密談 ー回廊ー  

「ぐええ・・・・。」


 背中から、うなり声が聞こえてきた。いなりは自分の背中にいる重みを気遣うよう、もう少し自分の方へ体を傾けさせてやる。


「大丈夫ですか?」

「気持ちわりい……。」


 いなりの肩を借りて、千鳥足で歩いているのは八重である。顔は真っ青に青ざめ、時折口を手で押さえている。流石に肩口で吐瀉物をぶちまけられるのは困るので、いなりは足を止める。


「歩けますか?」

「まだ無理・・・だ。」


 ぐたりと八重の首がいなりの肩にのしかかる。

 これは当分無理そうだ。

 いなりは肩からずり落ちそうになる八重の体を支え直した。




◇◆◇




―――遡ること三十分前


 まさか八重がノンアルコールで酔うとは思わなかった。

 慌てていなりは突っ伏した八重の体を机から助け起こし、座布団の上に頭をのせてやる。


「おい、今此奴こいつが飲んでたのってノンアルコールだよな?」


 うつらうつらとした八重の顔を覗き込んで、愁が不思議そうに尋ねる。


「ノンアルコールのアルコールは完全に0じゃありませんよ。」


 実はノンアルコール飲料は二種類に分けられる。

 一つは文字通り、アルコールを全く含まない飲料。もう一つは、実際には1%未満のアルコールを含む飲料だ。

 日本では酒類にかかる税金を定める法律の関係で、「アルコールの含有量が1%以上」の飲料を「アルコール飲料」として定義している。 つまり1%未満であれば、厳密にはアルコールを含んでいてもノンアルコール飲料として扱われる。

 いなりは八重が座っていた周りをぐるりと見回す。

 そこには空いた瓶がごろごろと転がっていた。


(ははあ。)


 いなりは机の上でグラスの間に埋もれている八重の口元に鼻をよせる。

 手で仰ぐと、アルコールのきつい匂いが八重の口から漂ってきた。

 やはり、思った通りだ。

 どうやら、八重は相当な量を飲んだらしい。いくらノンアルコールだからといって、飲み過ぎれば誰だって酔う。


「だとしても、ノンアルコールで潰れる人は初めて見ました。」

「いや、俺もだ。」


 そんなこんなで、八重をいなりが運ぶことになったのだ。若い衆を呼ぼうかと織星に引き止められたが、さすがに化粧室に男性を入れるわけにはいかない。

 人を運ぶのは慣れている。居酒屋で泥酔した者を担ぎ上げて店の外に出すのはしょっちゅうだ。また、妖力で筋力を補強すれば体の大きい者でも持ち上げるのは問題ではない。

そんなわけで、いなりが八重の介抱にあたることとなったのだ。


 

 

◇◆◇




「少し、夜風にでも当たりますか?」

「そうですね。」


 いなりもちょうど、ひと時でいいから楼閣全体に漂っている酒と香の匂いから解放されたかった。嫌い、というわけではないが、この手の香しい香りはどうも頭の回転を鈍くさせる。


「お座敷の手前に中庭がございます。そちらに案内させていただきますね。」


 雫は八重に肩を貸しているいなりを気遣ってゆっくりと進んでくれる。

 いなりはその少し後からついていく。

 お互い無言。無言でも別に気まずいということはない。ただ話すことがないだけ。そんな空気感である。


「織星さんはみずめと、何か縁があるのですか?」

 

 そんな中でふと、いなりは気になったことをポツリと呟いた。


「え?」

「いえ、先程私を見て、随分驚かれていたので。」


 すると、雫は「ああ」とうなづいた。

 そして、ふっと口元をほころばせる。


「私も聞いただけなのですが・・・。昔、九尾の狐―――みずめ様はどうもこの街を作った方なんだそうです。」

「街を?」


 いなりは目をしばたいた。


「はい。」


 雫はこくりとうなづく。

それからポツポツと昔の話を始める。

 語る口調は、少女のものから次第に朗々とした、弁士のものに変わっていった。


「その昔、人間の花街と妖怪の街が入り乱れていました。ですが、明治に入ると人間の吉原の街は衰退し、我々妖怪もそれに巻き込まれました。町は一時期荒廃した貧民街のような状態にまで陥ったことがあったんだそうです。」


 1900年代に入ると、それまで活況となっていた吉原の状況が変化し始める。吉原では江戸時代から度々火事が起こっていたが、1911年には<吉原大火よしわらたいか>という大規模な火災が発生した。これにより、吉原にあった建物のうち約6,500戸が焼失し、吉原は大きな損害を受けた。

 さらに明治になって新政府が誕生すると、芸娼妓解放令が発布され人身売買が禁止され、さらに規模は縮小。江戸の世には一日に千両の金が落ちる場所と言われた花街は、今となってはすっかりその姿を変えていってしまった。


「そんな吉原を、人間の街から切り離して結界で囲い、妖怪だけの街に再編成し、復興させたのが、みずめ様です。」


 だが、みずめの妖力の系統は炎と幻のはずだ。

 八重のように空間を作るものではない。

 一体、どうやってこの街に結界を施したのだ。


「なるほどなあ。道理で高度な術なわけや。」


 いなりが疑問を雫に投げかけようとしたときである。肩にかかっていたはずの重みがふいに軽くなった。

 八重が起きたのだ。どうやら、いなりと雫の会話を聞いていたらしい。


「もうだいぶ楽になってきた。こっからは自分で歩く。」


 しかし、まだ快調ではないようだ。八重は壁に手をつけ、のそのそと歩いている。


「分かるんですか?」

「ああ。基本、結界には三種類ある。一つは内側から外側への行き来を自由にさせるもの。もう一つは外側から内側への行き来を自由にさせるもの。ほんで、特定のものを選別して閉じ込めとくものや。」


