第12話
柔らかな絨毯の廊下に、薄紫色の壁。内装は従業員の努力のおかげか
「ああ、高橋さん。夜分遅くに申し訳ありません」
「あら、菊川さん。どうしたの?」
「スタチマコチンってご存じですか?」
顎が下がり、眉が上がる。僅かに開いた唇は驚きの証。つまりは関係者という訳だ。しかし、続く万里子の返答は俺の予想に反したものだった。
「え、えぇ。知ってるわ。でもどうしてその名前が菊川さんから? 警察関係者しか知らないはずなのに……」
嘘はない。どういうことだ?
「知り合いの警察に話を伺いまして。ファリーンって店、ご存じですか?」
「確かスタチマコチンが料理に混入したって事件があった……」
「そうです、そうです。実は私、その時、店に居まして」
「なるほど、それで……」
頷き、言葉を続ける。
「それで、スタチマコチンがどうしたの?」
「いえね。事件に巻き込まれた身としては、どんな毒物なのか知っておきたくてですね。だから、高橋さんならご存知かと思いまして」
「流石は菊川さん。何でもお見通しなんですね。それも占い? あ、どうぞ。こんな所で立ち話もなんだし」
万里子が扉を大きく開き、俺を手招く。嘘をついている様子も、怪しい仕草もない。何かを隠しているというわけでもなさそうだ。本当に無駄足だったのか?
だが、おかしいと俺の本能が叫んでいる。正体はわからない。ただ、漠然と何かが引っかかるのだ。
俺の先入観がそうさせているのかもしれない。筆跡を見たときから、今までの万里子の行動が怪しく見え始めたのだ。
物品を大量に買えるだけの現金を持ち歩いていたこと。風呂のある屋上ではなく、玄関ホールにいたこと。事件後、下で見なかったこと。
全ては偶然の一言で片付けられる。だが俺は、自分の本能に従うことにした。
「えぇ、お邪魔します」
扉をくぐると、奥は細い通路となっており、左にクローゼットが、右にはバスルームの扉があった。さらに奥、メインとなる部屋には、一人で寝るには大きすぎるベッドが二つに、化粧台やテレビなどが一通り揃っている。
俺たちは窓際の席に机を挟んで座った。窓から見える夜の街は労働者のための電灯で輝いている。
「高橋さん。早速なのですが、スタチマコチンについてお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええっと、菊川さんならもう見抜いているのかも知れないけど、私、法医学者なのよ。この地域の司法解剖を担当することが多くて、その時のご遺体からスタチマコチンが検出されたの」
一旦言葉を切り、万里子は窓の外を見た。窓に反射する顔は夜景が邪魔で読み取りにくい。
「どうしました?」
「あの~、申し訳ないんだけど、携帯の電源を切ってもらってもいい?」
「それは構いませんが……」
「これから話す内容は機密情報だから、携帯にウィルスが入っていて、遠隔で盗聴なんてことになっちゃうと困るのよ」
やはり嘘はついていない。声色も、行動も、怪しいところはない。本当に心配しているようだ。……まあ、いいだろう。俺は電源を切って机の上に置いた。
「それと、胸ポケットの物も……」
バレている? ブラフか? いや、確信を持って言っているようだ。ボイスレコーダーも封じられるとは。だが、スマホの電源を落とした以上、こちらも落とさなければ疑念を残すことになる。
「おお、そうでした。忘れていました。でも、よく気が付きましたね」
「医学を学んでいると、身体の傾き方である程度わかっちゃうのよ」
「ああ、なるほど。……はい。これでよろしいでしょうか」
「ありがとう」
机に並んだ機械をみて、万里子はニッコリと笑うと席を立った。
「実はスタチマコチンって、私が命名したんですよね。あ、こっちにどうぞ」
資料でもあるというのだろうか。しかし、歩いていった方向に荷物はない。やがてまりこはクローゼットの扉に手をかけた。
「なっ……!」
扉を開くと同時、中から気を失って倒れている由利が飛び出してきたのだ。
「うふふ。菊川さんにもわからない事ってあるのね。もしかして、占いって万能じゃないのかしら」
「私……あれ、菊川さん?」
