第9話 もしこの国に新しい風が吹くのなら



 その日、サイクス王国には混乱が訪れていた。



 王国内の民なら全員が知っている黒い建物。

 丘の上に作られた建物。

 自分たちの家族を連れて行った憎むべきそれが、半壊する音は、確かに民にも届いていたのである。


 ある一人の民が空を見上げると、教会からは黒い煙が滔々と、くらめいていた。

 

 真っ黒な黒煙は空に上り、やがて大きな灰色の雲になった。



 民たちは見上げる。

 灰色の雲は静かにサイクスの民を覆い、広がっていく。


 彼らは灰色の雲に何を思うのか







「何がどうなってやがる!?!?」


 カルテルの狼狽した声が王宮に響き渡る。

 その声に反応するものはいない。


 カルテルもまた、教会から昇る黒煙を見ていた。

 カルテルはサイクスの王である。

 この国のことは全て手に入る、もちろん情報もだ。


 それなのに、あの黒煙の正体がわからない。


 そのことがカルテルにはとても恐ろしく感じられた。


 そして、王である自分が未知のものというだけで恐れていることがカルテルの自尊心をより一層傷つけていた。


「く、くそが!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!」


 カルテルは自分の机の上に置かれたものを片っ端から投げ捨て、頭を掻き毟った。


 彼は絞り出した声で必死に叫んだ。

「兵は!兵はいないのか!

 誰か!!!メイデンに繋げ!一体何が起きているのか調べろ!!!一刻も早く!」


 しかしその声は誰にも届かなかった。

 カルテルの部屋には沈黙が流れていた。


「な、なぜ誰も答えない!!!!」


 カルテルは部屋から出るために扉へと足を向ける。

 それは窓から背を向けるということ。

 カルテルはサイクスの民が黒煙を見上げていることを背中に感じた。


 何故かはわからない。

 わからないが、カルテルはあの黒煙が怖くて仕方ないのだ。


 その時、突然扉が開いた。


 豪華な扉だった。

 金で作られた華やかな装飾はカルテルを楽しませてくれるものであったはずなのに、今は胸焼けしそうな重苦しいものに見えた。


「なっ!?」


 扉の先、待っていたのは—————————



「カルテル=サイクス。あなたを、虚偽の罪状により民を不当に扱った罪で捕らえます。抵抗せず、速やかに我々についてきなさい。」



 一文字の傷が顔に刻まれた男と、鉄服に包まれた集団


 —————星架隊だった。

  





 ☆


 男はソラという少年を見ていた。

 螺旋階段を抉り取った攻撃を見ても立ち向かえるその強さの正体が男にはわからなかった。


 自分の足を見ると、それはあり得ない方向に曲がっているが、痛みはなく、男の恐怖を駆り立てた。


 男は瓦礫に手をのせ、起き上がる。

 肩が上下に動いていた。


 肺が、空気を求めていた。

 それなのに、黒籠の中の空気は重苦しく、体も思うようには動かない。


 限界だと、そう思った。



 男は———トムは、項垂れた。


(さっきの攻撃は……"聖なる消滅"…きっとメイデンは俺らのことすら………

 いや、メイデンも死んだのか?)


 もう一歩踏み出す。


 トムが周りを見ると、皆も同じように俯いていた。


(このままだったら…俺は死ぬ。)


 どうしようもないほどの真実を示す言葉がトムの脳裏を占めていた。





「話があるんだ……………」





 声がした方向に誰もが顔を向ける。


 囚人たちも、看守たちもソラを見ていた。


 囚人たちにとってソラは得体の知れぬ存在だった。


 ソラのおかげで、一時的な自由を得られた。

 ソラのせいで、仲間が大勢死んだ。



 看守たちにとってもソラは得体の知れぬ存在だった。


 ソラのせいで、自分たちの立場は危うくなった。

 ソラのおかげで、メイデン看守長の支配から逃れられる。


 様々な感情がソラに注ぎ込まれていた。


 その中でひとつだけ、共通している意思があった。


 "こいつは決して善人ではない"


 だからこそ彼らはソラの次の言葉に警戒した。




 そして、ソラが発したセリフは、



「本当に、悪かった。」


 謝罪だった。







 ☆


「ゴードンさん。」


 ソラな老人の名前を呼ぶ。


 一体彼は、彼らはどんな顔をしているだろうか?

