不穏な朝

 

 いつもよりもやけにすっきりとした寝覚めだ。その反対に、体の節々は凝り固まっている。

 窓の外の太陽は頭の真上に見える。

 部屋の掛時計を見ると、時刻はもうすぐ十二時を指そうとしていた。


(見事に寝坊したな。)


 いなりは気だるい体を叱咤しったして、布団から体を起こした。

 しかし、無理もない。いなりが昨夜(正確には今日)床についたのは四時頃である。たとえ遅くに入眠したとしても、朝の早くに目を覚ますことがルーティーン化している自分は睡眠が不足していようと六時には目が覚める。だがしかし、今回は旅行疲れにプラスαで精神的な疲労が重なり、こんこんと深く眠ってしまったのだ。

 

(しくじった。どうも最近気が抜けている気がする。)


 電気をつけなくとも、昼間の日差しが差し込んでいるおかげで視界は問題ない。

 部屋に備え付けてある冷蔵庫の中を漁ると、昨日のうちに入れておいた水がある。いなりはそれを湯呑についで、一息に飲み干した。

 ちょうどそのとき。タイミングを見計らったようにスパァンと勢いよく襖が開かれた。


「おっはよう!」


 明るい声とともに、どすんと背中に重みが覆いかぶさってきた。八重である。

 どうやら朝風呂にでも行っていたのか、八重の髪は湿っており、体からかすかに湯の良い香りがする。寝坊したいなりと異なり、彼女はずっと早く目を覚ましていたようだ。


「元気ですね・・・。」

「ふふん、八重様の回復力をなめんといてや。ちぃと休んだらこの通りやさかい。元気満々やで。」


 寝起き状態でまだ頭がきっちり回り切っていないせいか、いなりには八重が普段の二倍三倍エネルギッシュに見える。たいして、いなりの動きは普段の五倍は鈍い。

 

「いなりってもしかして朝弱いタイプ?」


 気が付くと、八重はいなりが横に置いておいた水の入ったペットボトルを取り上げ、ごくごくと飲み干していた。いなりは自分の手が中途半端な位置で宙をかいていたことにようやく気が付く。


「いえ、言うほど弱くはないと思いますが。」

「あ、そう?なんかちょい不機嫌そう見えたわ。」


 それは八重が元気すぎるせいであろう。確かに今朝は疲労が抜けきっていないせいかあまり調子もよくないが、決して不機嫌ではない。

 しかし、反論する気力もなかったので、いなりは特に何も言わなかった。


「あ、せや。ここの昼食はビッフェ形式なんやって!」


 いなりの腹時計的には朝食であるが、正しい時間でいうと昼食で間違っていない。

 

「準備できたら早速行こうや。」

「はい。」


 昨日の夕食は食べ損ねてしまったせいか、八重はこれから向かう料亭の昼食にすっかり心を奪われていた。二人分の昼食券を握りしめ、今にも小躍りしそうだ。

 いなりも決して楽しみでないわけではない。寝起きの胃袋で上流の料亭のランチメニューを食べることができるとは到底思えなかった。そのため、少々不安だったのだ。しかし、聞いたところによるとビュッフェ形式らしいので、自分で食べたいものをよそうことができるのは僥倖ぎょうこうだった。それに、寝起きとはいえおなかがすいているのは事実である。


「少し待っていてください。すぐに準備してきます。」


 身支度のため、いなりは顔を洗いに洗面所へ少し急いで向かった。




◇◆◇




 着替えてから階下に降りてきてみると、お昼時というのもあり、料亭は多くの人でにぎわっていた。旅館客だけではなく、料亭目当てにやってきた客もいるらしく、入口には空席待ちの客が並んでいる。サラリーマンから老夫婦の連れまで、厚い客層ではあるが、一貫して皆妖怪だ。

 

「お、あれは北斗やんけ?」


 順番待ちの客の列ではないところに浴衣姿の青年がいた。

 後ろ姿からだと本当に本人かどうかわからないものであるが、妖怪しかいない空間で、唯一の人間である彼は一目でわかる。その証拠に、彼の足元の影は不自然にゆらゆらと揺れている。


