子と親と秋桜

愁の一日


◇◆◇



 布団の中で、愁は寝返りをうつ。

 まぶたの奥が少し明るくなっているような気がする。朝が来たのだ。

 愁は浮き沈みする意識のどこかでそう感じた。

 感覚器官は起きているのだが、意識の半分は眠っている。暖かい水の中を漂っているような感覚だ。ひどく心地が良く、起きていたはずのもう半分の意識までずぶずぶと引きずり込まれていく。

 もう少しだけ、このまどろみにひたっていたい。

 そう思って、布団に潜り込もうとした時だ。

 鋭利な殺気を感じた。

 瞬間。 

 顔のすぐ横に拳が落ちてきた。 

 

わかァ、いつまで寝てんすか。」


 目の前にはにんまりと意地悪そうに笑った熊樹の顔がある。

 愁は一気に覚醒した。


「毎度思うんだが寝起きに襲い掛かってくるのはどうなんだかねぇ・・・!」


 愁の一日は、まずは熊樹ゆうきとの手合わせから始まる。

 これは、幼い頃からの彼の習慣だ。

 

 妖怪にとって、己の力を知り、使いこなすことは人間でいう呼吸をするのと等しい。戦うことが生活の一部なのだから、わざわざ訓練をする必要はないのだ。

 しかし、人間と共存をする道を選んでから、妖怪の生活は大きく変わった。裏社会はさておき、人間とほぼ同じ生活をするようになった表社会の妖怪には力を使う場がほとんどない。そのため、力の使い方を知らないまま一生を終えるような妖怪が徐々に増えつつあるのが現状だ。

 愁は普段は高校生として、表社会で生活を送っている。これは、夜叉の強い意向からだった。東の地の裏社会をほぼ牛耳っている夜叉がなぜそのような道を愁に与えたのかは分からないが、愁は別に不満に感じてはいない。むしろ、部活などの学校生活を通じて充実した日々を送っている。日々の生活で出会う人々が、まさか愁が半妖怪だなんて思わない。だが、妖怪達からすると、愁は裏社会のドンの実の孫であり、ちょっとした有名人だ。それなりに顔がわれてしまっているので、敵対する組の構成員から何度か襲撃を受けたことがある。そのような事態になると一人で五人も十人も相手にしなければならないことはざらにある。相手が酒呑童子とあれば、彼等にとって小学生だろうとなんだろうと関係ない。相手は全力で殺しにかかってくる。

 幼少期からこのような非日常に無理やり巻き込まれてきたので、愁は普段から訓練と称して大江山組の構成員を相手に日々鍛錬を積み、着実に実力をつけているのだった。


 しかし、だからといって目覚まし変わりに拳やら蹴りが飛んでくるのはどうなのだ。おかげで愁は朝の目覚めだけはとにかくよい。

 愁は布団をはねのけ、熊樹の視界を遮る。

 ボスンという音がして、布団が床に叩きつけられた。

 そのわずかな隙をついて横に転がり、愁は熊樹に攻撃をしかける。

 右側頭部に拳。

 熊樹はそれをノールックで受け止め、反対の手で愁の顔面を狙う。愁はぎりぎり首を曲げてその一撃をよけた。

 だが、左わき腹にが走る。

 拳ばかりに気を取られていたせいで、足元に注意がいっていなかった。

 愁は熊樹の鋭い中段の蹴りによって障子を突き破って中庭に放り出される。

 受け身をとってすぐに態勢を整えようにも、それを待ってくれるような優しい性格を熊樹はしていない。

 手を地面について顔をあげると、かかと落としが迫っていた。

 愁はすんでのところで飛んで避け、熊樹が着地した瞬間に足払いをかけにいく。

 熊樹はあっさりとそれをかわした。


「でも、ほんとにどうしちゃったんすか?」


 蹴りと拳の応酬が続く間であるが、熊樹は普段と同じような調子で問いかけてくる。こちらを挑発するような口調は、分かっていてやっているのだ。


「別に。苦手なモンを無くしておいて損はねえだろ。」


 愁はできるだけそっけなく答えた。

 つい先日までは竹刀による打ち合いをやっていたが、愁からの強い希望で素手による組手に変わったのである。

愁は体術よりも剣術の方を好んでいた。というよりも、むしろ体術を苦手としていた。

 愁は普段から〈お守り〉と称して蘭のお手製の守刀を身に着けてはいるが、やむおえなく素手で戦わなければならなくなるかもしれない。そう考えて熊樹はなんとかして愁に体術を身につけてもらおうと頭を悩ませていたが、どういうわけか愁自ら体術の実践練習を申し込んできたのだ。熊樹としては僥倖ではあったが、その理由が気になって仕方がない。