 頭を下げているソラにはわからない。


「ジーナも、謝りたいことがある。」


 ゴードンをはじめ囚人は警戒したような呆気にとられたような顔をしていた。

 唯一ジーナだけはソラが言いたいことがわかっていたのであろう、彼を見ずにまわりを警戒していた。


「俺には覚悟が足りなかった。

 命を捨てる覚悟じゃない、命を背負う覚悟だ。


 ゴードン……さん、あんたは俺に覚悟があるかを尋ねて、俺はその問いに頷いた。

 だけど、覚悟なんて俺には無くて皆が死んで初めてあんたの質問の意味を知った。」


「……………」

 ゴードンは黙ってソラを見ていた。



「でも弱い自分とはおさらばだ。」


 ソラが顔を上げると、ゴードンをはじめとした彼らはソラの顔を見た。


「!?」 

 その顔に浮かぶ表情に誰もが驚く。


「マリオも皆も、俺が殺した。俺はその事実から逃げない。俺は…止まらない。


 俺は俺の望みを叶えるだけだ。」


 ソラの顔には"強さ"があった。

 迷わない強さ、逃げない強さ、そのどれもが15歳の少年の顔には刻まれていた。


「…な、何が覚悟だ!!

 お前のせいで俺たちは露頭に迷うんだぞ!!!


 いや!それだけじゃない!!!ここで、俺たちは……死ぬかも知れないんだぞ……………」


 突如、看守の1人が叫んだ。


 その声にハッとしたように他の看守も追随する。


「そうだ!謝っても許されることじゃないだろうが!!」


「看守の中にだって死んだ者はいるんだぞ!!!」


「一体どうしてくれるんだ!?」


 ソラはそこで初めて看守に顔を向けた。


「罰なら望みを叶えたあと、受けるさ。

 石を投げてもいいし、また牢に入れてもいいし、

 殴ってもいいし、刺してもいい。


 囚人たちだってそうだ。

 俺は最初、お前らを利用する気だった。

 命の重さを感じることを知らなくて、ただ自分のことしか考えていなかった。

 罰せられて当然だ。」


 ソラは歩き出した、糾弾した看守の方へと。


「それでも俺は止まらない。」


「ぐ…………!?」


 ソラは看守の目の前に立ち、その強い目で見据える。



「ここで死ぬわけにはいかない。」



「……勝手にしろよ!お前と俺たちは違う!!!

 反抗して死ぬなら!!俺は媚びへつらってでも生きてやる!!!

 謝罪も受け止める!!お前が脱出するためだけに戦わされることになったことも俺は、俺たちはもう許す!だからどうか!!俺たちのことはもう放っといてくれ!」


 囚人の1人が叫ぶ。

 男は泣いていた。他の囚人の中にも涙を流す者は多くいた。


 未だ、ソラを見る目は敵意で塗れていた。



 ソラは反応しない、ただその拳を震わせていた。



「何が………違うんだ。」


「は?」


 今まで感情を見せずに話していたソラの声が初めて

 —————震えていた。


「……人に媚びて生きながらえるなんて、死んでいるのと何が違うんだ?」


「!」


「……俺は、別にお前らに助力を頼んだ訳じゃない。

 そもそも、この国がどうなろうと俺には関係なかったんだ。

 ただ言いたいことを言っただけだ…あとは好きにしろ。

 ジーナ、行くぞ。」


「…………えぇ。」 


 ソラの歩みについていくのはジーナだけだ。

 石畳を踏み歩くソラの背中を皆が見ていた。





「………………」





 ソラたちの背中は黒籠の影の中に消えた。




『死んでいるのと……何が違うんだ?』




「………情けない。」




 静寂の中に落とされたのは、悲痛な声。


 誰もが考えてはかき消して、それでもまた考えてきた思いだった。

 最初からそんなことわかっていた。

 それでも怖くてどうしようもないと諦めていた。




「なんて、情けないんだ、俺たちは。」

  



 自分たちが一番わかっていたんだ。




「あんな子供一人に俺たちは何を言わせてしまったんだ。」

「…………まだ、間に合うのだろうか?」



「俺たちはただ、自分の弱さを、戦わない理由にしてたんだ。」



「いつ来るかわからない死刑判決を待ち、それを見て見ぬ振りしてのうのうと生きてきた。

 次に死ぬのは自分が愛した者かもしれないのに!

