吉原動乱 2

 

 あちらこちらで悲鳴が上がる。

 結界が何者かによって破壊されようとしている。街の四隅に鎮座する四つの社が襲われたことで、騒ぎの波紋はどんどん広がっていた。 

 江戸末期から現代にいたるまでの、およそ二百年。決して破られることのなかった、浮世と隔離された街―――吉原。

 それが、今、破られようとしていた。

 



 ◇◆◇




 巨大な大蟹と小さな影がもつれ合うようにして地面に向かって落ちる。

 ずずんと、土埃が舞い上がった。

 千早は素早く身をひるがえして着地をする。これで相手がくたばったとは思えない。

 直後、やはり蟹坊主もまた、むくりと起き上がった。


「かっかっか、拙僧と心中するにはまだ早いな。」

「誰がお前と心中するかよ。」


 鋏を構え、千早は飛んだ。


 剪術せんじゅつ―――青嵐あおあらし


 楼閣の壁、街灯、街路樹を巧みに利用して足場にし、千早は亜音速で駆け抜ける。目視では捉えられないスピードで、蟹坊主を翻弄する。


 髪切りという妖怪は、人間に気づかれずに髪を切っていく妖怪。つまり、人の目では捉られないほど素早く動く妖怪なのだ。

 千早は黒羽のように、風を操ることができるわけではない。なので、鳥のように飛ぶことはできない。

 千早は愁のように雷を操ることができるわけではない。なので、雷にのって自身を高速でことはできない。

 彼はただ、純粋な力で己の体をさせているだけである。

 「足が速い」とは、より長距離をより短時間で移動することだ。要するに、鉛直方向に進む力が大きければ大きいほど、より長い距離を進むことができる。足が地面に設置する、その一瞬のタイミングで自身の身体をできるかぎり前方に運べばよい。それを繰り返せば速く動くことができる。

 しかし、一瞬のタイミングと同時に、身体を浮かせられるくらいの力というのは、極めて大きなものだ。跳躍力もさることながら、その一瞬で全体重を支える力も必要とする。

 自然の力を使わずに生身の体で加速するには、それだけの筋力と瞬発力を必要とするのだ。だから、陸上選手はその二つの力を鍛える。人間には限界がある。血反吐を吐くほどの努力をしようと、人間という生物の枠組みを超えることはできない。

 だが、千早は妖怪だ。その枠組みにはおさまらない。

 だから、彼は音の壁を超えることができる。


 (仕留めた。)


 ぎぃんと、鋭い音が響く。

 その衝撃波で両者を囲う建物が揺れ動き、屋根瓦が崩れ落ちた。


「この・・・!!」

「ふん、無駄だ。」


 蟹の甲羅は、くだけなかった。


「わがかぶとは幾千もの戦いを乗り越えた玉鋼たまはがねの盾。そんなちっぽけな鋏に敗れるようなものではないわ。」


 蟹坊主が横ざまに千早の体を殴りつける。 

 千早の体は吹き飛び、建物群に向かって突っ込んだ。建物が半壊し、千早の体に降りかかる。

 瓦礫に向かって、蟹坊主は喋り続けた。


「あの程度の者が花を守る御庭番衆とな・・・なんともつまらなぬ。さて、玄象殿の応援に行かねばなぁ。次はあの女郎蜘蛛でも始末させてもらおうか。」


 蟹坊主がその場を立ち去ろうとした時である。

 瓦礫に埋もれた、千早の手がぴくりと動いた。


「待てよ。」


 小さな声である。

 だがしかし、その声ははっきりと蟹坊主の耳に届いた。


「織星さんに、手を出すな。」



 ○●○



 千早はかつて、孤児だった。

 母親は切見世―――最下級の女郎、夜鷹よだかだった。街の者が言うのだから、きっとそうなのだろう。

 当時、吉原の街は人間と妖怪との境界が曖昧な、瘴気しょうきの漂う狭間のような空間だった。女は売られ、男は騙され、金で全てが回る世界。己が喰うのに困る世で、おちおち子供なんて育てられない。だから客と遊女の間に生まれた子供が捨てられるのは、普通

 さらに千早は“髪切り”という妖怪だったせいで、人一倍苦労した。

 髪は女の命だ。自分の体と顔が商売道具である遊女にとって、髪を切ってくる妖怪は敵である。疎み蔑まれて育った。千早を見ると、女のねこなで声は罵倒の言葉に変わり、算盤をはじく男の手は頭をぶってくるものにかわった。