「よう、おはよう北斗。」

「ああ、二人か。おはよう。」


 挨拶の仕方からしてどうやら北斗も「朝食組」らしい。

 いつもはまっすぐな黒髪が、今日は少し寝癖がついたままだった。


「黒羽と愁はどないしてん?」

「黒羽は別のところに用があるらしくて、昨日の夜から出かけて行ったきり。愁は部屋に行ってみたが、返事がなかった。」


 「ほんっと、集団行動のできないヤツらだなー」と、八重はため息交じりに言った。北斗は苦笑して「校外学習じゃないんだからいいじゃないか」と二人をかばう。

 せっかくの旅行なのだから五人(狛狗たちを含めれば+二体だ)そろって食事をしたかった八重の気持ちもわからなくはないが、こればかりはどうしようもない。


「愁はまあええとして、黒羽だけは理解でけへんのやけど。」

「そこはもう黒羽だから仕方がないと割り切れ。彼奴に協調性を求めることが間違っている気がする。」

「同意です。」


 そんなこんなで、三人は昼食券を中居に見せて席へと案内される。旅館客は昼食券なるものが与えられているため、列に並ばずに済むのだ。

 三人が案内されたのは、四人掛けの席だった。北斗が荷物番を名乗りでてくれたので、お言葉に甘えて八重といなりは先にご飯を取りに向かう。


「おお・・・さすがは四大妖怪勢力のシマにある旅館・・・。食べ物の格がちゃう。」

「食べ物の格って何ですか。」


 おでんに、天ぷら、春巻き、コロッケ、和風ハンバーグにオムレツ、はたまたもつ鍋まで。さすがは料亭というべきか、品目の豊富さもさることながら、見た目からしてその品々の味が大層なものであることは見るだけで明らかだ。

 吉原でも料亭の料理を口にしたことはあるが、それはきっちりとしつらえられた会席料理であった。しかし、今いなり達が目の前にしているのは、上品な料理だけでなく、がっつりとした肉食系メニューまでそろえられ、とにかく盛りだくさんなのだ。

 豪華な食事を前に、八重は口元をぬぐっている。これらのラインナップを見て食欲がわかないはずがない。

 しかし、寝起きの空きっ腹にこれらを取り入れたら自分の小さい胃袋は悲鳴を上げるに違いない。いなりは寝坊した自身を今になって心の底から恨んだ。

 周りが群がる豪華メニューの列からそっと離れ、いなりは味噌汁とごはん、それから鮭の西京焼きと小松菜のお浸しをお膳にのせて席に戻る。

 八重は一足早く戻っていたようで、北斗と荷物番を変わっていた。彼女の皿の上には生姜焼きやハンバーグ、コロッケなどのおかずが山盛りによそられている。


「昼食ですか?」

「そうやな。うちは七時には起きとったさかい、軽く近所で体動かしとったんや。」


 いなりが驚いたというと、八重はそうでもなさそうに頬をかく。


「不規則な睡眠に慣れてるし、こんぐらいどうってことあらへんのや。」


 なんてことなさそうにいうが、素直に解釈すれば八重は慣れるほどの不規則な生活リズムを普段から送っていることになる。一応今彼女は高校生として人間の高校に通っているため、それなりに普通の生活を送っているはずだ。となると、まだ彼女が東に来る前・・・すなわち西の四大妖怪であった頃のことなのだろう。

 四大妖怪が普段どんな仕事をしているのか、いなりは全く知らない。みずめに聞いてもはぐらかされてしまうし、黒羽はそもそも仕事を部下に丸投げしているようだから参考にならない。しかし、南の地にきて羅刹や数弥の様子を見ている限り、決して楽なものではないことはわかる。

 八重が西にいたころは、どのような生活を送っていたのだろうか。


(案外自分は、彼らのことをよく知らないのかもしれない。)



「遅くなった。」


 ぼんやりと水を飲んでいたところで、北斗が戻ってきた。 

 彼のお膳にもいなりと似たような朝食ラインナップが並んでいる。


「自分男のくせにそんなんでよう足りるなぁ。うちやったら一時間で倒れんねん。」

「まだ胃が起きていないのにそんなに食えるか。そもそも、昼食だとしてもそんなに食えないぞ。」

「しゃあないさかい、コロッケをおすそわけしたろう。」

「いや、いらないからな!」


 「食わな成長でけへんで~」と母親のようなセリフを言う八重に、北斗は器用に箸で阻止している。

 その様子がおかしくて、思わずいなりはくすりと笑みをこぼした。

 八重は誰にも気さくであるが、北斗に対してだけはどことなく一線を引いて接している雰囲気があった。それは決して軽蔑というわけではなく、どことなく、人間と妖怪の境界を意識したようなものだった。うわべだけ仲良くつきあっている、そんな感じだった。

