第36話
日曜日だと言うのに、晴那は朝早くから身支度を整えていた。学校はもちろん、うみんちゅハウスで手伝いをするわけでもない。
ゴールデンウィークのあの日を除けば、平日以外に一度も使ったことがない彼女の家の合鍵を手に、家を出る。
母親から渡されたラップに包まれたおにぎりを両手に抱えながら、お隣さんであるひまりの部屋へ入れば、相変わらず物音がせずにシンと静まりかえっていた。
仕事人間という話は本当らしく、ひまりは家で1週間のほとんどを一人きりで過ごしているのだろう。
念のためにノックをしてから部屋に入れば、半袖のパジャマを身につけた彼女はぐっすりと眠りについていた。
申し訳ないと思いつつ、いつも通り目覚まし時計で起こせば、驚いたようにひまりが飛び起きる。
「なに…!?…て、シマ?今日学校じゃ……」
「朝ごはん、一緒に食べようよ」
ジャン、と持ってきたおにぎりを見せれば、ひまりは目をぱちくりとさせて驚いた様子だった。
「……まだ7時じゃん、早すぎるんだけど」
文句を言いつつも、ベッドから起き上がってくれる。
その表情から、不機嫌さは伝わってこない。
軽く準備を済ましてから、2人でリビングの中央に置かれたダイニングテーブルの前に腰をかけた。
日曜日ということもあって朝のテレビ番組は放送されておらず、代わりに子供向けの戦隊ヒーロー物のアニメをつける。
沖縄料理であるジューシーのおにぎりを2人で頬張りながら、テレビをながら見する。
「お父さんは?」
「仕事」
「何の仕事してるの」
「パイロット。国際便だから泊まりが多いの。たまの休みもゴルフにばっかり行ってたから、お母さんと喧嘩になるのも分かるよ」
いつ来ても、ひまりの父親と鉢合わせたことは一度もない。
この子はずっと、この家で家族のことを想っていたのだ。
離れ離れに、バラバラになった家族を思いながら、広い家にずっと1人で我慢をしていた。
朝起こしてくれる人もいないから、出会って間もない晴那にあんな事を頼んできたのだ。
「……このジューシー、シマが作ったの?」
「ううん、お母さんが作った。沖縄料理で良かったら沢山作れるから、いつでも食べに来てね」
戸惑いつつ頷いているひまりの口元は、僅かに緩んでいる。
寂しくないわけがなかったのだ。
3LDKの広い間取りで、殆どを1人で過ごしている。
どうして2人でこの家に住んでいるのかずっと不思議だったけれど、今なら納得がいく。
家族を愛するあまり、ひまりはかつて4人で暮らしていた家を出たくなかったのだろう。
口喧嘩が絶えず、歪み合っていたとしても、ちゃんとそこには情が存在しているのだ。
昨日ようやく判明した姉妹の確執の理由を確かめるように、晴那は言葉を発していた。
「あのさ、ひまりの初恋の人って、由羅さんの元カレ?」
「……はあ?」
こくりと首を縦に振る姿を想像していたというのに、ひまりは不快な様子で口元を歪めていた。
「何の話…?」
「え、違うの…?」
「わけわかんないんだけど…どうやったらその結論に至るわけ」
真正面から否定されてしまい、思わず首を傾げてしまう。
間違いないと思っていた晴那の推理は、どうやらかなり斜め上をいっていたようだ。
「だって、由羅さんが恋人とイチャイチャしてるところ見られて、ひまりが余所余所しくなったって言ってたから…」
「それは…自分の姉が、自分の友達とキスしてたら驚くでしょ」
「けど、中学生なら珍しいことじゃ…」
「友達、女の子よ?」
一瞬聞き間違いかと思い、耳を疑う。
ひまりの友達は女の子で、由羅も同じく女の子なわけで。
それはつまり、同性同士で恋愛を育んでいたということになる。
「まじ…?」
「なんか色々気まずいし…会いづらくなったの」
今までちっとも気づかなかったが、由羅は恋愛対象が女性なのだ。
驚きはあったが、軽蔑などといった差別的な感情は湧いてこない。
沖縄にいた頃も同棲を愛する男の子の友達はいたため、そういった人もいる程度の認識で、特別なことだと思ったことはなかった。
ひまりは自身の姉がそうだということに驚いて、気まずさを引きずってしまったのだろう。
「大体、初恋の人の名前もどこにいるかも分からないのよ。前も言わなかった?」
「あれ、そうだっけ……」
「肝心なところ忘れないでよ」
「ごめんごめん、何も手がかりないの?」
テレビ台の隣にある棚から、ひまりは一冊アルバムを取り出した。
「ひとつだけ、あるわ」
隣同士で座りながら、ひまりが捲るページを目で追う。
小学生と思わしきひまりの体育着姿や、まだ幼い由羅のランドセルを背負った写真もある。
2人とも幼い頃から変わらず美しくて、酷く可愛らしい。
初めて見る父親の姿はどちらかといえば由羅に似ていて、写真からも背の高さが伺える。
今よりも若い彼女たちの母親の側には、どれもひまりがくっ付いている。本当に、この子は母親に懐いていたのだろう。
成長の記録に感慨深さを感じていれば、一つ、とある写真に思わず目を見開いてしまう。
指を指して、確かめるように何度も瞬きをするが、間違いない。