 そんな厄介者を雇ってくれるような遊郭は、下級遊郭でさえない。今思えば、髪切りという妖怪であることを理由に雇わなかったのではなく、世渡りが下手くそで、すぐに人に騙される性分のせいだったのではないかと思う。

 でもその頃の自分は、髪切りである自分がとにかく嫌いで、嫌いで仕方がなかった。自分を産み落とした母親を、何度も恨んだ。顔すら分からないその女を、幾度となく夢の中で切り刻んだ。

 でも、どんなにその女を切ろうと、自分が髪切りである現実は変えられれない。

 女が苦手になったのは、それからだった。

 そんなある時のことである。確か、夜桜が満開に咲き誇っていた時分だった。

 あの方は訪れた。


 あの方は、従者であるらしい女妖怪をひとり連れ、ふらりと街に現れた。

 彼女の登場は、街でちょっとした騒ぎになったものだから、よく覚えている。

 なにせ、その従者の女妖怪はこの街でも目立つような綺麗な人だったし、その上彼女が付き従うひとは、そんな従者すら霞んでしまうほどの、美しいひとだった。

 否、美しいなんて安っぽい言葉では表せない。いっそ神々しい、とまで言った方がいいかもしれない。なにせ、自分は本気で天女様でも降りてきたのかと思ったからである。

 

 だが、結論から言ってしまえば、彼女は天女ではなかった。天下の悪女―――九尾の狐であったのである。

 三大妖怪と謳われる、大妖怪の突然の登場に、街は大騒ぎになった。

 やれ九尾の狐は遊女に格が落ちただの、やれ悪事を働いていた連中の成敗にやってきただの、流言飛語が飛び回った。

 実際、それは根も葉もない噂だった。彼女がこの街にやってきたのは、もっと別の理由からだった。

 だが、街の妖怪達からしたら放っておくわけにはいかない。

 東の三大妖怪によって治められるこの土地で、吉原は比較的統治が緩い場所である。人間と妖怪が入り混じり、お互いの世界の境界が曖昧になっているからだ。さらに、四大妖怪とは別に裏社会を取り仕切る組がよく集まり、裏の情報やら取引が頻繁に行われる。街ぐるみで裏社会に片足突っ込んだような場所なのだ。そのため、たとえ四大妖怪とて直接手を出すようなことは今までしてこなかった。

 にもかかわらず、突如として現れた九尾の狐。元・三大妖怪であり、何百年とどこかへ雲隠れしていた大妖怪である。

 考えられることは一つ、吉原の街をぶんどりにきた。

 なぜ隠居状態の九尾の狐がやってきたのかは不明だが、後輩に泣きつかれただの己の野望のためだのと、いくらでも理由は考えられる。

 どんな理由であれ、今まで吉原で懐を温めてきた連中からしたら冗談ではない。遊郭の楼主、吉原を根城としている組、総出で九尾の狐に対抗しようとした。

 しかし、結果はもう目に見えている。

 あっという間のことであった。彼等は夜分に九尾の狐が寝床としている宿に奇襲を仕掛けたようだが、それも読まれていたのか、文字通り、一掃されたのである。

 しかも、九尾の狐は全く手を汚していない。従者の女妖怪が皆殺しにしたのだ。

 そんな事件があったものだから、誰も彼女にちょっかいをかけようとは思わなくなった。

 

 さて、自分はこの頃何をしていたかといえば、何もしていない。ただの乞食こつじきである。ゴミ捨て場をあさり、ぼろぼろの小屋で寝泊まりしていた。

 人の噂話やらで九尾の狐の話は聞いていたが、それだけだ。

 死にかけの孤児である自分が、はるか天上の存在である彼女に会える筈がない・・・そう思っていた。


 いったいどういう風の吹き回しか、自分はその彼女に拾われた。 


「あなた、名前は?」 


 ちょうど街で日課のゴミあさりをしていた時のことである。

 突然、目の前に美しい顔が現れた。

幻かと一瞬思ってしまうほど、見たこともないほどの美女である。

 透き通るような肌に微笑をたたえ、そのひとは問いかけてきた。


「ち・・ち、ちはや」

「そう。私はみずめ。」


 隙のない美麗なひとだと思いきや、笑った顔は、ふわりと花が咲いたように可憐である。


千早ちはや、あなたは今から私の部下よ。」


 子供の自分には、この人が一体何を言っているのか分からなかった。


「みずめ様!急に何をおっしゃるのですか!?」

「いいじゃない。気に入ったのよ。」

「気に入ったって・・・」

「いいからいいから。きっとこの子は化けるわよぉ。」


 それが、みずめと千早の出会いだった。

 みずめは孤児だった自分を拾い、多くのことを教えてくれた。最低限の教養、人との接し方など、決してまっとうな道ではないが、この世を渡っていくためのすべを身につけさせてくれた。