 八重は三本、指をつきだした。

 

「ただ、この街の結界は外と中、どちらの行き来も自由にさせて、この街が見ることができる―――まあつまり一部の例外を除いて妖怪だけが通れる。しかも、幕末からっちゅーことは、最低数百年も持続しとる。とんでもない術や。」


 八重は興奮しているのか、頬に赤みがさしている。その目は内から爛々と輝いているようだ。


「みずめが、そのようなことを。」


 一方で、いなりはあっけにとられていた。

 すごい、と思うよりも、みずめが人助け(正確にはあやかし助け)のような事をしていたことが、あまりにも意外だったのだ。驚きが感情の九割を占めている。

 だが、言われてみれば十分考えうることだ。みずめはああ見えて、大陸の後宮や平安期の朝廷という女の泥沼の中で呼吸をしていた大妖怪。たかがといってはあれだが、花街にいたところでなんの違和感もない。


「あれ、いなりは知らんかったのか?」

「はい。」

「へえ、娘に教えないとは意外と秘密主義のお方なんやな。」


 確かにみずめは自分のことをあまり語らない。聞こうとしても、口ではみずめにかなわない。上手いことはぐらかされてしまうのだ。


(思っていたよりも、自分はみずめのことをあまり知らないようだ。)


 いなりが知っているみずめは、母親としてのみずめの姿だけだ。

 彼女が昔、何をやっていた、どんなふうな生き方をしてきたか。そういうことを、いなりはほとんど知らなかった。


「みずめ様は我々の街では救世主のようなお方です。そして、織星花魁はかつてみずめ様に仕えていた方です。」

「本当ですか!?」

「はい。みずめ様に拾われて、織星花魁は吉原にやってきたんです。それから、みずめ様の後を継ぐような形で、今は織星様が吉原の秩序のかなめとなっています。」

「道理で・・・。」


 ちらちらとあちこちから視線を感じていたのは、そういうわけだったのである。そりゃあ、昔の吉原の元・裏ボスの娘とあらば、誰だって上手いこと懐に入り込もうと様子を伺う。

 いなりが八重の介抱を理由に座敷を抜け出してきたのは、変な視線から逃げたかったという理由もあったのだ。


(新しい情報量が多すぎていよいよ頭が破裂しそうだな。)


 気のせいだろうか。頭痛を感じる。

 いなりの座敷の方へ戻る歩みが、自然と遅くなった。

 ため息をついているいなりとはうって変わって、八重の方は徐々に本調子を取り戻しつつあった。おぼつかなかった足取りがだんだんしっかりしたものになり、周りをきょろきょろと見回せるくらいまで復活している。

 八重はいつのまにやら雫よりも前を歩いていた。


「お、中庭はここか?」


 すうっと廊下に吹き込んでくる涼し気な風に気が付いたのか、八重が足を止めた。

 他の部屋の前の襖はしっかりと閉じられているのだが、そこの襖だけは少しだけ隙間が開いている。どうやら、そこから風が入り込んでいるらしい。


「あ、そこはちがいま」

 

 しかし、時すでに遅し。雫が止める前に、八重は襖に手をかけていた。

 カタンと軽い音を立てて、襖が開く。

 すると、中からぐむっ、という奇妙な音が聞こえてきた。

 八重が襖が開けたその先には、一人の青年が座敷の窓辺にいた。行燈が一つだけ明りを灯されている以外、あとは月明りだけが部屋を照らしている。


「うっわ、びっくりしたあ・・・・・。」


 青年は窓のへりに腰掛けていた。膝には握り飯が二つあり、片手に食べかけのものが握られている。

 先ほどの奇妙な音の正体は、この青年の声だったようだ。 

 

「あ、あの・・・俺になんか御用でしょうか・・・?」


 ぽかんとしている八重といなりの様子を伺いながら、青年は、おどおどとして問いかけてくる。

 見た目はいなり達と同じくらいか、少し上くらいだろうか。この様子からして、明らかに客ではない。


「すまん。部屋を間違えたわ。」

「あ、そうすか・・・。」

「浅草組と烏天狗のいる座敷はどっちや。」

「み、右ですけど。」


 そういって、青年は震える指でいなり達から見て右側を指し示した。


「おおきに。飯の時間の邪魔して悪かったな。」


 八重が言うと、青年はまた気まずそうにぶんぶんと手を振る。

 それにしても、一体なぜこんなところで客でもなさそうな青年が、悠々と夜食を食べているのだろうか。


(ん?待てよ。)


 どこかで見たことのある顔だ。

 いなりは視線を青年の顔から首下に下げた。

 青年は庭師のような格好をしている。足元には、枝切鋏えだきりばさみと思われるものが壁際に立てかけられていた。

 それは、普通の枝切鋏よりも柄がずっと短く、変わりに刃渡りがとても長い。直刀と直刀を、交差させたような形をしている。

 どうもどこかでみたことのある、特徴的な鋏だ。


(さては。)


「もしや、あなたはあのときの御庭番では・・・。」

「あ、ほんまや。」


 この青年、なんとここに来る途中で出会った、あの鋏を携えた御庭番だ。

 いなりに言われて、八重も思いだして「ああ」と手をポンと打つ。

 そんな二人の反応についていけていない青年、目をぱちぱちとしばたいている。


「え、あ、はい・・・そう呼ばれてますけど・・・。え、待って、本当に何なんすか?」


 その時はもう少し、勇ましく見えたのだが、思っていたよりも、何と言うべきか・・・


「気の弱そうなやっちゃなー・・・。」

「え、何?何その顔。俺ってなんか変な勘違いされてたの?いやだわあ。」


 心外そうな顔をする青年をよそに、いなりと八重は顔を見合わせた。

 



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