第5話
空のビールケースに立看板、分厚いジャンパーに身を包んだ客引き。どこの通りも通行の邪魔をする者たちで溢れていた。もちろんそこには、紫の布をかけた丸机の中央にそれらしく水晶玉をおいて通りを行き交う人々を観察する俺も含まれている。
さて、おやっさんとの約束を取り付けたのはいいが、約束の日まではまだ遠い。それまでの食事代を稼がなければ。
上空に並ぶネオンの看板がきらびやかに明滅し、寒空に瞬く星はおろか、月明かりさえもかき消している。そんな通りを歩く人々の視線が上を向くことはなく、酒気を漂わせながら帰路を真っ直ぐに見つめてフラフラと歩く者もいれば、肩を抱き、下ひた笑いで女の身体を眺める者もいた。
そういうやつらは他のやつの担当だ。俺の相手はそう、溜息を連発し、足元ばかりを見て背中を丸めながらトボトボと歩いていた、今、目の前に座っているこの女みたいなやつだ。
「高橋さん。ほらここ、見てください。生命線。随分と短いんですよ。私のものと見比べても」
「あら、ホント」
そう言いつつも、胡散臭そうな顔の女。ぶっきらぼうな物言いは信用していない証だ。まずは同調で敵意がないことを示し、同情で警戒を解く。
「まあ、手相が全てではないですから、気にしなくても大丈夫ですよ。……随分と肩が凝ってらっしゃるみたいですね」
「そうなのよね。仕事柄どうしても」
現代社会において、肩こりのない人間の方が少ない。また、トボトボと歩くやつが肩こりのないハッピーな人種であることはさらに稀だ。
「肩凝りは万病の元ともいいますから、温泉とかね、ゆぅーっくり浸かって解してあげてください。最近は自宅でもね、あのー、入浴剤とか。いろいろ種類あるみたいですから」
知識がないなりに頭を捻って絞り出した風を装う。これで相手はこちらが親身になっていると勘違いしてくれる。同情心を際立たせる常套手段だ。もちろん、こちらの利益が発生しない解決策である必要はあるが。
ここで下手に知識をひけらかしたり、物品を提示したりすると、それが本当に効果のある解決策だったとしても、相手は下心を感じ取ってしまう。存在しないものに怯え、疑う、人間の醜い部分だ。
さて、ある程度警戒心を砕いたら、前置きの本題。
「あのー、この生命線なんですがね。ここ。ここに切れ目がありますね。ちょぉーと良くない傾向でして、生命が切れるなんて言い方もしますから。だいたい、四十……四、五くらいですかね。大きな病気をするかもしれません」
不安を煽って引き込む。たとえ、信じたくない話題だったとしても、その先が気になってしまうのが人間の性。悲しいねぇ。特にこの女、人一倍そういう気質が強いらしい。周りが気になりすぎて精神をすり減らしていくタイプだ。ほら、今だって瞳が揺れて、不安でいっぱいじゃないか。
「あ、まだ三十だから大丈夫だって思いませんでした?」
「え、えぇ」
驚きと若干の喜び。実年齢は三十後半か。ちょうど上司と後輩の板挟みに悩まされる時期だ。上司の失敗は部下の粗相。部下の失敗は上司の責任。失敗の押し付け合いは社会の常だろう。
「自分の身体を大切にしてあげてください。あなたは頑張りすぎてしまうタイプのようですね。でも、無理はいけませんよ。ほどほどに。皆から頼られて、大変なのはわかりますけどね」
「そう! そうなのよ。もう、ホントに!」
愚痴を言いたそうな顔。悩みは仕事を押し付けられることか。さあ、溜まったものをぶちまけるといい。そうすれば完全にガードが剥がれて、こっちも助かる。あとでたっぷりと物品を売りつけてやろう。大丈夫。愚痴を言うステージはこっちで用意してやるからな。
「さて、まずは姓名判断からしましょうか。こちらにお名前をご記入ください」
その後はもう、やりたい放題だった。なんでもありの自由自在。笑いが止まらない。恋愛運から始まり、仕事運に金運、前世から守護霊まで、片っ端から占って、その度に物品を売っていく。今後の人生どうなるかはこの女次第だが、プラスチックのイヤリングに一万も払っているようじゃ、金運はどん底の大凶だろうな。
次はどうしてやろうかとほくそ笑んでいると、通りが騒がしくなった。どうも、近くのキャバクラで客が喧嘩をしているらしい。本当に喧嘩が多いな。女もそちらが気になるようで、集中が切れている。これでは金払いが良くない。ここらが潮時か。
「ああ、高橋さん。申し訳ありません。随分と長く引き留めてしまいました」
「え? あ。ホントだ。もうこんな時間」
「あまり遅くなりますと、明日の仕事にも支障が出てしまうでしょうし、今日はゆっくりと休んでください」
「そうですね。今日はありがとうございました」
「いえ、お気をつけてお帰りください」
女は来た時とは大違いに胸を張って通りを出て行く。あの様子なら、しばらくすれば、また俺のもとへ話を聞きに来るだろう。俺は金を貰えるし、あいつは不満を解消できる。お互いウィンウィンの関係ってわけだ。いい仕事をしたねぇ。
俺が今日の収穫に満足していると、今度は騒ぎの中心から和服姿に黒髪を結った女が、凛とした足取りで
「おや、坂口さん。どうしました?」
「いややわぁ、菊川はん。わかってはるのにそないなこと」
「いやいや、買いかぶりすぎですよ」
「まあええわ。あんなぁ、お客さんが財布なくしたぁ言わりはりますのんやぁ。占ってくださりませんやろかぁ。菊川はんなら、すぐにでも見つけはりますやろぉ?」
「いやいや。でも、ちょうどお客さんも帰ったところですし、いいですよ。見つかるかは保証しませんが」
「まぁたそないなこと言うてぇ。でも、おおきにな。ありがとぉさん。ほな、よろしゅうおねがいします」
人混みの中へと入ると、恰幅のいい男が、ワイシャツのボタンを大きく開けて、何かを叫んでいる。乱れた服に、襟口からのぞくブヨブヨの肌は赤く染まり、随分と酔っぱらっていることがわかった。
「涼子ちゃ~ん、なに~、その男は~」
「
涼子は俺が問題を解決するから、責任は全部俺にあると、そう言っているのだ。この裏通りでやっているだけはあって立ち回りが上手い。これで失敗したら、俺の評判はガタ落ちで、元々少ない収入が更に落ちることになるだろう。
「なに、あんたが俺の財布を見つけるっていうのか? 絶対ここにはないと思うがね」
嘘はついてないな。堂々とした立ち振舞はただの開き直りだ。酒の力を借りているようだが、若干の不安が見え隠れしているぞ?