 死んでいるのと何が違ったんだ!俺たちは!」




 涙が溢れて、溢れて、頬を伝った。




 最初に言葉を漏らしたのは1人の老人。


「あっしも、戦いたい。

 老いた体でできることは少ないが、それでも力になりたい。」


 それに重ねるように皆は語り出した。


「俺も、俺も戦いたい。俺もせめて今だけは生きていたい。」


「お、俺も止まりたくない。本当は後悔ばかりしていた。」


「お、俺も」「私も…!」「俺も!」


「ここからなんだ…………!」




「もう逃げるのはやめだ!

 何度でも!抗うんだ!!!

 俺たちの国を!!取り戻すんだ!!!!!!」




 誰もが、ソラのことを得体の知れない奴であり、

 それでもきっと、命を科すのに値する男だと想った。








 ☆


「この先に、メイデンたちがいるんだな?」


「ええ………おそらく。」


 ジーナとソラは大壊した黒籠を歩いていた。


 ジーナはソラを見る。

 その背中からは生命力に似た何かを感じた。


(ソラちゃん、不思議な子。

 あなたはこの脱獄を企てた大犯罪者であり、

 もしくは、大英雄になり得るほんの少しの可能性を持つ存在。


 きっとあなたを恨む者は多くいるでしょう、きっとこの監獄にもいる。


 それでも、皆が怨嗟を抱きながらも、あなたに惹かれている。

 それは敵であったものですら……


 どうして?どうしてあなたはそんな小さな体で、こんなことを成し遂げようとできるの?)



 ジーナの目にはソラの体が写る。


 その姿はまるで…………




「!!!」


 ジーナはソラと皆の話に耳を傾けていたせいで監視の目が緩んでいた。


 それがいけなかった。


「くっ!」

 いきなりの衝撃を喰らったジーナ。

 傷だらけの体が痛む。


「ジーナ!?」

 ソラは思わず叫ぶ。



「お前の相手は俺だ。」



 ソラの視界にロングコートの男が立つ。


「お前は…さっきの………!!!」





 ジーナがやっとの思いで顔を上げると、3人の"忠誠せし反逆者"の一人、ジュノア=ローレントがそのギョロ目でこちらを見ていた。


「お前、恋鬼だろ?」


 ジュノアの武器はその恐ろしく長い手足による独特の間合いと、相手の弱点を捉える目。


(折れた場所を狙って…………!)


 ジーナは余裕そうな笑みを浮かべ返す。


「あら………私の名前を知ってくれてるなんて、もしかしてファン?」


「馬鹿言え、そんなわけねぇだろ。

 この国では、お前を知らない奴の方が珍しいだろ?

 それにお前には前々から興味があったんだ。」


「………………」


「元サイクス王国近衛兵士、ジーナ=リリ。

 世間でその話が出回ることはないが、俺はお前を知ってたぜ、これでも貴族の端くれだったからな。」


 ジュノアはジーナに話しかけながらも一歩一歩ジーナとの距離を詰めていく。


「ロシアン王の懐刀と言われていたお前がなぜこんなところにいるのか?