 千早はすぐに、街で右に出る者はいないほどの強者に成長した。正確にはみずめを除いて、である。

 さらに同時に、みずめはなんと驚くべきことに、吉原の移転活動を始め出した。

 彼女が(正確には従者が)それまで吉原を牛耳っていた者達を殺してしまっていたため、反対意見はほとんど出なかった。まあ、反対意見がでたところでみずめが握り潰していそうだが。とにかく、そうして吉原は人間の街と分離され、人の目から隠された場所にできた。

 みずめはさらに、身を売って生活していた女妖怪達の解放をし始めた。今までいやいやながら買春行為をしていた彼女達には数年先までなんの苦労もなく生活していけるような金がそっと渡され、吉原から解き放されていった。これは切見世も例外ではない。

 みずめは次々と吉原を変えていった。女妖怪たちは自分達で客を選べるようになり、客は遊女に対して敬意を払うようになった。遊女という立場に、社会的な格がついたのだ。

 それは、改革とも言うべき動きであった。


 ある時、自分はみずめに問うたことがある。


「みずめ様は、なぜこの街にいらっしゃったのですか?」

 

 どこで話をしたかは覚えていない。

 みずめは月を肴に酒を飲んでいたかと思う。


「気まぐれよ。」

「気まぐれ、ですか。」


 千早はただ、そう返しただけだった。

 みずめはそんな自分に対して、驚いたようだった。


「あら、驚かないのね。織星だったら、『何を言ってるんですか!?』って血相変えるんだけど。」

 

 織星というのは、彼女が連れているもう一人の部下のことだ。

 千早からすれば、先輩に当たるひとである。


「まあ、あなたほどの方なら気まぐれで街ぐらい立て直しそうですから。」

「ふふ、よく分かってるじゃない。」


 みずめは面白そうに目を弓なりに細める。

 そして、ポツリと呟いた。

 

「これは私の独り言だけどね、」


 みずめはこちらを向かない。

 自分もみずめと顔を合わせなかった。


「都市っていうのは、必ずどこかにヤミを落とすの。この時代では、その闇の面がたまたま吉原だったってだけのこと。でも、闇の中でしか生きていけない連中ってのは必ずいる。それは、人だろうと妖怪だろうと変わらない。その闇を、地べたにいつくばって必死に生きてる連中の居場所を残しておかなきゃって、思ってたの。」


 みずめが言葉を区切る。

 酒を口に運んだのだろう。


「でも結局私は、ただ夜叉の真似事がしてみたかっただけなのかもしれないわね。」


 ちょうど吉原の街の移転がすんだ時期に、みずめは街から姿を消した。まるでもう用はないかのように。そして、織星を残していった。

 きっと、彼女は織星にこの街を託していったのだろう。

 自分よりもずっと、ずっと近くでみずめを見ていた彼女のことだ。織星には、みずめがなぜいなくなったのか分かっていたようであった。

 織星は強かった。彼女はみずめの変わりに、街の秩序を守る存在として君臨した。たったひとりで街を守り、みずめが築き上げてきた街を守り続けた。  

 


