九州旅行 (後編)

「おお・・・ここが博多かー!」


 八重は歓声を上げて駅から飛び出していった。高く結わえた髪が八重の後頭部で慌ただしく揺れ動いている。

 いたって普段と変わらないテンションのいなりは、はしゃぎまわる仔犬のような八重の様子を微笑ましく眺めながら後からついていく。

 駅前に出ると、巨大ビル群が眼前飛び込んできた。その中でも、横に長い博多駅はとくに存在感がある。東京とはいえ辺鄙へんぴな県境に住んでいるいなりたちにとって、博多の方がよっぽど大都会である。しかし、それでもどことなくこじんまりとした雰囲気を持っているところが、ここが遠く離れた地方であることを実感させた。ただ、そのぽっかりとあいた物寂しさの所以ゆえんが、いつもいるはずの彼が今日はいないせいなのかは・・・・いなりには判じかねた。

 

「ところで、この後どうするんだ?九州なんて来たこともないから、特に何も考えてきていないんだが。」

「ふっふっふー、心配ご無用だよー。心強ーい助っ人を呼んでおいたからねー。」

「助っ人?」

「すみません、もしや黒羽様とその御一行の方々でしょうか。」

「うおっ!?」


 北斗に返答したのは小柄な青年だった。

 いつの間にか目の前に現れたその青年に驚き、北斗は後ろに飛びのいた。


「やあ数弥かずや、久しぶりだねー。」

  

 黒羽の言う助っ人とは、どうやら彼のことらしい。

 書生のようないでたちの青年は背中に算盤を背負っていた。算盤といっても、江戸時代の商人が手でぱちぱちとはじくようなものではない。小学校の授業で教師が使うような、巨大な算盤である。青年が小柄であるせいか、むしろ算盤の方が大きく見えてしまうほどだ。

 しかし、ここで重要なのは算盤の大きさではない。この状況で何よりもおかしいのは、街中で巨大算盤を背負った時代錯誤な姿の青年がいても気に留める歩行者が一人としていないことである。青年が妖怪であることは火を見るよりも明らかだった。

 黒羽がひらひらと手を振ると、青年は完璧な角度で会釈えしゃくをした。


「お初にお目にかかります。黒羽様からの依頼で皆さまの観光の案内をさせていただきます、算盤小僧そろばんこぞう、数弥と申します。」


 きびきびとした動きで頭をあげながら、青年はいなりたちに向けてそう名乗った。

 奇抜な見た目はともかく、慇懃な態度から、いなりは彼に対して大変実直そうな印象を持った。

 初めに八重が、続いていなり、北斗、そして彼の影から姿を現した狛狗二体と順に自己紹介をする。数弥はあらかじめ黒羽から何か聞いていたのか、北斗が人間であることに対してノータッチであった。


「なんや、お前こっちに知り合いがいたんか?」


 八重は少し驚いた様子だった。確かに、黒羽に離れた土地に知り合いがいることはいなりも意外に思っていた。

 

「彼はねー、昔は夜叉の配下だったんだ。だからそれなりに交友があるんだよー。」

「今はこちらの地で南の・・・羅刹らせつ様のもとについておりますがね。」


 八重は「なるほど、お前の」と顎をなでる。


「ところで、先に旅館の方へ行かれますか?」


 お互いの素性も明かしたところで、数弥が丸眼鏡を押し上げながら問うた。


「いや、荷物はもう送ってあるから大丈夫だよー。」


 旅館にアメニティグッズがあるとはいえ、三泊四日分の荷物ともなればそれなりに量は多くなる。その荷物を持って、朝早くから電車から新幹線に乗り継いだり街中を移動することは避けたかった。そのため、あらかじめ宅配便で荷物を旅館に送り届けてあるのだ。今のいなりたちは軽装であった。


「それでは、このまま観光ということですね。」 

「どこかおすすめの場所とかあるー?僕らは完全に九州初心者だから数弥にお任せするつもりー。」


 数弥は時計を見ると、「ふむ」と考えこむ。

 いなりも自分の腕時計を確認する。

 短針が12時を指すか指さないか、といった具合だ。


「ちょうどもうお昼時ですね。今日は旅疲れもあるでしょうから、旅館の近くを回るだけにしましょうか。」




◇◆◇



 

