第42話
この日は店が忙しくなく、シフトの人手も足りているというのに、晴那はうみんちゅハウスへとやってきていた。
一人で家に居てもやることがなく、塞ぎこんでしまいそうな気がしたのだ。
備品の補充から、店内の掃き掃除まで、暇さえあればせっせと動いて仕事に励んでいれば、見かねたように由羅から声を掛けられる。
「晴那ちゃん、働いて大丈夫なの?今日は休んでも……」
「大丈夫ですよ…」
「けど、元気なくない…?」
確かに、自分が上手く笑えていない自信があった。
無理やり口角を上げて見せるが、鏡を見なくても酷く下手くそだということが分かる。
放課後に教室を出て行った、二人の姿が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
「3年の小森先輩って知ってますか?サッカー部らしいんですけど」
「うん。たしか一年の頃同じクラスだった」
「どんな人なんですか」
「うーん……女の子にモテるし、男子からも人気あるみたいだよ。けど、ちょっとチャラいかな」
「そうなんですか…」
ひまりは、どうするのだろう。カッコいいからと、彼からの告白を受け入れるのだろうか。
「いきなりどうしたの?」
「その人が、ひまりを呼び出していて…」
それから先は、言葉にならなかった。まだ、告白をされたと確定したわけではない。
心は靄が掛かったように、晴れないままで、ため息も無意識に零れてしまう。
どうやら由羅が晴那の父親に体育の授業中に起こった出来事を話してしまったそうで、晴那は途中で強制的に家に帰らされてしまっていた。
母親も今日はお店を手伝っているため、家に帰っても室内は真っ暗だった。二人とも夜まで仕事なのは珍しい。
あの子は、いつもこんな気持ちで誰もいない家に帰ってきているのだろうか。
カップラーメンにお湯をいれて、出来上がったそれをあっという間に平らげる。自室に戻ってから、気分転換にベランダへと出ていた。
生憎雨が降っており、あまり手すりに近づき過ぎると濡れてしまいそうだ。
ため息を吐けば、隣からカラカラと扉を開く音が聞こえた。反射的に、あの子の名前を呼んでしまう。
「ひまり…?」
「びっくりした。なにしてるの」
「ちょっと涼んでた」
「蒸し暑いじゃない」
ひまりの言う通り、梅雨と夏の狭間にあるせいで外はちっとも涼しくはなく、モワッとした熱気に包まれているのだ。
隔て板のあるベランダ越しで、顔は見えないせいか、晴那は気になっていたことをさらりと口から零れ落としてしまっていた。
「あのさ…3年の先輩に告白されたの?」
「そうよ、断ったけど」
「断ったの?」
復唱した声は、無意識に弾んでいた。
それに違和感を抱く暇もないまま、更に言葉を続けてしまう。
「何で断ったの?」
「一目惚れとか言われても、知らないし…名前しか知らない相手と付き合わないわよ」
「そっか…」
やはりひまりはしっかりしている。
行方も分からない初恋の人を一途に追いかけるほどなのだから、今日知り合ったばかりの相手と付き合うはずもなかったのだ。
取り越し苦労だったと、晴那が気を軽くすることができたのは、本当に一瞬だった。
「まあ、いつかは欲しいけどね。恋人」
ズンと、その言葉が胸に重くのしかかる。
当然だ。だってひまりは初恋を長引かせていただけで、それが断ち切れた今となれば新たな好きな人を作ったとしても何も不思議なことじゃない。
「…彼氏出来たら、教えてね」
ベランダに、隔て板があって良かったと心底思う。
これのおかげで、今の醜い表情を彼女に見せなくて済むのだ。
そのまま部屋へ戻ろうとすれば、向こう側から力強い声が返ってきて、思わずその場で足を止めた。
「ちょっと待って」
「なに……」
「なんか元気なくない?」
「気のせいだって」
「嘘、由羅姉に何かされたの?」
「なんでもないってば!」
自分の感情を制御できずに、つい声を荒げてしまう。
ひまりは何も悪くないと言うのに、最低な自分への自己嫌悪が募った。
「シマ、怪我したくなかったら扉のほうに行って」
「え……」
その言葉の意味を考える暇もなく、爆音と共に隔て板が突き破られる。残骸が周辺に散らばって、あまりの暴挙に唖然とすることしかできない。
二人を隔てていた壁がなくなり、ズカズカと晴那の心に無遠慮に踏み込んでくる。
目の前にいるひまりは、いつもと何も変わらない。
変わったのは、晴那の心だけなのだ。
「……無茶苦茶だよ」
「今のシマを放っといたら、なんか変な方に考えそうだから」
「なにそれ…」
「あんた得意じゃん。考えすぎるの……辛いことでもあったの?」
ぎこちなく、首を横に振ってしまう。
答えようとしない晴那に、ひまりはもどかしそうに頭をかいていた。
「じゃあ、酷いことされた?またクラスの奴らがなんか言ってきたり…」
「違うよ」
「…悩みあるの?」
その瞳を見つめながら、グッと下唇を噛み締めてしまう。
このままずっと、気づかなければ良かった。
認めずにいれば、楽だったのに。
「……ひまりにだけは、教えない」
「なによそれ… 」
「もう、寒いから部屋戻る」
「待ちなさいって」
自然と、瞳から涙の粒が零れ落ちる。
それに驚いたのか、掴まれていた手の力が緩んだ隙に、晴那は急いで部屋に入った。
すぐに鍵を掛けて、カーテンも閉めてしまう。
ガラス越しに「シマ」と呼ぶ彼女の声を聴きながら、晴那はその場にへたり込んで、大粒の涙を流し始めた。
ズキズキと胸が痛んで、自然と涙が零れ落ちていく。
一体、いつからだろう。いつから彼女のことを、こんなふうに欲にまみれた瞳で見るようになったのだろう。
ずっと、友達でいられたら良かったのに。ずっと恋を知らないままで、ひまりの隣にいられれば良かったのに。
恋とは、もっとキラキラしたものだと思っていた。
少女漫画に出てくるような、甘酸っぱいキラキラとした初恋を、いつかは自分もできるものだと信じていた。
晴那が男の子であれば、この恋が涙で塩辛く染まることもなかったのだろうか。
女の子を愛せないひまりに、この気持ちを言っても迷惑になるだけだ。
恋心を自覚するのと同時に、失恋をする。
始まりと同時に終わってしまったこの想いを、ひっそりと抱きしめるように、晴那は自身の体を抱き寄せていた。
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