「ご友人のどなたかに一度ボロボロに負けたとかっすか?」

「んなわけあるか!」


 思わず愁は深く熊樹の懐に踏み込む。

 しかし、脇腹に向けて放たれた愁の拳は宙をかいた。

 ニヤリと熊樹が不敵に笑ったかと思うと、愁の視線がガクンと下がる。

 熊樹にまんまと誘いこまれたのだ。

 

(やべ)


 気づいたときにはもう遅い。

 なんとか踏ん張ろうとしたが、愁の重心は下に崩れる。

 見本のようにきれいに大外刈りを仕掛けられ、愁はあっけなく地面に引き倒された。

 

「ちっ、やっぱくまは強えや。」

「いやいや、若もなかなか線が良くなってきたっすよ。」


 決着がついたタイミングを見計らったかのように、屋敷の方からガンガンと鍋を叩く音がした。

 虎太朗である。


「二人ともー、朝食の支度が整いましたよー。」


 虎太郎の声を聴くと、ゆるゆると体の緊張がほどける。

 訓練中に打たれた箇所の痛みはすっかり忘れられ、その変わりに今日の献立に思いをはせる。愁の頭は既に朝食にシフトチェンジされていた。

 すぐにでも座敷に駆け上がろうとする愁を、虎太郎が抑える。


「その前に、まずはシャワーを浴びてきてください。」


 こうして、訓練によって泥だらけになった二人を虎太郎が風呂場に連行するまでが一連の流れである。




◇◆◇




 シャワーを浴びてから座敷へと行くと、既に配膳の支度が整えられていた。

 配膳というと上品で響きはいいが、ここに用意されているのは料亭のような品ではない。分厚く巻かれた卵焼きに美味しそうな鮭の塩焼き、具沢山の味噌汁。まだ湯気を立てている炊き立てのご飯。小鉢には溢れんばかりにうま煮が彩りよく盛りつけられている。和食がメインではあるが、しっかりとボリュームのある献立だ。質と量の両方のバランスを兼ね備えた虎太郎の料理は、大江山組構成員全員から絶対的な信頼を寄せられている。

 普段ならもう少し集まってるはずだが、今日に限っては愁が一番のりだったようで、旅館の大広間のような大きな座敷はまだがらんとしていた。

  大江山家の朝食は基本、組員全員が座敷に会して食べるのが習慣だ。

 愁の席は組長の孫であるだけに、座敷机の上座側に場所が用意されている。個人的にはそんな特別扱いをしてほしくないのだが、断れば強面の組員達が見捨てられたチワワのような顔をするので、だまって用意された座布団に腰を下ろすしかない。

 文字通りの据え膳を前にして待たされるのはつらい苦行ではあるが、何かと仕事の多い構成員達をさし置いて自分だけが食事にありつくのはよくない。腹の虫が暴れるのを抑え込みながら、愁は辛抱強く構成員達が集まるのを待った。

 とはいっても、朝食の時間は決まっているのでそう何分も待つことなく、構成員達の姿が見え始めて。各々自分の席に座ると、談笑したり愁に声をかけてくれる。

 そうしているうちに、突然部屋の空気が変わった。襖がスパンと開くなり、きりっと引き締まる。

 襖の向こうから現れたのは、夜叉であった。隣には蘭がいる。二人の後から虎太郎、熊樹、甘夏が続いて入ってきた。


「お疲れ様です。」

 

