鼠の裏切り


◆◇◆




──平安時代も末期の頃。

白川天皇の妃には子がいなかった。天皇は何とかして跡継ぎを得たいと、三井寺の頼豪らいごう阿闍梨あじゃりを呼んで、妃が懐妊かいにんするよう祈祷を命じた。成功したあかつきには、褒美は請うままに遣わすだろうとのことだった。頼豪が百日間ひたすら祈ると、妃はめでたく懐妊、やがて皇太子を出産した。

 喜んだ天皇は頼豪をよびよせ、望みを聞いた。すると、頼豪は自分の三井寺に戒壇を建立したいと申し出た。頼豪は、一身の出世や金銭よりも仏法の興隆を望んだのである。

 ところが、当時勢いのあった延暦寺が横やりを入れ、天皇が弧の望みをかなえたら、山門(比叡山)と寺門(三井寺)に争いが起きるとして、頼豪の望みを退けてしまった。

 頼豪は比叡山や天皇を恨み、「あの皇子を魔道への道連れにしてやる。」と口走りながら、断食の行をして死んでしまった。

 ほどなくして、皇子は頼豪の言葉通りに死んでしまうが、頼豪の恨みはそれでもおさまらず、やがて鉄の牙を持つ大鼠と変じて比叡山に現れ、無数の鼠をしたがえて経典などを食い破ったという―――水木しげる:『日本妖怪大全』より




◆◇◆




 まず最初に反応したのは、三吉であった。

 蔵之介の前に立ち、手を体の前に構えて波を受け止めるような態勢をとる。

 だが、その波は三吉の体を覆いつくしてしまうほど大きい。一人では、とても向かってくる波を止めきれない。

 波と三吉が激突する。

 その時。

 ひゅっと、細い糸が両者の間に入った。そして、瞬く間に糸は一瞬にして四方に広がる。

 糸が網のように灰色の波にからみつき、波はびたりと、その動きを止めた。

 

あぶのうござりんした。」

「おう。ありがとな、織星ちゃん。」


 三吉が目を向けた先には、織星が方手を前に突き出してぎゅっと結んでいた。この糸を張ったのは、織星の妖術であったのだ。

 灰色の波はそのまま、糸に張り付いている。

 しかし、灰色の波は壁にぶつかった水のように形を崩さなかった。それは、まるで生き物のようにびくんびくんと波打っていた。

 波ではない。


 北斗は、ひゅっと息を飲んだ。


 生き物だ。

 その波は、数千はいるであろう鼠の大群だった。

 鼠が糸を噛み切ろうとする、ぎりぎりとした耳障りな音が聞こえてくる。


「何事だ!」「組長!」「ご無事ですか!!」


がたんと几帳を蹴り倒し、襖が破壊される音を聞きつけて、組員の面々が入ってきた。そして、網で阻まれ、部屋にぎっしりとつまっている鼠の大群を見て、皆息を飲む。

 今度こそ、本当の異常事態である。


「落ち着け。」


 びりびりとした殺気を放つ組員達に向けて、蔵之介が一喝した。


「儂はこの通り、怪我一つしとらん。」


 蔵之介は座したまま、そのぎろりと鼠の軍団をにらみける。


「織星殿、あのあたりの糸を少々緩めていただけませぬか?何、二、三匹逃したところで問題はないでしょう。」


 最初こそ怪訝そうな顔をしていたが、蔵之介に促され、織星は結んでいた手を開く。

 すると、ちょうど中央部分の糸が、ぱっと消えた。

 そして、ごとりと何か物体が落ちる音がして、鼠が数匹、糸から逃れ出る。だが、その鼠達はいく歩も歩かぬうちに、突然燃え上がった。鼠は一瞬にして黒い灰と化し、畳の上に崩れ落ちる。

 ふと、北斗は燃え残った灰が妙な動きをしていることに気が付いた。

 開いている部屋の窓から夜風が入り込み、灰を吹き飛ばしているのだが、吹き飛ばないで残っている個所がある。

 それも、真四角に。

 まるで、何か見えないものがそこにかのようだ。

 北斗はそこに目をこらす。

 ぷつりと、空に切れ目が走った。

 ナイフで切り取るを入れるかのように、空中に浮かんだ線は直方体を描く。ちょうど、エレベーターはこようである。


「あっ・・・!!」 


 透明な直方体の中に誰かがいる。

 それも四人。


 何もなかったはずの場所に姿を現したのは、いなりと八重、雫。そして、街道で見た、あの鋏を携えた青年だった。




◇◆◇


 


(危なかった。)


