第8話
寝起きの曖昧な頭の中でチャイムが永遠に鳴り響く。一体何時だと思っているんだ。俺の安眠を妨害しやがって。俺を起こしていいのはベスだけだ。
そのベスはというと、チャイムの音など気にも留めずに、布団の上で丸くなっている。俺はベスを起こさぬよう、ゆっくりと布団を抜け、玄関へと向かった。時計は朝の八時前。誰だか知らんが、覚悟しとけよ……。
「おう、ようやく起きたか」
玄関前にはおやっさんが立っていた。悠長にタバコを吹かし、ニヤケ顔でそんなことを言ってくる。まだまだ金を献上し足りないらしい。
「……なんですか?」
「様子が気になってな。どうだ、調子は」
「最悪ですよ。それで、要件は?」
建前なんかどうでもいい。二度寝の喜びを俺に早く教えてくれ。
「ああ。
「誰です? それ」
「スタチマコチン混入事件の犯人だよ。ファリーンって店の」
「ああ、あの」
そういえば、店の名前も知らなかったな。
「……そうですか。お疲れ様です」
「心にもないことを。まあいい。一応オメェにも共有しておこうと思ってな」
「それならこんな朝っぱらじゃなくてもいいじゃないですか」
「由利をバイト先に送ったついでだよ。俺だって暇じゃねぇんだ。出勤前の合間を縫ってきてやったんだぞ」
「それはそれは。でも、メールって手もありますよ? 仕事の合間とか昼休みとかちょっとずつ打ち込めばいいじゃないですか」
「一般市民に操作機密を教えてるなんてバレたら不味いだろうが。文書なんて残せるネェよ」
とか言いつつ、メール打つのが面倒くさかったんだろうなぁ。
「前田は店を潰すのが目的だったらしい。店で料理を食べた客が死ねば、客が入らなくなって、潰れると思ったんだと」
「へぇー」
「……最初は生ゴミに毒を混ぜて、カラスを殺して、店の評判を落とすつもりだったらしいが、人目に触れる前に店長や谷岡先生が片付けてたようだ。で、しびれを切らした前田は今回の件に踏み切ったって話だ」
「自分の働いてる店をつぶそうとするなんて、意味が分かりませんね」
「それには同意だ。なんでも、お好み焼きをメニューから取り除かれたのが気に入らなかったらしい。自分の半生をかけた作品をどうのこうの言ってたが、何を考えてるのかわかんネェよ、まったく。お前なら、その辺見透かせるのかも知れないけどな」
「いやだなあ。頭の中身なんて僕にはわかりませんよ」
「どうだか。それで、スタチマコチンの入手経路だが、家のポストに入っていたらしい。カラスの駆除にお使いくださいって手紙と一緒にな。あれだけ大量に所持していたから、バイヤーの一人かとも思ったんだが、そういう痕跡はなかった」
「つまり、また入手経路は不明と」
「ああ。手紙も処分したらしくてな。手がかりなしだ」
「そうですか。わかりました。それだけですか?」
「ああ」
俺の安眠を妨害しといてそれだけで済むわけないよなぁ。もちろんおやっさんも、それはわかっているらしい。
「俺はテロを未然に防いだわけですけど、どう思います?」
「そうだなぁ。市民を守る警察の一人として、尊敬するよ」
「ふざけてないで出すもん出してくださいよ」
「ああ、ああ。わかった。わかったよ。ほれ」
ペラペラの封筒の中身はたったの五万円。無差別大量殺人を防いだというのに、割に合わない。
「これだけですか? 俺が何人の命を救ったと思ってるんですか」
「まあ、一人だな。スタチマコチンは即効性の毒だ。口に入れた瞬間に症状が現れるだろう。なら、そんな飲食店のメシを誰が続けて食べる? だから、誰かしら一人が死んでおしまい。打ち止めだ。よって報酬はこれが妥当」
「はあ……。おやっさん。もっと偉くなってくださいよ」
「努力はするけどな。だが、椅子にふんぞり返るっテェのもな」
「性に合わないですか。はいはい、わかりましたよ。今回はこれで我慢しときます」
「おう、わりぃな」
