親子の過去



◇◆◇



 数弥の頬には大きな痣があった。愁に吹っ飛ばされた時にできてしまったのだろうか、心無しか彼の眼鏡も少し歪んでいるように見えた。それが、より数弥の表情に影を落としていた。

 ヴォンダーがノイマンに指示されて数弥の分の紅茶とケーキを運んでくる。

 数弥は軽く礼をして紅茶に口をつける。ほんの少しだけ、硬く引き結ばれていた口元が緩んだように見えた。纏っていた重苦しい空気感が、甘く香ばしい香りによっていくらか中和されたようだった。

 

「・・・愁と羅刹様の間には、何があったんですか?」


 いなりが問うと、数弥はティーカップを静かにソーサーに戻した。

 そして、ひびの入った眼鏡を押し上げる。


「・・・今から十八年ほど前のことです。」


 あえて感情を入れないように作られた単調な声音によって、いなりの意識は十八年の歳月をさかのぼった。 


「羅刹様がこの地に移ってから月日もたち、南の四大妖怪としての地位は盤石なものになっていました。しかし、いつからか羅刹様が突然ふらりと護衛をつけずにどこかへ出かけて行ってしまうようになったのです。夜叉様はともかくとして、羅刹様は出かけるときは最低でもひとりは護衛を伴う方だったので、配下の者は皆当惑しました。幹部でさえも心あたりがなかったものですから。しかし、羅刹様はどこに出かけているのか、我々には何も教えてくださいませんでした。

 羅刹様の不信な外出をするようになってから一年経ったときのことです。・・・それは月の出ない、新月の日でした。羅刹様は一人の娘をさらってきました。」


 つまり、羅刹の不信な外出は娘との逢瀬であったというわけだ。

 

「娘は体の弱い人の子でした。しかし、娘は妖怪を見ることができ、不思議なことにどんな病気や怪我でも直すことができました。彼女は神巫という、神獣をその身に宿した特別な人間だったのです。そして、その娘こそ、のちに愁様の御母上となる大江山秋穂様です。」


 今はもう顔を見ることのできない、愁の母親。

 彼女は北斗と同じく妖怪を見ることができ、そして神巫であった。

 なぜ愁はそれを言わなかったのか。それとも、知らなかったのか。

 数弥の昔話はまだ続く。


「配下の妖怪に何も告げずに人間の娘をさらってきて、しかも嫁にするときたのですから、はじめは反対する妖怪は多かったです。日本の妖怪界の一角を担う大妖怪の妻が、こんなか弱い人間の小娘で勤まるものかと、誰もが思っていたのです。

 ・・・かく言う俺もその一人でした。しかし、羅刹様が絶対にこの娘が良いと、配下の反対を押しのけて彼女と夫婦になりました。そのような経緯があったものですから、秋穂様への配下の妖怪達の風当たりは強いものでした。しかし、次第に秋穂様のお人柄に触れていくうちに、皆お二人の関係を認めるようになりました。そして、二人の間に生まれたのが愁様です。」

 

 ここでこの昔話が終わることができたら、なんと美しい婚姻譚だったことだろう。

 しかし、そう簡単に話は進まない。

 膝の上に乗せられていた数弥の拳がこわばった。

 唇が震えている。

 今にでもどどうとあふれてきそうな言葉を、数弥は少しずつ吐き出す。


「・・・・・もともとお体の弱かった秋穂様にとって、妊娠と出産は寿命を縮めるようなものでした。産後のひだちはよくなく、体調は悪くなる一方でした。今までは人並みにこなしていた家事でさえ思うようにできなくなり、布団の上からほとんど動けなくなってしまったのです。」


 いつ死んでしまってもおかしくない。

 配下の誰もがそう思いましたと、数弥は言う。


「羅刹は仕事があるときを除いて、ずっと秋穂様のおそばにいるようになりました。秋穂様もまた、羅刹様や愁様から片時も離れませんでした。・・・そして、愁様が五つの誕生日を迎えた日のことです。」


 

「秋穂様に宿っていた神獣が暴走しました。」



 いなりは息をのんだ。


「秋穂様がその身に宿していた神獣は、鳳凰ほうおうでした。」


 鳳凰―――36種の羽を持つ動物の長であり、聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わすとされている瑞獣ずいじゅうだ。そのきらびやかな姿は、日本の建築でいくつも表現されている。黒、白、赤、青、緑・・・五色の色を持つというが、いなりはよく神社の神輿なんかに乗っている、金色の羽をもった巨大な鳥を想起した。


「あふれ出た鳳凰の力はこの大地に地鳴りを引き起こしました。それを合図に、九州の活火山が火山活動を始めたのです。」

「・・・もしかして、その出来事って十年前の阿蘇山噴火と関係があるのかいー?」


 黒羽の言葉に数弥はうなづいた。


「たしかそれって、結構ニュースで取り上げられていたやつやろ。」


 阿蘇山噴火事件というのは、十年前にあった熊本県阿蘇山の噴火事件のことである。噴火警戒レベル1の段階で噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら数十名が死亡、日本における戦後最悪の火山災害と扱われている。その後、研究者によって調査が進んだにも関わらず、その噴火のメカニズムはいまだ不明という、謎を多く残した災害だ。