 いなりは亜空間の中から転がるように出て、大きく息を吸い込んだ。

 部屋の向こう側にいた者達に気づかれたときは、もう駄目だと思った。

もし八重が咄嗟とっさに亜空間を展開してくれなかったら、今頃あの鼠共に食い殺されていただろう。


「いなり!八重!!」


 自分達の名前を呼ぶ声が聞こえ、いなりは顔を前にあげる。

 愁だ。お手洗いに行っていたはずのいなり達の随分荒っぽい帰還に驚いているらしい。北斗とともに、慌てて駆け寄ってきた。


「お前ら、大丈夫か!?」

「まあな。せやけど、新しいお客さんを連れてきてもうたみたいやで。」


 八重は妖怪の姿になり、槍を構えている。

 その槍の先には、糸にからめとられた鼠の大群がいた。

 いなり達を襲ってきた灰色の波の正体である。


「千早・・・!この状況は。」


 織星はいなり達と一緒にいた千早の姿を見るなりそう叫ぶ。


「織星さん、今すぐ、ここから逃げてください。ちょっと、厄介な相手に捕まりました。」


千早は鋏を構え、織星の前に庇うように立つ。

 その時。

 襖があった場所いっぱいに広がっていた鼠達が、突然一か所に集約した。そして、鼠達が糸から離れた。まるで、無理やり誰かがはぎとったかのようだ。

 その様子に、愁が顔をしかめる。


「げぇ、気持ち悪ぃ。」


 鼠がいなくなったことで、糸の向こう側が見えるようになった。

 そこは、先程までいなり達が千早といた場所である。

 だが、今は違う者が二人いた。

 緊張が走る。

 一人は、虚無僧のような姿の。もう一人は、表情のない白い面をつけた、全身白づくめの

 虚無僧のは、右手は袖から見えているのに、左手がない。すると、灰色の固まりが宙でうね、吸い込まれるように虚無僧のの袖口に入り込んでいく。

 そして、鼠の動きが止まった時、虚無僧の左手が現れた。 


「捉えそこねた、か・・・。」

「申し訳ありませぬ。」

「浅草組と・・・餓鬼が五人か。」

「四人、でございます。うちのお一人は、東の四大妖怪殿。」

「ほう、あれがか。」


 ぴくりと黒羽が眉を顰める。

 黒羽が東の四大妖怪であることを知る者は非常に少ない。

 だが、目の前の相手―――虚無僧の男は黒羽の正体を知っているようだ。


「饕餮を殺したのは、お前か。」

「・・・へえ、もしかしてあれのお友達ー?」


 黒羽の言葉に白づくめの男は答えない。


「頼豪、後は頼んだ。私は準備にかかる。」

「御意。」


 虚無僧の男が答えるのを待たず、白づくめの男の体が徐々に薄れていった。


「幻術か!?」

「いや、たぶん今のは形代かたしろだねー。」

「なるほど。管狐くだぎつねみたいなものですな。」


(そういうことか。)


 妖怪の中には形代と呼ばれるものが使えるものがいる。

 分裂体はその名の通り、自分の体の一部―――髪や体毛、羽などだ―――を用いて作る分裂体のようなものだ。意思などはもたないが、体の延長線として自分の思う通りに動く人形である。

 先ほどいなり達に襲い掛かってきた鼠の大群もまた、虚無僧の男の形代に違いない。そして、今そこにいた白づくめの奴は本人そっくりに作られた形代にすぎない。つまり、本体は別の場所にいる。


「さすがは東の四大妖怪殿と浅草の蔵王殿だ。」


 虚無僧の男はパチパチと手を叩く。

 ゆっくりと虚無僧の男が前に歩み出で、近づいてくる。


彼奴あいつの居場所を教えてくれないかいー?」

「たわけ!」


 虚無僧の男が素早く、蔵之介の前に踏み出す。

 が、その前に三吉が振り下ろされた腕を受け止めた。

 三吉は空いていたもう片腕で横から殴りつける。

 拳が虚無僧の男の頭部をかすった。

 すると、深編笠が外れて男の顔があらわになる。

 薄くなった灰髪の張り付いた、鼠のような顔の男―――鉄鼠であった。


(あれが、塵灰組組長……!)


鉄鼠―――人から妖怪へ成り果てた、妖怪である。

 

「やはり貴様か。頼豪らいごう、何故このような真似を。」


 蔵之介が尋ねる。

 だが、鉄鼠―――頼豪は答えない。

 顔からはみ出んばかりの大きな丸い瞳をぎょろり、ぎょろりと動かせる。細長く前に突き出た口から唾液が畳に滴り落ちた。 

 まるで蔵之介の言葉を聞いていない。


「おや、そやつはもしや、神巫ではあるまいか!」


 その時。

 びたりと鉄鼠の目が、北斗をとらえる。

 

 まずい。

 そうだ、彼等は北斗を、神巫女を求めている。

 

鉄鼠は恍惚とした表情を浮かべた。

その様子は、まるで天からの祝福を受けたよう。とても正気には見えない。


「なんて運のいい!!私はやはり、神に愛されている!!」


 陽光と影月がうなり声をあげ、体が大きくふくらむ。バチバチと周囲に二体の妖気オーラがほとばしった。

 おおんという、吠え声が部屋に響く渡る。

 それを合図にするかのように、皆の姿が妖怪のものに変わる。

しかし、鉄鼠は変わらず、天を仰いでいる。


「神なんか信じてるのかいー?君、仏教信者じゃなかったっけー?」


 ぎょろりと鉄鼠の目が動き、黒羽を睨む。


「今も昔も、私が信ずるものは絶対唯一の存在。それは妖怪になった今でも変わらぬ。それが、あの御方おかたに変わっただけだ。人間とつるむお前らに、はなから従った覚えはない。」


