第197話 指宿、指宿、こちら、631.緊急。










古参の指導運転士、森も「あれだけゆっくり走っておったら、そりゃ燃費もよかろう」と

深町の運転を評していた。


大岡山では、燃費で給料は変わらなかったが

ただ、運転手の休憩所に前月の燃費一覧が出て

深町はいつも、上位であった。

それも旧式の、車体が重いバスで4~6km/l。街中が殆どの

中型路線(7m車を、現場ではこう呼ぶ)である。


高速バスよりも燃費がいいのは不思議であると

皆、何が秘密なのかと訊きに来たりもした。



元自動車エンジニアの彼としては、造作もない事なのだが。

それは、鉄道のディーゼルカーのように

慣性を使っていると言う、それだけの事だ。










西大山駅で下車したのは、愛紗たちだけ。


観光シーズンでも、並走している道路にマイカーで来たり

レンタカーで来て。


写真撮って帰る。


そんな理由で、記念用の入場券は指宿駅で売っていたりもする。






かわるがわる、携帯で写真撮って。動画も撮ったりして。



「三脚持ってくれば、4人で撮れたなぁ」と、友里絵。



「まあ、自撮りでいいんじゃない?」と、由香。



「そだね。じゃ・・・。」と、友里絵は、菜由と愛紗に寄って。

由香と友里絵は、前。




「なんとなくこうなるね」と言いながら。数枚。



山と、「最南端の駅」表示を背景に。


この写真は、下車しないと撮れない(^^)。







「さて・・・と。」と、由香。




「ほんとになんにもないね」と、友里絵。




「バス停はあるよね、すぐそこに」と、菜由。




「ほんと」と、愛紗。




一応駅だから、バス停はあるけれど・・・・。友里絵が時刻表を見る。


「本数は割りとあるね。どっちへ行くの?」




愛紗「どっちでもいいけど・・・早く来た方。」



池田湖に行くには、この辺りだと中間なので

どちらに行っても大丈夫。



今朝、ロビーで貰ってきた

市内バスの一日券は、幸いポケットに入っていたので

助かった(^^)。




「それにしても、忘れ物するなんて」と、愛紗はまだ、気にしている。


菜由は「いいじゃない、それくらい」



きっちり。


そういう風に思う人、愛紗。



出掛ける前に、指差し確認するくらいの性格である・・・・。











バス・ドライバーでよくやるのが、車止めの置き忘れ。

折り返しダイアが長かったりすると、転回場にそれをして。

外し忘れてそのまま、走ってしまったりする。



三角の黄色い、プラスチックが多いが

エンジンを掛けて、走ってしまえば

簡単に乗り越える事が出来る。



それで、忘れて出てしまう人も、いる。



それだけならいいが、置き方によって

タイアが車止めを撥ね、人に当たることもあったりするので

要注意。



それでも人身事故である。













「あ、来た来た」と、友里絵が手を上げて。


古びた路線バスが、近づいてくる。


愛紗にとっては懐かしい、いすゞLRである。


方向幕式の。



前のドアが開き、おだやかそうな運転手さんが「どうぞ」

かなりの高齢のようである。



「前のりなんだね」と、菜由。



「なんか新鮮」と、由香。




2ステップの高い床、木材。


ワックス・オイルの匂いがする。



床から、長く出ているシフト・レバー。

大きなハンドルは、使い込まれてつるつるになっている。


運転席右手の、案内放送用のボタンの箱は、塗装が剥げている。



「よいしょ」と、声を立てたくなるくらいに

ステップが高いけれど、それは以前は普通だった。




2ステップの高い床、木材。


ワックス・オイルの匂いがする。



床から、長く出ているシフト・レバー。

大きなハンドルは、使い込まれてつるつるになっている。


運転席右手の、案内放送用のボタンの箱は、塗装が剥げている。



「よいしょ」と、声を立てたくなるくらいに