 続いていなり達が向かったのは、博多駅から電車を乗り継いで三分の、中洲川端駅。これから宿泊する旅館の最寄り駅でもある。

 有名な商業スポットである川端商店街にもほど近く、近代的な商業ビルの合間で昔ながらの伝統と情緒を感じる街だ。数弥いわく、江戸時代に福岡藩の初代藩主・黒田長政が福岡築城のため福岡の町づくりを行う際、武士の町・福岡と町人の町・博多をつなぐため那珂川なかがわに土砂を積み、橋を架けたのがはじまりなのだそう。今では西日本一の繁華街と呼べるほどの発展を遂げた活気あふれる下町に成長を遂げている。

 ―――閑話休題

 そんな中洲の街をふらりと歩くことおよそ五分程度。福岡に来たからにはと、昼食は地元でも有名だというラーメン屋で食べることになった。

 数弥に案内されたラーメン屋は商業ビルの立ち並ぶ中にポツンとあった。いかにも“街のラーメン屋”という風体をしている。

 白い大きな提灯には力強くラーメンの文字。昭和の雰囲気の漂う外観に反し、中は和装モダンなおしゃれな空間であった。

 いなりは食に対してこだわりがあるタチではない。根っからの庶民であるせいか、高級料理と家庭料理の違いがよくわからないのだ。たとえ高級フレンチを食べても頭をひねることはあるし、逆に佐助の手料理で感動することもある。つまり、とにかく自分が美味しければそれでいいという、適当な舌なのだ。

 しかし、この店の豚骨ラーメンはそんな庶民舌のいなりですら明らかに美味いとわかるほど絶品だった。さすがは豚骨ラーメンというだけあって、ガツンくる濃厚なスープなのだが意外にあっさりとした後味で、小食の自分でもするすると食べてしまえる。東京でもラーメン屋に行かないわけではないのだが、それでもやはり本場は違うのだと思い知らされたのだった。 


 そうして腹ごしらえをしてから、五人は次の目的地へと向かう。 

 数弥に案内されたのは、ビルの合間を縫うようにして立つ神社だった。

 都会の中にいきなり鳥居がでんと出現するのは東京の街中でも見慣れた風景ではあるが、東京のそれとは少し雰囲気が違う。神社が視界で浮いているような、そんな違和感を感じないのだ。

 おそらく、神社が街の景観に溶け込んでいるせいだろう。それだけ、この神社が街になじんでいる証拠だ。


「ここ、櫛田くしだ神社は夏の博多の祭りで有名な『博多祇園山笠』のフィナーレを飾る『追い山』のスタート地点でもあります。今は時期がずれてしまっていますが、実際に使われる山笠を見ることができるんですよ。」


 櫛田神社は古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。博多祇園山笠は櫛田神社の氏子たちが行う奉納行事のひとつである。追い山とは、7月15日の早朝に、千代流・恵比須流・土居流・大黒流 ・東流・中洲流・西流の七流しちながれと呼ばれる山笠当番を務めるグループがき山を舁き出して、つまり担いで引きまわって博多の街を縦横無尽に疾走するという、壮大で勇壮な行事だ。テレビで何度か取り上げられているものを見たことがあるが、画面越しでもその迫力と熱気は伝わってくる。

 境内に入る前に一礼をしてから、五人は神社の楼門をくぐった。

 

「ん、あのカラフルな円盤はなんや?」

 

 八重が途中で立ち止まって上を見上げた。

 楼閣には円盤のようなものが吊り下がっている。円盤には色鮮やかな動物の模様が浮彫されていた。


干支恵方盤えとえほうばんですね。」

「恵方盤?」

「昔の暦は五行・十干・十二支等を組み合わせて恵方を知り季節を分け、時を刻んでいました。この干支恵方盤は、内側に東西南北に方位を表し、外側には十二支を彫刻して、恵方を示しています。毎年大晦日には新しく迎える年の干支に矢印を回転させて、その年の恵方・方位を示すんです。他では見られない、ここならではのものですよ。」

 

 境内の中央を進み、さらに中神門を潜り抜けるとようやく拝殿が見えてきた。

 その堂々たるたたずまいから、長い年月をかけて刻みこまれ、人々から愛されてきた歴史が語られなくとも伝わってきた。


「ここには、中殿に大幡主大神、左殿に天照皇大神、右殿に素盞嗚大神が祀られています。天照皇大神についてはあまりに古くて記録にないですが、大幡主大神は天平宝字元年に鎮座し、素盞嗚大神は天慶四年、藤原純友の反乱の鎮圧に当たった小野好古が神助を祈願して山城祇園社から勧請されました。」


 幸いなことに境内にいる観光客が少ない。神社の境内をあれこれ見る前に、まずは拝殿でお賽銭を投げ入れようということになり、拝殿の前へと進み出た。


「そういえば、南だとここが百鬼夜行の会場だよねー。セツは今年参加したの?」

 

