吉原動乱 9



◇◆◇




 いなりはスカイツリーの側面を駆け抜ける。それを後ろからケルベロス、赤マントが追いかけてくる。

 赤マントを火矢で張りつけ、とりあえず動けないようにする。その間に横から突進してくるケルベロスを炎の壁で防いだ。 

 だが、ケルベロスは炎を飛び越えて頭上からとびかかってきた。いなりは咄嗟にガラスを割ってスカイツリー内部に飛び込んでケルベロスをよける。

 直後、別の場所でガラスが割れる音がした。

 赤マントである。

 赤マントは大鎌を大きく振りかぶっていなりに向かって、文字通り飛んでくる。

 いなりは素早く態勢を整え、赤マントの大鎌を手刀で受けながす。受け流したにも関わらず、両手にびりびりと衝撃が伝わってくる。こんな攻撃、まともに食らえば一瞬で首が塵になる。たとえ手刀で受けたとしても、チャンバラごっこのように華麗な剣さばきをすることは無理だ。先に自分の腕が吹き飛ばされる。

 打ち合いにもっていくことができないなら、先に相手の武器を落とすしかない。

 いなりは赤マントの懐に飛び込んだ。そして、赤マントの両手首めがけて手刀を振るう。しかし、その手刀は赤マントに達することはできなかった。

 赤マントの背後から、黒い霧がいなりを飲み込まんと迫ってきたのだ。

 さすがは地獄の番犬。唾液からトリカブトが生まれるなら、吐息は猛毒の霧というわけか。

 すんでのところで、いなりはバク転で後方によける。

 まさかこんなところでアクション映画の魅せ場のような技を披露するとは思わなかった。だが、バク転というのはする意味があるからこそ、わざわざそうやって避けるのだ。

 身を翻しながら、いなりは炎尾で黒い霧を相殺する。炎と霧がぶつかり合い、白煙が展望台内に充満した。いなりはそれを目隠しに素早く移動をする。

 ちょうどその時。

 背後から靴音が聞こえてきた。

 いなりはその場に立ち止まり、足音の気配を探る。


「おや、まだ潰されていなかったのか。見た目に反して意外と戦闘系のようだな。」

  

 白煙の中から現れる、白い影。

 いなりは男の動きに精神を研ぎ澄ませつつ、周囲の注意を怠らない。

 殺気立ついなりをよそに、男は優雅な足取りでいなりに近づいてくる。


「だが、それももう終わりだ。この国を闇に落とす準備は整った。」


 いなりから一メートルほど手前で、男はぴたりと止まる。

 そして、あざ笑うように言い放った。


「君達の負けだ。」

 

 いなりは手に力を籠める。

 手刀を振るえば、すぐに首を跳ね飛ばせるような距離である。 

 なのに、まったく隙がない。いくら脳内でシミュレーションをしようと、相手に逃れられる、または返り討ちにされる未来しか見えない。

 そんないなりの脳内を見透かしているように、男はわざとらしく大きな身振りでいなりの周囲を歩く。そして、とつとつと語りだした。


耶蘇キリスト教の神が復活したのは知っているであろう。同様に、私は私の神の復活を望んでいる。」


 つまり、何者かがこの男の背後にいる。

 そして、それがこの男が言う“神”であり、鉄鼠の言っていた“あの御方おかた”・・・。

 いなりはひとまず男の話に耳を傾ける。


「わが神ははるか古に他の神々によって封じられた。しかしね、どんなに強い封印であろうと時がたてば、縛る力は弱まる。そして今、その時が訪れようとしているのだ。」


 男は興奮しているのか、徐々に話に熱がこもってくる。 

 反対に、どこまでもいなりの頭は冷めきっていく。


「あともう少し、あと一歩なのだ。わが神の完全なる顕現、それを成すためには膨大なエネルギーが必要となる。」


 その膨大なエネルギーにあたるのが神巫に宿っている神獣の力ということか。

 神獣は妖怪とは違い、その力の源は自然そのもの。力で自然現象に干渉するのではなく、ことわりから作り変えてしまうような力を持っている。その純粋なエネルギーは底しれない。妖怪が、ただ餓えた獣のように神巫を屠ろうとするのとは違い、その利用価値はずっと高い。


「私の同僚は神の意思に従わず、ただ己の欲望を満たすためだけに動くような出来損ないだった。」


 同僚―――饕餮のことか。

 すると、やはりこのふたりは裏でつながっていたことになる。そして、その間には“神”という謎の存在がある。

 黒羽が言っていたことが、ここにきてようやく形を結び始めた。


「だが、奴のおかげでようやく一人目の神巫の居場所が特定できた。まあ、住んでいる場所までは特定できなかったから、わざわざこのように面倒なやり方であぶり出そうとしているわけだがね。」