「表向きにはそのように報道されていますね。しかし、実際は阿蘇山の噴火んです。」


 鳳凰の力によって、火山活動が促されたのは阿蘇山だけではない。

 数弥の言葉の裏に気が付いたとき、さあっと、血の気が失せるのを感じた。

 同時に、いなりは北斗を横目に見た。

 北斗は口を堅く結び、瞬くこともせずに数弥を凝視している。その表情は鬼気迫るものだった。


「このまま他の火山が噴火をすれば、街は火の海に陥ってしまう。羅刹様は選択を迫られました。」

 

 南の地の妖怪たちを守るために秋穂を殺すか。それとも0に近い可能性にかけて、秋穂を救う方法を探すか。

 現在という時間軸において、その答えはもう出ているも同然だった。


「羅刹様は、秋穂様をご自身の手で殺めました。愁様の目の前で。」


 数弥はぎりぎりと奥歯を食いしばりながらも、はっきりと言い切った。

 

(だが、それは)

 

 仕方がないことじゃないか。

 いなりはそう言いかけて、口を閉ざした。

 目の前にいた、数弥のあまりにも悲しげな顔が、それを自分に言わせなかった。


「理由がどうであれ、その日から愁様にとって羅刹様は父親ではなく、己の母親を殺した憎いかたきとなったのです。そのため、愁様は羅刹様のもとを離れ、夜叉様にとともに東の地へ移られました。」


 愁が夜叉や蘭と暮らしていたのは、そうしたわけがあったのだ。


「黒羽は知らなかったんですか?」

「知ってるも何も、僕は東の四大妖怪だし、南の地の事情なんてそうそう知ることはできないさー。そもそも、僕の管轄地域に夜叉たちが愁を連れてきた時に初めて孫がいること知ったんだよー?」


 「だけど、さすがに愁には悪いことをしたな」と、黒羽は小さな声でつぶやく。

 黒羽の前に置かれた皿の上には、いまだにケーキがまるまると残っていた。しかし、黒羽はフォークを手に取るそぶりを一切見せなかった。


「何よりも、俺らにも責任があるのです。なぜ、秋穂様のお体の調子にもっと早く気が付かなかったのか。なぜあの時、神獣の暴走を抑えられなかったのか。なぜもっと早く、秋穂様のことを受け入れられなかったのか。」


 数弥の声は次第に小さくなっていく。


「愁様が憎んでいるのは羅刹様だけではない。母親を死に追いやり、代わりにのうのうとこの地で生きている、我々なのです。」


 数弥はまるで、懺悔ざんげをするようにこうべを垂れる。小柄な彼の体が、より一層縮こまって見えた。


 誰も責めることのできない。

 ただ、あまりにも悲しい過去だ。

 愁が父親を前にしたときの豹変ぶりを見て、いなりは非常に驚いた。なぜなら、自分は愁のことを足から頭のてっぺんまで光でできているヤツと感じていたから。きっと幸せな家庭で育てられた、典型的な育ちのいい子なのだと、勝手に思っていた。

 しかし、それは誤りだった。

 いなりがみていたのは、彼の表面うわべだけにすぎなかったのだ。

 本当に頭がおめでたかったのは、自分の方だったのだ。

 

 いなりは数弥を慰める言葉が思い浮かばなかった。

 ここで何か言葉をかけても、傍観者によるよけいなお世話で終わってしまうだろう。

 いなりは少し逡巡しゅんじゅんした。


「・・・秋穂様は、どのような方だったのですか?」


 すると、数弥は少し思案気な表情をする。


「心の底から優しい方でした。打算や気遣いからではなく、本当に純粋に人のことを思いやれる、そんなお人です。」


 数弥は言葉を少しずつつなぐように語った。

 まるで、記憶のかけらを拾い集めるように。


「しかし、あの方は意外と大胆なところもあって、我々がひやひやさせられるようなことも何度もありました。夜叉様と女性の好みがまるで違うと思っていましたが、今思い返せば実は根っこでは似ていたのかもしれません。」


 一体どんな女性だったのだろう。

 今会うことができないのが、とても惜しい。


(もしもみずめに佐助が殺されたとしたら、自分は愁と同じようにみずめを憎むのだろうか。)


 いなりには、その答えを出すことができなかった。




◇◆◇




 ざああと、木枯らしが吹く。

 獣の泣き声のような音は、芯をかきむしられるようなもの悲しげな音をしている。

 羅刹は一人、海の見える岬を訪れた。

 深夜の海は、夜を飲み込んでしまったかのように空と一体化している。

 星空一つないその闇の中で、小さく、縮こまったような墓石がぽつんと、残されたようにある。

 石のそばには白いコスモスが一輪、風にそよいでいる。その澄み切った白さは、闇の中でも凛としていて、その墓石の主の生前の姿と重なる。

 きっと、誰かによる供花だろう。

 数弥か。

 はたまた彼だろうか。

 羅刹は墓石の前にしゃがみ込み、愛おしそうにその石肌をなでる。


 ―――十年。


 自分の寿命を考えれば、ずっと短い年月だ。だが、羅刹にとってその十年は長く感じられた。


「・・・あいつ、図体だけはずいぶんでかくなったぞ。でも、顔は俺ともお前とも似てねえ。代わりに俺の親父にそっくりだ。」


 墓石に寄り掛かり、空を仰ぐ。


「・・・なあ。俺はどうすりゃいい、秋穂あきほ。」


 その名を呼んでも、返事をする者はもうこの世にいない。

 ただ、冷たい秋の風が、自分の頬を撫でるだけだった。


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