 死ぬ前に教えてみろよ、馬鹿にしてやるから。」


 ジーナは笑う。


「残念だけど、私を口説きたいならその不細工な顔をどうにかしなさいよ、汚らわしい。」


 ジュノアの顔が怒りで赤く染まる。



 あぁ、そうか。

 ソラちゃん、私はあなたの背中に、あの人たちの姿を重ねていたのね。







 ☆



 木剣を振るう。

 風を裂く音が私は好きだった。

 それは血に塗れた拳ではなく、人の道具である剣を持っているのだということを私に再確認させると同時に、私があの人の剣だと言うことを私に教えてくれるものだからだ。


 窓が開く音が聞こえた。

 中庭にいた私は自然とその方向を見上げることになる。

 そこには見慣れたおっさんの顔があった。


「ヨォ、ジーナ、元気か。」


「……………元気ですよ。」


 私は髭面のおっさんにそう返した。


 昼の時刻、青い芝生を撫でるようにふく風を心地よいと感じる季節のことだった。


 素振りしていた木剣を持つ手をだらんとぶら下げ、そのおっさんの元へ急ぐ。


 おっさんは豪華な建物の一階の窓から顔を出し中庭を覗いていた。


「はぁ、お前もすっかり可愛げがなくなったな。

 前はあんなに可愛かったのに………

 敬語なんて使って………はぁやだやだ。」


「いつの話をしているんです?

 もう随分も前の話でしょう、それ。」


 私が反目で見るとおっさんはニヤリと笑った。


「お前は俺にとってはずっと変わらず餓鬼のままだよ。」


 私はそのおっさんと出会った日のことを思い出す、と言っても別段変わったことはない。


 当時、身寄りがなく、生きていくために悪さばかりしていたどうしようもない餓鬼であった私が兵士に捕まった。

 それをたまたま兵に同行して見ていたこのおっさんにスカウトされたのだ。


 そんなのはよくある話だ。権力を持つ者は優秀な人材を近くに置きたがる。

 自分を優秀と言うのは忍びないが、このおっさんもそうだ。


 その権力者とやらがよりによって王様だったというのだから、当時の私は驚いたものだった。


「おーい、聞いてるか?」


 私は目の前のおっさん、もといサイクス王ロシアンの声にはっと意識を戻した。


「聞いてますよ。」


 ほんとかー?と、ロシアンが軽口を言い、話を続ける。


「今日はお前に用があってきたんだ。」


「用ですか?」


「ああ。娘の、ジェシカの護衛を頼みたいんだ。」


 ジェシカ=サイクス。

 ロシアンの末娘だ。否、ただ一人の子供でもある。

 不幸なことにロシアンは子宝に恵まれなかったのだ。

 それは妻を多く娶らなかったから。

 その妻が病気で急死したのが主な原因だった。


「ジェシカお嬢様の……一体なぜ?」


 尋ねるとロシアンは困ったように笑い、中庭の花を見ながら言う。


 ロシアンはやれやれ、と言ったふうに嘆息する。


「ジェシカももう5歳だ。いつまでも宮の中で育てていてはダメな王族になってしまう。

 子供は風の子。冒険をして育たなければな。」


(あなたこそがダメな王族では?)


 ロシアンは私の考えていることに気づいたのだろうか。不満そうに口を開く。

 しかし私はその言葉を聞くことはなかった。




「あなたがジーナ?」 




 名前を呼ぶ声にその方向を見ると、姿が見えない。

 声の主を焦ったように探す私に苦笑すると、

 ロシアンはかがみ込む。

 そして、窓から顔を出した時、ロシアンの横にはもう一つの顔があった。


 その顔は遠目からした見たことのないものだったので、至近距離からまじまじと見るのはこれが初めてだった。


 可愛いらしい娘だと思った。

 ふっくらとした頰は愛らしく、 

 その髪の毛は綺麗な青色をしていた。

 ぱっちりとしたまつ毛には華があるな、とらしくもないことを考えた。


 その少女こそが護衛対象であるジェシカなのだと言うことはすぐに気づいた。


「こんにちわ、ジェシカ姫。

 私はジーナ=リリと申します、この度あなたの護衛をすることになりました。

 どうぞよろしくお願いします。」


 私は彼女に頭を下げる。

 しかし、誰も何も言わないので私は仕方なく顔を上げた。

 するとジェシカは嬉しそうな顔でこちらを見ていた。




「お父様、ジーナはとてもイケメンさんです!

