第6話 車体点検
「それから、オイルを点検するんだが。目の前の赤いスイッチを引いておくと
絶対エンジンがかからない。電気が止まる。それを忘れると
何かの拍子にセルが回れば、ファンベルトに巻き込まれる。
バスのエンジンはでかいし、ベルトの裏側は山がついている。
停まらんぞ。」と、森は言った。
エンジンは後ろから見てまっすぐの6シリンダーで、
ラジエータは、右側にあって
走行風を受けられるようになっている。
ベルトでファンが常時回っているので、冬など
寒いから、布のブラインドで
らじえた塞ぎがついている。
「それから、オイルの点検棒は長いし、鋼だから
引っ張り出したらふにゃふにゃだ。
汚いオイルがつくから、全部出さんでいい。
引き出すなら、点検ハンマーの柄で支えないと、服が汚れる。
つなぎならいいが、朝は忙しいから
制服で点検するだろう。汚れても着替える暇はない。」と、森。
愛紗は、点検棒を引き出すと
どこまで引いていいかわからずに、全部出してしまって
ゆらゆら揺れるそれを避けて、体が逃げる。
「面白いね。」と遠くから見ていたのは
さっき話に出ていた、みわだった。
ちょっと背丈も低いけど、そんなみわでも
立派に大型観光バスも運転出来ている。
「ああ、みわちゃん。」
「あいしゃちゃん、がんばって」と
女の子同士は、年を取った人を
お姉さん扱いしないのがいいらしい。
若いままのつもりでいたいのだろう。
「それはね、長さが決まってるから
まっすぐのところで、そのうち判るわ」と、みわ。
「そっか。」と、愛紗。
「ちょっと見てて、タバコ吸ってくる」と、森。
のどかな指導である。
大抵の鬼教官もの、なんてのは
教える方が疲れて仕方ないので
現場のドライバーには無理なのだ。
あんなのは漫画の世界である。
このあたりは別の会社でも似ていて、
暇な会社ほど、暇な人が余ってるので
口うるさい教官もいるが
それで、事故が少ないかと言うと
逆効果。
やかましく言うと聞きたくなくなるのが人の常で
東山のように、大事な事だけ教えて
それでダメな奴は潰れる。
事故を起こして辞める。
そういう世界である。
みわは「ああ、森さんにはわからない女の悩みもあるね。
トイレは結構困るから、いざとなったらコンビニでもいいけど。
ここの路線だと、工業高専の裏にね、陸上部のトイレがあるの。
裏門から入れる。駅から折り返しだから、あそこは休めないし。
緊急ね。駅は、バスターミナルもいいけど、夜はデパートが閉まるから
市営駐輪場の1階ね、入り口のセブンイレブンの前、あそこは
和式だから、汚いとか思わずに済むけど。時々盗撮魔が居るから
気をつけて、って看板があるの。見たことないけどね、ははは。
あとは、東沼の折り返しが長いときは困るけど、となりのパチンコ屋さんが
親切な女の人が居るから、貸して繰れる。
どうしても困ったときはね。
と、みわは声を潜めて。
電気消して、中扉のステップにしちゃうのね、これはいすゞだから
後ろか。
それで、お水で流してしまう。普通、後ろの席のその後ろに
大抵、5リットルの焼酎のペットボトルに水があるけど
あれで流したりする。
」と、みわはとっても役にたつ、確かに
男には言えない事を言った。
「バスの電源落とさないと、ドライブレコーダーに映るわよ。」と
笑って。
「ああ、うそうそ。そっちは見えないから。夜だとね。
昼間はまあ、ないでしょ。」と、笑った。
音は聞こえるかも、と言いながら。
「ラジエータの水は、上。普通密閉だから、予備タンクを見ればいいの。
日野はよく減るから、水積んどいたほうがいい。
コミュニティバスの小さいのは、加減速で減るのね。」と。
そうして、てきぱきと点検を進める。
「電気を見る時もそうで、ハザードとね、ライトを点けて。
車幅も点けて。それで一回で終わる。
前はね、走りながらでも見えるし。」と。
ふむふむ、と愛紗は聞いているが
一度に覚えられそうもない(笑)
みわは「まあ、これ一週間やるから、嫌でも覚えるよ。
こればっかりだもの」と。
愛紗は「運転はしないんですか?」
みわは「そこが、この会社のいいところでね。
エンジンオイルの交換とか、電気の簡単な修理とか。
ほんとーに出先で困る事を教えるの。
まあ、大岡山に居るうちはいいけど
そのうち東京ー大阪とか
空港線、なんてやるとね。
絶対あるよ、故障。
」と。
「そういう時、どうするんですか?」と、愛紗。
みわは笑って「何年もあと。それに、そういう楽な仕事は
若い男子がやりたがるから。あんまり利口とも思えないけど。」と。
愛紗は「なぜですか?」
みわは「経験がないのに、遠く行って故障したり、お客さんとトラブルになったら
どうしようもない。事故でも起こしたら一生終わりだし。まあ、大岡山は
乗せないけどね。若いのは。」と。
事故が起こりやすいのも、高速とかだし。と、みわは言う。
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