「あぶり出し・・・?」

「神巫がいるのは東京都内。そして、高校生ということまでわかっていた。だから、を高校にばらまいたのさ。まあ、失敗だったわけだが。」


 東京都内すべての高校で起きた、仮想怨霊騒動―――あれは、神巫をあぶり出すための手段だったというのか。いや、だがなぜ仮想怨霊をばらまくことが神巫をあぶり出すことにつながるのだ。

 疑問が脳内を駆け巡る。

 しかし、今それについてはおいておこう。

 もっと別のことを、いなりはこの男に聞きたかった。

 

「一つ、うかがってもいいですか。」


 いなりは、ひどく静かな声で問いかけた。


「いいだろう。」


 男は実にあっさりと答えた。


「その神の復活とやらに神巫が必要ならば、誘拐なりすればことりたはずです。なぜ、このように街を巻き込むような形をとったのですか?」


 数秒の沈黙が両者の間を流れた。 


「何を勘違いしているかと思えば。」


 まるであきれたと言いたげに、男は大きなため息をついた。

 そして、ふるふると肩を震わせる。


「我々が必要なのは神巫ではない。そこに宿っている神獣さえ手に入ればいいのだ。器はどうなろうと関係ない。むしろ死んでくれた方がありがたいくらいだ。エネルギーを取り出しやすくなる。それに、」


 表情のない白い仮面がいなりの顔にぐっと近づいてくる。

 そして、男はいなりの耳元でささやいた。


「何よりも、パニックを起こすことは楽しいだろう?」


 言い終えるなり、男はパチンと指を鳴らす。


「話は終わりだ。」


 瞬間。

 白煙の中からケルベロスと赤マントが出現し、いなりに飛びかかる。


(ああ、本当にこいつはどうしようもないクズなのか。)


 ドンという轟音。

 いなりの周囲で炎が吹き上がり、赤マントとケルベロスを吹き飛ばす。

 予想だにしていなかったであろう爆発に、両者はもろに巻き込まれた。

 その隙を逃さず、いなりは右手で赤マントの喉を、左手でケルベロスの首を薙ぎ払う。


「何!?」


 今までずっと押し殺していた感情が、沸々ふつふつと腹の底からわき上がってくる。

 落ち着け、頭を冷やせとかろうじて残っていた理性すら、もうすでに吹き飛んでいった。


 残ったのは、ただ純粋な怒りのみ。


(こっちは神なんか知ったこっちゃねえんだよ。)


 抑えきれなくなった妖力オーラがぱちぱちと火花を散らす。いなりの白銀の毛並みを持つ尾と髪が炎に照らされ、月光を思わせるような光を放つ。

 いなりの怒りを具現化したように、炎の渦は荒れ狂う。いなりを中心とした空間の空気が熱によって膨張し、展望台のガラスを吹き飛ばす。

 それほどの灼熱の中にも関わらず、いなりの表情はかたく凍てついていた。

 いなりが手を向けると、炎の渦が男に向けて放たれる。火力が先ほどとは比べ物にならないほど強くなっている。まともに食らえば、ケルベロスや赤マントのように一瞬で塵になるだろう。

 男は舌打ちをうってそれをよけた。


「今更抵抗したところで無駄だ!もうすでにこの電波塔のシステムは」

「だからどうした。」


 凄絶せいぜつな色を宿した瞳が、男の姿を捉える。

 

「がっ!?」


 炎を纏った強烈な上段の回し蹴りが男の腕を直撃した。

 みしりという音がして、男の腕があらぬ方向へ捻じ曲がる。


「貴様、いつの間に・・・!」


 男はあえぐようにそう言う。

 防御の姿勢をとるように男は体の前に腕を構える。

 だが、いなりはそんなものお構いなしに腕の防御を打ち破る。

 バキンという音がして、男の仮面が真っ二つに割れた。


「・・・・・!」


 思わずいなりは息をのんだ。

 その隙を男は逃さなかった。

 男がいなりの脇腹を蹴って吹き飛ばす。


「ぐっ・・・!」


 いなりの小柄な体はボールのようにバウンドして飛び散ったガラスの上を転がる。

 何とか受け身をとったが、それでも威力を殺しきれなかった。

 これはおそらくあばら骨が数本折れている。 


(しくじったな・・・。) 


