第2話
石のように冷たくなった顔面を淡い陽光が照らす。けれど、冬の朝日に石を溶かすような力はなく、ただ、薄い瞼の隙間から俺の網膜を焼いただけだ。暗く暖かな布団の中へ顔面を沈めようかと、そう思ったとき、冷えた顔面を生暖かい粘着質の柔らかななにかが撫でた。べたべたと粘性のある液体が気化熱を奪い、冷たい。
「おぉい、ベス」
俺の声を無視してなおも執拗に舐めてくる。頼むから安眠を妨害しないでくれよ。
「なんだ、お前、寒いのか? ほれ、入ってこーい」
「クゥーン」
布団を少し持ち上げて見せるも入っては来ず、尻を向けて首を掻き始めた。いつまでも持ち上げていては風が入って冷たいので布団を下げると、ベスはまた俺の顔面を舐め始める。
「なんだよ。お前と違ってこっちは毛皮がないんだから、
「ウゥー」
「あ、ちょ、バッ」
今度は布団を噛んで引っ張り始めた。剥がされまいと俺も両手で布団を握りしめる。小型犬に力じゃあ、流石に人間には敵わない。
しばらくして、ベスは諦めて、どこかへ去っていた。これでゆっくり寝られる。そう思ったのも束の間、今度は顔面に硬い何かがぶつかった。
「痛ってぇ……」
首をひねって周りを見れば、尻尾を振って真っ直ぐにこっちを見つめるベスの姿と、その足元には腕時計。
「アゥ」
「いやいやいや、なんだよ。時間だって言いたいのか? 何の時間だよ。飯か? 飯なら自動のやつ買っただろう? 水か? それだってたっぷり入れた。起きたら変えてやるから待ってろ。あとはー……、トイレか?」
首を起こしてみてみればシーツに黄色のシミがある。
「あー、わかったわかった。汚いと嫌だもんな。片づけてやるからちょっと待ってろ」
布団にくるまったまま起き上がり、手だけを出してトイレのシーツを変える。ここまでくるともう一眠りという気分でもなくなってしまったので朝食でも取ろうかと冷蔵庫を漁りに行く。
布団が地味に重たい。とはいえ、これを取ったら肌が直接冷気に晒されてしまう。それは耐え難い。ベスみたいに毛皮があれば別だが、そんな、ないものねだりをしても仕方がないので、我慢して布団を被った。
冷蔵庫の扉を開くと何もなかった。いや、あるにはある。醤油とか麵つゆとかそういう調味料が。でも食べるものが何もない。はぁ、買いに行くか……。
時計を見れば朝の十時。スーパーが開いている時間だ。コンビニよりも断然安い。布団を上着に着替えて玄関で靴を履く。すると後ろからリードを咥えてベスが歩いてきた。
「ちょっと待て。買い物が先だ。腹減ったんだよ。それがすんだら行ってやるから。な?」
「ウゥー」
「それが待てないなら、部屋で走ってろ。お前のために絨毯買ったんだから。それなら滑らず思いっきり走れるだろ?」
「ウゥー……、ワン!」
「よしいい子だ」
部屋の奥へと消えた垂れ下がる尻尾を見送って、俺は玄関の扉を開けた。
犬はいいねぇ。嘘はつかないし、自分の気持ちに正直だ。それでいてこちらを尊重する意識もある。自分の感情をひた隠して、それでいて文句ばかり垂れるやつらとは大違いだ。
スーパーのパン売り場に直行し、適当にカゴに入れていく。あとはお茶を追加してレジに並んだ。意外と混んでいる。少し時間がかかりそうだ。早く帰りたいんだけどな。
数分の後、ようやく俺の番が来た。数個のパンとペットボトルが一本だけだ。すぐに会計は終わるだろう。そう思っていた時、前で会計を終えたおばさんが若い女性店員に呼び止められた。
「あの、鞄の中のモノ、会計してないですよね?」
「何よ、アンタ」
「いえ、その。会計してないですよね?」
「はあ? 私が万引したっていうの!?」
押し問答が続く。面倒事はやめてくれ。怒鳴り声が空腹に響くんだ。おばさんもおばさんだが、店員も店員だ。下手な正義感を振りかざすなら、もっと入念に計画を立てろ。相手を叩き潰す気概が足りない。そんなんだから舐められるんだ。
幸い、レジ打ちをしている店員の方は自分の職務を心得ているらしい。揉める二人を気にしながらも会計を進めた。
レジ打ちの店員が会計のために値段を告げるが、おばさんの怒鳴り声で掻き消える。俺はモニターを見て財布から小銭を取り出した。
「ほら、アンタ。みなさいよ。何も入ってないじゃないのよ!」
おばさんが鞄をひっくり返して怒鳴り散らしている。中に入っていたものが音を立てて床に散らばった。携帯なんかの割れ物はなく、小物が多数。派手さを重視した演出だ。元々これをやるつもりだったらしい。片づけないならそのまま踏んでくぞ?