 ○●○



 ぬるりとした、生暖かい液体が目に垂れてくる。そのせいで、視界が赤く染った。   

 どうやら、額が割れたらしい。

 手には、まだ鋏が握られていた。だが、金具が壊れたようで、重なっていた刃が二つに分かれてしまっている。

 だが、構わず千早はゆっくりと立ち上がった。


「あの人は、お前なんかが手を出していいひとじゃない。」


 織星は、自分にとって姉のようなひとである。

 千早は、みずめが織星のことを見捨てたとは思わない。

 きっと、彼女を支えるために自分は拾われたのだ。 


「織星さんは、あの方の大切な形見なんだよ。」


 だから、自分はその役目を全うする。

 それが、最大の恩返しとなるから。

 それが、この背中の紋に対する誓いであるから。


「あの方だの形見だの、なんのことだ。聞いてあきれるわい。」

「黙れ平家蟹へいけがに。」


千早の背中の、紅弁慶べにべんけいが踊った。

 千早は両手に力を入れる。

 そして、二つの柄を握りしめた。


「この街を、お前らなんかに壊させやしない・・・!」


 鋏は、壊れてなんかいやしない。

 日本の刀となった鋏を逆手に取り、千早は瓦礫の中から飛び出す。

 蟹坊主がすかさず大鋏を千早めがけて振り下ろす。

 千早はそれを避けながら、蟹坊主の懐へ突進する。


「おのれ小癪な!!」


 蟹坊主がカァッと口を開く。

 白い泡が千早の視界を遮った。

 だが、それでも千早は足を止めなかった。

 泡を薙ぎ払い、大鋏を受け流す。

 白い泡がなくなった時、蟹坊主の驚愕に染まった顔が見えた。

 千早はそれを、見逃さなかった。


 剪術―――草薙くさなぎ


 刃が交錯し、斜め十文字じゅうもんじに血しぶきが上がる。

 どうと、千早の背後で化け蟹の体が崩れ落ちた。




◇◆◇




大座敷では、織星は琵琶の妖―――琵琶牧々びわぼくぼくを相手に大立ち回りを演じていた。

壁やら襖には大きな傷が走り、鎌鼬が通り過ぎたかのようなあり様である。建物が倒壊しないのが不思議なくらいの対峙であった。

 琵琶の音が途切れると、織星の指先から細く伸びた糸が刃物のようになって玄象に切りかかる。

 だが、一度ひとたびじょうという音がすれば、すぐにその糸は弾かれる。

 そして、また空気波と糸の応酬が続く。


(相性が悪い。)

 

 織星は心の中で毒づいた。

 織星の糸は妖力によってできたものであり、相手の妖怪の妖術そのものをからめとったり、切り刻むことができる。つまり、相手が攻撃としてぶつけてくるものが妖力で作られている限り、織星はそれを糸で受け流す、あるいは切ることができる。

 ただし、相手の妖術は空気振動―――すなわち音波の操作である。見えない空気によって伝わる振動を、音を頼りに位置を把握して相殺しなくてはならない。断然織星の方が分が悪い。


 れん


 糸と空気がぶつかりあい、琴の音のような音が響く。


 嫋

 孌

 嫋々

 孌々


 糸と空気波の応酬。

 両者、決してひかない。


「さすがは吉原の地獄太夫。なかなかにしぶとい。」


 ふと、琵琶の音が止まる。

 変わりに、男の低い声が聞こえてきた。

 

「だが、それまでだ。」


 琵琶の音が、突然早くなる。かき鳴らすような音に合わせるよう、振動波が織星に襲い掛かった。

 まるで、圧縮された空気弾のようだ。

 

「くっ・・・!」


 糸をまとめ、クッションのように自分の前に置く。

 だが、それでも威力を殺しきれない。

 車をぶつけられたかのような鈍痛が、体に走った。


「かはっ!」


 肺から空気が押し出される。

 つうっと、口のはしに血が滴る。


「潔く死ね。」


 琵琶の妖怪が、また喋る。


「そうはいきんせん。」


 織星は血を拭った。

 自分は、この街を守らなくてはならない。



○●○



 織星は、長く生を得たジョロウグモのあやかしである。

 ずっと昔は、人間に化けることもままならないほど弱小の妖怪だった。名前すら持たない、たまたま生き永らえることができた、ただの蜘蛛である。

 小さな蜘蛛の妖は、大坂の私娼窟ししょうくつを根城としていた。売春が公認された場所ではない。非合法に建てられた遊郭が妖怪人間問わず立ち並び、現世と隠世のちょうど狭間のような場所である。そこで、旅人や旅僧の目をひいては誘い込み、喰った。


 ちょうどこの時代、京の都は応仁の乱という大混乱に見舞みまわれたいた。妖怪の方でも、四大妖怪制度ができ始めようとした過渡期―――その頃の大坂は、四大妖怪に抵抗する勢力が多く、ゴロツキばかりが集まるいわゆる治安の悪い街だった。

 人間を喰う、妖怪を喰うのは当たり前。なにせ、食べ物を探すよりも、その辺にいる妖怪や人間を襲って喰った方がずっと楽なのである。道徳なんて概念は存在しない。信じることができるのは、己の力のみ。

