親の心子知らず 子の心親知らず


 地下室から部屋に戻ってきたとき、時刻はとっくに夜中の三時を回っていた。

 ぼんやりと部屋にかけられた時計を見ながら、いなりはぼおっと今日あった出来事を回想する。それは、わざわざ思い出して感傷にふけるようなものではない。脳が整理しきれなかった事柄が、あふれ出て映像として勝手に頭に流れているのである。そのせいか、真夜中にもかかわらず目はすっかり冴えていた。

 ご丁寧に部屋には布団が皺を作ることなくきっちりと敷かれていたが、そこに横たわる気にはなれない。だからといって、疲れていないわけではない。精神的な疲労はたまっていた。

 

(風にでもあたろうか。)

 

 いなりは部屋から出ることにした。

 客室から廊下に出て、階段へ向かう。いなりの他に、誰もいない。

 すっかり秋となった今の季節、廊下はしんと冷え込んでいた。何か羽織ってくるべきだったかと少し迷ったが、部屋に戻るのも億劫おっくうだったので、いなりはそのまま下へ降りた。

 この旅館では中庭に客が自由に出入りができるようになっている。いなりは広間側から中庭に突き出している縁側に腰を下ろした。

 白、黄、濃紫、薄紅・・・。様々な色のコスモスが、中庭では見事に咲きほこっていた。

 最初に訪れたときには紅葉のイメージが強かったが、今、この中庭の主役はコスモスである。紅葉のあかは夜の闇に紛れ、コスモスの柔らかな色が灯篭の仄かな明かり照らされて、星々の代わりとばかりに浮かび上がっている。

 それは、本当に美しい夜の庭だった。

 庭に見とれ、いなりはすっかり気を抜いていた。

 だから、もう一人の来訪者に気づくのが遅れてしまった。


「いなりか?」


 突然名前を呼ばれたことで、いなりはびくりと肩をこわばらせる。

 しかし、それは聞き覚えのある声だった。


「北斗。」

「悪い、驚かせるつもりはなかった。」


 いなりの後ろには、申し訳なさそうに頭をかく北斗の姿があった。

  

「いえ、こちらこそ気が付かなかったものですから。」


 いなりは北斗を座るよう促し、二人で並んで縁側に腰をかける。

 聞いてみると、やはり北斗もちょっとした気分転換を目当てにしてやってきたようだった。


「・・・ところで、影月と陽光はどうしたのですか?」


 普段は狛狗たちが潜み、そこから常に目を光らせているのだが、今はその影からなんの気配も感じない。実は、これがいなりが北斗の気配に気が付きにくかった要因の一つでもある。

 

「部屋に置いてきた。今は、少し一人になりたくてな。」

「それは申し訳ありません。」


 北斗は慌てて「いや、そういう意味じゃあ」と手をぶんぶんとふるう。その様子が面白くて、いなりは口元を少しだけ緩めた。


「それにしても、きれいな庭だな。」

「はい。昼間に見たときとは雰囲気がかなり違いますよね。」

「そうだな。」

「・・・。」


 今更ながら思えば、北斗と二人で会話をしたことがほとんどなかった。そのため、どういった話題を振ればいいのかがてんでわからない。そもそも、いなり本人が他者とのコミュニケーションをとるのが苦手なタイプである。これまで周りにいた連中が活発な方であったせいで、いなりが積極的にしゃべらなくともぽんぽんと会話は弾んでいたのである。よって、頭に浮かんだ三人に比べると、ともに静かな性格の二人の間に会話らしい会話は生まれなかった。

 

(さすがに、無言は気まずい。)

 

 これが赤の他人であれば全く気にしないのだが、相手は北斗だ。いなりの中で、“友人”というそれなりに親しい人物の枠組みに入れられている。距離感的に近しい人物であるだけに、妙な気を遣ってしまう。

 北斗もまた、この状況を気まずく思っているようで、そわそわと落ち着きがない。おそらく、何かしら話かけようとしてくれているのだが、そこはいなりと同じく話題が見つからないのだ。