「どうすんのよ、アンタ! 濡れ衣着せられたのよ! どう責任とってくれるのよ! 名誉毀損よ! 慰謝料! 寄こしなさいよ!」
「あの、えっと……」
会計を終えて出ようとするも、おばさんが邪魔で出られない。散々待たされて、ようやく終わったと思ったらこれだ。周りを見ない自己中どもめ。
「あの~、お姉さん。どいてくれます? 通れないんですけど」
「何よ、うるさいわね。こっちは今忙しいの」
俺とも押し問答をしようっていうのか? 関係ないだろ。大人しくどけってんだよ。
「いえね、通れないんですよ。別に邪魔しようとかそういうんじゃないんです」
「だから、うるさいって言ってるでしょ!?」
いや、うるさいのはそっちだが。往来で叫んで、ゴミぶちまけて、金が欲しいなら、もっとうまいやり方あるだろうが。万引き偽装するならもっと権力持ってるやつの前でするとかさぁ。こんなペーペー相手にしても仕方ないだろ。
「あー、もう。いいからそういうの。こっちは腹減って死にそうなの。早く帰って、ゆっくりご飯を食いたいの。わかる? わかったらさっさとポケットの中身出して」
「な、なによ」
「もう、いいから。さっきから大切そうに抱いてる右ポケットのそれ、出して。あからさま過ぎんだろ」
「あ、アンタもグルなのね! 私を取り囲んで――」
「うるせぇ、ババァ! サッサと出せ!」
「ひっ」
近くにいた数人がビクリと肩を動かした。んだよ。悪いのはこいつだろうが。こっち見んなよ。
それでもババァが動かないので、無理やり手を突っ込んでものを出す。出てきたのは歯磨き粉だった。
「スリルが味わいてぇんなら、包丁持ってどっかの事務所に突っ込みゃいいだろ、クソが」
ぼっ立ちのババアを押しのけ、歯磨き粉を店員に投げ渡す。スーパーの出口まで直行だ。ったく、イライラさせやがって。
「あ、あの。ありがとうございます!」
「そういうのいいから」
真っ直ぐに見つめてくる視線には一切の曇りがない。こういうやつを見ると虫唾が走る。内に闇を抱えてないようなフリをして、俺達みたいな素直な人間を見下しているのだ。
そもそも、こいつが禄に確認もせず、万引した商品が鞄の中にあるだなんて戯言を吐かなければ、俺がこんなにイライラすることもなかったのだ。
ああ、もう。早く帰って飯を食おう。そしてすぐにベスの散歩に行こう。それから仕事に行こう。今日は久しぶりに大口の予約客だったはず。いつもより、盛大にやってやろうか。そうすれば、この胸のむかむかも収まるはずだ。
このスーパーには二度と来ない。俺はそう心に決めて、ベスの待つ我が家に帰った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
街灯のない真っ暗な山道を車のライトだけが照らす。ここならば、月明かりもきれいに見えると思いきや木々が邪魔して空さえ見えない。裏通りのような濁った空気はないだろうが、今は車の中。前の客がタバコでも吸ったのか、その残り香で自然の空気など感じることはなかった。
あまりの人気のなさに、迷子かよと心配になる。けれど後部座席から見る運ちゃんの仕草に不安や焦燥感はない。顔が見えないので若干の疑問は残るが、まあ大丈夫だろう。金持ちってぇのはどうしてこんなに人里離れたところに住みたがるのかねぇ。
結局、何事もなく無事に到着したので、大人しく運ちゃんに金を払う。もちろん、領収書は忘れない。交通費別途請求。なんていい響きなんだろうか。帰りのタクシーも頼み、おおよその時間を指定したら、さあ、いよいよ仕事場だ。悪いが今日はストレス解消を優先させてもらうぜ?