 女の、それも弱小妖怪がこんな街で生きていられたのは、恵まれた美貌のおかげだった。

 

 人間は欲望に忠実な生き物だ。炎に寄りつくのごとく、ほいほいと自分に寄ってきた。まさか自分達が喰われるとは、露ほども思っていなかったらしい。幸い、自分が人間に化けた姿は美人の分類であったので、喰うには困らなかった。

 生きることの難しい、ただ喰わなければ死ぬという劣悪な環境で、強くなるために、ただひたすら人を喰い続けた。 

 殺して、喰って、殺して、喰って、殺して、喰って。

 人間をおびき寄せ、地獄をその身にまとい、人間を喰らう。

 地獄太夫じごくだゆうと、誰ともなくそのように自分のことを呼ぶようになった。それが、初めて得た“名前”だった。


 名持となり、それなりに自分の名前が界隈に広まり始めたころ。

 奇妙な人間がやってきた。

 その人間というのは、小汚い初老の坊主であった。 

 こんな場所、極楽を目指している坊主が来るような場所ではない。よほどのもの好きか、馬鹿のどちらかである。

 それどころか、坊主は自分のことを見るなり、


「聞きしより 見て恐ろしき 地獄かな」


 そんなことをのたまった。

 この坊主、分かっていて自分の所へ訪れているのである。

 人間の坊主というのは、俗世間の欲と縁を切った者共と聞き知ってはいたが、欲望どころか恐怖の情さえどこかに捨て去ってきた者がいるとは。

 面白い。

 その坊主に対して、純粋に興味がわいた。

 どうせすぐに喰ってやるのだ。戯言でもなんでも今の内に言わせておいてやるか。そんな気持ちになった。

 話を聞くに、坊主はどうやら人間界ではなかなか有名人のようだった。

 こんなろくでもない坊主を崇めるとは、人間も落ち腐ったものよと思う。だが、そう考える自分もまた、この坊主にひかれていたのだろう。

 坊主の身の上話を聞いたり、今まで会ってきた人間の話を聞いたりした。話をしているうちに、人間共がこの坊主を崇める理由が少し分かった気がした。


「人間ももたいしてそう変わらん。なにせこの俺が、呼ばわりされるからな。」


 坊主と語り合ったあの一夜は、今でも鮮明に覚えている。

 自分は結局、坊主のことを喰わなかった。

 腹は膨れなかったが、何か満たされたような気分であった。

 それから、人間を喰うことをやめた。

 自分は心の底で、強さに飢えた生き方に辟易へきえきしていたのだ。それを坊主は気づかせてくれた。今になって考えるに、坊主は自分の所業をやめさせるためにやってきたのであり、自分をさとし来たわけではないように思う。だが、結局は思い通りになってしまった。

 あの坊主のことを恨んでいるわけではない。妖怪としても道を外れていた自分のことを、人間の分際で引き戻してくれたのだ。むしろ感謝の念すら感じている。


 それからすぐに、大坂は三大妖怪の統制を受けることになった。

 絶対的な力を持つ三大妖怪を秩序として、人間との共存の道が選ばれた。人間の社会との間に、明確な線引きがなされるようになったのだ。

 秩序を乱すような妖怪は排除される。 

 大坂は特に反乱勢力が多く点在していた。三大妖怪の勢力は、すぐに取り押さえにかかった。

 人間を喰わなくなった自分は、周りの妖怪から奇異な目を向けられるようになった。それもそうで、今まで生きているものは見境なく喰ってきた妖怪が、突然大人しくなったのだ。

 だが、それをきっかけに事は悪い方へ向かっていた。

 どうも、自分が根城としていた場所―――泉州のあたりで、自分は他の妖怪達のおさえになっていたようなのだ。目だった動きをすれば喰われると思い、妖怪共は皆息をひそめていたのである。

 しかし、恐怖の象徴であった自分が、突然ぱったり大人しくなった。

 どうしたことか。寿命でも来たかはたまた他の妖怪にやられたか。

 とにかくこれは妖怪共にとって絶好の機会に違いなかった。

 妖怪共は我先にと自分のことを捉えにやってきた。

 泉州ではそれなりに名のある妖怪であった自分を三大妖怪に差し出せば、今までの行いを見逃してもらえるかもしれない。ひょっとしたら、配下にでも加えてもらえばもっと美味しい汁がすえるかもしれない。そう計算してのことだった。

