世界は嘘に満ちている
L助
第1話
「この人痴漢です!」
コンクリートの柱がゆっくりと流れていく景色の中、嫌悪感を
赤焼けに染まる車内で声高に叫んだ少女を中心に
甲高いブレーキ音に車体が揺れ、空気の漏れ出る特徴的な破裂音と共に無慈悲にも扉が開いた。少女の顔は興奮に上気し、男の顔は絶望に青ざめている。
これは面白そうだと俺は二人と共に電車を降りた。後に続く者はいない。薄情な奴らめ。
「ち、違います! 僕はやってません! 僕じゃないです!」
大きく首を横に振りながら叫ぶ男の声をホームの雑音がかき消す。
人ゴミの中、こちらに歩いてくる駅員に気付き、男の目が泳ぐ。恐怖と絶望に顔を引きつらせながらも、まだ弁明の言葉を繰り返していた。
「どうしました?」
「痴漢です! 私、お尻触られました!」
「やってません! 僕、やってません!」
「まあ、話は事務所で聞くから。落ち着いてください。ね?」
「違うんです! 違うんです!」
左右に揺れる男の目。助けを求めるその目に、誰もが手を突っぱねる。それはそうだ。電車に乗っていた人間は今や遠い線路の向こう側。事情も分からなければ、助ける義理もない。
人は焦れば、突拍子もないことを口にしてしまう。この男のように。そうなればもう手遅れで、言質は取ったと脅され、示談金、あるいは社会的制裁と地獄の道を歩むことになる。
ま、面白いものは十分見れたし、そろそろ助けてやらないと手遅れになるか。自称被害者の少女からは恐怖も怒りも感じられないし、むしろ
「あのー……」
「どうしました?」
「いえね。一緒の電車に乗っていて、見ていたんですが」
「目撃者の方でしたか」
「ほら! 私のお尻、触ってましたよね? ね?」
口早に
一方の男はというと、頬の筋肉がピクピクと痙攣し、合わせるように目がキョロキョロと動く。このまま終わらせるのがもったいないくらいの玩具だが、あまり人目を集めても都合が悪い。このまま、痴漢をしていたと証言したくなる気持ちをグッと抑えた。
「触っていませんでしたよ」
「ウソ! ウソよ! 右手でねっとり撫でるみたいに触ってたもん!」
「確かに見ました。それに、この人吊り革持ってましたし、カバンも手提げですから、どうやって触るんでしょう? 手の甲が当たったっていうのならわかりますが、ねっとり撫でるとなると……」
実際どうだったかは知らない。こいつが叫ばなければ、そちらを向くことも、面白がってついてくることはなかっただろう。まあ、真実なんてどっちでもいい。こいつは嘘をついている。それだけで追い詰めるのには十分だ。
「そう言えば、あなた。この前、別の駅でも痴漢だって騒いでましたね。たしかあの時も……」
冤罪でしたよね、と俺が言う前に、少女はそそくさと人混みの中へと消えていった。慌てて駅員が追いかける。手慣れているやつはやっぱ違うね。心当たりが多過ぎるんだな、これが。
「すみません。助かりました」
「いえいえ。冤罪に巻き込まれず良かったですね、えっとー……」
「あっ、すいません。加藤です」
「え、偶然。私も加藤なんですよ」
嘘。ホントは
「もしかして下の名前も一緒だったりして。
「あ、残念。違いますね。僕は
「あら、そうでしたか。でも、大変でしたね。帰宅途中にこんなことに巻き込まれてしまって」
「いえ。あ、いや。本当に助かりました。なんとお礼を言ったらいいか」
「いやいや。困ったときはお互い様ですよ。それにあなた。受難の層が出てまして、放っておけなかったんですよ」
加藤の顔がキョトンとする。突然出てきた胡散臭い言葉に思考が停止したようだ。さっきまでフル回転していたんだ。頭がパンクして処理落ちしてしまっても仕方がないというもの。処理落ちした人間の顔って面白いんだなぁとしばらく観察しているとようやく瞳に生気が宿り、口が動いた。
「あ、すいません。えーと、なんて?」
「実は私、占い師をしていましてね。そういうこと分かっちゃうんですよ」
「へ、へぇー」