 ジェシカはジーナが気に入りました!」




 ジェシカはそんなことを言い出した。

 確かに私の顔はよく怖いと言われるが、まさかイケメンなんて言われたことはなかった。


 ロシアンはジェシカの話を聞いた途端渋い顔をする。そして、私を見て意地悪そうな顔を向ける。



 何を言う気だ?この髭面は。



「こほん。では、ジーナ=リリよ。

 サイクス王ロシアンが命じる。


 ジェシカの護衛時には、化粧をし、女のような話し方をしろ。」


「は?」




 は?




 私はあまりの突飛さに思わず声をだす。


「お父様?どういう意味ですの?」


「え、あ、お、あ、はい…………いや、ちょっと!」


 私はロシアンに、ジェシカに不自然に思われない程度に近づき耳打ちする。


「ロシアン王。一体どう言ったおつもりで?

 女の真似なんて私にはできません。」


 青筋たつのを感じる。多分今の私のこめかみはパンパンだ。


「いやいや、ちゃんと理由はあるぜ?

 まずは俺がお前の女装をみたい。

 絶対面白いからな。王の権限を滅多に使わない俺からの命令だ。」


「な!?」


「んで次に………まあ、あれだ。ジェシカの専属メイドのばあさんが先日故郷に帰ってな。最近塞ぎがちなんだ、あいつ。 

 ほら、あいつはその…母親も小さい頃に亡くしてるからばあさんによくなついてたんだよ。

 でもばあさんの代わりもなかなか見つかんなくてな……ジェシカの世話焼き係を探してたんだがその点、お前はばっちし!」


「だからなんで私なんですか?」


「なんでって……強いし、面倒見いいし、何より信頼が置けるからな。なかなかに好条件だ。

 その上、女装までしてくれるって言うんだから本当に感謝するしかないわな。」


「………いや!だからなんで女装なんて!」


「お前素のままだとこわい上につまんないんだもん。

 女装だもさせたらあいつもまた笑ってくれるようになるだろ?


 親ってのは子供には笑っててほしいのよん。


 それに婆さんの代わりに就くんだからいきなり無愛想な男なんて可哀想だ。」


「………………」


 私は何も言い返せない。

 私は絶対に自分が女装することになることを理解していたのだ。


「あと、それと……」


 ロシアンが顔を引き締めた。いつもヘラヘラしてる彼の変化に私は戸惑う。


(そんなに重大な秘密があるのか………?)


「なんか普通にジェシカにイケメン扱いされるお前が気に入らない。」


「………………いや絶対それですよね。」


 心配して損したこれほどまで思ったことはない。


 しかしロシアンはまるで聞こえませんなんて?とでも言いたげに俺に耳を寄せてくる。


「ん?」


 わざわざ声にまで出してくる。


「……………………なんでもありません、わ。」


 畜生と思いながら私は彼に応える。


「くく、まあ、敬語ぐらいは許してやろう。」

 ロシアンはそう言って笑う。


「………………その命令しかと承りました、わ。

 ロシアン王、ジェシカ王女。」

 

 俺は自分の中の女性像をかき集めてそう言う。



「ふふふ。よろしくね!ジーナ!」

 私が改めて頭を下げると、ジェシカの鈴の音のような声が頭上からした。


 見ると、ジェシカはとても嬉しそうに、花のような笑顔をこちらに向けていた。



 私はその笑顔を見て、まぁいいか、と笑った。





 それが私とジェシカ姫の出会いだった。


 それから私とジェシカ姫は多くの時間を共に過ごした。

 時に、ロシアン王も混ざって言葉を交わした。


 不敬のことだと思うが私は、ジェシカ姫を本当の妹のように愛していたし、

 ロシアン王を本当の父親のように敬愛していた。


 ただしその10年後、それは起こった。



 ロシアン王が病死に見せかけ、毒殺されたのだ。







 ☆


 ジュノアが鞭のような足を地面すれすれに滑らせ俺のスネを狙う。

 私の足の骨は多分ひび割れていた。


 私は飛び跳ねるように後方へ転がって避ける。


 ジュノアはそれを追いかけるように手を地面につき強く押し出し距離を詰めてくる。


 ジュノアの鞭のような手を私は殴りつけるようにして払った。



「痛っ!はははっ!やっぱり一筋縄ではいかないな!

