第8話


 シフト入りの時間を迎えて、晴那は由羅と共に仕事に入っていた。キッチンで手を洗っていれば、同じ仕事用の制服を着た母に声をかけられる。


 「あれ、晴那化粧してる」


 母親というのは本当に娘の変化に敏感だ。

 どこか照れ臭かったが、続けて「可愛いねえ」と褒められたことで、すぐに恥ずかしさはどこかへ行ってしまった。


 「由羅さんがやってくれた」

 「あらぁ、可愛くしてもらってよかったさあ。由羅ちゃんありがとうね」


 化粧の腕を褒められて、由羅もどこか誇らしげだ。


 しかし、楽しげに談笑を出来ていたのは一瞬で、すぐに店内はお客さんでいっぱいになり、仕事に追われてしまっていた。


 この日は大部屋にて団体の予約が入っていたこともあり、いつにも増して忙しいのだ。


 ホールにて、下げものがないか客席を見て回っていれば、酷く不機嫌な様子で立ち尽くしているアルバイトスタッフの姿が視界に入った。


 「…行きたくない」


 団体客のいる大部屋の前で、大皿を持って立ち尽くしている。

 女子大生のアルバイトスタッフである彼女は仕事の覚えも早く、このような姿を見るのは初めてだった。


 心配になり慌てて彼女の元まで駆け寄る。


 「どうしたんですか?」

 「今日の団体客、大学の運動部サークルなんですけどめちゃくちゃ絡んできますよ。死ぬほどキモいんで、晴那さんも近づかない方が…」

 「私が行くので、他のテーブルに運んでください」

 「え、でも…」


 大方、可愛らしい美月に悪がらみをしていたのだろう。

 幼い頃から手伝いをしているため、こういった対応にも慣れているつもりだ。


 美月が持っていた大皿とジョッキを受け取って、団体客の部屋に入れば、途端に騒々しい大声が鼓膜に響いた。


 「おら、飲めって!いっき、いっき!」


 野太く、低い声。室内にいるのは全員男性で、料理の説明をしてもろくに聞いてくれない。 

 適当に早口で言って部屋を出ようとすれば、右腕を力強く掴まれ、前のめりになってしまった。


 「お姉さん何歳?ここの店員さん可愛い子多くね?」

 「顔採用だろ!女尊男卑だなー」


 かなり酔っ払っているのか、呂律もあまり回っていない。

 こういう状況では長居しないに限ると判断して腕を振り払おうとしたが、どれだけ力を込めても離れる気配はない。


 力の加減ができていないのか、次第に腕は痛み始め、眉間に皺を寄せてしまう。


 「離してください」

 「連絡先教えてくれたら離す」

 「は……?」

 「いいじゃん!めっちゃ可愛いから仲良くなりたい、ね?いいっしょ?」


 自分でも、顔が強張るのがわかった。可愛いなんて、酔っ払いの戯言で喜ぶとでも思っているのか。


 どう切り抜こうと悩んでいれば、背中に手を回されてビクッと肩を跳ねさせるた。


 流石にこれは度が過ぎている。

 さらにエスカレートする前にどうにかしないといけないのに、焦った思考回路ではまともな答えを導き出せない。


 こんな風に体を無遠慮に触られたことだって、一度もないのだ。


 「は、離してってば…」


 お客さんだというのに、敬語を使う余裕もない。

 情けなく震えていて、まったく覇気がない晴那の態度は、相手の思う壺だというのに。

 

 僅かに体を震えさせていれば、凛とした女性の声が場に響き渡った。


 「お客さん、悪酔いしすぎですよ」


 いつもより低い声で、場に負けない大きな声。

 普段の彼女から考えられないほど、怒りを露わにしている。


 「由羅さん……」


 真っ直ぐに晴那の元までやってきた由羅は、男の腕を力強くひっぱ叩いた。

 痛みで男の力は緩んだのか、あれほど強く握られていた晴那の腕もようやく解放される。


 薄らと青くなった後を見て、由羅は更に怒りを露わにしていた。


 「お、もっと美人きた」

 「ここの店さいこーじゃん」


 滅多にお目にかかれないレベルの美人に、わらわらと人が集まり始める。

 由羅の背中に守られるように隠されてしまったため、晴那から彼女の表情は見えなくなってしまっていた。


 「名前なんて言うの?」

 「…お引き取り願います」


 淡々とした、由羅の言葉を聞いても男たちはちっとも聞く耳を持たない。


 「え?なんて?」

 「お持ち帰り願いますじゃね?大胆だなあ」


 ただ単に耳が遠いのか。果たして、頭が悪いのか。酔っているとは言え、思考回路がめちゃくちゃだ。

 話にならない団体客に対して、由羅はハッキリと言葉を続けた。


 「帰れってこと。この子に触った奴まじ許さないから」


 直接的な言葉に、場がシンと静まり返る。

 しかし由羅はまったく意に介さない様子で、伝票を机の上に叩きつけるように置いた。


 「飲み放題終了のお時間ですので、レジまでお願いします」


 そう言い残して、由羅に手を引かれて部屋を後にする。

 そのままホールへ戻るかと思ったが、彼女に連れられて来たのはなぜか休憩室だった。 


 「…大丈夫?」

 「由羅さんがきてくれたから、平気です。ありがとうございます…」

 「美月さんから、晴那ちゃんが中々戻ってこないって聞いて凄く焦った」


 掴まれていない方の腕をギュッと掴まれて、そのまま引き寄せられる。

 柔らかい体の感触が伝わって、由羅に抱きしめられていることに気づいた。


 甘いローズの香りがして、それが彼女のイメージ通りだと思ってしまう。


 次第に頬に熱が溜まり始め、顔を上げることが出来なかった。


 「あんまり、可愛いくならないで」

 「お化粧してくれたの、由羅さんです」

 「うん…自分でやっといて、ちょっと後悔してる」


 頭を撫でてくれる手つきが、あまりに優しくて

、何故かドキドキしてしまう。

 女同士だというのに、なにを胸を高鳴らせているのだろう。


 「東京は、ああやって近づいてくる奴がいっぱいいるから気をつけて…」

 「はい…」

 「私以外のやつに可愛いって言われても…あんまり、喜ばないで」

 「え……?」


 戸惑いの声をあげれば、ガバリと勢いよく離される。

 由羅も自分が何を言ったのか戸惑っているのだろう。耳を赤くさせ、頬はピンク色に色付いていた。


 「……何言ってんだろう。ごめん、忘れて?」


 いつもより早い口調で言葉を並べて、慌てたように由羅は休憩室を後にしてしまった。

 一人残されて、あの言葉は一体何だったのだろうと考えても、答えは分からずじまいだ。

 

 由羅しか答えは知らないのだから、晴那がどれだけ考えても意味がないというのに、どうしても気になってしまう。


 普段落ち着いている由羅が珍しく取り乱していたからこそ、あの言葉の真意を知りたくなってしまっているのだ。

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