 財布の中を漁りながら、ふと黒羽が思い出したようにそう言った。

 セツというのは先ほど数弥が言っていた、羅刹という妖怪のことらしい。


「そりゃそうです。四大妖怪であるにもかかわらず、百鬼夜行の場に姿を見せないのはあなたぐらいですよ。」

「え、数弥さんって四大妖怪の配下だったんですか!?」


 北斗が声をあげると、数弥がぴたりと固まった。

 ちょうど鈴を鳴らすところだったせいか、麻縄を両手に持ったままの不自然な態勢で、である。

 そして、油の切れたねじ巻き人形のごとき動きで黒羽の方を見る。


「まさか黒羽様、まだ言っていなかったのですか?」


 数弥は驚愕というよりも、切羽詰まった顔をしていた。


「忘れてたー。」

「・・・。」


 「テヘペロ」という効果音が聞こえてきそうな表情をした黒羽を見て、数弥は額に手をやって宙を仰ぎ見る。

 数弥はそのまま大きく息を吸って吐く。深呼吸をしているらしい。

 二回ほどそれを繰り返しただろうか。鼻からずり落ちかけていた眼鏡を戻しながら、数弥はいなりたちの方へ向き直る。


「取り乱してしまい申し訳ありません。てっきり、黒羽様の方からすでにお話があったと思っていましたので。」


 数弥はなぜか、妙に真剣な表情をしていた。


「修羅童子こと羅刹様は、南の四大妖怪である方です。そして、酒呑童子、夜叉様のご子息であります。」 

「っつーことは・・・南の四大妖怪が愁の実の父親!!?」


 今度は三人が驚く番だった。 


「あの野郎一言もそんなん言うてへんかったやんけ!」


 しかし、言われてみるとそれは当然のことのようにも思えた。

 何しろ、あの酒呑童子と茨木童子の間に生まれた息子だ。妖怪であるはずがない。むしろ現在の四大妖怪であると聞いて納得してしまった。


「はー、でもそれでようやく合点がいったわ。そりゃ断れないわけだ。」

「そういうことです。」


 数弥は神妙な面持ちで深くうなづく。

 つまり、父親の友人の無茶ぶりが南の四大妖怪にふっかけられ、その結果配下の数弥に迷惑極まりない闖入者ちんにゅうしゃたちのお守りが任されたというわけだ。

 いなりは半眼で黒羽を見たが、当人は相変わらず、どこ吹く風という顔をしている。こういう男であるから、何を言っても無駄である。

 

「ところで、愁とはいつ合流することになっているんですか?」


 いなりは話題を変えることにした。


「初日はちょっと無理そうだけど、旅館には一緒に泊まるらしいから、たぶん夕飯には会えるんじゃないかなー?」


 数弥がなんとも言えない表情をしていたのが、いなりの中で引っかかった。




◇◆◇




 数弥によって案内された旅館は、郊外でひっそりと庭を構えていた。

 絞り染めの暖簾には<宿 あきあかね>の文字。手入れの行き届いた庭園には、鮮やかな紅葉の木が主役とばかりに堂々とそびえている。


「この旅館は南の四大妖怪傘下である山姥やまんばが経営しています。従業員の口は堅いですし、利用客のほとんどは妖怪なので、いろいろ隠す必要はな・・・」


 数弥の言葉がそこで途切れた。

 どうしたのかと思って顔を覗き込むと、数弥は何故か拳を握りしめてプルプルと小刻みに震えていた。


「おいこらああああ!!」


 数弥は複式呼吸の要領で腹から声を出す。

 まるで武芸の遠当とうあてのように、数弥の声で庭園の紅葉の木が揺れる。

 先ほどまでの礼儀正しい好青年の口調とは思えない荒々しさに、思わずいなりは瞠目した。


「んあ?カズ君か。なんでそげんはらかいとーったい?」

「その呼び方やめろっつってんだろうが!!」

「よかやんか。こっちん方が呼びやすかしとっつきやすかばい。」

「良くねえよ。」


 庭の木の上に誰かいるようだ。いなりの立っている場所からだと枝が影になってしまい、その誰かを見ることができない。

 「とにかく降りてこい!」と数弥がさらに怒鳴ると、枝がわさわさと揺れて人影が降りてきた。


「そげんカッカして、一体何事ばい。はらかきっぽかヤツは将来禿げるって、こん前テレビでやっとったぞー。」

「俺はお前のその鳥の巣頭もどうかと思うがな。」

「鳥ん巣やなかばい。こりゃおしゃれパーマばい。」


 そう言って、男はくああっと欠伸をする。

 ひょろひょろと手足が木の枝のように長く、彼を前にすると数弥がより小さく見えてしまう。目が隠れてしまうほどもっさりと伸びた髪は、本人いわく“おしゃれパーマ”らしいが、いなりの目にも彼の頭は鳥の巣のように映った。


