浅草の蔵王

 老人は誰にも許可をもらったわけでもなく、座敷の中へにぬうっと進み入ってくる。

  地味だが、分かるものには上等だと分かる渋い焦げ茶の着物に、上から紺色のちゃんちゃんこを羽織っている。つるりとした頭には着物と同じ色の丸頭巾まるずきんを被っている。


「儂のお気に入りの花魁がいまだに顔を出さぬので、一体どこで寄り道をしているのかと思ってのぞいてみれば、これはこれは、鞍馬殿くらまどのでございませんか。」


 老人は、まるで偶然ばったり出会ってしまった、という様子で黒羽を見る。しかし、その目にはまったく驚きの色が見えない。むしろ、この状況を楽しんでいるようだった。

 彼の後ろを見れば、案内役の若い衆が慌てふためいている。どうやら他人の座敷に入ろうとする止めようとして、失敗したらしい。仕事のできない男を織星が睨みつけているが、可愛そうに、老人の方が一枚も二枚も上手であったようだ。

 そんなことを気にも止めず、老人はにこにことおおらかな笑みを浮かべていた。


「ちょうどよかった。今、まさにあなた方に会いに行こうと思っていたところなんですよ、蔵之介くらのすけ殿。」


 黒羽はさして驚くこともせず、言葉を返す。


「そりゃあオジサン困っちゃったね。あんたが来るってこたぁ何か厄介なことでも持ってきたんじゃあないっすか?」

 

 さらに、ぬっと男が「よっこらしょ」といいながら鴨居かもいをくぐるようにしてやってくる。

老人の背後から出てきたのは、額に小さな角を生やした大柄な鬼だ。頭にはねじり鉢巻き、青い半被の背中には、大きな<浅草>の字が踊っている。


「どうもお久しぶりですねえ、旦那。」

「やあ、三吉。」


愁はもう驚きすぎて口を鯉のようにパクパクとさせながら目をしばたいている。今にも口から泡でも吹かん様だ。

 しかし、いなりは別の意味で驚きの声を上げた。


「あ、あ、浅草組組長・・・!」

「ご隠居様じゃないですか。」


愁といなりの声がかぶった。


「え?」


 愁にかまわず、いなりは黒羽とご隠居の間に割って入る。

 すると、ハチマキをした鬼―――いなりのよく知る三吉が、驚いたように目を見開いた。


「いなりちゃんじゃねえか。どうしてこんなところに。」

「「いなりちゃん!!?」」


 会話をするいなりと三吉、老人を除く者全員が叫ぶ。


「それは三吉さんやご隠居様も。」

「「ご隠居様!!!?!!?」」


 一同、もう一度叫ぶ。


「待って、待って、ちょっと待って。いなり、どういうこと?」


 声をかけられていなりが背後を見ると、珍しく黒羽が戸惑っていた。目を白黒させて、いなりとご隠居を交互に見ている。


「この方々はみずめの―――母の店の常連さんです。私が小さい頃からお世話になっているます。」

「ほっほっほ、彼女は私のお気に入りの看板娘でねぇ。」

 

 老人―――ご隠居はいなりの肩をぽんぽんと叩く。

 しかし、いなりはその手をさりげなくずらし、わざと冷たい目線をご隠居にくれてやる。

 ご隠居殿がすごい組の組長であったのはいなりにとってさしたる問題ではない。それよりも大事なことは、<まほろば>の常連がにいるということだ。


「ところでご隠居様、浮気をしていたらみずめに出禁をくらいますよ。」

「それはご勘弁かんべん願いたい。みずめ殿やいなり殿と会えなくなるのは老い先短い老体の楽しみを奪うようなもの、こればっかりは見逃してくれませんかねえ。今回ばっかりは、仕事の関係でこちらに来たものですから。」


困ったように白眉はくびを下げるご隠居。

しかし、こちらとて商売がかかっている。常連客を奪われるわけにはゆかないし、それを見逃すわけにはいかない。みずめから、そういう商売の手腕は徹底的に叩き込まれている。