「え、これって…」
「そう、それがあたしの…」
「なんで私の写真が入ってるの?」
「え……?」
アルバムの上段に入っている、一枚の写真。
そこには先ほどから何度も目にした幼少期のひまりの写真と、幼き頃の晴那が共に映っているものだった。
「これ、いつの写真…?もしかして、ひまりうちに来てくれたの?」
うみんちゅハウスは観光客が多く訪れるため、本土からやってくる子供と、晴那はよく遊んでいたのだ。
恐らく、覚えていないだけでひまりとも遊んでいたのだろう。
もしかしたら由羅とも会っていたかもしれないし、アルバムを探せば晴那もひまりとの写真があるかもしれないのだ。
「びっくりした…なんか、運命みたいだね。それで、ひまりの初恋の人って」
「…この子よ」
頬をひきつらせながらひまりが指さしたのは、晴那とひまりのツーショット写真だった。
指し間違いかと思うが、彼女の指はぴくりとも動いてくれない。
「……私?」
「ほんっと最悪…どうみても男の子じゃない…っ」
確かにこの頃の晴那はショートカットで、外で遊んでばかりいたため、今より肌が日に焼けている。
小学校低学年ということもあり、体つきも性差がないのだ。
ひまりがジワジワと恥ずかしそうに目に涙を溜め始め、晴那はようやく、ことの重大さに気づいた。
「もしかしてひまり、私のこと男と思って好きだったの…?」
はっきりと口にすれば、ひまりは顔を真っ赤にさせてしまう。
耳まで赤く染め上げていて、こんなに恥ずかしがるひまりは初めて見るかもしれない。
「ありえない…ありえなすぎるし、なんなのよ…っ」
「ひ、ひまり…?」
「あたしは10年も女の子に片想いしてたってこと…?」
「落ち着いて……」
宥めようにも、衝撃の事実にパニックになっているひまりはすっかりと冷静さを失っていた。
両肩をガッと力強く掴まれて、そのまま顔を近づけてくる。
慌てて押し返そうとするも、その細い腕から信じられないほど強い力を込められてしまう。
「キスさせて」
「きす…キスッ!?む、無理無理無理」
「キスして幻滅して、この恋を断ち切りたいの!いいからさせなさいよ」
ひまりはいま、間違いなく冷静じゃない。長年の初恋をこんな形で終止符を打たれて、酷く取り乱してしまっているのだ。
「落ち着いてって、私初めてだから絶対いや」
「あたしだって初めてよ!」
「後悔するって、やめた方がいいって…っ」
しかし、ひまりはちっとも言うことを聞いてくれない。
力強く肩を掴まれ、逃れようとジリジリと後ろに下がる。
前に集中をするあまり、背後に意識を飛ばせていなかったせいだろう。
ソファに足を取られ、そのまま背中から倒れ込んでしまう。
幸い痛みは走らなかったが、晴那に釣られるように、ひまりもバランスを崩してしまう。
上に覆い被さってくる形で、柔らかい感触と、歯がぶつかり合う疎い痛みが走った。
驚いたように、ひまりが体を起こす。
ジンジンとする痛みから、2人とも何が起こったのかは理解していた。
「げ、幻滅した…?」
気まずい空気感にならないように、あえて明るい声色で言ったつもりだったのに。
自分でも顔色を熱らせてしまっている自信があって、これでは心を掻き乱されていることはひまりに伝わってしまっているだろう。
「……し、した」
慌てたように晴那の体から退いているひまりの耳も、真っ赤だ。
2人とも恥ずかしがっているのは一目瞭然だと言うのに、何のプライドか強がってしまっていた。
「お、女同士だからノーカンだよね…?」
「当たり前でしょ…っ」
ろくに目線を合わせられずに、そのまま晴那は逃げ帰るように自身の部屋へと戻っていた。
ベッドに倒れ込み、頭まですっぽりと布団を被り込む。
ぶつかった歯の痛みはとうに引いているというのに、顔が熱くて仕方ない。
唇に触れた柔らかい感触も、いつまで経っても離れてくれない。
女の子同士のキスだというのに、ちっとも嫌だと思わない。
それどころか恥ずかしがってしまっている自分自身に、すっかりと感情を掻き乱されてしまっていた。
一方、晴那が帰った広いリビングでも、同じようにひまりは蹲っていた。
先ほどから心臓がバクバクとうるさいほどを音を立てており、相変わらず頬は熱を持って引いてくれない。
「可愛いって…あいつに…?はあ…?」
初恋の男の子は、男の子ではなかった。
同じ性別の女の子で、友達だと思っていた島袋晴那だったのだ。
たしかに、あの子はひまりから見ても可愛らしい。
人見知りなため一見静かに見えるが、意外と肝が据わっているし、コロコロと表情が変わる姿は誰が見ても魅力的と思うだろう。
だけど、自分は女の子ではなくて、男の子を恋愛対象に見ていたはずだ。
これはきっと気のせいだと、込み上げてくる感情に気付かぬふりをしてしまう。
まだ幼く、経験も少ないからこそ、自分の感情と上手く向き合うことが出来ずにいるのだ。
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