 いなりは内心少し焦っていた。しかし、優秀な表情筋によって、彼女の表情は依然として変わることはない。


「そういえば、まだ言えていませんでしたね。」


 本当ならば、もっと他愛のない話題でよかったはずだ。もっと軽くて、当たり障りのないものでよかったのである。

 しかし、この時の自分はなぜか、その話をするべきだと直感的に感じてしまったのだ。


は、ありがとうございました。」


 それだけで、北斗にはちゃんと意味が伝わったようだった。

 一瞬困惑の色を浮かべたが、すぐに口が「ああ」という声を漏らす。


「いや、あれはイレギュラーというか・・・・・俺よりも礼は麒麟に言ってくれ。」


 あの時というのは、東京での仮想怨霊騒動の時、いなりと渾沌の戦闘中に突如出現した、光の矢のことである。この矢による助太刀がなければ、渾沌を倒すことは不可能であった。 そして、その矢を放った人物というのが、のちに聞いたところによると北斗だったのである。

 何がその時起こっていたのか、いなりは詳しくは知らない。


 ―――北斗に一時的に麒麟が乗り移ったんや。


 そう、現場を直接目撃した八重から完結に聞かされただけだった。

 しかし、それだけで十分納得ができた。

 あの矢の攻撃は、妖術ではない。

 例えるならば、銃弾と隕石ほどの違いがある。ちょこまかしい小手先の技なんかではなく、純粋な脅威というものを故意にぶつけたような、まさに次元が違うものだ。

 

「俺は自分から麒麟と入れ替わった。でもそれは、間違いだったんじゃないかと今は思っている。」


 北斗は秋穂の話を聞いて悩んでいるのだろう。

 神獣の、想像以上の力と、その影響を受けてすれ違ってしまっている親子の姿を目にして。

 いなりもまた、その力の強大さに恐怖を抱かなかったといえば、嘘になる。

 北斗は初めて入れ替わったと言うが、もしこの麒麟との入れ替わりが北斗の望むままにできるとしたら、天地さえもひっくり返してしまう力を、北斗は意のままに操れるということだ。

 北斗は実際にその力を使い、改めて自身の抱える重圧の大きさに直面しているのだ。その重圧は、たった一人に抱え込ませるにはあまりにも重すぎる。


「しかし、私はあなたのおかげで生きています。あなたは決して間違っていない。」


 もしも北斗が助けてくれなければ、いなりは確実に死んでいた。彼のその力によって、救われたものがいることを、いなりは北斗に理解してほしかった。

 言われた北斗はというと、はっとした表情のまま固まっていた。2、3度瞬きし、まじまじといなりの顔を見ている。

 そして、急に弾けたように笑い出した。

 逆に驚いたのはいなりの方である。ここまで笑っている北斗は初めてみた。

 北斗はそんなことお構いなしに、腹をかかえ、声をあげて思いっきり笑っている。少しかすれた声が、中庭に響き渡った。


「あの、大丈夫ですか?」


 笑いすぎたせいか涙目になりながら、北斗はようやく落ち着きを取り戻す。


「いや、大丈夫だ。自分がさんざん悩んでいたのが、急に馬鹿らしくなってな。」

「別に大したことは言っていませんが。」

「俺にとっては、背中を結構大きくおされたんだ。」


 目元をこすりながら、北斗はそんなことをこぼす。


「いなりは、迷わないんだな。」


 ずきんと、胸のずっと奥にしまいこんでいたはずのモノが、強くいなりのことをゆすぶった。

 だが、いなりは平静を装い、いつもと同じように言葉を返す。


「・・・そんなことはありませんよ。」


(自分は、悩むことを放棄しただけだ。)


 ふっと、流れそうになった過去の映像を、いなりは意図的にうち消した。


 その時である。

 カタンと、背後で戸が開く音がした。音のした方を振りかえると、縁側の端の方に濃い影が落ちている。

 誰かいる。

 いなりは少しだけ警戒心を抱いた。四大妖怪の管轄下の旅館とはいえ、旅館客皆がいなり達に危害を加えないという保証はどこにもない。

 静かな影は、青い月明りに照らされて姿を見せる。


「お前たちは確か・・・」


 その人物を目にするなり、いなりはすぐに警戒を解いた。否、警戒心よりも驚愕が勝ったというべきだろうか。

 思いがけない人物が、そこには立っていた。

 

「大江山羅刹だ。息子が世話になっている。」


 そこにいたのは愁と同じ、赤銅色の髪をした男だった。

 名乗らずとも、自分達のことを見るその目は、穏やかな色をたたえている。

 