いなりは考えるような素振りを見せてから、さも今思いついたかのようにぽんと手を打つ。


「では、次に訪れる時は獺祭だっさいを準備させていただきますね。」


 獺祭―――三万円越えの高級日本酒である。

 そんな代物を、いなりはご隠居に「開けろ」と言っている。

 決してこれは脅迫ではない。所謂いわゆるおねだりというやつだ。

 いなりの表情は変わらないが、心なしか目元が笑っているように見えなくもない。

 その意図が分からないご隠居ではない。


「そうですね。みずめ殿のご機嫌をとれるならそれは安いものですな。」

「かーっ、そういうこと言われちゃうとねーっ!」


 ご隠居はころころと笑い、三吉はぺしんと自らの額を打つ。二人とも、決して嫌に思ってるわけではなく、むしろ楽しんでいるようだった。

 いなりは心中でガッツポーズを決めた。これで良い。今月の店の黒字が確定したことだろう。

 そんな三人のやりとりを、周りはあっけにとられて見ている。


「いなり、お前、そいつが誰か分かってんのか?東の蔵王ざおう浅草寺せんそうじ蔵之介くらのすけっていえば、浅草組の組長だぞ?」


 愁は、あわを食ったような顔をしていた。わなわなと震える指で、いなりの隣のご隠居を指さす。

そういえば、そんな話をしていたんだったか。

思わず目の前によく見知った顔があったので、いつも通りに振舞ってしまったが、この御仁が件の組長だったようだ。みずめの接待ぶりからただならぬ人であろうとは思っていたが、まさか財閥を率いる総帥であったとは。


「そうだったんですか?」

「別に隠すほどのことではなかったのですが、話す機会がなかったのでね。」

 

 いなりがきょんとんとした顔で問うと、ご隠居―――いや、蔵之介は目を細めて笑う。自分の身分がバレたことを毛ほども気にしていないようだ。


「では、三吉さんも。」

「一応お忍びだからな、おじさんも表向きは用心棒として組長のお供をしてたのさ。ま、みずめさんは言わなくとも分かっていたんだろうなぁ。」

 

つまり、いなりは何も教えられなかったと。

みずめのことだから、蔵之介がお忍びであることは察していたことだろう。しかし、それをいなりに伝えなかったのはどういうわけだ。彼女のことだから、ただ「忘れてた」だけかもしれないが。

 いなりから出ている不満そうな気配を感じたのか、かっかっかと蔵之介が笑う。 

 

「別に気にするほどではないですよ。我々のことを知るものなぞ、裏の空気を吸っていない限り分からないでしょうから。察するに、そこの少年は大江山のご令孫れいそん、儂の顔を知っていたわけですよ。」


 ちらりと右目を開き、愁の顔を見る。

 愁はただこくりこくりとうなづく。

 それを見て、蔵之介は顎を撫でながら「やはりな。」と呟く。


「あの、失礼ながら、みずめ様とはどういったご関係なのでありんしょうか?」


 会話が途切れた合間を見計らったように、先程から黙っていた織星がせきを切ったように声をあげた。

 その目はいなりの方を向いている。

 その意図がよく分からず、いなりは首をかしげる。


「私の母とはお知り合いですか?」

「母?」

「はい。母です。」

「は?」


 いなりと織星、互いに固まる。

 織星はいなりの前でぽかんと呆けている。ついさっきまで天女のごとき微笑みを浮かべて酌をしていたとは思えない。

 すると、黒羽が固まっている織星の横までひょこひょことやってきた。


「織星織星、彼女は君の尊敬してやまないみずめの一人娘だよー。」

「ご挨拶が遅れました。吉祥寺みずめの娘、吉祥寺いなりと申します。」

 

 いなりはその場で頭を下げた。


「みずめ様の御令嬢・・・!?まさか」


 織星が口の中で繰り返す。

 何事だと、周りの者が織星を見つめているが、織星はそれにすら気が付いていないようだ。

 いなりをじっと見つめたかと思いきや、織星は大きく息を吸い込む。

 そして、いなりの前にひざまずいた。


「は?」

「みずめ様のご令嬢と気づきもせず、とんだご無礼を。どうか許しておくんなんし。

何なりと、ご要望をお申し付けおくんなんせえ。」

「え、あの。」

「何なりと。」

「と、とりあえず浅草組とご一緒できます、か・・・?」


 いなりは織星の強すぎる圧に負けた。


「承知いたしんした。浅草組、鞍馬の烏天狗御一行、両者の宴の席を直ちにご用意させていただきんす。皆の者!すぐに用意を!!」


 織星がパンと手を叩いた途端。

 スパンと襖が開け放たれ、若い衆がいっせいに入ってくる。そして、座敷の奥の襖をとっぱらい、あっという間に隣の部屋とつなげて一つの大広間にしてしまった。

 さらに再び表の襖がスパンと開く。

 今度は何事かと思う暇もなく、遊女達がずらずらと並んで入ってきた。手には大皿に酒瓶を持っている。

 

