第13話


 由利を突き飛ばし、湯船の中に転がす。隣で万里子がスマホのライトをつけた。


「こっちは準備オッケーよ」

「わかりました。では……」


 ライターを圧し折り、由利の口へと近づける。そして、ゆっくりとひっくり返した。


「うっ」


 鈍い衝撃音に万里子の呻き声が聞こえ、続いて甲高い金属音が部屋の中に響いた。万里子の頭上に鉄格子が落下したのだ。さらにその上に男がのしかかる。


「菊川クン! 間に合ったかな? 憧れだったんだよねぇ。こうやって登場するの。いやー、通気口の改装しといてよかったよー。って、そのライター、毒じゃないの!?」

「ああ、これですか? ただの百円ライターですよ。中身はブタンガス。割って中の気圧を変えてしまえばすぐに揮発して空っぽになります」

「なぁんだ。そうなんどぁあああ」


 下敷きになっていた万里子がはやとを跳ね除け立ち上がった。以外に力は強いらしい。まだまだピンチは脱せそうにないな。


「良くも騙したわね!」

「それはお互い様でしょう? さて、由利さん。動けますか?」

「は、はい」

「私が! 話してるのよ! それに何なのよ、この男は!」

「このホテルの社長ですよ?」


 せっかく質問に答えてやったというのに、万里子は何のアクションも起こさずぽけーっとしている。そのまま思考停止を続けてくれればありがたいのだが。


「……そう。そうやって私をコケにするのね」

「まあ、待ってください。どうやってこの人がここまで来たか説明しますから」

「もう、そんなのどうでもいいのよ! 殺してやる! 殺してやるぅうう!」

「無駄ですよ。あなたの負けです。助けが来たってことは外には他に警察がいっぱいいるってことですから」

「嘘よ! 警察が来るなら、私に連絡が来るはずだもの!」


 まったくもってその通り。予め連絡していれば勘付かれると思って一切の救援を要請していない。用意できたのは翔だけだ。ま、それも一旦は途切れていたけどな。


「いやいや。どうやって連絡を寄越すっていうんです? 私がずっと監視していたのに。そんな暇なかったじゃないですか」

「それは……でも……」

「さあ、諦めて投降してください」


 万里子がだらりと手を垂らし、俯く。ブツブツと低く小さな声で何かを唱えているが、聞き取ることはできない。そして、その声は急に大きくなった。


「アハッ! アハハッ! アハハハハッ!」


 最後まで読めないやつだぜ、まったく。


 まっすぐ突き出してきた腕をかわし、掴む。手には猛毒の入った注射器。触れれば問答無用で即死だ。しかも、衝撃で中の液体が飛散しようものなら、部屋中の全員がお陀仏の可能性だってある。

 額を汗が流れるが、気にしていられない。目に入らないことを祈りつつ、万里子の動きに集中する。

 注射器を持つ手の指が動くそれを阻止する。お互いの力が拮抗して注射器が震える。激しく動けば動くほどに、猛毒が解き放たれようと足掻き、針先から顔を出す。

 あー、クソ! 肉体労働は専門外なんだ。いくら動きが読めたとしても限度がある。


「菊川さん!」

「き、菊川くん!」

「動くな!」


 多人数で飛びかかれば、それだけ漏れ出た毒に触れる可能性が高くなるのだ。口と目を閉じて壁を向いて震えてろよ。


「ウフ。アハッ。アハハハハッ」

「いい加減やめろよ! その高笑いをよ!」

「エヘ。クフッ。アハハハハッ」


 バスルームの壁に反響する声が脳までもを揺らし、思考の邪魔をしてくる。妙に頭がクラクラするのはどうしてだ? こんな狭い部屋に四人。酸欠だろうなぁ。

 まとまらない頭で余計なことを考えるな。そんな余裕はないだろ!


 急に万里子の足が動いた。


「しまっ……」

「アハッ」


 膝を蹴られ、姿勢が崩れる。語尾に星でもついていそうな万里子の笑い声が腹立たしい。自分に言い聞かせるためだけに脳内メモリーを割くとか、馬鹿かよ……。


 その時、カチャリと音がした。


「止まりな。死ぬぞ」


 密室に、タバコの残り香が漂う。クチャクチャとガムを噛んでいそうな様相に、瞳は怒りに燃え滾り、しかし、腕はその怒りに震えることはなく、万里子の後頭部に突き付けられた銃口は冷たい殺意を静かに放っていた。

 動かなくなった万里子から注射器を奪い取る。ニヤケ顔で膝をついた万里子の手におやっさんが手錠をかけた。


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