第5話 思い出の経由

「切れるのはヘッドライト、テールだな。今は常時点灯が流行ってるから。

妙なもんだが」と、森は笑った。


こんなに大きなものが見えないわけもない。



実際に、つなぎを着てタイヤを叩くと結構暑い。

今は4月だが。


「暑かったら上を脱いでもいいぞ。」と、森。


はい、と愛紗は返事をしたが


ちょっとだらしないので、止めておいた。



それに、アンダーシャツが気になる。



かわいいのなら、良かったな。


そんなことを気にして。



森は、サイドにある燃料タンクのボディ蓋を開けると

そのままタンクが見えた。


「これは、燃料が見えるから目視する。計器は壊れるので

信用しないほうがいい。UDとかは見えないから

タンクの横をハンマーの柄で叩くと、燃料のないところは

軽い音がするから、音が変わったところが液面。


夜間など、これで見るのもいい。



それから燃料を入れるのは、自分だ。

ノズルも重いから、気を付ける。


持っていないと、自家用のガソリンみたいなわけにも

行かない。まあ自動で停まるが

反動でノズルが押されて、油を被る事もある。」と、森は言った。



愛紗は思い出す。


深町が最初に入社した頃の研修も、森さんが受けて。



ひとり立ちしたばかりで、燃料の飛沫を頭に浴びて。


タンクの入り口が大きいので、勢いで跳ねてくることもある。


それで、お姉さんタイプの女子ドライバー、みわが


タオルで拭いてあげたり「どんまい!」と元気づけてあげたりした。なんて

そんなこと。



しっかりしているようでも、深町にもそんな頃もあったのだろう。


みわは、その当時30代半ばで、背格好はそう、ミュージシャンのミワに

似ている。まあ、も少し大人だが。



かわいいので、男子ドライバーにも人気があったが

既婚者である(笑)




そんなことを思い出してると、森が「どうした?」



愛紗は「すみません、深町さんのことを思い出していて」



森は「ああ、たまちゃんか。どうしてるかなぁ。戻ってくるんじゃないか、また。」と

面白い事を言うので


愛紗は、燃料タンクの蓋を閉めながら「なぜですか?」


森は「うん、辞めたって言うのは書類のことで。東山は一生面倒を見るんだ。

みんな、必ず戻ってくる。」


森の話では、どんなドライバーでもいい奴は、戻ってくる。

その時にいいドライバは、すんなり戻れる。


いいと言うのは、正義感を持った人、と言う意味で

それがないと安全は守れない。


それで森たち長老が危惧するのは、若い連中が

正義よりも自分が楽ならいい、とズルクなっている事だった。


それで、深町の場合も退職扱いにしてはいるが

いつでも戻れるように席は空けてあり、バスも

用意されているとの事。


「ま、戻ってこないかもしれんがな。聞いた話だと」と森は続ける


この3452号の担当ドライバー、和田が

駅で深町に会い、聞いたらしい。


彼は、大学の研究室で呼ばれて暫く行っているとの事で

秋くらいに終わるかも、と言っていたとか。


「和田さんが。」


和田は、深町より少し上の、大柄な

ラグビー選手のような風体の人。


豪快で、やっぱりいい奴だった。


酒好きで、朝のアルコールチェックで引っかかり

謹慎になり、その後

また引っかかったので、とりあえず当時の経営が

退職にした。


でもまあ、それも書類の事。


また、戻ってきているのは、正義感の持ち主だから。



「大学ってどこなんでしょうね。みわちゃんのお母さんが言うには

学習院とか。」と、愛紗。


みわの母は、丘の上にある工業大学の分校で

雑役をパートでしている。


それで、そこのバス路線を深町が担当したときに

声を掛けた、との事。


森は「わたしが聞いたのは、医学部を出たとか言う話で

今も、東京大学の医学部、それと工学部で何か

若い人に教えてるとか言う話で...。」と森は

燃料タンクのボディ側の蓋を閉めて。



森の話では、深町は3回、大岡山に入っているとの事。


どれもまあ、本業が暇になり、たまたま来たと言う事らしいが

今回は、後輩への指導を頼まれて

元居た研究所に戻ったという、そんな話。



「でもまあ、いつか戻ってくるさ。」と、森。



東山は元々財閥系である。政治家も出しているが

交通に関してはその、運輸大臣を出した会社と言う事もあり

特に気配りをしている。



本社の交通事業のトップは、元バスドライバーである。

お飾りではなく本物のドライバーに、経営者の甥を

就かせる会社はあまり例がない。


それでないと、安全は判らないと言うのが

経営陣の考え。



株式も非上場なので、ヘンな投資家が口を出せない分

安全には一家言を持っていても大丈夫だ。



その割に現場裁量が大きいのも、ユニークである。




「ああ、そうだ。研修だな。続いて車幅灯だが

夜はこれが頼り。狭い所でぶつける事もあるから

大抵の古いバスは、スペアのカバーが工具箱に入っている。

ペンキも豆缶があるから、小さい補修は自分で出来るが

必ず、報告する事。」



と、森は続けた。



慣れればぶつける事もないが、運転席は前輪より前だから

相当遅れて後輪が通るので

ハンドルを遅く切らないと、ぶつける事もある。


いすゞはそうでもないが、三菱は

大型と中型でホイールベースが同じなので

狭い路地を曲がる時の感覚が違う。

サイドミラーで確認するのが、なれないうちは必要と森は告げた。




「後ろに回って、エンジンフードを開ける前に、広告板があるのは、跳ね上げる。

忘れないで戻す。」と森は言った。



はい、と愛紗が見ていると


広告をつける板が、ばね仕掛けで持ち上がるように

古いバスはなっている。


「今はラッピングだが」と、森は言った。



「たまちゃんがな、最初の研修の時に

この広告板を戻し忘れて。バスを出そうとした。


隣のバスぎりぎりだったな。」と、森は笑った。


これは中型だが、大型路線バスも以前は多かった。

乗客が少なくなったので今はあまり見かけないが。

その乗務訓練で、それをやってみんなに笑われた。



「深町さんもそんな人だったんですね。」と愛紗は微笑んだ。



「でも、たまちゃんは恥ずかしそうに笑ってたな。怒ったりはしない奴だ。」



と、森も懐かしそう。



愛紗も、ほんのすこし前の事なのに



この車庫で、お昼寝をしている深町に

同期のガイドたちで「お疲れ様でーす♪」と、声を掛けたとき


のーんびりと、にこにこしていた様子が愛らしかった事を

思い出す。



「それで、エンジンフードは下のボタンを押すと

ロックが外れる。左右にあるな。それで、浮いたら

持ち上げる。大抵はばねで停まる。

いすゞは横開きだから、左だな。

ラジエータが右側に開く。」と、森。

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