第46話
夏休みも終盤に差し掛かったというのに、相変わらず気温は熱いままだ。
クーラーで冷え込んだ室内で、ギュッと布団に包まる。
もう30分は前に目覚まし時計は鳴ったというのに、どこか億劫で起き上がる気にならなかったのだ。
目は完全に覚めてしまっているため、二度寝が出来る気配もない。
ぼうっと天井を眺めて入れば、ベランダの扉がカラカラと開く音がして、慌ててそちらに視線を寄越す。
どこか茫然とした表情で、普段よりラフな格好で立ち尽くすひまりの姿があった。
ベランダの壊れた隔て板を利用して、侵入してきたのだろう。
途方に暮れたように、ひまりは顔を青くさせてしまっている。
「ひまり、どうしたの?」
「今日予定ある?」
「ないけど……」
晴那の返事を聞くと共に、彼女の瞳に光が宿る。ベッド脇まで近づいてきて、まだパジャマ姿の晴那の手を、力強く握り込んできた。
「フェス、一緒に行ってくれない?」
「……へ?」
呆気にとられる晴那とは対照的に、善は急げと言わんばかりにひまりが急かしてくる。
ベッドから引きずり出されて、大慌てで準備をしてから、二人でシャトルバスの出発地である駅へと向かう。
晴那たちが最後の乗車客だったらしく、席に座ってすぐにバスは出発してしまっていた。
まだ朝の七時だというのに、夏らしくカラカラとした青空が映し出されている。
斜め掛けにしていたコサッシュを降ろして、中から口紅を取り出す。
急いで家を飛び出したため、メイクがまだ途中だったのだ。
「まじありがとね。流石に一人でフェスはキツいからさ」
どうやら、一緒に行くはずだった友人が体調不良で急遽来れなくなったらしい。
一か八かで晴那のもとへ来て本当に良かったと、ひまりは笑みを浮かべている。
一緒に行く予定だった相手は、誰だったのだろう。クラスメイトの友人か、もしくは小森先輩の可能性だってある。
相手の正体を、晴那は聞かなかった。正確には、聞けなかったのだ。
長いことバスに揺られて、ようやく到着した会場には人がごった返していた。今回参加するフェスは国内で三本指に入る大規模なものらしく、毎年こうして人が賑わうのだそうだ。
夏フェスは沖縄でも行われていたが規模が全然違う。
入場ゲートを通ってから、人に揉まれながらまずはメインステージへと向かっていた。
ひまりはこれといってお目当てのバンドがいるわけではないらしく、フェスの雰囲気が好きで毎年足を運んでいるらしい。
一番大きなステージということもあって、流行りに疎い晴那でも知っている有名なバンドが恋愛ドラマのタイアップ曲を披露していた。
場は熱気と興奮で包まれており、爆音がその場にいる人々の心を震わせていく。
「せっかくだから、フェスのTシャツ買おうよ」
丁度演奏が終わり、次のタイムテーブルが移り変わるタイミングでひまりに耳打ちされる。
すぐ側の物販列はそこそこ混みあっていたが、20分もしないうちに順番が回ってきて、ひまりとおそろいのTシャツを購入した。
黒色を基調にしており、フェスのタイトルと今年の年度がオシャレにプリントされている。
より一層フェスの雰囲気に呑まれてしまい、すっかりと高揚してしまっていた。
有名な店舗が出品するご飯や飲み物を平らげて、記念にと写真も沢山撮った。
何よりもひまりがひどく楽しそうで、彼女の喜ぶ顔を見られただけで晴那は十分なのだ。
楽しい時間というのはあっという間で、帰りのバスの兼ね合いから後一時間ほどで会場を出る時間になってしまっていた。
時刻は夕暮れ時だというのに、いたるところで音色は途切れることなく、奏でられている。
二番目に大きい会場が見渡せる所にレジャーシートを引いて、購入した炭酸飲料を飲む。シュワシュワとしたサイダーが、口内で弾けていた。
「やっぱ夏はフェスだわ」
「毎年来るの?」
「うん、小さい頃は家族でも来てた。昔から仲良くなかったけど……どこにも連れて行ってもらえなかったわけではないからさ」
彼女の声に、いつものような元気がない。
ひまりは、晴那が思っているよりもずっと繊細で、優しいから。
この子がまた下を向いてしまわないように、両頬を掴み、無理やり自身の方へ向かせた。
「…え」
「変な顔」
挟む手に力を込めれば、唇を突き出すような顔になる。タコのように唇が丸くなる姿が可愛らしくて、つい笑みを浮かべてしまう。
晴那のほうから、ひまりを揶揄うのは珍しいことだ。
「なにすんのよ」
「……また、来年も来ようよ。再来年も、その次も」
「え…」
「家族で来るよりも友達で来た方が楽しかったって…同じくらい楽しいって思えるまで、何回でも」
挟んでいた頬を解放すれば、ひまりは口角を上げて、自信満々に笑っていた。
「シマのおかげで、もう思えてるよ」
キュウッと、堪らなく愛おしさがこみ上げてくる。
この子の、明るい思い出の一部になれたことが嬉しかったのだ。
何も知らずに、友情としての好意を向けてくれるひまり。
酷く可愛らしい笑みが、今はどこか残酷にすら思えた。
「ひまり」
思いが、溢れ出す。
返事は求めないから。
今まで通りの関係で構わないから。
せめて、この想いだけ聞いて貰えないだろうか。
いらなければ貰わなくていいから。捨ててしまって、構わないから。
「……私ね、ひまりのことが」
しっかりと目を見て、その言葉を口にした瞬間。
ギターをかきならす音が当たりに鳴り響く。
ステージに人だかりが出来て、周辺から沢山の人が集まって来ていた。
どうやら、ステージ上に人気バンドが登場したらしい。
挨拶をそこそこに、彼らは晴那でも聞いたことがある有名な歌を演奏し始めた。
「え、なに?」
先ほどの爆音で、晴那の言葉は掻き消されてしまったらしい。
振り絞った勇気は、今ので出し切ってしまった。
もう同じ言葉は言えなくて、言葉を濁してしまう。
「なんでもない、ステージ見に行こう? 」
ひまりの手を引いて、ステージへ向かう。晴那もテレビで何度も見たことがあるバンドで、確か父親が好きだと言っていたはずだ。
中年の男性ボーカルで、その歌声は力強い。
告白することすらまともにできない自分が情けなくて堪らない。
次第に、視界が水の膜で覆われ始める。
慌てて拭おうとしても、抑えられるずに零れ落としてしまっていた。
「シマ…?」
「あれ…」
「どうしたの?体調悪い…?」
「……感動しちゃって」
彼らが謳っている曲が、有名な応援歌で本当に良かった。
ひまりも納得したようで、賛同の言葉を返してくれた。
「めっちゃ良い曲だもんね」
好きな子が目の前にいるのに、苦しくて仕方ない。
きっと、いずれこの子は晴那の知らないところへ行ってしまう。
男の子と付き合って、結婚して。
晴那とは交わらない、まったく別の人生を送っていくのだ。
だから、今だけは独り占めしたい。
いずれ離れ離れになるその日まで、この子のそばにいたかった。
ひまりが思い出したときに少しでも良い記憶になるように、強い力で涙を拭って無理やり口角を上げてしまっていた。
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