「おおー!えらい豪華になったやんけ。いよいよ楽しなってきたなぁ!」


 八重が目を輝かせて料理に飛びつく。 

 

「やれやれ、いつのまに合同のものになってしまいましたな。」

「そうっすねえ。」


 ぽつりと蔵之介が呟いた。

 

「おいお前ら!!鞍馬殿の宴に邪魔するぞ!失礼のないようにしろぉ!!」


 三吉が廊下の方に向かって叫ぶと、ごうという雄たけびが聞えてきた。 

 そして、ぞろぞろと異形のものたちが座敷に入ってくる。


「お、おい・・・これは・・・。」


 北斗が圧倒されて後ろに下がると、どんと壁にぶつかる。


「あ゛?」


 だが、それは壁ではなく、腹だった。


「え。」


 彼がぶつかったのは、妖怪の腹である。

 背は二メートル以上はあろうかという巨体で、顔の中央には大きな一つ目―――見上げ入道である。

 見上げ入道は太く長い首をうんと曲げ、北斗を見下ろしている。

 北斗、悲鳴にならぬ声をあげた。

 陽光と影月が慌てて間に入り、ボワッと毛を逆立てている。


「す、すいません!」

「いや、気にしないでくれぇ。前を見てなかった俺もわりぃ。」


 見上げ入道は北斗を見て少し眉をひそめる。


「ああん?お前、もしかして」


 その時。

 見上げ入道の北斗に向かって伸ばそうとする手を何者かが止めた。

 三吉だ。


御輿みこし、鞍馬殿のご友人だ。妙な真似はしてくれるな。」

「へ、へい。」


 三吉が一睨みすると、見上げ入道は、そそくさと逃げるように他の妖怪達に混ざる。

 北斗がその場にがちがちに固まっていると、三吉がぽんと彼の肩を叩く。

  

こええ思いさせて悪いねえ。オジサンがあいつには厳しく注意しとくからな。ま、安心しろって。」

「い、いえ。むしろ俺がこの場にいる方がおかしいですから。」

「そんな遠慮すんなって。お前、そいつらに慕われてんだろ?」


 三吉が北斗の足元を指さす。そこには陽光と影月の姿がある。


「妖怪に好かれるっつーことは、いい奴の証拠だ。」


 三吉はそういって、にかっと歯を見せて笑い、さっそうと向こうの方に行ってしまった。


「いやー、さすがは蔵王の右腕。器がでかいねー。」

「黒羽。」

「大丈夫かいー?もしここにいる組が浅草組や大江山組じゃなくて普通の組だったら、君、すぐに喰われてるからねー?あんまり平和ボケしない方がいいよー。」

「あ、ああ。」


 黒羽の口調は極めて穏やかだが、彼がただ冷やかしで言っているわけでないのは、直接会話をしていないいなりにもわかる。


「全く、今回はまんまとみずめにしてやられたねー。」

「みずめ?」


 ポツンと呟いた黒羽の言葉に、いなりは思わず問い返してしまった。


「まさかみずめと浅草組がパイプでつながってたとは思ってもいなかった、ってこと。」

「パイプって・・・。」

「悪い意味じゃないよー。それどころか、この組に伝手つてあるのはむしろ今回にいたっては好都合さー。」


 はかりごとを抱えた目を弓なりにして、黒羽が笑う。

 なんといえばいいのか、予想外と口では言っているが、どうも黒羽の思う通りに事が動いているようにしか思えないのは自分だけであろうか。

 いなりは苦笑いしかできなかった。


「さ、僕らも行くよー。もう準備できてるっぽいしねー。」


 黒羽の言う通り、早くも場の用意ができている。

 長机の下手から浅草組の面々がずらりと並び、上手の方に三吉、蔵之介が並んでいた。

 組長の蔵之介はいいとして、三吉の座する席の位置には驚いた。自分で用心棒だとか言っていたが、組の中でもかなり高い立場にあったようだ。 

 いなり達は黒羽、愁、北斗、八重、いなりの順に蔵之介と三吉の前に腰を据える。食事はもう終わっているので、置かれているのは飲み物と簡単なつまみや軽食だけだ。


「さて、改めまして、どうだいー?」


 黒羽が酒器を蔵之介に向けて傾ける。


「・・・・・そうですな。」


 蔵之介と黒羽は、互いの杯をぶつけ合わせた。

 キンという、澄んだ音が響く。

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