豪勢にもライトアップされた洋館のインターホンを鳴らすと、女の声で応答があった。依頼主の妻だろうか。中へ入って来いと言うので門をくぐる。
「どうも。菊川占い事務所の
出てきたのは三十くらいの女。インターホンの女と同じ声だった。案内されるがままに趣味の悪い赤絨毯の上を歩く。壁にかけられた絵画も趣味が悪く、額縁だけが浮き立ち、絵の内容が入ってこない。腕の悪い職人にでも作らせたのだろう。もったいないねぇ。
無駄に広い廊下をしばらく歩くと、突き当りの扉で待たされた。
「みなさま。お食事は楽しんでいただけましたかな。改めて、
扉越しに聞こえる演説の声。自慢のためのパーティだと嘲笑混じりの上機嫌な声が言っている。
「さて、食事だけでは退屈でしょうから、本日は占い師の先生をお呼びしました。日頃の不安を解決していただきましょう。菊川先生です!」
「ああ、どうもどうも。大層な紹介をされてしまいまして、恐縮です。占い師の菊川藤次郎です」
見下す視線が突き刺さる。ここにいる人間は誰一人として占いなんか信じちゃいない。俺は嘲笑うためのサンドバックだ。いい趣味してんね。是非俺も混ぜてほしいものだ。
「さて、なにを占いましょうか。金運なんて占うまでもなく明らかでしょうし……」
視線を逸したやつが二名。わかりやすくて助かる。虚勢の金持ちか。それともただのコバンザメか。
「恋愛運も……、キレイな奥さんがいらっしゃいますから、大丈夫でしょう。下手に運勢が良くても、浮気を疑われてしまいますからね」
五人のうち四人が反応。いい年こいて気色悪い照れ笑いが一人と、あとはー……、案内の女。目が泳いだな。主催と金欠の一人も反応ありか。奥さんよお、浮気バレてんぜぇ。
「となると、健康運でしょうかね。仕事運も心配なさそうですし」
仕事が上手くいっていないやつも結構いるな。おいおい。自信があるのは健康だけか? 病院に払う金がもったいないってか。どっかに病巣が潜んでいるかもしれないぜ?
さてさて、まずは誰をターゲットにしてやろうか。
「では、まずはあなたから。お名前をこちらにご記入ください」
皆を一通り占い、一息つく。立て続けにしゃべっていると喉が渇いて大変だ。まぁ、金持ち連中は自分の気持ちに正直だから、わかりやすくはあるが。
「いやあ、あんた本物だね」
上機嫌に主催の男がグラスを仰ぐ。
「本物、ですか?」
「うん? いやいや、すべてを見通せるんだから、本物以外の何者でもないでしょう?」
「あはは。過大評価しすぎですよ、
「そう謙遜なさらずとも」
同意、同調は相手との距離を詰める手段ではあるが、安易に使えば亀裂を生む。発した言葉が真実とは限らないからだ。
今回もそうだ。
こういう場合の対処は、簡単な話、よいしょすればいい。同意、同調は言葉ではなく、相手の感情に対して行うに限る。
「いえいえ。占いとは現在を読み取るための術でしかありません。未来へ活かすも殺すも、皆さん次第ということです。もっとも、皆さんのような成功者であれば、殺すことなんてないでしょうがね」
「ははは、そうありたいものだね。うん? ちょっと失礼。お酒がなくなってしまったようだ」
宣慶が席を立ち、扉を軋ませながら部屋を出た。空いた席に、先ほど気色悪い照れ笑いをしていた男が座る。
そんな
「な、なあ。妻の、妻の本当の気持ちが知りたいんだけどよ」
「あーはいはい。まったく。書越くんは何かにつけて奥さんを自慢したがるんだから。なんなら僕が調査しようか?」
「はっ!
