第43話
昨日ボールが直撃したおでこは、小さい痣になってしまっていた。数日も経てば収まるだろうそれは、化粧で隠せばすぐに目立たなくなってしまう。
それよりも、腫れぼったくなってしまった瞼の方
が、周囲を心配させてしまうだろう。
すべてを断ち切れたわけはないけれど、涙を流したおかげで心は少し軽くなっていた。
自身を鼓舞してから、いつも通りひまりを起こしに行けば、始終何かを言いたげな表情を浮かべていた。
しかし、晴那はそれに気づかないふりをしてしまっていた。
満員電車に揺られている間も、目線を合わせない。必要最小限の会話に留めていれば、電車を降りた直後に、ポツリと彼女の方から声を掛けられる。
「……どうしても、教えてくれないわけ」
昨夜の涙の理由を知っても、ひまりを戸惑わせてしまうだけだ。
素直に首を縦に振れば、どこか傷ついたような顔をしていて、罪悪感に苛まれる。
「……シマのこと友達だと思ってたのに」
その友達を、晴那は邪な目で見ていた。
ひまりと同じくらい、あるいはそれ以上に大切に思っているけれど、まったく同じ感情を抱いているわけではないのだ。
寂しそうにつぶやく彼女の言葉にすら、晴那は上手い言葉を返すことが出来なかった。
下手くそな作り笑いに、ひまりが更に複雑な表情を浮かべてしまう。
心は罪悪感でいっぱいで、苦しくて仕方なかった。
中休みになって、空き教室へ向かう途中も、2人の間で会話は弾まなかった。
いつもだったら、気づけばくだらない話をしているというのに、互いが気を使って、ぎこちなくなってしまっているのだ。
何か話し掛けようかと悩んでいれば、晴那の好きな女の子を、同じように好いている男子生徒が現れた。
「ひまりちゃん、どこでお昼食べるの?」
告白してきた小森に対して、ひまりは露骨に嫌な顔を浮かべていた。
晴那も彼女ほどとは言わないが、顔が強張ってしまった自信がある。
「何のようですか」
「一緒に食べたいなって」
「昨日断りましたよね」
「昨日は断られたけど、今日はどうかなって」
「はあ…?」
「お友達?沖縄からの転校生だよね。3年生の間でも可愛いって話題になってるんだよ」
チャラチャラとした出で立ちで、小森は晴那にまで声を掛けてくる。
「俺の友達でも可愛いって言ってる子いてさ、よかったら今度ダブルデートでも…」
「シマ、先に行ってて。こいつ片付けてからあたしも行くから」
心配性なひまりは、晴那がこの男の毒牙に掛かってしまうと案じたのかもしれない。
さっさと行くように手を振り払われて、そのまま小森を連れて、ひまりは空き教室と反対方向へ行ってしまった。
雨のせいで、昼間だというのに廊下が何処となく薄暗く感じてまう。
一人で空き教室の扉を開けば、そこにはすでに由羅の姿があった。
「あれ、晴那ちゃんひとり?あの子は?」
「ひまりは、小森先輩と一緒です」
「へー…意外と脈アリだったとか?」
その言葉に、グッと手のひらを握り込む。
小森は落ち着いた雰囲気ではなかったが、同年代の女生徒が見ればかっこいいとモテ囃すであろうルックスをしていた。
ひまりの隣に並んでも、見劣りのしないルックスで、二人が並べばまるでモデルのようにカッコ良かったのだ。
晴那とは別の方向へ行く、先程の二人の背中が頭から離れない。
まるでこれからの未来を暗示しているような光景に、心はさらに掻き乱されてしまっているのだ。
そもそも、晴那の付け入る隙なんてどこにもないというのに。
「ねえ、晴那ちゃん」
「なんですか……え……っ、ちょっ、まってくださっ……!」
力強い力で壁際まで追いやられ、そのまま頬を掴まれる。
静止する晴那の声なんてお構いなしに、彼女の赤く染まった唇が、晴那のテラコッタ色の唇に重ねられていた。
離れたかと思えば、今度は角度を変えられて先ほどよりも更に深く口付けをされる。
柔らかく、温かい感触が口内に侵入して、思わず目を見開いた。
必死に逃げようとしても、狭い口内であれば逃げ場なんてあるはずもない。
あっという間に舌を絡められてしまい、粘膜同士が触れ合う感触に体を震わせる。
「ンッ…んっぅ、ん…ァッ」
息もろくにできず、酸欠で苦しいのか。
由羅とするキスが、嫌なのか。
あの子のせいで、ここまで胸が痛んでいるのか。
視界がぼやけ始め、次第に体の力も抜けていく。
舌が絡められる度にいやらしい音を立てて、酷く悪いことをしているような気分になってしまう。
脱力して、このまま全て由羅に委ねてしまおうかと思った時だ。
ガッチリと掴まれていた体が、勢いよく引き離される。
フラフラと千鳥足の晴那を引き寄せてから力強い声で、あの子が由羅に怒鳴りつけていた。
「由羅姉、何してんのよ!」
側には彼女のお弁当箱が落ちており、恐らく慌てて駆け寄ってきてくれたのだろう。
体を支えてくれるひまりは、酷く心配そうに晴那を見つめていた。
「大丈夫?」
「う、うん…」
「由羅姉さ、自分が女の子好きだからって相手も当たり前のように受け入れてくれるって思わない方がいいよ」
由羅への言葉が、そのまま晴那の胸を突き刺した。
晴那のために庇って言っくれている言葉は、皮肉なことに由羅の心を突き抜けて、何倍もの威力で晴那の心を貫いたのだ。
「純粋なシマに付け込んで…本当信じられない」