 痛みによって、沸点に達していた脳が一気に冷える。

 いなりはようやく、先ほどまでの自分が暴走状態にあったことを自覚した。


「ふ、ふははははは、はっはっは!!面白い・・・!」


 白い仮面の下から現れたのは、だった。

 顔にあたる部分には、目と鼻、口の部分がぽっかりと穴が開いているだけ。顔を構成するパーツがない。それは、不気味な人形を思わせる。


「貴様のその力に敬意を表し、我が名を教えよう。」


 ぽっかりと空いた空洞から、低い声が反響するように聞こえてくる。

 

「我が名は渾沌。四凶のひとりして、混沌カオスと怠惰を司る邪神だ。」


 男はゴキゴキという音を立てながら、歪んだ自らの腕を無理やり直す。


「それでは、第二ラウンドといこうか。」




◇◆◇



 

 街は暗闇に包まれている。だが、それっきりで、何も起こらない。

 一体、何がどうなったのだ。

 八重は刀岐の方を見るが、刀岐も似たような状態だった。


「停電か・・・。」


 ふと、黒づくめの男がそうつぶやく。


(停電やと?)


 黒づくめの男は闇の一点をじっと見つめている。

 八重はその一点を目で追う。 


 そこには、闇が輪郭をとっていた。


「やはり、君か。」


 それは、闇に溶け込んだ黒い烏。

 夜のとばりのような大きな翼を広げ、空で羽ばたいていた。


「黒羽・・・!」


 黒羽は地上にゆっくりと降りてくる。


「お前、一体今まで何してたんだ!?」


 突如として現れた黒羽に向かって八重は叫んだ。

 もう何が起こっているのかわからない。だが、この状況を生んだのは確実にこの食えない烏であることだけは知っていた。


「別に大したことはしてないさー。」


 物凄い剣幕でまくし立ててくる八重に黒羽はただ笑って返した。

 彼はいつものように飄々と、散歩をするがごとく戦場のど真ん中を歩いている。


「僕はただ、スカイツリーに電力を供給している発電所を止めに行っていただけだよー。」

「は?」


(発電所を止めただと?)


 八重ははっとして周囲を見回した。 

 戦闘に手いっぱいで気が付かなかったが、吉原とは違う方向で煙が上がっている。

 まさか、この男はたったひとりでこの大規模停電ブラックアウトを引き起こしたというのか。


「簡単なことだよー。結界内の発電所はどうせ人間はいないから適当に爆破させてきたんだー。念のため結界外のやつは蔵之介に任せていたつもりだけど、この調子だとうまくいっていたみたいだねー。僕が片っ端から電線切っとく必要はなかったかなー。」

「おいちょっと待て。任せたって、どうやって結界から外に出たんだ。」

「それは蔵之介に聞いてー。ま、ぬらりひょんからしてみれば、結界くらい他人の家の扉あけるようなものじゃないのかいー?」

 

 結界を玄関のドアみたく扱うバケモノがどこにいるんだよ。

 

(いや、あの爺さんならやりかねないわ。)

 

 浅草組は東の地でもかなり大きな組である。それだけの妖怪勢力を率いるのは頭だけではやっていけない。並々ならぬ実力の持ち主に違いないのだ。

 好々爺こうこうやのような見た目をしていながら、なかなか手ごわい爺さんらしい。八重は自分の中の蔵助の評価をもう一つランクアップさせた。

 それはともかく。妖怪に結界をさっくりと破られて陰陽寮の面目をつぶされたせいか、刀岐は今にも砂になって飛んでいきそうだった。そんな彼におかまいなく、黒羽はくるりと反対の方向を振り返る。


「あ、そうそう。とりあえず聞きたいことがあるんだけど、いいかなー?」


 それは、本当に瞬く間がないほどの一瞬のこと。間合いを詰め、黒羽が男の首をひねり上げる。

 思わず八重は目を見張った。片腕で大人一人を持ち上げるなど、あの細腕でなせる力とはとても思えない。 

 普段は穏やかに細められている黒羽の瞳は、今や鋭い光を宿している。烏なんかではない。まるで、猛禽類もうきんるいの瞳だ。


「君、誰?」




◇◆◇




 破壊音とともに、いなりの体が第二展望台から放り出され、その下の第一展望台に真っ逆さまに突っ込んだ。

 妖力で強化した肉体でなければ一瞬でひき肉だ。咄嗟に放った炎術で緩和しながらいなりは衝撃から何とか体を持ちこたえさせる。避ける間もなくいなりの頭上から渾沌が急降下してきて、炎と拳がぶつかり合う。

