第3話 Isn't she lovely?
愛紗は、挨拶を済ませて
事務所の表のバス車庫、と言っても
アスファルト舗装されただけの、ただの広い場所。
そこで、今日の研修教習車を探した。
大岡山営業所でのバスの管理は、番号制で
ふつう、古い、ぶつけてもさほど困らないような
そういう車両を使った。
この日は、E3452号。
いすゞの8000cc自然吸気エンジンを積んだ、古い車両だ。
車庫は、敷地の合間に建設会社が入っているので
それを避ける形になっている。
北側が事務所、南側と東にバスの車庫があり
そこの間に、小川が流れていて、周囲は田畑と言う
長閑な場所だけど
夜は静か過ぎて結構不気味。
幽霊が出ると言う噂もあった。
水田があるせいで、地下水が豊富。但し飲めないので
知らない人が飲んでしまい、背中に湿疹が出来たりした事もあった。
その豊富な水のおかげで、バスの自動洗車機械が設置され
24時間使える事も、愛紗たちバスガイドには有難い事だった。
信じられない事だが、観光バスは結構封建的で
車内清掃や、窓拭きはこの営業所に限らず、ガイドの仕事。
その為、深夜に帰ってきてもそれから1時間くらいはたっぷりと掛かり
給料になるのは20分だけ。
それもガイドが辞めていく理由でもあった。
ドライバーも事情は似ていて、観光のドライバなどは
運転している時間と前後10分だけが給料が出た(当時はそうだった)。
路線のドライバも同様で、如何に待機が長くとも
一円にもならないのは、人手不足のせい。
大昔は、出勤すれば全て給料だった。
それが、政治の都合で規制緩和され、バス事業が
届出で出来るようにされてしまったせいだった。
観光や、高速路線バスが格安ツアーバスで運営され
記録的大事故が起こるまでは、東山のような電鉄系の
古参会社は儲けにならなかったし
国鉄の寝台特急が絶滅したのも、似た理由だった。
小川の畔を歩いて、反対側の車庫に向かう愛紗の視線にあったのは
E7953号だった。
風船のイラストのついたラッピングバスは
愛紗がガイドで入社した頃、2回目の3年目を迎えていた
先輩バスドライバー、深町がかつて担当していた車両だった。
彼自身は元々はミュージシャンで、噂では国立大の医学部を卒業し
何故か医師にならず、音楽をしていたが
それも断念、科学ジャーナリストをしていたり
あちこちの研究所に勤めたり、と言う変わった人物で
見た目はその当時で30才そこそこにしか見えないが
実際は40才の半ば、と言う不思議な人物で
誰からも好かれ、いつもニコニコしていて
タマちゃん、とみんなに呼ばれ
高学歴と言う噂や、凄い家柄と言う噂が伺われるように
決して怒らない紳士だった。
そんな理由で、女子ドライバやガイドに人気があるが
でれでれせず、あくまでも同僚として接するあたりが
更に好感を持たれ、若いガイドなど
親元を離れた淋しさから、擬似恋愛の相手として
空想する事もしばし、そんな存在だった。
そのせいで、当時ここの所長であった岩市は
やっかみ半分で彼を苛めたし
営業のひとり、既に居ないが
もてないネズミみたいな所長の腰巾着男も、彼を嫌った。
そういう問題もあって、ガイドを辞める女の子も多い。
そういう時、深町は怒るでもなく、ただ、微笑んで「無理しなくていいんだよ」と
そんな感じなので、ガイドたちは「あの人が観光に来たらいいな」なんて
夢想していたりもした。
でも、深町は路線が好きなのか、観光に来る事はなく
その内に大学からお呼びが掛かり。研究室に戻っていった。
ちょっとした淋しさが、愛紗にもあった。
18才になったばかりで、大岡山営業所の近くのガイド女子寮に住んでいた頃。
お休みの日に、大岡山駅の方へ買い物に出かけた事があった。
そこは若い女の子だから、いくら疲れていても買い物には行きたい。
ガイド同士の休みが合わず、淋しいのもあったが
なんとなく、深町の乗務ダイヤを調べて
営業所近くの市立病院に来て、営業所に戻るダイヤである事に気づく。
深町のダイヤは7A番で、朝5時出勤で
お昼の12時20分に大岡山駅の前の、東山急行デパートの下の