「その、なぜこちらの旅館に南の四大妖怪様が?」

「羅刹で構わない。」


 羅刹は淡々と言葉を返す。


「ちょうど用事があったから、ついでに俺も泊まることにした。それに、ここの庭は気に入っている。」

 

 羅刹は手に徳利を下げていた。どうやら、晩酌をしにきたらしい。

 ふと、彼の視線がいなりから北斗へ移る。そして羅刹は一言、


「そうか。お前も、か。」


 と、つぶやいた。

 それは憐れみを含んだ声音ではない。

 もともと聞いていた話をようやく事実として飲み込んだ。そんな雰囲気のものだった。

 

「隣、いいか?」


 羅刹はそういって、縁側に腰を下ろす。そして、徳利の中身を小さな猪口に注ぎ、静かに飲み始めた。

 大江山羅刹という人物(正確には妖怪)は、いなりの知る彼の血縁者たちに比べると、随分寡黙かもくな男だった。

 ただ黙々と酒を口に運び、時折ふと花に目を向ける。

 つい数時間前まで大立ち回りをしていたときと雰囲気はまるで違い、その男の周りの空気は静寂で満ちており、闇に深く沈みこんでいる。それは四大妖怪としての風格を、息をするように纏っているようだった。 


「気の利いたことの一つや二つ言えなくて、悪い。」


 心中を見透かされたような気がして、いなりは返答にきゅうした。

 なんとも返せない二人を見て、羅刹はほんの少し、口角をあげた。静かな海の色をした瞳の奥には、柔らかな光が灯っている。

 

「無理に話そうと思わなくていい。俺も、あまりしゃべりなれていない。」


 羅刹はそういって、眉尻を少し下げる。

 その困ったような表情は、少しだけ愁に似ていた。


「・・・のことはもう聞いたか?」


 彼奴あいつがだれであるのかは、言うまでもなかった。

 無言を了承ととらえたのか、羅刹はそのまましゃべり続ける。


「俺は、逆にそれで良かったと思っている。」

「え?」


 思わずいなりは聞き返してしまった。


「自分は恨まれて当然だ。なんの罪悪感もなく恨んでくれりゃ、それでいい。彼奴に罪悪感を抱かせるほど、俺は父親みてえなことを何一つしてやれなかったから。」


 「そんなことはない」と、いなりは言いたかった。

 しかし、羅刹の顔を見ると、何も言えない。

 羅刹が愁に対して抱える気持ちは、言葉にできないほど複雑なのだろう。それをいなりは、少し話を聞いただけで理解した気になっていたかもしれない。

 いざこうして本人を前にすると、何も言い出せなかったのがその証拠だ。


「・・・愁と、仲直りをしようとは思わないのですか?」


 ピタリと羅刹の手が止まる。

 口元に運ばれず、宙で中途半端に浮いた水面が夜風に揺れた。


「そのつもりは・・・無えな。」


 羅刹の声には、動揺も迷いもなかった。


「 俺は彼奴から母親を奪った最低な父親だ。その責任は、俺がずっと背負って行かなきゃならねえ。」


 相手のことを思って、自分の本心を隠す。

 その不器用なやさしさは、とてもよく似ていると思う。

 だが、互いに不器用すぎて、伝わるものがすれ違っているのではないか。そう思えてならない。


「俺はそろそろ戻る。邪魔をした。」

 

 羅刹はすくりと立ち上がり、戸の方へ向かっていく。


「苦しくは、ないのですか?」


 いなりはその背中に向けて、咄嗟に声をかけた。

 羅刹の足が止まる。

 

「秋穂―――彼奴の母親は、俺が紛れもなく殺した。ただそれだけが事実だ。苦む資格すら、俺はもっていない。」


 彼が振り返ることはなかった。


 


 ◇◆◇




「・・・なんでここにいるんだよ。」

 

 愁は不満を隠さずにそういった。

 黒羽に頼まず、自分でとっておいた客室に戻ると、なぜか八重が部屋の前にいた。彼女の片腕には巨大な盆がのせられている。盆の上には、両手サイズはあろうかという巨大おにぎりがたくさん乗せられていた。

 

「別に。飯をくいっぱぐれたヤツのために、優しい中居さんが部屋の前をうろついとったさかい、預かっただけや。」

 