「…ひまりには関係ないでしょ」
「はあ?だから、あたしはシマの友達で…」
「ただの友達がでしゃばらないでくれる」
激しい剣幕で捲し立てられ、ひまりは珍しく怯んでいた。
「私は本当に晴那ちゃんが好きなの…大切にしたいって、付き合いたいって本気で思ってる」
「…っ」
「中途半端に片足突っ込んでヤジ飛ばして来ないでよ。ただの友達なら、これ以上私と晴那ちゃんの間に入って来ないで」
晴那は、どうすればいいのだろう。
何が、正解なのだろう。
由羅は晴那が好きで。
晴那はひまりが好きで。
ひまりは、晴那のことなんてなんとも思っていないわけで。
この不毛な関係を、どう発展させるのが正解なのか、思い浮かぶ答えは、一つだけだった。
「……心配しなくて、大丈夫だよ」
「シマ…?」
「高校生なんだから、何かあったら自分で判断できる…もう、大丈夫だから」
ひまりから距離を置いて、そのまま下を向く。いま彼女の顔を見れば、感情が全て込み上げてしまいそうだった。
好きだと、言ってしまいそうだった。
「人気者のひまりを、独り占めしてごめんね」
「何言ってるの…?」
「もう、私のためについて来なくて大丈夫だから」
「はあ……?」
乾いた声を漏らすひまりを他所に、晴那は更に言葉を続けた。
この決心が揺らがないうちに。
「東京にも慣れたし、電車も一人で乗れる。クラスに友達も出来たから、ひまりは今まで通りにしていいよ」
声が震えそうになるのを、必死に堪える。
きっと、これが一番なのだ。
そうしないと、晴那は苦しくて。晴那の気持ちを知れば、ひまりが罪悪感を抱いてしまう。
今まで通り、元の形に戻ることが、1番最善な選択のような気がしてしまっていた。
「もう、私と一緒にいてくれなくて大丈夫だから」
このまま、ひまりが部屋を出て。
朝も一緒に登校しなくなって。
教室でもあまり話さなくて、お昼も一緒に食べない。
今までの形に、戻るだけ。
接点のない二人に戻るだけなのに、悲しくて堪らない。
堪えられず、瞳から一粒の涙をこぼれ落としたのと、ギュッと体に温もりが包まれたのは、殆ど同時だった。
「……泣きながら、くだらないこと言ってんじゃないわよ」
ひまりから、自分と同じ優しいお花の香りがする。
どうして、この子はこんなにも優しいのだろう。
優しくて…だからこそ、残酷なのだ。
「友達だと思ってるから、そばにいるのじゃダメなわけ」
頬をつたう涙を、ひまりが親指でグッと拭ってくれる。
その手つきが、あまりにも優しすぎる。
友達以上に進んでくれないこの子と、一緒にいるのは辛いのに。
今はまだ、離れたくないと思ってしまっているのだ。
「……だめじゃない」
弱い晴那は、甘い方へ行ってしまう。
自分が辛くても、そばにいられるならそれでいいと、殆ど綺麗事に近い御託を並べてしまうのだ。
本当に愚かだと思うが、まだひまりといられることにホッとしている自分がいる。
もし、晴那が男の子だったら、ひまりの初恋はなかったことにならなかったのだろうか。
考えてもどうしようもないことだと分かっているけれど、心の底から愛しているからこそ、どうしても考えずにいられないのだ。
放課後になって、晴那は購買へ由羅を呼び出していた。
もう、このままズルズルと彼女への答えを長引かせるわけにはいかない。
晴那の心は決まっていて、それが揺らぐことは到底あり得ないのだ。
心を罪悪感でいっぱいにさせながら、目の前にいる由羅と対峙する。
「どうしたの?放課後になんて珍しいじゃん」
「……ごめんなさい」
深々と、頭を下げる。
こんな晴那を好きになってくれた由羅に、あの言葉を続けるのが心苦しくて堪らなかったけれど、勇気を出してハッキリと打ち明けた。
「…由羅さんとは、お付き合い出来ないです」
「……ひまり?」
きっと、第三者が見ればわけのわからない由羅の返し。
この3人だからこそ、あの子の名前だけで全て意味が通ってしまうのだ。
驚きながら、由羅を見つめる。
振られたはずだというのに、彼女はちっとも気にした様子はなく、瞳に宿る芯はいまだにしっかりとしていた。
「なんで……知ってるんですか」
「気づかないわけないじゃん。好きな子のこと」
「その…だから私は由羅さんと…」
「諦めないよ?」
被せるような由羅の言葉は、力強かった。
意地ではなくて、それくらいで勝負がついたと、彼女は端から思っていないらしい。
「好きな子に好きな相手がいるって、別に諦める理由にならないもの」
「けど、私は由羅さんのことは…」
「……これから、好きにさせていくから…もう少し、このままでいさせてよ」
その言葉に、何も言えなくなってしまう。
以前の晴那だったら、それでも強引に断っていただろうが、いまは片想いの辛さを知ってしまった。
だからこそ、彼女の申し出を無下に出来なかったのだ。
「……ひまりなんて忘れちゃうくらい、好きにさせて見せるから」
いまの晴那の心は完全にひまりが占めていて、忘れられるなんて到底思えなかった。
しかし、由羅は本気なようで、いつも通り晴那の頭を優しく撫でてくれる。
こんな状況だというのに、由羅に頭を撫でられれば、ホッと安心してしまう自分がいるのも、確かなのだ。
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