 自分は、逃げも隠れもしなかった。

 今まで多くの妖怪や人間をほふってきたごうが、今になって巡ってきたに違いない。そう思うことにしたのである。


「お前があの女郎蜘蛛・地獄太夫・・・か。」


 まるで奪い合うように襲われ、ひっとらえられた自分は見るも無残な姿で、三大妖怪の目の前にさらされた。

 三大妖怪―――区分でいうと、中央を治めることとなったその妖怪は、鬼であった。浅黒い肌に、短く刈り込んだ青髪の鬼である。

 その鬼は、自分と後方をじろじろと往復して見る

 後ろでは、自分を捉えた妖怪共がへこへこと三大妖怪の顔色を窺っていた。


「そうでございます。これが今まで泉州の地を好き勝手に荒らしていた、女郎蜘蛛じょろうぐもでございます。」

「で?これがどうしたってんだ。」

「御冗談を。皆まで言わせないでくださいよ。今までこの女が泉州を仕切って、三大妖怪様に対して反乱を起こしていたのでございます。」

「ほう。それで?」

「我々は三大妖怪様の御力になるべく、こうしてこの女をひっとらえたのでございます。」


 その妖怪は自身たっぷりにそう言い切った。

 なんともまあ、呆れるほどの大ぼら吹きだ。いっそ清々すがすがしい。

 自分はそれに対して何も言い返さなかった。言ったところで、すぐに否定される。

 そんな様子を、鬼はまるで興味なさそうに聞いていた。そして、頭をかくと、「はーっ」と大きくため息をついた。


「別に俺はお前らを配下にするつもりもねえし、この女の首なんかに興味はねえ。何が言いてえのかっていうとだな・・・」


 おもむろに、その鬼は手を前に突き出した。


「誰に向かって口きいてんだ、小物こもの共が。そんな見え透いた嘘で俺を騙せると思っていたか。」


 次の瞬間には、その手の中に先ほどまで喋っていた妖怪の首が握られていた。

 そして、尾には容赦なくその首を握りつぶした。

 他の妖怪共は、わあわあと声をあげて逃げ出そうとする。

 だが、控えていた鬼の配下の手で全員殺された。

 残されたのは、自分だけである。

 予想していなかった事態に、呆然とした。

 殺されることを恐れているわけではない。ただ、頭がこの状況についていくことができず、感情や思考がちゃんと形にならなかったのだ。


「さて、どうするかな・・・。」


 そんな時である。

 ふいに、鬼の後ろからひとの姿が現れた。すぐにそのひとかげは、人間に化けた妖怪だと分かった。


「あんたか・・・。びっくりさせんなよ。」

「どうせ気づいていたくせに。私は最初っからここにいたわよ。」


 そのものは、息を飲むほどの美女であった。

 月明りを糸にしたような白銀の髪に、見る者の命を吸い取ってしまうような瞳。ほんのりと紅く色づいた唇は弧を描き、その鬼に向かって鈴を転がすような声で語り掛ける。


「その子、どうするつもりなのかしら?」

「どうもこうもねえよ。殺すつもりはねえし、その辺に放り捨てとけばいいだろ。」

「ふうん。」


 美女はそういって、こちらに紅と瑠璃の色違いの瞳を向けた。

 それは、品定めをするような目だった。やりて婆のような価値を見定める目、というよりも、まるで自分のことを試しているような目だった。


「じゃあ、私にちょうだい。」

「はあ?」


 男は素っ頓狂な声をあげる。

 だが、それよりも自分自身が一番驚いていた。

 

「いいじゃない。捨てちゃうなんてなんてもったいない。」

「あんた正気か?犬でもあるめぇし、こんなもんほいほい拾うようなもんじゃねえぞ。」

「あんただって拾ってるじゃない。」

「ああ?」

「知ってんのよ。最近あんたがどこぞの出自の分からない妖怪を拾ったってね。珍しいじゃない、謹厳実直きんげんじっちょくの権化みたいなあんたが妖怪を拾うなんて。何?急に人らしい情でも湧いちゃった?」

「ちげぇよ。野に放り出しておくには、惜しかっただけだ。」

「へえ。ま、私も同じようなもんよ。」

「ふん、どうだか。」

「そ・れ・に、私に逆らうつもりかしら?」


 鬼はぐっと言葉に詰まった。難しそうな顔をするだけで、何も答えない。

 まさか、本当なのか?