 合図なしに揃った声で構成員全員が挨拶をする。


「おう、おはよう。みんな元気そうだな。」


 座敷を見回して、一つも席に空きがないのを確認し、夜叉は笑みを口元に浮かべた。

 座敷には上座には夜叉、蘭が、幹部連中が並び、それから先は階級に応じてずらりと並んでいる。こうしてみると、やはり自分の祖父の力の強大さが伺えた。

 夜叉は席に着くなり、大きな音を立てて手を合わせた。


「いただきます。」

「「いただきます。」」


 余分なことは決して言わないし、面倒な工上は決して述べない。そうでなければせっかくの朝食が冷めてしまう。

 だからこそ、大江山の朝はシンプルに始まる。

 このちょっとした儀礼のような瞬間が、愁は少し好きだった。


「愁、お前今日も熊に負けただろ。」


 食事が始まるなり、愁は夜叉にそう言われた。

 「顔に負けましたって書いてあるぞぉ。」と、夜叉はにやにやと笑いながら愁の額をつんつんとついてくる。

 ムカつく上に、うっとおしい。愁は口を動かしながらその手を払った。


「うるせー。そのうち手前からも一本取ってやるから覚悟してろよ。」

「その前に、まずは熊樹を倒しな。」


 蘭にそう言われ、愁はむっと眉間に皺をよせる。


「ま、あんたじゃ熊樹を倒すのに五十年くらいかかるんじゃないかい。」

「はっはっは!蘭の言う通りじゃ!」


 「今に見てろよ」と内心で愁はつぶやいた。

 しかし、実際に今まで夜叉に相手をしてもらって勝てたためしはない。それどころか、熊樹から一本も勝ち取れたことがない。

 正直、蘭から言われて少し焦った。

 いつまでも自分はこのままなんじゃないか。ずっと弱いままなのではないか。

 いつもは心の奥に隠しているが、常に付きまとい続ける不安が突然迫ってきたようだった。

 しかし、愁はすぐにその不安を無理やり奥にねじ込んだ。

 そんなことでうじうじ悩んでいる暇があったら少しでも努力した方がいい。余分なことで頭を一杯にしたらもったいない。

 愁は目の前の朝食を味わうことを優先させることにした。


「ところで、あんた時間は大丈夫なのか?」

「ん、今日は9時頃向こうに着けばいいから全然余裕。」


 蘭に言われて時計を見ると、針はもうすぐ七時半を指そうとしていた。

 今日は黒羽やいなり達と学校の近くにある喫茶店、〈月ノ屋〉で待ち合わせをしている。〈月ノ屋〉があるのは八王子市八坂町、都内の中心からは外れた場所にある。対して、愁が現在住んでいる大江山組の邸宅は千代田区千代田市に構えられている。少し離れてはいるが、スポーツ推薦で入ることができる高校だったのでここに決めたのだ。

 授業がある普段なら、電車との兼ね合いもあってこの時間にはもう家を出なくてはならないが、今日は学校に行く必要がない。なので、時間に余裕はある。 

 愁の意識が再び朝食に向いていた時である。


「あ、そうでしたの。若に渡すものがございますの。」


 甘夏が慌てて懐を探り始めた。

 愁はなんだろうかと首をかしげる。


「こちら、若宛に届いていましたの。」


 甘夏から手渡されたのは封筒だった。

 地味な茶封筒である。保険会社や塾の勧誘なんかの書類であれば、愁の目に留まることなく甘夏が綺麗に処分するはずだ。

 つまり、そういった類のものでない。

 だが、愁はすぐにその封筒が何であるのかわかった。


「・・・おう、ありがとよ。」


 返事をするまでに少し時間がかかってしまった。

 何か言われるかと思ったが、甘夏は何も言わずに自分の席に戻っていった。たまたま話を聞いていた周りの構成員達も、別の話題に切り替わっている。

 愁は内心でほっとする。

 しかし、それもつかの間だった。


「もうすぐ、十回忌か。」

 

 話題をふったのは夜叉だった。


「ああ。」


 愁はできる限り何事もなさげに応える。

 決して感情を見せてはいけない。今日の天気について話しているのと同じように、話せばいい。


「行ってやらねえのか。」

「行かねえ。」


 夜叉の鋭い眼光が愁を見据える。

 愁は負けじと見返した。


「お前、ずっと向こうに顔出してねえだろ。」

「出すつもりねぇからな。」

「愁。」


 愁はおし黙った。

 ただ名前を呼ばれただけである。だが、その一言はそれ以上言い返すことを断じて許さないような圧を含んでいた。

 しかし、その言葉の覇気に対して、夜叉は悲しげな眼をしていた。


「墓参りくれぇ、行ってこい。」




◇◆◇




 電車の扉にもたれかかりながら、愁はぼんやりと甘夏から受け取った封筒を眺めた。焦点の合わない視界で眺めたそれは、ただクズゴミのようにも見える。

 差出人の名前は見るまでもない。

 手で無理やり封を破り、中身を取り出す。

 出てきたのは、たった一枚の紙だ。こじゃれた便箋ではない、本当にただのコピー用紙である。紙には手書きで細かく文字が書かれていた。

 その文を数行も読まないうちに、愁はぎしりと歯ぎしりをした。

 スマホのあるご時世で、わざわざこんな時代遅れも甚だしい紙媒体をよこす奴を、自分は一人しか知らない。

 愁の手の中で、ぐしゃりと紙がゆがむ。

 だが、ぐしゃぐしゃになった紙よりも、彼の顔の方が、ずっとひどかった。

 普段見せるような、腹の底からの明るい笑顔はそこにはない。

 彼の中では鉛を喉から流し込んだような嫌悪と、沸々と湧き上がってくる憎悪が渦巻いていた。

 それほどまでに、この一通の手紙の差出人は、愁の感情をかき乱した。


「今更何のつもりだよ。・・・糞親父が。」

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