南麟帝本紀 第1章 4
玖月拾捌日
レジーヌ伯爵の率いる増援隊の全軍が到着したのは午前が間もなく終わる頃だった。朝にレジーヌ伯爵と副官ほか数名のみ先にスーサに入市し、兵士たちは西門の外に天幕を張って野営することとした。全軍を迎えるほどスーサは広くない。
キャラは伯爵に挨拶だけするとカティを伴って市街へ向かった。またもや護衛としてセルディが同行することになったが、また別の者を付けられるよりはと、今回は素直に受け入れた。そして三人で聞き込みを続けたが、ライアスの行方は杳として掴めなかった。
この日、モリスの意識が戻ったとの報せがディケンズ防衛隊長の元に届いた。北狄らしき軍が迫っているのを知り、最初に半鐘を鳴らしていた者だ。矢に胸を貫かれ、重傷を負い、診療所で今まで意識を失っていたのである。
まだ十分に話せる程には至っていないが、命に別状はないとの診断結果を聞き、ディケンズは翌日に部下の見舞いと事情の聴き取りを行うこととした。モリスも防衛隊の一員である。
玖月拾玖日
マーサ一座の小屋の中はすでに満杯であった。俄か拵えの小屋だから、百人も入れば一杯になってしまう。特に今回は日程が短縮されたため、普段以上に一回の公演に人が集まっていた。
公演は午前と午後の二回行うことになっており、午前の公演は半数以上が子供たちであった。一番前のものは地べたにむしろを敷いただけのところに座り、その後ろには移動の際には荷を入れる木箱を椅子がわりにして座っている。さらに一段高いところに貴賓席が設けられ、キャラとカティはその席についていた。
「アレク様も来られれば良かったですね」
「兄様はもう何回か観てるからね、他の一座だけど。でもほんと、残念だったわねぇ、カティ。一緒に観たかったのにねぇ」
「べ、別に私はキャラ様と観られれば。そうそう、アンナ様たちは午後の回にいらっしゃるそうですよ」
「アンナたちは元々スーサ勤めだから、公都に帰る必要がないからね」
あからさまに話題を変えたカティに付き合ってキャラは答えた。
そしてマーサの挨拶を皮切りに、公演が始まった。
数々の曲芸や大道芸、大掛かりな手品や刀子投げ、そして歌に踊りと演目は多彩だった。殊にロクサーヌと云う女性歌手の歌は素晴らしく、観客全てを魅了した。
舞台の袖から低く馬のいななきが聞こえた時には、息を飲んで登場を待ったが、仔馬に乗っていたのはもっと若い、と云うか幼い男の子だった。まだそれほど馬に慣れていないのが明らかで、曲乗りの内容を変更したらしい。何度も大げさに落馬したり、滑稽な仕草で馬を追いかけたりするのを観て、観客は大笑いをしていた。マーサの目論見は成功したらしい。
しかし、キャラとキャラの心情を慮ったカティは心からは笑えなかった。
そして、再びマーサの挨拶と破れんばかりの拍手で公演が終わるまで、ライアスが現れることはなかった。
「カティは何が一番面白かった?」
「どれも素晴らしい芸で、とても選べません。でもロクサーヌさんの歌はとても素敵でしたね」
「うん、これからマーサ一座の名前は広く知れ渡るんじゃないかしら」
あえて、二人ともライアスのことは口に出さなかったが、公館に入る直前にキャラが云った。
「あとは二年後を待つだけだわ」
「きっとその時に会えますよ。私にも紹介してくださいね」
しかしカティは来年には十五になる。女官勤めが終わり、親元に戻り社交界デビューに向けて今度は外面を磨くこととなる。
別に会おうと思えばいつでも会えるしね。キャラは自分にそう云い聞かせているが、その日のことを考えると寂しさを感じるのは否めない。
軽い昼食を済ませると、二人は車上の人となり、公都メルティアへの途についた。
キャラたちがスーサを発って間もなく、ディケンズはモリスが療養している診療所へ出向いた。重傷者のモリスは奥の一人部屋で寝台に寝ていたが、隊長が来たと知って上体を起こそうとして呻いた。
「ばか、そのまま寝てろ。胸をやられてるんだろうが」
「すいません、情けない限りです」
「任を果たそうとして負った傷だ、謝る必要はない。しかし、それにしてもよく死なずにすんだな。普段から鍛えていたのは伊達ではなかったようだな」
「はい、普段のご指導の賜物です」
「また鍛えてやるから早く治せ」
「こんな傷、さっさと治しますよ。何しろまだ若いですから」二十になったばかりのモリスは笑おうとして激しく咽せた。
「いってぇー」
「今日はこの辺にしてまた出直そう」
「あ、一つだけ教えてください。おれが射たれた後、誰かが半鐘を鳴らしてたみたいですが、そいつはどうなりました? 子供みたいだったけど」
「いや、聞いとらんな」
「その半鐘も途中で途切れたような気がして、でもおれが気を失ったからそう思っただけかもしれないし」
「誰かその者を見なかったか、後で聞いておこう。お前はとにかく治せ」
「はい。わざわざお見舞いありがとうございます」
多少なりとも傷ついた市壁の修復や堀代わりの川の整備、斥候の報告をまとめて公都に送る手配など、まだまだすべきことは多い。モリスが気にしていた者にかける時間はあまりなく、他の雑事に紛れてしまった。部下におざなりに指示して自分の仕事に没頭した。
ディケンズは、ライアスのことを知らされていなかった。事前に聞いてたらもう少し気にかけていたはずだが、モリスの記憶が曖昧なこともあり、結局公都への報告書には半鐘を鳴らした(らしい)少年のことは記されなかった。
南麟帝本紀 第1章 完
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