南麟帝本紀 第1章 3

玖月拾陸日


 この日は、敵も攻めあぐねたのか、早くも小康状態に陥っていた。幾度か矢の応酬があった程度だが、市壁を越えてくる矢はごく少数であった。

 西門の非常扉が発見され、数十人単位同士での小競り合いがあったが、お互い死者が出る前に引き上げていった。

「どうも、奴らに本気さが欠けてるように見えるのは、私だけかな」

「私も、本気で落とすつもりがあるようには、どうにも見えませぬ」

 アレクシスの問いにクラリス伯が答えたが、内心ではアレクシスの観察力に舌を巻いていた。(わしですらそう見抜くのに時間がかかったのに、若様は初陣でそれに気付きなさるか)

 午後に、一騎の騎馬が南からスーサに入った。公都メルティアを進発した部隊からの使者であり、その部隊はスーサまであと一日のところまで来ていることを知らせる者だった。指揮官はレジーヌ伯爵で、数は五千とのことだった。

「それだけ来れば一気に奴らを殲滅できますな」クラリス伯が嬉々として云うが、アレクシスは、

「殲滅する必要はない。少し痛い目を見させて追い返せばいいさ。二度とスーサを攻めようなどと思わない程度にね。とにかくあと丸一日、気は抜かないように」


 ところが、その日の日が沈む前に、事態は急展開を見せた。敵軍が引き上げていったのである。

「北狄の奴らはどうしたんでしょう?」ディケンズが云う。「追撃しますか?」

「その必要はないよ」アレクシスは答え、続けた。「それより彼らがどこまで撤退するのか、物見を出して確認させるように。それから夜までに最終的な被害状況を公館の方に届けてください。私は一旦館に戻ることにします」

 ディケンズが出て行き、司令所にはアレクシスとクラリス伯だけが残った。

「彼ら、増援を察知したね」

「そのようですな。領内にまで斥候を送り込んでいたやもしれません」

「私の知る限りこれまでの北狄との戦いとはどうも違う気がする。文書と実際は違うと云うことか?」

「いや、違和感は私も感じています。北狄の方になにやらの変化があったやも」

「まぁ、とりあえず物見の戻りを待とう。クラリス伯爵、ご苦労様でした」

「いやいや、私は何もしていませんよ。全てアレク様の功績です」

「いや、あなたがいてくれたから私も落ち着いていられた。感謝しているよ」

「有難きお言葉」

「やめてくれ。私と『おじ様』との仲ではないか」

 笑いながらアレクシスは公館へと戻っていった。


「本当ですか! じゃあ、明日は外出しても――」

「午前中に何もなかったらいいだろう。敵が引き上げたとは云ってもふりだけでまた奇襲をかけてくるかもしれないからね」

 アレクシスの言葉にキャラは愁眉を少しだけ開いた。今日もカティに捜索--今となってはライアスの動向を知るか目撃した人の捜索となっているが、はかばかしい情報は得られていない。旅芸団の方にも何か判ったら連絡をもらうことになっているが、今のところまだなしのつぶてだった。

「もう、ほんとどこ行っちゃったのよぉ」


 その晩、ノルディ・サン・クラリスが公館を訪れた。人的被害の状況がまとまったため、自ら報告に来たのだった。アレクシスとキャラが応接室で出迎えた。

「結果ですが、死者はゼロ。遺体もありませんから間違い無いでしょう」クラリスの最初の報告にキャラはほっと息を吐いた。

「重傷患者は三、そのうち二人は火災による火傷、もう一人は見張りをしていた者で、

腹を矢で射られたのですが、一命は取り留めました。しかしまだ意識は戻らないそうです。軽傷患者は二十。避難の際に転んだり打ちつけたりした者がほとんどで、捻挫、打撲、擦り傷などです」

「妊娠していた者が二、三人いたね?」

「はい。三人の妊婦は皆無事でした」

「それは良かった。さあキャラ、安心しただろう、今日はもう寝みなさい。昨日もあまり寝れていないんだろう?」

「わかりました。ああ、でも良かったわ。明日はその患者さんたちのお見舞いに行ってくるわ」

「それはいいね。患者たちも喜ぶだろう」

 おやすみなさい、と云ってキャラは応接室を出た。

「姫様も公女としての自覚が出てきたようですな」

「もう十三だから、もっとしっかりしてもらわないと。ところで、明日レジーヌ伯が着いたら、私たちはメルティアに戻ろうかと思っているんだけど、あなたはどうします?」

「もちろんお供しますよ。お二人が帰られるなら親衛隊がここにいても意味がありません」

「ハハッ、確かにその通りだ。では明後日引継ぎなどを済ませて、拾玖19日朝にスーサを発つのでそのつもりで」

「承知しました」



玖月拾漆日


「え、明後日ですか⁉︎ なんでそんなに急に…」

 公都メルティアへの帰還がキャラらに伝えられたのは、朝食後にお茶を飲んでいる時だった。

 男爵の娘とはいえ、現在はただの女官に過ぎないカティは本来公爵家の者と共に食卓につくことは許されていないが、公館ではキャラのわがままが通り、お茶を共にすることがあった。この日もカティは同席していた。

「別に急ではないさ。元々昨日帰る予定だったんだから」

「まだライアスが見つかってもいないのに」

「そのことなんだがね。昨日は何人かの護民官まで動員しても見つからなかったんだろう? もうスーサにはいないんじゃないかな」

「私だけ残ってでも…」

「そうもいくまい。プトレマイオス伯爵も待っていると思うよ」

「うー、やっぱりそうかなぁ」

 ジークムント・セバスティアン・ディル・プトレマイオス伯爵は、キャラの人文系の家庭教師である。御年七十にして体力も声の大きさも衰えず、相手が公爵令嬢であっても容赦がなく、講義中によそ見でもしようものなら大きな叱責の声と十分以上続く小言に見舞われる。公宮の中でキャラが最も苦手とする人である。

「これ以上休んだら何を云われるか解らないぞ」

「それにライアスさんとはまた会う約束をされているんでしょう」

 カティが口を挟んだ。

「まぁ、それはそうだけど…」

「ほう、それは初耳だね」

 アレクシスがジロリと睨む。キャラは素直にあらましを話した。いずれにせよ兄の協力も必要と思っていたからだ。

「そんな勝手な約束を…。大体その時期にスーサに来られるかどうかも判らないのに」

「まぁ、それはその時に、ね」

「ところで」カティがあることに気付いて口を開く。「明後日って、マーサ一座の公演の日では…」

「あ、そうだ!」

 旅芸団マーサ一座は、次に赴く街の予定もあるためスーサには長居できず、明後日の一日だけスーサで興行を行うこととした。今日一座を訪れたカティがその情報を持ち帰っていた。

「兄様、お願い! その公演だけ観させて! ライアスもひょっこり出てくるかもしれないし!」

 アレクシスはしばらく腕を組んで考えていたが、程なくしてため息を吐くと腕を解いて云った。

「明後日拾玖日の昼にスーサを発つ。その午前中にしたい事があるなら、明日のうちに出発の準備を済ませておくように」

「やった、ありがとう、兄様!」

 公人に徹しようとしてはいるが、結局は妹に甘いアレクシスであった。



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