ステップが高いけれど、それは以前は普通だった。




4人のほかに、乗客は数人。


おじいさん、おばあさん。


どこか、町にお買い物にでも行った帰りだろうか。



いすゞLRは、発車する。


運転席右手前の、トグル・スイッチを前に倒す。

機械式ブザーが、ツー、と鳴り

空気が抜け、シリンダーが伸び

折りたたみの前ドアが、ばたりと閉じる。


慣れた手つきで、運転手は左側から指差し確認。

右に発車するのである。




その手つきを見ていて、安心する愛紗である。



ドライバーとして、経験の長い。

安心できる運転だ。



アイドリングでクラッチがつながれ、ショックがなく


すぅ、と。


いすゞLRは走り出す。


すぐに3速。

バスは2速発進なのだ。


平地なので、少し加速すると・・・・リア・シートの下でエンジンがごぉ、と音を立てる。


直列6気筒、8000cc。6HH1エンジン。


愛紗にも聞きなれたサウンドだ。


4速、5速と、シフトされて

海岸道路を、のんびりと。

停留所を通過しながら、走っていく路線バス。

指宿駅ー池田湖行きである。


駅まで戻るダイアではなく

この車両は、湖終点で

あとは回送で、駅に戻るようだ。


折り返し乗車は少ないのだろう。

池田湖ー指宿駅は、海岸を経由しない方が近いのである。

海岸線から、少し、家のある辺りを通って

山道に差し掛かる。

細い道で、結構な急坂だ。


3速に落とし、エンジンの回転を一定にして登っていた、その時。



バスが、よろよろと左に寄って、ハザードを点けた。



「何かあったな」と、友里絵たちは感じ

運転席へ走る。


「どうしました?」と、菜由が声を掛けると

ドライバーは


「目が・・・霞むんだ」



友里絵は「少し、お休みになった方が・・。よくあります。」



高齢のドライバーや、循環器系の病気のあるドライバーにある事で

目の中は、代謝が悪いので

一時的に見えなくなったり、霞む事があるのだ。


運転中にこれが起こると、対処不能になる。



「それはいいが・・・ここでは」と、ドライバー。


急坂の途中である。道は狭いから、向こうから大型が来たら終わりだ。



「どうしよう・・・・。」と、菜由。



愛紗は「わたしが運転します。」



ドライバーは「あなたが・・・・?免許は?」



愛紗は「はい。私はドライバーです。東山急行の大岡山営業所です。」




ドライバーは安心したようで「それでは、悪いけれど・・・。」と、サイド・ブレーキを引いて

ギアを2速に入れて、エンジンを止め、運転席を離れた。


転動防止措置である。




これを怠ると、以前あったように

バスが動いて、人を轢いたりする。


この車は機械式シフトなので、ギアを入れて止めれば大丈夫だ。






そうこうしているうち、後続車がつかえてきた。



「よし!」と、愛紗は

運転席に乗り、シートの高さとスライド、ハンドルの高さを調整する。


地味だが、大切な作業だ。




バッテリーはつないだままなので、クラッチを踏み、エンジンを掛けた。



動いていたバスなので、瞬時に起動する。


ミラーを確認。


左、よし!

前方、よし!

車内、よし!

右、よし!


右にウインカーを出して走ろうかと

クラッチをつなぐと、回転が下がってしまう。



停止する前にクラッチを切る。



「坂がきついんだ・・・。」


アクセルをあおって、ニュートラルに。

ブレーキペダルは踏んだまま。


つまり、つま先でブレーキを踏み

かかとでアクセルを踏む。


一瞬、置いて

クラッチを踏み、ギアを1速に落とす。


ダブル・クラッチである。



これも、路線教習で

古参の指導運転士、斉藤から習った事だった。



「大丈夫、おちついてやれば。ギアはね、重いから。

ハズミがあるんだ。」


白髪、眼鏡。穏やかそうな

大学教授のような、斉藤の笑顔を思い出す。



ギアは入った。

「よし。」



再度、確認をする。




左、よし!

