第4話 研修一日目
「よぉ、頑張れよ」声を掛けたのは
石川。
整備士で、この春から工場長になった。
若いが、気骨のある野武士風で
正義感のある人物。
経営陣が、労働組合の人のバスに
細工をして嫌がらせをしたりするのを
阻止したりしたので
所長の岩市や、営業のねずみ君には
嫌われていた。
営業のねずみ君が、立場を利用して
ガイドをしていた頃の愛紗に言い寄ったりした時
石川が「みっともねぇぜ、そういうのはよ」と
グリースで汚れた手で、ねずみ君の頬を撫でて上げたりして。
そういう、荒くれっぽいが武士のような人で
今は、愛紗の同期入社のひとり、菜由が奥さんだ。
その菜由も、最初、愛紗みたいに
深町と仮想恋愛をしていた頃があって。
菜由の場合はもう少し激しくて、朝の出発点呼の時に
深町を遠くから熱っぽく見つめたり。おねだりしたり。
愛紗から見ても可愛かったのだが。
勿論、深町は大人だから、それが恋に恋いしたい気持で
本当の恋人が出来れば醒めていくものだと知っていた。
それでも、菜由は気持が収まらずに
仕事の休みが合わないことを理由に、外で逢う事を避けていた深町に見せたいと
ガイドの仕事が休みの日に、パーティードレスのような華やかなものを着て
営業所に現れたりして。
愛紗は回想すると、自身が深町のダイヤに合わせて駅に行ったのと
似てるかな、なんて
今では微笑ましく思う。
それで、そのパーティドレス姿の艶やかさをたまたま見た
石川が、若干好意を持ったのか
しかし、石川は武骨なのでコトバには出さない。
深町はそんな菜由に「やあ、綺麗だ、とっても、お嬢さん」と言って
にこにこ。
石川の微妙な雰囲気を察したのかもしれず。
深町は「パーティに行くといいね。ステキなボーイフレンドと」
と、若い恋人がお似合いだと言う現実に気づかせて。
菜由はそれから、石川の整備服を
洗濯するのを手伝ったり(ガイドは、バスの清掃用のタオルを
洗濯するので「ついで!」と言ったりして。
そうして、微笑ましい関係になって。
愛紗もそれを見て「いーなあ」なんて思ったりして。
そういう事を、愛紗は思い出したり。一瞬で。
バス会社には、そんな家族的な一面もある。
人が動かないし、派遣、なんてヘンな制度も入ってこれない
(禁止である)から。
「それじゃ、車両研修だな」と、今日の教官。
と言っても、定年になったドライバーや、夜勤明けの指令とか。
時には運転助役や課長。
そういう人が教えていた。
この日は森さんと言って、ずっと本社の社員だった人。
定年になり、今は契約でコミュニティバスを運転している。
「はい」と、愛紗。
「普通は数人でやるんだが、まあ女は男と一緒もまずいだろうし。
今は女の運転手も志望者は少ないから。」と森。
少し、髪の毛が薄いが日焼けして、しっかりとした人。
穏やかだが、正義感のある人。
いつだったか、クレーマーに襲われた深町を会社が処分すると
言った時、森さんは「そんな事をしたら、労働組合が黙ってないぞ」と
けん制したり。
そういう事もあった、頼れるお父さんである。
「うん、まあ、気楽にな。つなぎもね。制服だとお客さんが間違えるからで
別に汚れる訳でもない。暑かったら冷房入れてな」と
優しい。
愛紗からすると、おじいさんくらいの年代だろうか。
「点検ハンマーを持ってな。大抵は運転席のそばに
何か、パイプがあってそこに入れてあったり。」と森。
「ありました。」と、愛紗。
このバスは古いので、料金箱のところと
乗務員柵の間に、ビニールのパイプがつけてあって
そこに入れてあった。
「それで、タイヤを見る。叩いて音でな。パンクしてると
緩い音、空気があると硬い。手触りでもわかるが。」
と、森は実際にバスの前輪のトレッドを叩いた。
「あまりサイドは、とがったほうで叩かないほうがいい。」
「はい」と、愛紗はメモを取ろうとしたが
「ああ、そこまでせんでも毎日してれば覚える。それで、この
点検表をチェックするんだが。」と
点検表を見せた森だったが、既にチェックしてある。
「まあ、朝、時間がないし。普通壊れる事もないから
これは法規のお約束だ。それは言うなよ」と、にこにこ。
愛紗は笑顔で「はい。」
「それから、バスの前扉から降りて、左前輪、燃料、左後輪、エンジンオイル、水、
右後輪、前輪と見て、それからエンジンを掛けるんだが、担当でない車の場合は
ボディの傷や凹みも見ておく。自分で壊してない事を
指令に言っておく。」
「はい。」
「エンジンを掛けたら、灯火だな。まあ、普通大丈夫だが。」
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