「啓介はんなぁ、財布、盗まれた言わはりますのやわぁ。うちの店のもんか、お客さんが犯人やと疑っとるみたいでぇ」
「ごめんね涼子ちゃ~ん。俺だってそんなこと思いたくないけどさ~、ここにないんだから~、そう考えるしか……」
言い訳が思いつかないよな。確かに嘘はついていないが、それは虫がよすぎるんじゃないか? 疑っていると言う割には、疑いの視線はどこにも向いていない。ま、強いて言えば俺を見る目だけはそういう気質がないこともないが。占い師なんて胡散臭いもんな。なんだ、気が合うじゃないか。
「まあ、物は試しです。占ってみましょうか」
俺はそれらしく水晶玉を覗き込み、見えもしない男の財布を想像しながら、逆さまに映る男の足元を見た。
「ふむ。どうやらここにはないようですね。店の中にも無いようです」
「だから言っただろうが。客が盗んだんだ! トイレにでも行った隙にやられたに違いない!」
はい、それは嘘。お前は客が犯人でないことを知っている。なら誰だ? 店員でも客でもない。その辺の野良猫が取っていったとでも言うのか? まさか、そんなわけないよなぁ。
「おや? 何やら机の上にあるのが見えますね……」
男の表情がさっと硬くなる。思い当たるフシがあるようだ。まあ、実際にそこにあるのかは知らないが。
「随分と、ものが散らばっています。どこでしょうか」
ごくりとツバを飲み込む音が聞こえる。そんなに服を乱したやつが、部屋の掃除なんてしているわけがない。結婚していれば奥さんがやってくれるかもしれないが、あいにく指輪はしていないようだ。
「オフィス? ……いや、違いますね。誰かの家? ……そうですね。家の中にあるようです」
「ほ、ほら。やっぱり誰かが盗んで持ち帰ったんだ!」
財布を盗むやつはたいてい中身だけを抜き取ってそのへんに捨てる。持ち続ければそれだけ見つかるリスクが高くなるからだ。その言い訳は苦しいぞ?
「誰の家でしょうか。えぇっと……。おや? これはおかしいですね。あなた、あなたの家ですよ」
「は、はあ? 俺が置いてきたっていうのかよ」
なるほどなるほど。忘れてしまったわけではないと、そう言いたいんだな、おっさん? ま、これ以上は俺の仕事じゃないから突っ込まないが。だって、涼子はこのことをわかっていて俺を呼んだのだから。もし、自分の推測が間違っていたとしても責任を俺に押し付けられるように。その証拠に、こんな俺の戯言一つで無銭飲食のおっさんが黒服に両脇を掴まれている。
まったく、食えない女だよ。ま、金がもらえるなら俺としてもありがたい話だ。保険ならいくらでも売ってやる。
「な、なんだよ。俺は財布を盗まれた被害者なんだぞ……!」
「あんさん。こないなことは、これっきりにしてくださいなぁ。それでは、またよろしゅうお願いしますぅ」
涼子が口を閉ざすと黒服たちが男を路地裏へと引きずっていった。しばらくすれば、くぐもった呻き声が聞こえてくることだろう。
晒し上げ、出来得る限りの恐怖を植えつけるのだ。男にも、そして通りを歩く者たちにも、ナメられないようにする手っ取り早い手段だな。
「おおきになぁ。菊川はん。助かりましたわぁ」
「いえいえ、力になれてよかったです」
「これ、取っといてぇな。またよろしゅうお願いしますぅ」
「いやいや、これは御丁寧にどうも。またいつでも言ってくださいね」
「はい。また頼まさせていただきますわぁ。ほな、失礼しますぅ」
涼子を見送り、受け取った封筒の中身をのぞく。ふむ、五万か。悪くない。高橋から追加でとれたであろう分は十分賄えるな。これでしばらくは生活できる。ベスにもいいもん食わせてやれるな。
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