前方、よし!

車内、よし!

右、よし!



ブレーキを踏んだまま、クラッチをつなぐと

伝わった感じがあり、サイド・ブレーキを戻しながら

アクセルをかかとで踏む。


つま先のブレーキを解放すると

いすゞ・LRは

静かに、揺れずに走り出した。



「できた・・・・。」愛紗に、笑みがこぼれる。


そのまま、坂を登り

傾斜が緩くなるところまで1速で走る。


慣れた運転手なら、ダブル・クラッチを踏んで2速に上げるが

知らないバスだと、難しい。


機械式シフトだと、ギアがどこに入っているか解らない。

エンジンが揺れるし、シフト・リンケージが

バスの前、運転席ーエンジン、バスの後

まで、金属の棒でつながっているからだ。


1速だと、エンジンが大きく揺れるので

アクセルを戻した、タイミングを計ってギアを変えないと入らない。


慣れていないバスでは難しく、失敗すると停止して、1速からやりなおし。



それも、斉藤に習ったことだった。


カーブが見えてくる。


細い道。カーブ・ミラーを愛紗は確認。「対向車、よし!」



それは、指導運転士の森に教わった。



「いいか、ミラーを見るんだ。何かが映ったら減速だ。早いほど安全に停まれる。」


狭い道でも、交差道路があるとカーブ・ミラーがあるので

それを見ていれば事故にならないのだ。



カーブを曲がると、下り坂。

愛紗は、ギアを2速に上げる。


エンジンが駆動で傾いていないので、スムーズに入る。

速度がゆっくりだったので、3速に上げて

ハンドル左のレバーを下げ、排気ブレーキを掛けたが

減速が利き過ぎ、アクセル・ペダルを少し踏む。


こうすると、自動で排気ブレーキが切れる。

オレンジ色の排気ブレーキ・ランプが点いたまま。


傾斜は更に緩くなったので、排気ブレーキを止める。




運転席左の窓際にある無線機が「631、631、指宿」と。


無線機には「631」と、コールサインが書いてあったので

愛紗は、本務運転士に声を掛ける「どうしましょうか?」



運転士は「わたしが出ます」と。


運転席の後ろに置いてあった、制帽を渡す。


ふつう、制帽にリモート・マイクを点けて

声を出すと送信するようにVOXを調整するのだ。



運転席の後ろに、本務運転士は移り「はい、631」


無線の声は「631、こちら指宿。現在地は?」


運転士は「池田湖へ、間もなく到着です。どうぞ」



無線の声は「了解」と言って、途切れた。



到着が遅れていたので、指令が気にしたのだろう。



運転士は「ありがとう・・・、あの、この件は・・。」



愛紗は「わかっています。誰にもいいません。」



運転免許を持っていたとしても、運転士以外の者が運転したら

「事故」扱いになる。


運輸局に事故報告書を出さなくてはならない。



健康上の理由、緊急事態でも、そうである。


もし、そうなれば。


この高齢ドライバーは、職を失う可能性もある。

ひとり、運転手が減れば

その営業所が困る。


路線バス・ドライバーの志願者は少ないのだ。




愛紗は、そのまま静かに下り・・・池田湖の手前の、道が広くなったところの停留所で

運転席を離れた。



視力が少し回復してきた、と言う

本務運転手の言葉を信じて。



何もなかったかのように、終点のひとつ手前。湖畔のお土産屋さんが

並ぶ、その辺りで。



みんなに「降りよう?」



菜由たちは「うん」

と、静かに。


黙って降りた。



愛紗は清々しい気持で「さ、観光、観光!イッシー見ようか。」



その間にも、バスは発車し・・・・終点の転回所に

スムーズに停車した。




あれなら、大丈夫だろう。


愛紗は、そう思って安堵した・・・。


湖畔を渡る風が、すこし汗ばんだ額に涼しい。


なにか、完遂した気持だった。








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