 さすがサイクス王国最強の近衛兵。

 怪我さえしてなければ俺はやられていただろうな。」


「あらどうも。お世辞を言っても手加減なんてしてあげないわよ。」


 ジュノアは強い。それが私の出した結論だった。


 気を抜けばやられる、そういう戦いだった。



 だからこそ、ソラを気にする余裕はなかった。


(くそ!もう死んでるなんてことやめてちょうだいよ!


 ソラちゃんには…………なんだ?私は何を考えて)


 私はソラに何を期待してるんだ?


「ぐっ!」

 私の体が飛ばされる。

 どうやらジュノアは力技で押し切るつもりらしい。

 遠心力を使って手足を振り回している。


 着地に失敗し、足の骨が痛みだす。

 肺がはち切れそうなほど痛み、自分の力の衰えを意識した。

 全盛期であれば、こんなことどうってことないはずなのに。


 後方に下がろうと地面を蹴る。



 ビキッ!

(!?!?!?)


 足がダメになる音が聞こえた。

 瞬間、迫りくるジュノアの足が見えた。


 その足が自分の体を貫くように叩いた。 



(あの時、私の時は止まってしまったんだ。

 力が衰えるのなら当たり前なのかもしれないわね。)



 私は薄れゆく意識の中でそんなことを考えていた。 






 ☆


 静まりかえった夜の中。

 私は自分の主人に許しを得て、向かいあって話をしていた。

 場所は私が住んでいる寮の角の部屋だった。

 大きい王城の影が被さり、月の光すらここには届かない。


 周りには誰もいない。

 当然だ。

 誰もいない場所を選んだのである。


「ジェシカ姫、あなたは一体これからどうするつもりかしら?」


 10年も経てばこの話し方は癖になってしまっていた。

 結局、命令が取り消されることはなかったのだ。


 目の前にいる女性は考えることを放棄しているのだろうか。

 しばらく黙っていたと思ったら口を開いた。 


「私は……………。

 ジーナ、私は一体どうしたらいいの?」


 ジェシカ姫は15歳となり、より一層美しくなられた。

 幼気で可愛らしい顔も今はすっかり一人の美しい女性のものになった。

 それが今はひどく青白く歪んでいる。

 少なくとも、自分の選択を他者に委ねるような人ではなかった。

 それだけ、それだけ彼女の心は弱っていたのだ。


「姫…ロシアン王を殺したのは、間違いなくカルテルよ。

 このまま王城にいては、いずれあなたも殺される。」


「そんなことは、わかってるわ。」


 ジーナはジェシカを見る。


 気の強い女性だった。

 快活なロシアンの血を確かにひいているんだなと感じさせるオーラは今の彼女にはなかった。


 沈黙が流れていた。

 部屋の中心にあるランプがボォッと揺らめいた。


 ジェシカは徐に、ある紙片を机上に出した。


 促されるまま、その紙片を手に取る。


 私は息を飲んだ。


 それは実の叔父であるカルテルが、夜の部屋にジェシカを招いていることを伝えるものだった。

 それはつまり………


 ジェシカは本当に美しくなった。

 きっとこの国の誰よりも美しい。

 ジーナは本気でそう思っていた、そしてそれはカルテルもそうなのだ。


 気持ち悪いと、ジーナは心臓がひどく蠢くのを感じた。


「お嬢様、これはいつのもの?」


「昨日、夜に扉の下から投げ込まれたわ。

 昨日は寝ていたフリをしたから、行かなくて済んだわ。

 それでも今日は、今日行かなきゃ私は殺されてしまうわ。」


 ジェシカは何を見ているのかわからない目つきでそう話していた。

 その目は黒く濁っていたように思われた。

 まるで墨を流したかのような。


 カルテルはジェシカにこう言っているのだ。


 死にたくなかったら、私の夜伽の相手をしろ、と。


 15歳の実の姪にそう言っているのだ。


 