 月明りすらない真っ暗闇の中で、炎の明かりだけが両者の戦いを照らし出す。


「私がただバケモノ共を生み出すしかできないヤツだと思っていたか?」


 渾沌の強烈な打撃攻撃がいなりの顔の横をかする。ただのパンチなのに、電車が通り過ぎたような勢いである。体は人間と変わらないはずなのに、どんな超重量のパンチをしているのだ。

 いなりはよけざまに姿勢を低くして足に下払いを仕掛ける。だが、渾沌は飛んでそれをよけ、いなりの側頭部を蹴り飛ばす。

 一瞬視界が白く弾けた。

 いなりは舌を噛んで飛びそうになる意識を無理やり引き戻す。


「どうした、さっきまでの方がずっといい動きをしていたぞ。」


 渾沌が建物の柱に手をかける。みしみしと音を立てて柱が引っ抜かれ、天井が崩れ落ちてくる。

 さらに渾沌は、引き抜いた柱をいなりに向けて投げ飛ばした。

 限界に近づき、固まりそうになる足を叱咤していなりは紙一重でそれをかわす。 


「ふん、つまらないな、逃げてばかりじゃないか。」

「逃げてはいませんよ。私も準備が整ったところです。」

「は?」


 いなりを取り巻いていた炎が薄い刃物のような形状に変わる。

 


 広範囲炎術―――妖炎乱舞ようえんらんぷ涼風すずかぜまい


 

 何重、何百もの熱光線でできた炎刃えんじんが渦巻きながら渾沌を切り刻みにかかった。 

 炎刃が触れるなり、コンクリートは溶け落ち、柱はバターのように切り刻まれる。展望台はもうめちゃくちゃだった。

 しかし、それでもなおいなりは攻撃の手を止めなかった。

 

 炎の嵐がやんだのは、それから数分してからだった。

 

 いなりの周囲には、瓦礫の山だけが残っている。

 渾沌の姿はない。 


(終わった・・・のか。)

 

 ほんの僅か。

 いなりが気を抜いた瞬間だった。

 背後で立ち上がる気配がした。


(まさか・・・!)


 渾沌の拳が、いなりの目前に迫る。




◇◆◇




 亜空間で、北斗は目を覚ました。

 八重に突然術によって隔離された空間に放り込まれたところまでは覚えている。その時に頭を打って気絶していたのだ。

 何も見えないし、外の声すら聞こえない。それはそうで、ここは八重が切り離した別次元であり、外の世界から音も光届かない。

 だから、何が外で起きているのかはわからない。

 しかし、少なくともまだ亜空間が存在するということは、八重は死んではいない。

 

(とにかく、ここから出ないと)


 待て。

 自分は何を考えている。

 

 自分がここから出たところで、何か戦力にでもなるのか?


 自分はただの人間で、妖怪のような力を持たない。

 猛獣たちがひしめくサバンナに、裸一貫で放り込まれた人間。簡単に言えばそれが今の北斗だ。

 ここにきて、ようやく北斗は身に染みて実感した。


 幼いころから他人とは違う世界が見えた。 

 神巫だといわれて、狛狗たちからずっと守られてきた。

 妖怪や半妖怪の友人ができた。

 彼らの住む世界に、入り込んでいた。


 だから、自分はもうの存在だと思いこんでいた。


 でもそれは、とんだ勘違いだったのだ。

 

 自分は、ただの無力な人間にすぎないのだ。

 

 ―――いいじゃないか。事が過ぎるまでこのまま待っていろよ。


 頭の中で語り掛けてくる、優しい声。

 それが、自分の声だと少し遅れて気が付いた。


 ―――お前は守られるべき存在なんだ。トクベツな存在だから、守られていいんだ。


 違う。

 そうじゃない。

 自分でなんとかしなくてはならない。

 そう決めたのだ。そう、約束したのだ。


 ―――できるはずがないだろ。

 ―――だって、お前は現実に閉じ込められているじゃないか。


 だけど。

 何か自分にできることはあるはずだ。


 ―――よせよ。そういう中途半端な正義感ヒーロー気取りが命とりになるんよ。


 その時。

 彼の瞼に彼女の姿が現れた。

 北斗の彩る、赤と銀の色彩を持った美しい少女。

 彼女は、いつもまっすぐだ。


「中途半端で、何が悪い。」


 なら、彼女だって半端者だ。

 それでも彼女はまっすぐに生きている。

 自分は、その姿に見とれたのだ。


 合理的判断。最適解。そんなのどうでもいい。

 ここで自分が動くのは、ただの自己満足で、勝手極まりない責任感だ。

 でも、それでいい。

 自分は、ヒーローでもカミサマでもない。

 ただの高校生。

 ただの、ひとりの人間なのだ。

 血反吐を吐きながら這いつくばって、運命にもがき、無力さに苦しんでも、それでもなお前に進もうとするのが、人間じゃないか。



(だから、俺は意志を貫く。)