「はぁい、黙って? 私が菊川さんと話してるの。黙ってないと殺すわよ?」
「……ッ!」
まりこは由利の髪を掴んで持ち上げ、首筋に注射針を当てた。
何故だ。なぜ気が付かなかった? だが、こいつは一切嘘をついていないはずだ。うまく情報を隠してミスリードさせられたのか? いや、少しでも違和感があれば気付けたはずだ。ミスリードさせようという意思も、嘘をつくことと何ら違いはない。徴候は出たはずだ。
そこで俺はようやく違和感の正体に気が付いた。珍しくはあるが、決して零ではない可能性。にわかには信じがたいが……。しかし、それしか考えられない。
「だぁれも私がスタチマコチンを作っているだなんて思わないんだもの。びっくりしちゃった。ヒントもあったのにね」
「……ヒント?」
「あまりに捕まらないものだから、ちょこっとだけね? だって、おかしいでしょ? 警察が新種の毒だってスタチマコチンって呼んでるのに、世間に出回ってる時もおんなじようにスタチマコチンって呼んでるのよ? それって変じゃない? 出回ってるスタチマコチンは開発者の私が名付けて、死体から発見されたスタチマコチンは法医学者の私が名付けたのよ?」
ああ、随分と楽しそうだな。人を騙す喜びは俺もよくわかっているよ。騙されるのは久しぶりで、ハラワタが煮えくり返りそうだがな。
建前、保身、虚栄心。人間はいつだって嘘をつき、世界はそれで回っている。建前で無用の争いを避け、保身で罪を減らし、虚栄心で己を満たすのだ。いつだって嘘は世界に満ち溢れていて、その世界で生きる人間は嘘がなければ生きていけない。
けれど俺は万里子が嘘をついた所を見たことがない。あまりにも異質。あまりにも不条理だ。
嘘は少なからず人間にストレスを与える。嘘はいけないことだと、嘘は恥ずべきことだと、教育されるから。ならば、そのストレスから開放される為に進化するのは当然の結果と言える。言えるのだが、ここまで特化したやつを見るのは初めてだ。
サイコパス。嘘を嘘と感じない特異体質の存在。嘘をつくその瞬間から、それを事実と認識し、発言する。まるで、嘘をつくためだけに最適化されたかのように。
ああ、クソ! 完全に先手を打たれた。密室に、外への連絡手段を失って。なぜ見抜けなかったんだ。手掛かりはいくらでもあっただろうが。
いや、今はそんな事よりも現状の打破を優先しろ。後悔なんて後でいい。とにかく、窮地を脱することに注力するんだ。
「これは参りましたね。全然わかりませんでしたよ。私も精進が足りませんね」
「うふふ。まだお若いんですもの。大丈夫ですよ」
「ははは。そうだといいんですけれどね。しかし、どうしてこんなことを?」
「そりゃあ、こんな可愛い子を見つけたらお持ち帰りしたくなっちゃうじゃない?」
「……嗅ぎ回るのをやめてほしいからと要求したのでは?」
「あら、そうなの? じゃあ、そういうことなのよ。なんだかハエが五月蠅くってねぇ」
言葉に惑わされるな。感情を読み取れ。真相なんてどうだっていい。相手の思考を誘導して、有利な状況を作るんだ。
思考誘導の鉄則は相手の思考を鈍らせること。そして、相手に否定をさせること。他者を否定することで、自分の優位性を示そうとするのが人間の本質だ。あとは、適当なところでその膨れ上がった自尊心に穴を開けてやればいい。
「身代金は要求しなかったんですか? いや、お金ならたくさん持っていらっしゃいますもんね。必要ないですか」
「そんなことないわ。お金は重要だもの。何をするにもお金お金って。ホント、嫌になっちゃうわ」
「あれ? 意外とお金持っていないんですね」
「そうなのよ。恵んでくれる?」
「またまたー。結構儲けていたんでしょう? スタチマコチンを売って。加藤さんにお聞きしました」
「加藤? ああ、あの人ね。従順で助かっちゃった。でも、喋っちゃったのねー。残念。気に入ってたのに」
「臆病な人でしたから、強い人に惹かれたのでしょう」
「菊川さんは何でもお見通しだから。でも、私も強いのよ? だって、ほら。今菊川さんはピンチなんだし。さっき自分でも認めたじゃない?」