そんな不安そうな顔で強がってもねぇ。信じてやらなきゃ奥さんが可哀そうだぜ?
「菊川さんも相手にしなくていいからね」
「なんだとぉ」
酒で顔を真っ赤にした書越を斎藤がせせら笑う。他人の馴れ初めもそうだが、おっさん同士のじゃれ合いも見たくはない。
「占いは現在の立ち位置といいますか、そういう状態を判断するものでして、感情まではわかりません。ですが、奥さんのことをいつも気にしていらっしゃる書越さんであれば、きっと奥さんも好いていらっしゃると思いますよ」
「うへへ」
相変わらず気色が悪いが、まあいいか。こういう金持ちは物品を売りつけるよりも信頼を勝ち取って継続的に搾取した方が儲かるしな。ま、金欠のやつもチラホラいるが。例えばそこの、輪から少し離れたところで耳をそばだてているやつとかな。
「南場さんはどうですか? 何かお困りのこととか」
目を向けるとすぐに逸らす。付け入る隙の多いやつだが、金にならない奴でもある。ま、放置でいいだろう。
「い、いいや。ぼぼ僕はいいよ。そ、それより、宣慶さん、お、遅くないかな? どどどうしたんだろうね」
露骨な話題逸らし。たいして心配もしてない癖に。とはいえ、たしかに遅い。何をしているのだろうか。
「そうですね……。少し見てきます」
食器を片付けていた妻の
この集団の中で一番金にご執心の女だ。名声や
扉のきしむ音。ギギギと音を立てて扉が閉まる。その後に聞こえる階段をのぼる音は鈍く、くぐもって聞こえた。
そうしてしばらくの間があり、女の悲鳴が屋敷に響く。
部屋を飛び出し、階段を駆け上がると、廊下で腰を抜かして壁に張り付く
斎藤が
「脈がない! 殺されたんだ! 部屋へ入らないでください! 警察を!」
皆の顔から血の気が引き、真っ青になった。亜利紗はガタガタと震え、南場は腰を抜かし、書越は膝をついて床を殴った。
皆が動けそうにないのを見て、俺はスマホを取り出して耳に当てた。
「警察ですか? 人が血を流して倒れてて……。はい、脈がないんです。住所は、えーと」
タクシーに乗った時のことを思い出し、依頼先の住所を言う。本来ならば家主、あるいは友人たちが電話をすればスムーズなのだが、今は俺がやっておこう。
「はい、はい。すぐに来てください。お願いします。はい。ええ、土砂崩れ!? はい。わかりました」
「おい! 土砂崩れってどういうことだよ!」
スマホを耳から離した瞬間、書越が俺に掴みかかった。頭が揺れる。迷惑な奴め。
「山道が土砂崩れで通れなくなったらしくてですね。撤去が済むまで来られないそうです」
「なんだよそれ! 殺人犯がいるって言うのに、おとなしく待ってろっていうのかよ!」
「なら、我々で解決しますか?」
俺の言葉に、興奮していた書越と部屋でいつまでも宣慶の手首を触っている斎藤が喉を鳴らした。
「斎藤さん。そういうのにお詳しいんでしょう? さすが、探偵事務所を経営なさっているだけのことはあります。手際が完璧でした。あなたが事件を紐解いてくだされば、すぐに解決すると思います」
その言葉に、皆の視線が斎藤へと集まった。
「ですがその前に、手を洗ってきてはどうですか?」
宣慶の死体に触れた斎藤の手は真っ赤に染まっていた。
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