「おい、麒麟。聞こえているんだろう。」


 北斗は自分の胸を鷲掴んだ。

 自分の声に、返事をする声はない。

 だが、は絶対に応える。

 北斗はそう確信していた。


「家賃を払え。」




◇◆◇




 その時。


 八重の背後で薄氷はくひょうが割れるような音がした。


(まさか。)


 この場にいる想定外の出来事だった。

 それは、黒羽でも例外ではない。


「な・・・亜空間を破られたやと・・・!?」


 

 八重は思わず声を上げた。

 

 妖術は自然の事象を書き換えるわざ。妖力によって自然のことわり。すなわち、基盤になっているのはあくまで自然現象なのであって、妖力はその媒介、あるいは燃料のような役割を果たすにすぎない。妖術同士のぶつかりあいは、ただのだ。そのため、たとえ炎であぶろうと、帯電した刃物で切り付けようと、、切り分けられた空間を破ることはできない。だからこそ、八重の術は防御であり、最強の鉾なのだ。


 黒頭巾の男は八重や狛狗の術を消し去ったが、今、彼は黒羽によって抑えられている。では北斗がやったのか?だが、北斗は妖怪を見ることはできるが、陰陽師たちのように何かしらの術を使うことはできないはずだ。


(いや―――)


「違う。」

 

 否、は北斗ではない。

 北斗の姿をした、何かだ。姿かたちは北斗だが、雰囲気がまるで別人だ。

 

(あれは、一体誰だ?)


「あー・・・、そういうことかよこん畜生ちくしょうめ・・・!」


 刀岐を除いて周囲が唖然あぜんとする中、北斗は無言。この混乱を、まるで視野に入れていない。

 彼の双眸は、遠いどこかの一点を見つめている。

 北斗がふと足を止めた。

 そこで、両手を上にゆっくりと掲げる。

 目を奪われるような、洗練された動作だ。

 北斗の手の動きが止まると、何も持っていなかったはずのその手に、光の粒子がつどい始める。

 蛍のように、光は一つ一つはか細く、淡く輝いている。まるで北斗に呼応するように、ほのかな明滅を繰り返しながら、また一つ、二つと小さな蛍は増えていく。 

 光の集合体は細長くのび、何かを形作っていく。


(そうか。)


 ―――射法八節。あれは、打起うちおこしの姿勢だ。

 

それはひとつの弓だった。つるのない、ただの部分があるだけのものである。

 だが、構わず北斗の姿をしたは、手を添えた。

 すると、再び光が集約し、線を描く。 

 光は一本の矢となって、北斗の手に収まった。

 そして―――

 光矢は、北斗の手を離れる。




◇◆◇




 目の前で、肉片が飛び散った。

 数秒遅れて、思い出したかのように血液があふれ出る。あっという間に大きな血だまりが足元にできる。

 あっけにとられて、思わずいなりは目を大きく見開く。


 どこからともなく飛んできた、輝く矢が渾沌の腕を吹き飛ばしたのだ。


「!?」


渾沌の目が驚愕で見開かれる。そして、いなりに対しての恐怖の色が浮かんでいた。

だが、それはひどい勘違いだ。

 あれは、いなりが放ったものではない。


(一体、どこから。)


 そもそも、あれは一体何だ。明らかに妖術ではない。もっと、力の強い何か―――しいていうのであれば、陰陽術に近い。

 いや、考えている場合ではない。

 そんなことは今はどうでもいい。

 今はとにかく、この邪神の息の根を止めねば。


 いなりは手に炎を纏う。

 残り僅かな妖力を振り絞り、集中させる。


(これで、終わりにする・・・!)


 いなりの貫手ぬきてが、渾沌の喉元をつらいた。



 炎術―――燐火りんか手向花たむけばな



 収束された炎が花開く。

 大輪の赤き花弁が火の粉となって散り、渾沌の体が炎に包まれる。

 炎は喉を焦がし、渾沌が音にならない声をあげた。

 最後の力を振り絞って、渾沌はがしりといなりの腕をつかむ。

 いなりはさらに火力を上げる。炎の色は赤から紫へと変わり始める。

 その色の移り変わりは、枯れゆく花弁のよう。


「燃え、尽きろ・・・!」


 炎に飲み込まれるようにして、渾沌の体は黒くなって崩れ落ちる。

 いなりの手の中には、黒い灰だけが残った。



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