「強いの定義は人それぞれじゃないですかね? 途方も無い財力を持っていれば人は付き従いますし、めちゃくちゃにモテる人はおこぼれ目当てで群がる人もいますよ。高橋さんの場合は恐怖で抑えつける力でしょうか」
下に見ていたやつに馬鹿にされる気分はどうだ? 怒りは人間の思考をどんどんと奪っていく。さあさあ、その灰色の脳細胞を真っ赤に燃え上がらせろ。
「あら、そんなことないわよ。私だってお金はいっぱいあるし、昔はモテたんだから」
「おや、そうでしたか。先程お金を恵んで欲しいと言っていたので、てっきりないものかと。それと、恋愛運上昇の為のイヤリング、今もおつけになられているんですね」
「へぇー。ふーん。そういうこと言っちゃうんだ。そっか、そっかー」
怒りで固まっていたはずの筋肉がふっと緩む。ヘラヘラと楽しそうに、由利を引きずってメインルームへと移動した。
「菊川さんって、こっちの人間だと思ってたから、せっかく仲間に入れてあげようと思ったのに」
「はい?」
「初めてあなたと話したとき、私、ビビっと来たのよ。ああ、この人は同類なんだって」
「……どういうことです?」
「自分の目的のためなら、なんだってする。私は研究で、菊川さんはお金よね? 他のことなんて、どーでもいいの。違う?」
「それは……」
「やっぱり、……価値観が近い人と一緒にいる方が楽しいでしょ?」
「菊川さんは、そんな人じゃ……!」
「黙ってないと、本当に殺すわよぉ。スタチマコチンを打ち込まれた人体の経過観察なんて、したことないからワクワクしちゃうわぁ」
注射針でプクリと透明な液体が水玉を作った。注射器から空気を抜くための動作。これで実験の準備は整ったというわけだ。
「私にメリットはあるんですか?」
「仲間になった時の? 菊川さんなら、考えればすぐにわかると思うけど」
「ははは、それはもちろんですよ。では、質問を変えましょうか。いくらもらえるんです?」
万里子が顔を歪めて笑う。初めて万里子の心の内を覗けた気がした。
「あはっ! うふふふふ。いいわぁ、いいわよぉ。お金ならいくらでもあげる。望む限りの金額をね。研究の費用じゃ、なくならないくらいに、いーっぱい稼げるの。まずは百万? それとも一千万? 更に進んで一億円? どう? ヨダレが出ちゃうでしょ?」
「……それは、魅力的ですね」
「菊川さんっ!」
「はーい、喋っちゃったー。殺しまーす。けってぇーい」
万里子が再び由利の髪を掴んで持ち上げる。伸びた首筋の白く透き通った肌に青い血管が薄っすらと見えた。
「……高橋さん。私がやりますよ。口約束だけでは信用してもらえないでしょうし」
「へぇ~」
「高橋さんはビデオでも回してください。経過観察なら、録画データがあった方が捗るでしょう。毒ならちょうどここに有りますしね」
俺はポケットからライターを取り出して、プラプラと揺らした。
「……まあいいわ。お願いしようかしらね」
「ありがとうございます。さあ、お別れです。抵抗しないでくださいよ?」
「いやぁっ!」
万里子が手を話した瞬間に、由利は俺にタックルをかました。全力の突撃に俺の身体はよろめき、ベッド横の棚へと激突する。
棚の上にあった物が音を立てて床へと落ちた。花瓶、テッシュの箱、固定電話、万里子の荷物。俺は床に散らばったものを蹴飛ばしながら、由利の上に馬乗りになった。
「大丈夫かしら」
「ええ。女だからと油断しました」
「うふふ。菊川さんって細いものね? もっとたくさん食べたほうがいいわよ」
「これが終わればたくさんお金をもらえるのでしょう? ならそれで沢山食べるとしましょう。……さて、行きましょうか、由利さん?」
横たわる由利の髪を掴み、引っ張る。多少の抵抗は見せるが、もう暴れたりはしない。
「どこへ行くのかしら」
「バスルームですよ。こんな部屋の真ん中で死なれたら、掃除が面倒じゃないですか」
「まあ! たしかにそうね。菊川さんったら、気が利くんだから。なら、私も気を利かせて扉を開けておくわね?」
「助かります」
万里子が俺たちの横を抜け、玄関口の通路へと立つ。そして、バスルームの扉を、通路を塞ぐようにして大きく開いた。
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