 ざわりと、鉄鼠の妖気が強くなる。


「これ以上話すのも無駄だ。神巫を手土産に、さらなる力をいただこう。」

「交渉の余地もない、かー

……。」


 鉄鼠は、またぎょろぎょろと目を周囲に動かした。


「その前に、まずはお前らだ。」

「させないよ。」


鉄鼠が動きだすよりも早く、千早が飛んだ。

千早が天井を蹴り、首を目掛けて鋏が迫る。

 同時に、鉄鼠がにやりと笑った。


「愚か者め。」


 鋏が首をまさに斬らんとする瞬間。

 ぐらりと、の頭が転げ落ちる。

 否、それは頭ではなかった。

 頭部だと思われたは、灰鼠色の無数の固まりとなって、畳の上に散らばった。


「鼠!?」


 袈裟けさがぶわりと膨れ上がり、中から数多の鼠が溢れ出でて、畳の上に崩れ落ちる。


「まずい、鼠を全て殺せ!」


 黒羽が叫んだ。

 しかし、織星が糸を操るよりも早く、八重が空間を斬るよりも早く、鼠は四方に霧散した。


「僕の考えが正しければ、そいつらは仮想怨霊を媒介する!!」

「総員戦闘体勢につけえぃ!!」

 

 黒羽が叫ぶと同時に、三吉が叫ぶ。

 それよりも早く、鼠達は畳一面を駆け抜ける。

 灰色の海原の中で、ただ一匹だけ、その場に立ち止まった鼠がいた。

 その鼠が、首をもたげる。

 そして、口を開いた。


『もう、遅い。あの方は、すでに動き出している。』


 しわがれた声が鼠から発せられた。

その声は、鉄鼠のものである。

 鼠が何か他に言いかけると、それを三吉が拳で潰した。


「クソが。どうするんだ、キリがねえぞ!!」


 愁が刀で鼠を斬りつけ、八重が槍を突き刺す。

 しかし、それでも鼠はいなり達の足元を駆け抜け、窓から、廊下から、どんどん外へ出ていく。まるで洪水だ。


「雫!すぐに客を地下の避難所に連れていきなんし。動ける者は今すぐ動け、と。」

「はい!」


 織星に言われ、雫は転がるように廊下に出る。

 すると、下の階から悲鳴が聞こえてきた。


「ちぃ、もうそこまでいってるのか。」

「時間にはまだ猶予がござりんす。吉原には結界が張られておりんす。妖怪しか通さぬ結界、鼠一匹たりとて逃しはしんせん。」

『それは、まことかのお?』

「頼豪・・・!」

「手前、まだ生きていたのか!!」

『この鼠は儂の眷属、鼠一匹一匹が儂の分身じゃぁ。』


 かっかっかっか、という、高笑いをする頼豪の声を放つ鼠。

 鼠はまるで笑みを浮かべているかのように目を細めた。


『その結界、はたしていつまでもつかのお。』


 嫌な予感がする。


「まさか・・・!」


 いなりは窓辺に向かって走った。


「いなり!?」


 こうしたのは、ほとんど直感である。

 ただ、そうしなければと思った。

 いなりは、首を窓の外に出し、空を見上げた。

 空には、不気味なほど煌々と輝く丸い満月。そして、星一つない、黒い夜の闇が広がっている。

 その時。

 黒い夜に、ふいに、白いひびが走った。


「!」

「いなり、どうした!!」

「空に、亀裂が・・・!」

「なんやって!?」


 いなりの見間違いなんかではない。

 空には、確かに瓶に入ったひび割れのような線が入っている。亀裂は、時間がたつにつれてどんどん増え、地面に近づいてくる。

 街道に目をやれば、空の異変に気が付いた者達が騒ぎ始めている。


「お頭ぁ!!」

 

 いなりと八重がいる窓辺とは反対側に、庭師姿の男が現れる。男は額からは血をだらだらと流していた。


墨丸すみまる!何があった!!」

「お頭、申し訳ありません!!柱が襲撃を受けました!!」

「なんだと!!?」


 千早が声を荒げた。 

 墨丸と呼ばれた男は、「申し訳ありません!」と再び額をこすりつける。


「今、榎本と九郎助が破られてしまいました!!御庭番衆だけでは、持ちこたえられません・・・!!」


 千早の顔が青ざめる。

 吉原で何が起きているのだ。


「あの、柱とは一体・・・?」


「お客さん吉原の結界は、術者不在の状態で長期的な維持をするため、五つのがござりんす。かつてから廓内の四隅に設けられた、榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九郎助稲荷社を柱として利用しているのでありんす。」


 織星の額に、汗の玉が浮かぶ。


「そして、吉原の入口である大門おおもんの手前の玄徳よしとく稲荷社―――これが破られれば、吉原の結界は完全に解除されんす。」

「そうなれば・・・。」

「・・・鼠は、吉原の外へ出ていくことができるようになりんす。」



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