 しかし、いつの間にかその見えない壁は、なくなっていたようだ。

 

「あれ、いなりもしかして今笑うとった?」

「笑ってないです。」

「嘘つかんかい!ああもう、えげつのう貴重な瞬間やったのに北斗のせいで逃したやんけ!」

「俺のせいなのかよ!?」


 そうして、わいわいと三人で会話に花を咲かせて食事を楽しんでいた時である。


「おいてめえ、聞こえなかったてぇのか?その席譲れっつてんだよゴラァ!!」


 しゃがれた濁声だみごえが昼下がりの穏やかな空気をぶち壊した。


「なんだあれ。」


 何か揉め事が入口で起きているらしい。

 いなりたちの席は入口から少し離れた場所にあるため、その様子は遠目から見える。

 どうやら、融通の利かない客がきてしまったらしい。料亭は満席、だが並んで待とうとせずに中居に対して横暴な態度をとっているようだ。


「お一人様のくせに三席もぶんどってるったあいいご身分じゃねえか。海外妖怪様はいつの間にそんなに偉くなったのか?」

「いや、あの、その、す、すみませんすみません!!」


 いかにもチンピラが吐きそうな言葉を吐いて他の客にまでからんでいるらしい。

 絡まれた客と思しき人物は、自分のお膳を抱え、席を立とうとする。中居がその人外の客を引き留めようとしたが、人外の客は逃げるようにプレートをもってその場を立ち去った。

 チンピラどもは容赦なくその席に腰をかけて中居に料理を持ってこいと偉そうに指図している。


「・・・ありゃ気に食わねえな。」


 さっきまでの会話の時よりも数段低い声を八重が発す。カチンという音が聞こえてきそうな様子だ。

 

(これは死んだな、チンピラが。)


 このまま乱闘沙汰に持ち込むのかと、周囲の者たちのはらはらとした心境とは別の意味でいなりははらはらしながら成り行きを見守る。


「おい、そこのあんちゃん」


 不自然なほど笑みを浮かべて八重はどかされた客に向かって語り掛けた。 

 男は大げさなくらいびくりと肩を震わせた。その反動で、お膳に乗った器がガシャンと音を立てる。


「相席でよかったら一席空いてるけど来おへん?」


 思いがけぬ八重の言葉に、いなりは驚いてしまった。八重にしてはずいぶん穏やかな対応である。そう思ったのはいなりだけでなく、北斗も同じで、八重のことを凝視している。

 しかし、それ以上に驚いたのは声をかけられた客だろう。客は戸惑っておどおどとその場でまごついている。


「え、ええっと・・・その」

「ええからええから。飯は冷めへんうちに食べたほうがええねん。」

「あ、ありがとう。」


 八重の圧についに負けたらしい。何も怒鳴られるわけでもないのに、男はこれから説教部屋にでも詰め込まれるような雰囲気で、いなりたちの座る席にやってきた。


「急に話かけて悪かったな。うちら三人だけやし、気にせえへんでその席につこてええよ。」

「い、いえ。助けていただき、ほ、本当にありがとうございました・・・!」

 

 そういって、青年は机に頭が付くんじゃないかというほど深々と頭を下げる。

 青年は大学生のようないでたちであるが、服装に似合わない、いかつい濃い色のサングラスをかけていた。

 頭を下げたことで落ちそうになるサングラスを押し上げながら、青年は顔をあげる。


(なるほど、海外の人外か。)


 妖気の匂いがまるで違うから、ずぐにわかった。

 変ないちゃもんをつけられていたようだったが、そういうわけだったのである。

 人外―――すなわち海外妖怪は日本国内でにその居住が認められているのは南の地だけである。幕末期の開国でちょっとした衝突が日本妖怪との間にあったことなどから、マイノリティである彼らは差別的な扱いを受けることがあると耳にしたことがある。