 そういうと、八重は愁から了承をとらずにずけずけと部屋に上がり込んでくる。

 今はとにかく1人にして欲しかった。だから、正直叩き出したいところだったが、すぐにそれは諦めた。負傷した身で八重にかなうはずもないし、これ以上旅館に迷惑をかけるのは、さすがに心が痛む。

 八重は窓にどっかりと腰を下ろし、おにぎりをほおばり始める。自分の見舞いに持ってきてくれたわけではないらしい。珍しく優しい一面を見せたなと思っていたが、自分のためであったようだ。何となく想像できていたので、愁はとくに何も言わなかったし、突っ込む気力もなかった。



「聞いたのか?」

「軽くな。」


 八重はぺろりと指先についた米粒をなめとる。

 彼女は顔こそ美しいのに、やからっぽい仕草が玉に傷だ。しかし、本人はそんなこと全く気にしていない。

 八重は別のおにぎりを手に取る。

 いつもなら自分こそ真っ先におにぎりに飛びついているはずだが、食欲は全くわかなかった。


「お前、なんでそないに親父さんのこと好かんの?」


 愁は苛立ちを抑えずに八重を睨みつけた。

 殺気だった愁に対して、八重はまったく動じない。それどころか、威嚇する子猫を持て余したような目つきだ。


「話、聞いたんじゃなかったのかよ。」


 話をやめさせることをあきらめ、愁はため息交じりにそうこぼした。


「そらもうご丁寧に。要するに、お前は父親に母親を殺された哀れな少年やろ?」


 雑な言い方だが、その通りである。

 こうして改めて言われると、まるで自分が勝手に自分のことを憐れんでいるように聞こえる。


「それでいつまでも拗ねとるのは、あほらしいにもほどがあるな。」


 がしゃんという大きな音を立てて、机が真っ二つに割れた。


「お前に、わかってたまるか・・・!!」



 母さんが死んだおかげだと、お前まで言うのか。



 あの男がやったことが、正しいと言うのか。



 ―――何も知らないくせに、知った口をきくな。



 だが、そこで愁はふつりと電池が切れてしまったかのようにへたりと座り込んだ。

 かっと頭に上った血が、急速に冷えていくのを感じた。


「悪ぃ、言い過ぎた。」


 何を自分はむきになっていたのだろう。八重に怒りをぶつけたところで、収まるようなものじゃないのは、自分がよく知ってるはずだった。


(らしくねえな。)


 自分の中で、もう一人の自分があざけ笑っているようだった。

 愁は手の中に顔をうずめる。


「・・・ええか。一度しか言わへん。」


 いつもと八重と違い、その声はずっと大人びたものだった。

 顔を見ていないせいだろうか。声だけを聴いて、彼女がずっと自分よりも長い年月生きているということを、愁は改めて実感した。


「縁ってのは、切りとうてもきれんもんや。それも、親子の縁ほどそう簡単に切られへん。それがたとえ自分が望もうと望まなくとも、だ。」


 その声は静かで、決して愁を責めるようなものではない。

 ただ、いまだに過去から逃れることのできない自分に対し、ひたすら現実を突きつけるものだった。


「自分、後で女将さんに謝っとけや?食堂めちゃくちゃやさかいな。」

 

 愁はうなだれたまま顔をあげない。

 八重はそのまま、振り返ることなく部屋から出ていった。

 



 数分。

 数十分。

 どれぐらい時間がたったのだろうか。

 部屋に一人残された愁は、やがてゆっくりと顔をあげた。崩れた前髪がくしゃりと顔にかかる。

 愁はそのまま、お盆に手を伸ばした。そして、おもむろに一つ、おにぎりを手に取る。

 まるで食欲はなかったが、負傷した体は栄養を欲していた。無理にでも食べなければ、回復が遅くなる。それだけは避けたかった。

 愁は重たい口をこじ開けるようにして、おにぎりを口へ運ぶ。

 すっかり冷めきってしまったおにぎりは、少しパサついていた。


「・・・・・ってんだよ。」


 かすかな声は、がらんどうの空間に吸い込まれるようにして音を失う。

 その声を拾ってくれるものは、誰もいない。


「んなもん、とっくに知ってるんだよ・・・・。」


 ここの旅館の板前の腕がいいことは知っている。なのに、自分の食べたおにぎりは、なぜか塩がききすぎていた。

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