九州旅行 (中編)

○●○



 自分にとって、母親の記憶はほんのわずかしかない。

 しかし、自分は母親のことが大好きだった。

 他の子どもたちの母親と比べたら、自分の母親は“母親”としてはあまり評価が高くないだろう。

 でも、自分にとって彼女はずっと百点満点の最愛の母親である。


  

 生まれつき体の弱かった母は布団から動くことができなかった。だから、記憶の中の母はいつも寝室の布団に横たわっていた。しかし、母が笑顔を絶やすことはなかった。いつも穏やかな笑みを浮かべ、横になりながらも自分のする話をよく聞いてくれた。気分がいい時は体を起こし、自分のことを抱き寄せてくれることもあった。

 そのため、母が家事などをすることは一切なかった。が、広い座敷にはたくさんの“家族”がいて、彼らが仕事を分担してやり繰りしていた。

 もっと自分が幼いときはそれが当たり前だと思っていた。だが、それがむしろ特殊であることに気づき始めたとき、自分が“家族”だと思っていたひとびとは、実は本当の“家族”ではないことを知った。

 他の“家族”というのは母親と父親がいて、母親が料理をしたり洗濯をし、そして、父親が仕事に行くのが普通らしい。でも、自分の家にはそれが当てはまらない。自分の家は全く“普通の家庭”ではなかったのだ。それに、自分が母と同じことも、なんとなく察していた。

 だが、自分は普通じゃない自分の家に特になんの不満も感じなかった。「こんな家嫌だ」と思っていた方が、きっと“普通”の子供らしい反応だったかもしれない。でも、とにかく自分はそうは考えなかったのだ。

 今思い返せば、その理由はきっと、その時の自分の生活に満足していたからだろう。他の子どもと遊ぶことはなかったが、庭は広かったし、遊んでくれる奴らはたくさんいたから寂しいとか、退屈だとかは思わなかった。自分が妖怪であることを嫌だと感じたり、恨んだりしたことはない。それは自分が妖怪に囲まれて生活していたというのもあるだろうし、鬼としての自分にちょっとした優越感を抱いていたからかもしれない。

 他の家とは随分違うかもしれないけれど、それが自分にとっての当たり前で、しあわせな暮らしだった。

 たくさんいる“家族”の中でも、自分はとくに“のっぽ”と“眼鏡”とよく遊んだ。彼らはいわゆる世話係とやらに命じられていたらしく、自分と一番一緒にいた。のっぽと眼鏡のどっちがが一緒にいるときは外の公園に連れて行ってもらうことができた。庭にはない滑り台やブランコで遊べるのは楽しいし、何より自分は体を動かして遊ぶことが大好きだったから、連れて行ってもらえるのはとてもうれしかった。

 ただ、母と一緒に外を歩けないのは少し残念だった。だから、代わりに自分はいつも“お土産”を持って帰った。部屋から出られない母に外の世界をおすそ分けしたいと、子供ながらに考えたのだ。春には桜の枝を手折り、夏には蝉の抜け殻を見つけてきて、秋にはきれいな紅葉やどんぐりを拾い、冬には南天なんてんの実を取ってきた。“お土産”はできるだけいろいろなものにした。毎日変えて、母を驚かせたかったのだ。“お土産”の中でも、母は特にコスモスが好きだった。

 

『このお花はね、お父さんが初めてプレゼントしてくれたものなの。』


 花のところだけをちぎられたコスモスをなでながら、母はそう言っていた。秋になると庭一面にコスモスが咲くのは、父が母のために作らせたらしい。


『私がコスモスが好きだって言ったらね、急に自分で庭にコスモスの種をまき始めたの。大真面目な顔をして、土いじりなんてしたことがないようなひとがね。見かねた私が庭師の方に頼んだのよ。』


 母はよく、父のことを可愛い人だと言っていた。だが、自分は父がどんな人なのかよくわからなかった。

 いつも仏頂面で、何を考えているのかよくわからない。怖いとは思わなかったが、時折、本当に自分とこのひとに繋がりがあるのかわからなくなった。

 仕事で多忙な父と家で顔を合わせることはほとんどなかった。たまに会うことができたとしても、父の周りにはいつも他の“家族”が取り巻いていて、近づくことができなかった。だから、一体父がどんなひとなのか、父が自分のことをどう思っているのか、まったくわからなかった。だから、父は自分にとって、“父親”というよりもず“よくわからない人”というイメージが強かった。

 だから、自分にとってやはり身近だったのは母だった。


 母はよく、海を見たがっていた。しかし、体調を崩しやすい母は長時間の外出ができかった。


『海はね、青くて、とっても大きいんだって。水でできた大地みたいに、どこまでも広がっている。きっと、とても綺麗なんだろうね。』


 母はそういって、目を細め、はるか遠くの大海原を心の中で見つめているようだった。

 そんな母に、いつか海を見せてあげることが自分の夢だった。




 だが、その夢はついにかなうことはなかった。




 その日、自分はのっぽと一緒に公園に来ていた。

 いつも必死に自分のことを満足させようと何かと世話を焼いてくる眼鏡と違い、のっぽはあまり自分に関心がないのか、公園まで俺を連れていくと木の上とかベンチで寝てしまう。のっぽはこの日も、やはりベンチの上でごろりと横になっていた。何かと口うるさい眼鏡よりも、放任主義ではあるが気ままにさせてくれるのっぽの方がわりと自分は好きだった。