「あれ、カズ君そいつら誰?」

「口の利き方に気をつけろ。東の四大妖怪様とそのお連れの方々だ。」

「東?あー、もしかして羅刹様ん言いよった古か知り合いってそんことか。」

「お前、何のために自分がここで護衛任務任されたのか分かっていなかったのか。」


 どうやら、この男は数弥の同僚らしい。そして、この短い会話だけでもいなりは両者の仲があまりよろしくないということが分かった。

 立ちすくんでいたいなりたちに気が付くと、慌てて数弥が挨拶をしろと男をうながす。


「どもども~、俺は温羅童子うらどうじ蓮司れんじたい。絶賛彼女募集中でっす!」


 男―――蓮司は妙なテンションでそう名乗った。


「へえ、二人とも美人しゃんやなあ。よかったら連絡先教えてくれん?」 

「黙れ女たらし。皆さん、こいつのことは放っておいてください。ただの仕事をろくにしないプータローです。」


 早速スマホを取り出そうとした蓮司の頭を数弥がひっぱたく。

 いなりは「仕事をろくにしない」のあたりで反射的に黒羽の方を見てしまったが、彼はいたって変わらず飄々としていた。

 「もう行っちゃうんやか?」と言う蓮司をばっさり切り捨て、数弥は宿へといなりたちを促した。


「あの、彼は?」

「あまり紹介したくはありませんが、一応あれでも同僚です。」


そう言った数弥はもうすっかり数分前の好青年に戻っていた。しかし、口角が若干引きつっているのは気のせいではない。


「あの通り、仕事に関しちゃろくでなしの糞ですが無視していれば無害ですのでご安心を。」


数弥は爽やかな笑顔で毒づいた。

先程まで数弥に模範的な忠臣というイメージを抱いていたのだが、それが崩れつつある。

なんというのか、大妖怪自体癖の強い連中ばかりだが、その部下も例外ではないらしい。

いなりは己の母やかの最強の鬼様を思い出す。そしてついでに隣でにこにこ笑っている烏のことを盗み見た。

確かに、こんな激物たちにはやはり癖がふたつもみっつも強くなければついてはいけない。改めて、そのことに思い至ったのであった。




◇◆◇




「ようこそおいでくださいました。」


 玄関から入るなり、仲居と思われるのっぺらぼう達が素早く出てきた。

 この時点で、妖怪御用達の旅館であることは一目瞭然だった。


「では、私はここで失礼いたします。」

「あれ、旅館には止まらないのかいー?」

「ええ、仕事は残っておりますので。」


 そう言いながら、数弥はさりげなく旅館の庭を指さした。 

 

(なるほど。)


 観光案内はあくまでオプションであり、数弥の本来の役目はいなりたちの護衛であったようだ。自分達が勝手に来訪してきたとはいえ、あくまで扱いは“お客様”というわけだ。というよりも、むしろ問題を起こさないよう念を入れられているような気がしなくもない。いなりは正直、後者の方が当たっているのではないかと思った。



「女性の方々のお部屋はこちらになります。」


 フロントで男二人と別れ、いなりと八重が中居ののっぺらぼうに案内されたのは、畳十畳ばかりの部屋だった。室内の隅の方には既に送ってあった荷物が置いてある。

 部屋の中央には座卓と座布団があり、座卓の上には菓子や茶葉が用意されていた。障子で区切られた寝室にはすでに布団が並んで敷かれている。早速八重は布団の上にダイブして、その感触を味わう。

 いなりは座布団に腰を下ろした。日中歩き回っていたせいか、座るとじわじわと疲れが足にきた。いなりは足を崩して、部屋をぐるりと眺める。

 床の間には小さな赤い鬼の焼き物がおいてある。とぼけた顔をした鬼は、奥ゆかしい部屋と不釣り合いだったが、逆にそれが妙に良いバランスなのが不思議だ。たぶん、ちょんと居座っている鬼のおかげで部屋の古めかしさが緩和されているのである。旅館の部屋は畳といい壁といい、年期が入っているせいで空間自体が骨董品のようになっている。しかし、そこにちょっとした遊び心が入っているおかげで、埃っぽい雰囲気になっていないのだ。ものの価値にうといほうだが、いなりはなんとなくそう理解した。