 三大妖怪を上回る妖怪が、この得体のしれない美女だというのか。


「・・・・・っはー。好きにしろ。」

「ふふ、ありがとね。」


 鬼は吐き捨てるように言って、この場から立ち去ってしまった。 

 残されたのは、美女と自分の二人。

 美女は、真っすぐに自分の所へ歩いてきた。 

 近くで見ると、余計彼女の美しさが際立った。

 思わず、自分は身構える。


「なんで、あたしなんかを。」


 他にも何か言う事があるはずだったのに、開口一番に自分が口にした言葉は、それだった。


「私が気に入ったからよ。」


 しかし、美女はあっけらかんと言った。 


「へ?」

「そうねえ・・・しいて言うなら、その目が気に入ったからかしら。星が散っているみたいで、とっても綺麗。」


 そんな理由でか。配下として使えそうとか、そういうものじゃないのか。


「そうだ、あなた名前は?」


 びっくししている自分をよそに、美女は話しを続ける。

 

「名前は?」

「・・・地獄太夫と呼ばれておりました。」

「あら、面白い。蜘蛛は地獄からすくい上げるものなのにねえ。あなたはどっちかと言うと、数多の男を地獄に落としているわよね。まあ、私が言えた口じゃあないけれど。」


 美女は楽しそうにころころと笑う。

 子供のように笑うひとだ。


「でも、地獄地獄なんて呼ぶのは嫌だわねえ。」

「別に、構いません。」

「私が嫌なの。」

 

 美女はその場でうーんと考えこむ。

 そして、何か思いついたようだ。ぽんと手を打ち、自分の方へ向きなおる。


「あ、そうだ。織星なんでどうかしら?」

「おり、ほし…?」

「そうそう。あなたのその目を見ていたらふと思いついたの。」


 美女は満足そうに、うなづいた。


「まあ、気に入らなかったらそのまま地獄を名乗っていなさいな。私は織星って呼ぶから。ちゃんと返事だけはしてね。」


 美女はそう言うと、パチンと指を鳴らす。

 すると、突然織星を縛っていた縄が燃えあがった。

 その炎を見て、織星はこの美女が一体何者なのか、思い当たった。


 平安の世に、人間達から妖怪を守ろうと立ち上がった三柱の妖怪がいた。その三柱の妖怪に対し、畏怖の念から三大妖怪という名が使われるようになった。

 しかし、“三大妖怪”という名は今では違う使われ方をしている。日本を三つに区分した土地を治める、三柱の妖怪に対して使われる言葉である。そのため、最初に三大妖怪と呼ばれた妖怪三柱と、三大妖怪は違う顔ぶれである可能性は、大いにありうる。

 

「あ、あなたはまさか」

「もう引退してるから、元だけどね。」


 元三大妖怪・九尾の狐―――みずめはそういって、ぺろりと舌を出した



○●○



 それから、織星はみずめに付き従うようになった。

 その時はまさか吉原の街をまるごと織星に任せてくるとは思いもしなかったが、それは彼女なりの織星に対する評価だったのだろう。

 彼女が自分を置いていったことに、全く恨む気持ちはない。もともと道端に捨てられるはずだった自分を拾い、さらには居場所まで与えてくれたのだ。恨むなんてとんでもない。むしろ、感謝している。

 だから、今度は自分がこの街を守らなくてはならない。


 織星は、糸を手繰る。


「わっちはこの街のあるじでありんす。責任をもって、地獄太夫の名のもとにそなたをあの世へ送りんしょう。」


 操糸術そうしじゅつ―――累絃かさねいと


 幾重にも折り重なり、振動を跳ね返す。


「まさか、我が術を反転したのか!?」

「弦は空気の振動によって音を奏でる。あなたの術を反復させていただきました。」

小癪こしゃくな!」


 玄象が琵琶をかき鳴らし、音波が空間で波打った。

 返せないよう、連続波を生み出す気なのである。

 織星が糸をたぐる指を小刻みに動かした。

 糸は一つも漏らすことなく振動波を跳ね返す。

 

「馬鹿な・・・!」


 琵琶がびよおぉんと、鳴き叫ぶような音をあげる。

出鱈目な振動波は、軌道が読み安い。


「おさらばえ。」


 幾重にも連なった振動波を、織星の糸が切り刻む。


 操糸術―――殺目あやめかご


白刃の糸が綾目を織り成す。そして、わめく琵琶牧々を、糸の檻が包み込んだ。

 織星が手を握りしめると、糸が鮮血に染まった。


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