 そして、この日もいつものように一通り遊具で遊ぶのを楽しんでから、母への“お土産”を探していた。

 公園で見つけられるものはもう“お土産”にしつくしてしまっている。もっと他のものがいいなと思った。だけど、勝手に公園から外に出るのは眼鏡から駄目だと言われていた。しかし、今日一緒にいるのはのっぽである。のっぽならたぶん大丈夫だろう。そう思って、自分はこっそり公園の外に出た。

 公園から出ると、ちょっとした冒険気分だった。いつもはのっぽか眼鏡と手をつないでやってくる道を一人で歩いている。そのことが自分を高揚させた。

 目指す場所はもう決まっていた。公園に行く途中で見つけた小さな空き地だ。そこにはコスモスが咲いている。コスモスといっても、家の庭では見たことがないコスモスである。色が白で、花びらが普通のコスモスよりもたくさんついている。これを母の“お土産”にしようと決めたのだ。

 空き地でコスモスの花を手折っていたときである。

 突然、地面が上下に動きだした。

 何が起きたのかすぐにわからなかった。

 ぐらぐらと視界が揺れ、足元がおぼつかない。

 バランスを崩し、べしゃっと地面に倒れた。

 地面はまだ揺れている。

 怖い。

 自分は咄嗟に頭を抱えた。

 何が起きたのかわからなかった。

 だけど、とにかく身を守ることに必死だった。それから“お土産”にしようと決めた白いコスモスの花だけは、離さないようにぎゅっと握りしめていた。

 それからすぐのことである。

 今まで聞いたことがないような切羽詰まった声でのっぽが自分のことを呼んでいた。のっぽの所に行こうとしたが、地面が揺れているせいで起き上がれない。代わりにのっぽのことをできる限り大きな声で呼んだ。のっぽは以外なことにすぐに自分の居場所に気が付いた。のっぽは地面に転がっていた自分を抱きかかえると、物凄いスピードで家に向かって走り出した。

 のっぽに抱えられながら、変わり果ててしまった帰り道を自分は見た。崩れた土塀、割れた道路、煙の上がった家々・・・いつもと同じじゃない、とにかく街には異常事態が起きていた。

 まるで、知らない世界に放り込まれた気分だった。こんな街を自分は知らない。家に帰ったら、すべてが元通りになっていればいいのに。そう思った。

 だが、自分の家もまた、変わり果てた姿をしていた。玄関の石塔が崩れたり、門が折れている。家の外観以上に中は惨憺たる状況で、箪笥が倒れ、物が散乱し、その間を他の家族たちが何か叫びながらせわしなく動いていた。

 のっぽと自分が家に帰ってきたのを見つけた眼鏡が、何か叫んだ。のっぽは一言二言眼鏡にいうと、自分を連れて比較的散らかっていない部屋に自分を降ろした。 


『よかか、絶対にここから出てはいけん。』


 違和感を感じたのは、普段穏やかなはずののっぽが、その時は血相を変えていたことだった。

 胸騒ぎがした。

 直観的に、あとを追うべきだと思った。

 俺は、のっぽのあとを追った。


 

 今でもその時の判断に自分は後悔していない。



 のっぽが向かっていったのは、母の寝室だった。

 それに気が付いたとき、さあっと、血の気が失せた。

 寝室からは、黒い煙が上がっていたのだ。

 部屋にたどり着いたのっぽが襖を蹴破った。

 そこには、静かに自分を出迎えてくれる母の姿はなく、真っ赤な炎が部屋からあふれ出してきた。

 それから俺の頭は真っ白になった。

 俺はのっぽを追い越し、火の海に飛び込んでいった。

 後ろでのっぽが何かを叫んでいたが、どうでもよかった。

 体の小さい自分の方が、うねる炎の中でも上手く動くことができた。炎は熱かったが、不思議なことに火傷はしなかった。

 母は部屋にいなかった。代わりに、部屋の障子が開いていた。母の寝室は庭に面している。

 母はきっと庭にいる。 

 そう確信し、自分は庭へ飛び出した。

 

 