 しかし、先ほどの騒動はあまりにもあからさまだ。


「にしても嫌な連中やったな。ここが南の地じゃなけりゃ吹っ飛ばしとったとこやで。」

「そ、そんな怒らないでください。いつものこと、ですから。僕はもう慣れているんです。」

「慣れてるって・・・。」

「ここらじゃよくあることなんですよ。ぎゃ、逆に助けられたのは、は、はじめてです。」


 青年はなんでもなさそうに頭をかいた。


「あんた名前は?」

「え?」

「名前やで。さすがにずっと兄ちゃん呼びは申し訳あらへんさかい。別に言いたないなら無理に聞かへんけど。」

「そ、それではアスターと呼んでください。」


 男―――アスターは、気恥ずかしそうにそう言った。

 いなり達も軽く名前だけ紹介し、食事をしながら会話を続ける。


「そういや、日本語上手やけどこっちに住んでもう長いんか?」

「そうですね。もうかれこれ400年くらいはこの国で暮らしています。」

「と言いますと、開国時からですか?」

「ええ、まあ、そんなとこです。」


 日本海外問わず、年齢と妖怪の格は比例関係にある。百年も生きていれば中堅妖怪として世間的には認められるのだ。

 とすると、アスターはそれなりに力のある人外なのかもしれない。しかし、アスターは風が吹けば吹き飛んでいきそうなほど頼りない上、弱々しい。見た目だけならば学生である自分たちに対しても下手にでるアスターに対し、いなりはそんな印象を抱いていた。


「三人は旅行ですか?」

「本当は五人で来ているんだが、ちょっと用事で二人外しているんだ。」

「そうだったんですね。」


 そんなこんなで他愛もない話をしているうちに、そろそろいい時間になってきた。午前の閉店まであともう数十分といったところである。

 気が付くと、料亭の客はすっかりいなり達だけになってしまっていた。


「今日は本当にありがとうございました。いつか必ず、お礼をお返しします。」

「お礼なんていらへんよ。」


 アスターは何度も何度も頭を下げながら、料亭から出て行った。

 

「えろう腰の低い奴やったけど、ようもまああれで今まで殺されへんかったなあ。」

「おい、物騒なこというなよ。」

「いや、ほんまやぞ?もしうちがもう少し性格の悪い奴やったら、見てるだけでイラついてはったおしてるなぁ。」


 八重の言いたいことはわからなくもない。もし彼が東京の街中を歩けばすぐにいいカモにされていそうだ。


「ま、生きてるってことは実力はあるんやろうな。」

「そうでしょうね。」


 その時である。

 「お客様」と、明朗な声が背後でした。

 この場に「お客様」にあたる者はいなりたちしかいない。

 振り返ると、初老の女性が立っていた。

 彼女の後ろには中居が数名、控えるように立っている。山吹色の着物を着た他の中居とは違い、その女性は紅葉の柄の入った帯に、手ぼかしの着物を着ている。また、上品でありながらも隙を見せない、堂々とした態度は彼女が別格の存在であることを示している。

 何事かと思って初老の女性を見つめていると、女性は腰をおって深々と頭を下げた。


「お客様、先ほどはありがとうございました。〈あき茜〉の女将として、お礼申し上げます。」

「ああ、ええってええって。あのまま見てへんふりをしとったらせっかくの飯がまずなるさかい。」


 八重は慌てて手を振るが、女将はきっぱりと言いきる。


「いえ、本当に助かったのでございます。ここだけの話、先ほどのお客様に絡んでいましたのは筑後ちくご組の者でございまして、私共も対応しかねておりました。」


 先ほどのチンピラはどうやら南の地の裏社会の組の一員だったようだ。それも、女将の話し方からして、なかなか規模の大きな組のようである。南の四大妖怪の勢力下にある旅館とはいえ、そう簡単に喧嘩を売れない相手なのだろう。しかし、だからといって何の非もない客に席を譲らせることもできず、板挟み状態であったところ、南の地の妖怪ではないいなり達が間に入ったおかげで丸く事が済んだというわけである。女将としては旅館とその組との間におかしな悶着を残さずに済み、ほっとしているというわけだ。


「まあ、このような悶着もんちゃくはよく見る光景なんですけども、今回ばかりはどうも胸騒ぎがいたしましてね・・・お客様、お出かけの際はどうかお気を付けて。」


 深々と頭を下げる女将の姿に、いなりはこの南の地の不穏な空気を感じつつあった。


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