 いつもとは違う空間にいると、自分が旅行に来たことをふいに実感させられる。


「なあ、先に大浴場の方へ行かへん?」


 ついさっきまで布団の上をゴロゴロと動いていた八重は、いつの間にか浴衣を抱えていた。

 夕飯の時間は八時からで、今はようやく七時を指すか指さないかだ。特にやることもないうえ、これから何かをする気も起きない。

 いなりは八重とともに、ひと風呂浴びてくることにした。




◇◆◇


 


「ええ湯やったな~。」

「はい。」

 

 離れにある大浴場は想像以上に広く、木造の浴槽からはひのきのよい香りがした。また、外にしつらえられた石造りの露天風呂からは赤々と紅葉した紅葉が見えた。自然の生み出した美しい景観で、一日の疲れはすっかり落とされた。


「あれ?いなりたちもいたんだー。」

 

 女湯から出ると、まるではかったかのように黒羽と北斗、そして狛犬達と遭遇した。この旅館が妖怪御用達であるため、どうやら二体とも影から出てきたようだ。実際、この二体が堂々と歩いててもすれ違う者は誰も気にしていなかった。

 男湯の方から出てきた二人は、いなりたちと同様に旅館で用意されていた寝巻き浴衣姿である。ただ女性ものと男性もので色が違うようで、いなりと八重は地が白ではぎの柄だったが、北斗と黒羽は細かい縦縞たてじまの浴衣を着ていた。

 

「なんや、乙女の肌でも覗きに来たのか、この助平爺。」

「悪いけど僕には君が乙女じゃなくて皺々しわしわの婆に見えるなー。」

「舌引っこ抜くぞこの烏め。」

「それは雀だけにしといてよー。」


 実年齢が爺婆である二人にしか通用しない冗談の応酬だ。

 それを見て、いなりと北斗はお互いやれやれと肩を落とす。年老いた爺婆のやり取りに若者が付いていけないのは妖怪も人間も同じなのだ。


「あ、そうそう、2人もこのまま夕食に一緒に行くかいー?僕と北斗は愁との待ち合わせもあるからこのまま食堂に行くつもりだったんだけど。」


 いなりと八重はちらりと顔を見合わせた。

 荷物を置きに部屋へ戻るのもよいが、また出てくるのは面倒だ。幸い、貴重品はもってきている。夕食もフロントに声をかければよいだけで、とくに何か必要になるわけではない。

 それに、なんやかんやで北斗と黒羽はいなりと八重が戻ってくるのを待ってくれるだろう。二人を待たせてしまうのは心苦しかった。


「では、お言葉に甘えましょう。」




◇◆◇




 食堂はロビーをはさんで大浴場と反対側にある。

 一般的なホテルのロビーとは少し形式が違い、玄関から入って正面がフロントではなく、中庭が見えるように工夫されている。つまり、この旅館は中庭をコの字状に囲った構造をしているのだ。フロントは食堂側に配置され、逆に大浴場に向かう側には休憩スペースとして畳が敷かれた広間のような場所がある。


「ところで、なぜわざわざ食堂に呼び出したんですか?」


 広間を横目に見ながら、いなりは黒羽に尋ねた。

 落ち合うのなら、こちらの広間の方が都合がよかったような気がした。


「いやあね、ちょっとしたサプライズを用意してあげてるからさー。」


 すると、黒羽は悪戯を仕掛けた子供のような笑みを浮かべた。

 常ならば、いつものことだと軽く受け流しているものだが、今回ばかりは妙な胸騒ぎがした。

 そして、その胸騒ぎはすぐに形となった。


「おい、あれって愁じゃないか?」

 

 広間の方を見ていた北斗が人影を指さした。

 彼の言う通り、広間にいたのは愁だった。そして、愁とは別に、もう一人誰かいる。知り合いだろうか。

 だが、それにしてはどこか様子がおかしい。

 示し合わせることもなく、四人は一斉に柱の影に身を隠した。

 「これはどういう状況だ」と八重が目で訴えてくるが、誰も答えることはできない。何が起きているのか、誰もわからないのだ。

 とにかく様子をうかがおうと、団子のように重なりあう形でのぞき見をする。

 愁は物凄い剣幕で前に立つ者を見ていた。

 その相手は背格好からして男である。かなりの大柄で、愁よりも少し背が高い。男は黒の着物の上から白い羽二重はぶたえを羽織っている。

 それ以上の情報は得られない。この場所からでは男の顔が見えないのだ。

 ただ、その声音から愁が男に対して激怒していることは明らかだった。


「なんで手前がここにいんだよ、親父・・・・・!」

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