『かあ・・さん・・・?』



 握りしめていたコスモスの花が、手から滑り落ちた。

 庭で満開に咲き誇っていた色とりどりのコスモスは、赤一色に燃え上がっていた。そして、その炎に囲われるようにしてうずくまっている、黒い着物を着た人物。

 母は、その人物に抱えられていた。

 すぐに駆け寄ろうとした。

 だが、母の腹部から庭の赤とは違う色の赤い色があふれだしていた。

 血だ。

 それから、目に入る光景すべてが鮮明に視界に映し出された。

 黒い着物を着た男は父だった。ずるりと、父の手から真っ赤な血が滴り落ちる。

 きらりと、父の手に光るものが見えた。

 刀だ。

 刀は真っ赤に染まり、ぎらぎらと嫌な光を反射している。その刀には、息の絶えた母の姿が映っていた。


 自分の中で、それらの要素はいとも簡単に結びついた。


 父が母を殺したのだ。


 そう思ったときには激昂げきこうしていた。


『なんで・・なんで、親父が、母さんを・・・・』

『見ちゃだめだ!!!』


 のっぽが自分を抱え上げた。

 そして、走り出す。自分のことを父と母から遠ざけるように。


 なぜ引き離すのだ。

 降ろせ。

 降ろしてくれ。


『離せ!!』

『そりゃできんお願いばい・・・!』


 なんでここから自分を連れて行こうとするんだ。

 なんで母から自分を引き離そうとするんだ。

 なんで母は死んでいるんだ。

 なんで父が母を殺したんだ。


 どうして母は死ななければならなかったんだ。


『離せ、離せよ・・・!!』

 

 わからない。

 何もわからない。

 誰か教えてくれ。


 このどうしようもない気持ちを、どこにぶつければいいのか。


『離せってば馬鹿蓮司!!!』


 手足を必死に動かしてのっぽの腕から逃れようとした。でも、頑丈なのっぽはまるでびくともしない。

 ただどうにもできないような感情だけが沸き起こってきて、ぐるぐると自分の中をかき回した。

 何もできない自分が憎い。

 どうして自分は何もできないのか。

 涙ばかりがぼろぼろとあふれ出す。

 自分はただ、無力にもただ怒りに任せて泣き叫ぶことしかできない。


『母さぁああん!!!!!』



 


 それが、母の死だった。




 母の葬儀は、身内だけで非常に簡素に執り行われた。

 葬儀中もなお、父の表情は岩のように硬いままだった。涙一つ流さず、遺影を見つめていた。

 自分は葬儀が終わった後、眼鏡やのっぽを押しのけて父にくってかかった。他の家族が邪魔をしようとしてきたが、関係ない。力任せに殴り倒した。

鬼である自分は、どうやら普通の子供よりもずっと力が強いらしい。周りは仰天していたが、そんなの知ったこっちゃない。

 父は自分を弾き飛ばそうとはしなかった。 

 俺は父の上に馬乗りになり、胸倉をつかんだ。


『なんで・・・、なんで母さんを殺したんだ・・・!』

 

 『街を守るためには仕方がなかったんです。』

 眼鏡はそういっていたが、どうしても納得ができなかったのだ。

 街を守るため?

 ならば、母は父にとって天秤にかけられる程度の存在だったというのか。

 街よりも、ずっと軽い存在だったというのか。

 そんなの間違っている。


 答えてくれ。


 あんたにとって、母さんは殺しても構わない存在だったのかよ?


『強くなかったら、誰も救えねえ。』

 

 父は、たった一言、そう言っただけだった。

 そして、自分のことなどまるで眼中に入らぬかのように、立ち去って行った。

 

『・・・殺してやる。』


 自然と口から言葉が出ていた。


『絶対に!お前は俺が殺してやる・・・!!』

 

 家族の中でも特別な位置にいる父のことを、殺すなんて発言したらしかられるどころではすまない。だが、その時は誰も、自分のことを責めなかった。子供の言葉だとして、冗談だと思い気にしなかったのかもしれない。

 だが、自分は本気だった。

 この後で、自分は家の客間に行った。

 葬儀には祖父母が訪れていた。

 祖父母が強い妖怪だというのは、眼鏡から聞いていた。


『俺を一緒に連れて行ってくれ。』


 だから自分は、祖父母について行くことにした。強くなるために。

 祖父は少し驚いた様子だったが、何を考えたのか、父に取り合って自分のことを預かるよう手配してくれた。

 それから、自分は酒呑童子と茨木童子に引き取られることになった。

 

 修行と称して、酒呑童子である祖父は容赦なく俺を打ちのめした。祖父でなかれば祖母が、祖母でなければ祖父母の部下たちが自分の相手をした。内臓が無事である限り、修行は続き、全身骨折が日常茶飯事だった。つらいなんてものじゃない。もはや修行ではなく、苦行だった。

 だけど、俺は逃げようとは思わなかった。

 強くなるために、自分はここにいるんだ。

 そう言い聞かせてきた。

 それに、容赦のない稽古ではあったが、普段の祖父や祖母、そして祖父母の“家族”はとてもやさしく自分のことを迎え入れてくれた。どこかよそよそしかった前の“家族”よりも、居心地がよいとさえ思っていたほどだ。


(強くなって・・・)


「俺は」


 その先が言葉が声になることはなかった。 



○●○


 

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