「ジェシカ姫、逃げましょう。

 どこか、誰も知らないような場所に行って二人で暮らしましょう。

 私があなたを連れ出して見せます。

 だから、この手をどうか取ってください。」


 気づいたら私はそんなことを口走っていた。

 自分でも馬鹿げた行動だと思った。

 それでも、それでもこの人をあの男に渡すわけにはいかなかった。

 そんなことをしては、ロシアンに顔向けできないと思ったのだ。



 ジェシカに手を伸ばす。


 ジェシカは私を見て力なく笑った。

「あなたのその喋り方、久しぶりに聞いたわ。

 そんなこと言って、まるで私達、恋人みたいね。」

 ジェシカは私の話し方に何か大切なものを思い出すように感じ入った。

 彼女は一体何を思ったのだろうか。


 ……恋人、そうか。


「私はあなたとならそれでも構いません。

 私はあなたを愛していますから。」

 私がそう返すと、ジェシカの顔が驚きの表情とともに赤く染まった。


「………ジーナ、私も……

 私もあなたのことが好きよ。

 ずっと、ずっと前から好きだった。」

 夜は静かで、古時計の音だけが、妙に静かに響いていた。


「愛してるジーナ。」


 彼女がそう言った途端、私は彼女にキスをした。

 彼女は驚いた顔の後、嬉しそうに顔を歪ませ、

 私の袖を掴んだ。



 それは一縷の望みだった。少しでも彼女を引き止めるための嘘だった。

 私が愛すると言えば、その言葉はきっと鎖となって彼女を引き止めてくれるだろうとそう想ったのだ。



 彼女を騙すことは、忍びないがそれでも彼女を失うよりは遥かに良い。


 そんなことを言ったら、ロシアンはどう思うだろうか?


 だが彼はもういない。






 その夜、私とジェシカは街に抜け出した。

 王城の兵士の警備を突破するのは簡単だった。

 彼らは弱い。

 その弱さこそ、ロシアン王の平和な国政の証だったのかもしれない。

 彼らは気配の探り方もよくわかっていなかったのだ。

 私はひどく物悲しい気持ちになった。



 街の宿屋に泊まった私とジェシカはその愛を確かめあった。

 慎重に、それでも深い愛に溺れた。

 その瞬間だけは、敬愛していた人の死を忘れることがでにた。




 朝、目を覚ますと、ジェシカの姿はなかった。


 代わりに、別れを告げる手紙だけがポツンと机の上に置かれていた。



 彼女が何をしようとしていたのか、本当はわかっていた。

 わかっていたのに、私は止めなかった。

 いや、止められると思っていたのだ。

 私とジェシカ姫の愛が、彼女を引き留めてくれると私は本気で信じていたのだ。


 その晩、宿屋の女将が話してくれた。


 ジェシカ姫は死んだ。

 カルテルにナイフを突き立てて殺そうとした彼女は、近衛兵に捕まったあげくその舌を噛み切り自害したのだ、と。


 そこから先のことを私は覚えていない。


 気づいたら宿屋は半壊していて、多数の怪我人がうずくまり、空虚な私だけがただそこに立っていた。





 兵士が詰所でこんなことを聞く。


「どうしてこんなことをした?」



 私は少し考え、こう言った。


「フラれたのよ。ムカついて気づいたらここにいたの。」







 あれから私の時は止まった。

 きっと、私はあの時死んだのだ。


 いや、死にたかったのだ。



 私の愛した二人の主に一人だけ残されたことが私には、とても辛かった。








 ☆


「はん!恋鬼も大したことねぇじゃねぇの。」


 ジュノアは倒れ伏すジーナを見下ろしていた。


 ジーナの名前は貴族界では有名だった。

 その強さと王への忠誠心の高さはあらゆる近衛兵の見本とさえ言われていた。


 もう少し歳をとっていたならば近衛兵長にもなり得た人材だった。


 それをジュノアは倒して見せた。


(やっぱり俺って最強なんじゃねぇの?)



 ジュノアは本気でそう思った。


 ジュノアは生まれつき楽観的な性格をしていた。

 楽しそうだからという理由で人を殺せる。

 彼は自分の性分を理解したうえで、犯行を犯すまで誰にもその本性を見せたことはなかった。

 なんでもないようにただ淡々と過ごしていた。

 淡々と火を放ち、淡々とその様を楽しんだ。


 まさに、シリアルキラー。


 そして、そんな自分が喧嘩も強いとなれば……


 ジュノアは笑った。

 彼の脳裏にはハレルヤがいた。

(あいつに勝ったら、今度は俺がリーダーか?

