を感じた。今や、何百という稲妻が、絶え間なく降りそそぎ続けていた。


「くっ……」


 カナタはあまりの痛みに、身体をねじって逃れようと無駄な努力をした。しかしいくつものワイヤーによって固定されたカナタは、磔にされた罪人のように身もだえするばかりだった。それでも、カナタは集中を切らさなかった。


 脳内のひどく冷静な部位が、自分の命を秤にかけ、あと何秒、何分持つかを計算し続けていた。苦しみにあえぎながらその顔は雷撃の数を数え続け、その接触点の膜を厚くすることによって貫通を防いでいた。


 わずか数秒間でさえ体力を大幅に消費する離れ業の集中力を、カナタはすでに数分間続けており、この終わりの見えない金色の領域を突破するまで続けなければならないのだ。


(できるかぎり長く持たせなければ――)


 そのとき、唐突に喉の奥からこみ上げるものを感じ、カナタはかろうじてバイザーを跳ね上げたものの、抑えきれず口から吐き出した。それは血の塊であった。直後、わずかに緩んだ間隙を縫って、雷撃のひとつが膜を貫通し、もっとも外側を航行していた蒸気空船の一隻を貫いた。

 艦はまるで複雑に屈折した鋭い矢で射抜かれたかのように、わずかに高度を下げ、逆に浮上したかと思うと、貫通した上下の穴から、爆発と共に火を吹いた。そのまま機首がどんどん上がり、ほとんど垂直になろうかというとき、中央が大爆発を起こして艦は真っ二つになった。急速に浮力を失った艦はそのまま落下し、膜を突き破って暗い雲の中に沈んでいった。


 艦隊は恐怖から逃れる子犬の群れのように、ほとんど接触するほどまで身を寄せ合った。実際、船体同士がこすれ合って、あちこちから不気味な金属音がギイギイ鳴り響く。カナタは艦隊を包みこめるギリギリの大きさまで泡を縮小した。それで何分命が長持ちするか、脳内が計算をはじめている。


 艦隊は巨大な黄金色の繭の横をすり抜けつつあった。カナタは鼻血が止まらなくなり、吐き気と頭痛で集中力の維持が難しくなりつつあった。ぼやけつつある目で眉を見上げると、その中から、なにか強烈な殺意を感じた。それは今までのような性質の攻撃ではなく、明確に艦隊を狙った破壊の合図であった。


 繭が形成していた稲妻の数割かが、一カ所に集まりはじめていた。それによって薄くなった眉の中に、カナタは一匹のドラゴンを見つけた。ドラゴンは空中の中にあって眠るように羽をたたみ、長い首をもたげていたが、うっすらと開けられた目は、しっかりとこちらに向けられていた。カナタはドラゴンと視線が交わった気がした。


 カナタに状況を解釈する余裕はなかった。もはや、自分の心臓がまだ動いているのかさえわからなくなっていた。計算はとっくに放棄した。次の攻撃は、計算でなんとかなるレベルではないことを察していた。


 残りの命をすべて消費したとしても、守り切れるか自信がなかった。それでもやるしかない。たとえ弾丸を紙一枚で防ぐような結果となったとしても、わずかでも軌道をそらせることができれば、全滅は防げるかもしれない。


 そのとき、ドアが開いて、見知った顔が甲板に飛びだしてきた。


「リシ……テア」

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