おやっさんは咥えていたタバコを灰皿に突っ込んだ。話すときにタバコ吸って、終わったらやめるって……。ふつう逆だよなぁ。
「あ、そうだ。おやっさん」
「うん?」
「スタチマコチンのバイヤーを捕まえたら、いくら出ます?」
「協力金か? うーん、まあ、五万くらいだろ」
「おやっさん。俺は最大金額を聞いてるんです。何か方法があるんでしょう?」
「いや。これ関連の事件はこの辺でしか起きてねぇんだ。県を跨いでりゃあいろんなとこから予算を引っ張ってこれるんだが、うちの予算だけじゃあそれくレェが限界だ」
「へぇ」
「……あー、わかったわかった。実はな、捜査資料に改竄された形跡があってな。警察内部の奴らが関わってるってなるとそれなりに予算は降りる。十万は堅いだろうな」
「俺は最大を聞いてるんですよ?」
「……二十。…………あー、もう。わーった。わーったよ。五十だ。それ以上は出せネェ。けど、アレだからな! あくまで、最大だからな! 報酬に見合った情報を持ってこいよ」
「わかってますって」
「はあ。オメェと話してっと寿命が縮まるぜまったくヨォ。あんまがめつくんじゃネェよ」
「そりゃあ、こっちは生活がかかってますからね。仕事がないほうが平和でいいなんて甘えたこと言ってる固定給の人たちとは違うんですよ」
「ヘェヘェ、そうかヨォ」
「というわけで、じゃあこちらにご記入を……」
「ハァ? ヤダよ、オメェよぉ。オメェが占いはじめっと、いつの間にか金がなくなってんだから、やってられっかってんだ」
「そんなこと言わずに、ほらほら」
「あーあー。聞きたくネェよ。あくどい商売してやがるぜ。まったく。じゃあな」
逃げられたか。ま、エレベーター待てずに階段で降りたんだ。今日のところはこれくらいで我慢してやろう。せいぜい運動して現役長く続けてくださいよっと。
しかし、スタチマコチンが無報酬でポストに入っていたとなると、いよいよもって厄介だ。明確な殺意があればまだしも、不特定多数を狙った無差別テロなんか防ぐのはなかなかに難しい。今回は運よく防げたが、厨房の見えない建物だったら、俺があのスープを食っててもおかしくなかった。金もそうだが、命のためにもいよいよ本腰を入れて調べなければ……。
とはいえ、どうすっかなぁ。事件が起きそうな場所にでも行ってみるか? うーん、人が集まって、なおかつ恨まれるやつがいそうなところか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
細い通りに建ち並ぶ灰色のビル。その隙間に突如として出現したベージュの建造物は玄関口をガラス張りの回転扉で組み立てており、景観をぶち壊すためだけにそこにあるのではないかと思えるほどの異様さだ。
回転扉の入り口には、黒服の男が二人、両サイドに構えており、ガラス越しに見える内部にも黒服が数人闊歩していた。ホテルの制服に身を包んだドアマンが随分と居心地の悪そうな顔で通りに唯一人歩く俺を見ている。
「お、お客様。お荷物をお預かりします」
「ああ。客じゃないんでいいですよ。新人さん?」
「えっと……」
「申し遅れました。菊川です。ほら、そこの占いスペースの……」
「ああ。あなたが菊川さんでしたか。お噂はかねがね聞いております」
「いやあ、お恥ずかしい。変な噂じゃなければいいんですがね。通っても?」
「あ、すいません。もちろんです」
まったくと言っていいほど俺のうわさを信じていないドアマンの許しを得て、ホテルの回転扉をくぐる。いつもならばホールの片隅に設けた占いスペースの準備をするところだが、今日は社長に用がある。恨まれやすい性格に、人が集まりやすいホテルという場所。テロを起こすならば絶好の立地条件だ。いつか絶対に事件が起こると見込んだわけだが、この黒服の数。既に何かが起きているみたいだな。