 今度は教都にでも火をつけるか?それすげえいいな!)



 そんな彼の妄想は、彼の視界に入ったものによって妨げられた。


「あん?」


 ジーナが立っていた。

 それだけのはずなのに、その体には莫大なエネルギーのようなものが渦巻いているのをジュノアは感じ取った。


(なんだありゃ?)


 近づくジュノア。

 今度こそ止めを、そう思った。



「!!!!!!!!!」


 気圧されたのはジュノアの方だった。



(なんだ、なんだこいつの迫力は……!?)



「ジュノア=ローデンス、お前はこの国の病だ。


 本当はわかっていたんだ。

 あの人が、カルテルに殺されたことぐらい。


 それでも、私は剣を持たなかった。


 あの人は戦いが嫌いだったから。

 きっと私を諫めるのだろうと思ったから。


 姫があの夜何を考えていたのかだってわかっていた。


 本当に止めるなら、愛なんてものを私は使わなかった。無理矢理にでも引き連れて逃げてしまえば良かったんだ。それでも、私は止めなかった。


 私は姫のそういうところが好きだったから。


 …………でも、もうやめる。


 この国も、時代も、変わっていく。

 あの人の愛した国のままでいてほしいなんて馬鹿げた理想でしかない。


 今、この瞬間も新しい若木の数々によって、この国は生まれ変わろうとしている。」


(そうでしょう?ソラ。)


「何を言って」


「私はあなたをロシアン王の近衛兵として倒す。

 生まれ変わる美しいこの国に、あなたという汚点はいらないから。


 それが古きこの国を生きた者の宿命だから。」



 ジーナは駆け出した。

 振り切るように、飛び込むように。


「!?」


 ジュノアは身構える。

 迫りくるジーナの体をジュノアは完全に捉えていた。


 ジーナが大きく振りかぶった。

(くる!)


 ジュノアはその拳を右手で受け流しジーナの体を基点にして回る。

 背中を合わせるように足を踏み出し、自らの肘をジーナの首に当てるように。


 捉えた、その四文字がジュノアの頭の中に浮かぶ。


 遠心力にまかせ肘を振る。


 しかし、そこにはジーナの姿はなかった。


 先ほどのジーナの拳は腰の入っていないものだった。

 なぜならそれは自らの重心を前に倒すための、

 本命を当てるための助走にしか過ぎなかったのだ。




 避技『ファエイナ』




 スルリとジュノアの肘を躱したジーナは踏み出した足に体重をかけ、もう一本の足を思い切り、振り上げた。



「足の一本ぐらいくれてやるよ!」

 


 ジーナはその足に力を込めない。

 ただ思い切り、骨が外れるほどに、関節が悲鳴をあげるほどに、鞭のようにしならせて振り回したのだ。


 ジーナの丸太のような足が鞭のように迫る。


 ジュノアの顔が恐怖に歪んだのち、

 大きく爆ぜた。



「さよなら、ロシアン王、ジェシカ姫、

 そして、二人の愛した国よ。


 あなた達の魂が廻ることを私は願います。」





 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



『伝えたい言葉はもう決まってるんです。


 ただ伝えられないだけで、いえ、それでいいんです。

 多くは望みません。


 未練なんてありません。信じてますから。


 私は安心して清らかなるままに、この扉の奥で眠ります。


 あの鐘が鳴るまでは。』



 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆





 ジーナの片足の感覚が完全に無くなったことをジーナは理解した。


「無理しすぎたわね………流石に疲れたわ。


 そうだ!ソラちゃん!」



 ジーナは思い出したようにソラを見る。


 そこでジーナが見たのは、


 ボロボロになりながらも立つソラと、淡々と歩き出すハレルヤ。


 そして、ソラを守るようにハレルヤに挑む、たくさんの囚人と看守の姿だった。

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