バスセンター1番線から、市立病院行きに乗務する事が判った。
お昼に寮に戻るなんて、お買い物としては無駄だが。
なんとなく、若い女の子の仮想恋愛。
その相手は、本気になってしまうような男はダメだ(笑)。
そういう理由もあって、深町は若いガイドに人気の存在だった。
そのあたりの事情が判らない所長や、営業とか
独身ドライバーで持てない君たちは、深町を嫌った。
いい迷惑だったと思うが、でも、女の子ってそんなものだ。
もし、深町が本気になってくれたら、独身なのだし
それはそれで大丈夫だ。
何しろ観光のドライバーは、どうしようも無い人も多く
どこかから流れて来て、運転だけは自信がある、なんてタイプも多いので
セクハラも多数あった。
そういう時に深町が居ると、観光のドライバーたちも一目置いたのは
深町を社長が気に入っていたせいもあった。
それで、当時の所長が更に嫉妬するのだが。
その、E7953は、今は先輩の女性ドライバー、白井が乗っている。
それを見て思い出す愛紗。
1番線に付ける前、2番線の空き時間を利用し
早く付けた深町は、エンジンを止めて昼寝していた。
バスドライバは過酷な仕事である。
ほんの10分でも睡眠が取れれば、眠れるような
人でないと務まらない。
この日の彼はと言うと、5時に運転を始める(と言う事は、4時半には
出てこないとならない)。
それで、前日の終了が20時である。
30分で後を済ませたとしても、4時半に出てくるには
3時半には起きないとダメだ。
幸い深町は営業所の近くに住んでいたので(それで東山を選んだとの事)。
それでも10分くらいは見ないといけない。
朝食を取ったりしないと危険だからである。
そんな事情で、睡眠は6時間取れない。
それで、朝5時から運転し、丘の上の工業団地へ2往復。
隣の隣町の西営業所まで
1往復。それで、最後がこの市立病院線。
通常、この後+中番を入れるが
深町は何故か断っていた。
事故を起こしたら大変、と思うのか。
それで、寝ていた深町を、思い切って
訪ねた愛紗。
なんでそんなことをしたのか、21才になった自分は
理解できない。
思い出すと恥ずかしくなるが。
バスの窓ガラスを叩いて、深町を起こして。
でも、嫌な顔もせずに笑顔で、愛紗に対応しようと
バスの前扉を開けた。
運転席にあるスイッチで。
空気が抜け、シリンダの動作で折り戸が開く。
「なんですかぁ」と、深町は眠そうだったが
愛紗は、すこし含羞の視線で深町を見上げ
「市立病院行きは何時ですか?」
目の前に時刻表があるのに。(笑)。
愛紗は、なぜかドキドキして、頬が赤くなったのを
覚えている。
まだ、伸びてない髪は、肩くらいだった。
視線を逸らした愛紗。
やっぱり、恥ずかしかった。後悔した。
でも、深町は優しく「20分ね。もうじき。このバスだよ」と
時間前なのに1番線に移動して、ドアを開けてくれた。
それで、お客さんが乗り込んでしまって、愛紗のささやかなロマンスは
そこで終わった。
市立病院までの短い間、一番前の席で
深町にいろいろ話したようだったが、何を言ったか覚えていない
愛紗だった。
ただ、深町はミュージシャンだったためか、スティービー・ワンダーの
曲「かわいいあいしゃ」の事を話してくれたのを覚えていて
その時、「可愛い愛紗」と聞こえてしまって(スティービーを知らなかったのもある)。
自分が可愛いと云われたと勘違いして、しどろもどろになって
顔は真っ赤。
市立病院で終点の後、そのまま営業所まで乗っていけばいいのに
恥ずかしさから、降りてしまって
「ありがとうございました!頑張ってください」と、
勢い良く頭を下げて、寮に向かって風のように駆けて行った事。
それを覚えている。
それ以降、恥ずかしくて深町に会う事もなかったが
知らないうちに深町がいなくなってしまった。
そんな、小さな後悔も愛紗の中にあった。
だからどう、と言う事もないのだけど
小さなドライバーへの憧れは、そんな理由も少しはあるのかもしれないと
愛紗は思った。
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