受け付けへ向かおうと足を進めると、聞き覚えのある声に引き止められた。
「あら、菊川さん? こんな所でも占いしてるのね」
声をかけてきたのは長い黒髪をしっとりとさせ、上気した頬を赤らめるOL。知り合いではあったはずだが、誰だったか。……ああ、思い出した。恋愛運から前世まで、片っ端から占った女だ。名前は確か、
「ああ、高橋さん。これはどうも。偶然ですね。今日はどうなされたんですか?」
「えっとー、菊川さんにね、ゆっくり休みなさいって言われちゃったから、温泉に浸かろうかなって思って~」
「それはそれは。どうでしたか? 肩の荷が、ストンと落ちた感じがするでしょう」
「もう、ホントに。気持ちよかったわぁ。あんまり混雑してるとこだとゆっくりできないかと思って、ここを選んですけど……」
万里子は、周りを気にするように近づいて声を小さくした。そんなの、誰もが思っていることだから、気にすることもないと思うがな。
「ここって、全然有名じゃないじゃない? 評判もわからなかったから不安だったんだけど」
再び離れて、普通に話し出す。どうやら万里子の中でこのホテルの評価は高いらしい。珍しいこともあるもんだ。相当疲れていたのだろう。
「すっかり疲れ取れちゃった。お部屋のサービスとご飯にも期待だわぁ」
日帰り温泉ではなく、泊まりとは。流石は独身貴族。結構持っているらしい。もっと搾り取ってもよかったのかもしれない。
万里子は、満足げに玄関ホールを横切ってエレベーターへと入っていった。それを見送り、受付へと向かう。ま、あの時は邪魔が入ったしな。次の機会が楽しみだ。
「あら、菊川さん。彼女さん?」
「ははは、嫌だなあ、
なぜこうもそういう話が好きなのだろうか。すぐにそっちに持って行きたがる。まあ、それを飯の種にしてはいるんだがな。
たいして興味もないくせに暇だからって理由で適当に話をでっちあげるのはやめてほしい。今こうやって否定したところで、俺が帰った後に休憩室でおばさん連中と噂話に花を咲かせるんだろうよ。
「そうなの? ざぁんねん。で、今日はどうしたの? こっちに来るなんて珍しいじゃない」
「社長に用がありまして。お取次ぎ願えますか?」
「ふーん。まあ、あの人なんて、声掛けなくても迎えに来ると思うけどね」
そう言いつつも、内線で社長室に連絡を入れる。無駄口を叩きながらも仕事はする。このホテルではまあ、優秀な方だ。
「
「そうですか。ありがとうございます」
いつも使いっぱしりにされている社長秘書か。こんなホテル、さっさと辞めてしまえばいいのに。あの人なら何処でだってやっていけるだろうに。
いつ迎えが来てもいいようにとエレベーターを眺めていると、中から黒服の男が出てきた。今日は一段と多い。それに従業員も表情が固いな。
「あの~、
「うん? どうしたの?」
「いえね、随分と物々しい方たちがいらっしゃるなと思いまして」
「あー、それね……」
一度視線を左下へと動かした美里は、菊川さんになら言ってもいいかしらね、と呟いて話をつづけた。
「実はここだけの話、脅迫文が届いちゃって」
ここだけの話、ねぇ。いったい何人にこの話を漏らした?
「脅迫文?」
「そうなのよ。封筒の表に
「それは、怖いですね……。なんて書いてあったんです?」
「それがね。このホテルを爆破するとだけ書いてあって、日付も時間も書いてなかったのよ。だからみんな、ずっとピリピリしてて」
「そういうことでしたか」
「あ、絶対お客さんとかには言わないでね。騒ぎが大きくなっちゃうから」
「わかりました。しかしそうなると、入り口の彼も大変ですね。配属早々にこんなことになってしまって。お客さんみんなが敵に見えるんじゃないですか?」
「
その時、後ろから硬い表情の
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