ようやく状況を理解した加藤が自分の顎を触った。不安を宥めようとする無意識の行動。痴漢冤罪の標的にされて、今度は胡散臭い占い師だ。不安だよな、そうだよなぁ。
頻りに線路の先へと目を走らせるが、残念。電車はまだ来ないんだな。電光掲示板には、ええっとー……、次の電車が来るまでには約十分。変なところで電車から降ろされて可哀想に。
もちろん俺は口撃を緩めない。電車が来るまでに終わらせないといけないしな。
「とはいえ、占い師ってなかなか儲からなくてですね。御札とかアクセサリーとか、そういうアイテムを売らないとやっていけないんですよね。どうです? このネックレス。五万なんですけど」
嘘。ホントは一万で売りつけている。仕入れ価格は、まあ……コイン一枚で買えるくらいだ。
「そ、そうなんですね」
「はあ。察しが悪い人ですね」
恐怖の中、瞬時に動ける人はそうそう居ない。足が竦み、意味もなく脳みそが火花を散らして世界が遅くなるだけ。まるで、身体が恐怖を求めているかのように、逃げもせず、ただ、時間だけを引き伸ばすのだ。元来人間はマゾヒストなのかもしれない。
俺は一歩近づいて、耳元で囁いた。
「痴漢、してましたよね?」
ビンゴ。明らかな顔色の変化。正体不明のものに対する恐怖の念が明確なヴィジョンを伴った絶望へと塗り替わる。おかしいと思ったんだよなぁ。やってないって言う度に目が泳いでたんだもの。
ほんの数分前までは安堵に緩んでいたというのに、今や身体中の筋肉がカチンコチンだ。それは、さっきの冤罪の時よりも酷い。だってあれは嘘の罪だったのだから。何処かに希望を見出すことができたのだから。しかし、今回は違う。言い逃れなんてできない。
「私が証言を取り下げたら、あなたは二人から訴えられるわけですよね? 制服から学校も特定出来ちゃいますし」
これも嘘。さっきの少女の制服なんざ覚えちゃいないし、この男が本当に痴漢をしていた相手は見てすらいない。と言うか、そもそも、この辺の学校の制服なんて、これっぽっちもわからない。
しかし男はそんな事とはつゆ知らず、慌てふためき財布を取り出す。金で解決できるとわかれば払ってしまうのが大人の汚いところだ。ま、俺は好きだけどな。そういうところ。
「そそそそれ、買います」
「まいどどーも」
財布を掻っ攫い中身を抜く。お、十万も入ってらあ。こっちも生活かかってるんでね。取れるときにはいくらでも取らせていただきますよっと。痴漢したお前が悪いんだぜ?
「随分とたくさん入っていますね。現金派なんですか? 今時珍しい。あ、もしかしてATM帰りでした?」
「あの、それ、持ってっていいんで、黙っててください」
消え入りそうな男の声にまだまだイケると確信する。
「んー、そうですねぇ。とりあえず、内ポケットのも出しましょうか」
絶望がどんどんと深くなる。逃げ出そうと踵を返すが、逃さない。
「
俺はどういう意味なのかさっぱりだけどな。そんな珍しくもない名前を知ったところで、いったいなにができるというのか。流石に情報が少なすぎる。
けれど加藤は止まってくれた。なので、ありがたく胸ポケットに手を突っ込まさせていただくと一応の抵抗を見せた。おいおいおい、立ち止まったなら素直に渡してくれよ。
「いいんですか? そんなことして。警察、呼びますよ?」
そんな囁きに簡単に騙されてしまう。冷静になって考えれば、警察を呼ばれて困るのは今や俺の方だろう。完全な部外者が恐喝して金を奪い取っているんだから。恐怖、焦り、絶望。そういう感情っていうのは人間の思考を鈍らせる、まさに負の存在だ。
「ふむふむ。ライターですか。やっぱり今時珍しい人ですね。おタバコお吸いになるんですね」
そう言いながらズシリと重たい封筒を抜き取る。返答のない加藤の顔は今にも泣き出しそうだ。
「流石に全部抜き取るのは可哀想ですからね。追加で十万。これで許してあげますよ」
札束の入った封筒。本当に現金を持ち歩くのが好きな奴だな。すべて抜き取ってしまえば、男が自暴自棄になりかねない。ギリギリ自力で何とかなる程度の金額に収めておく。
「さてさて、これくらいにしておきましょうか。あんまりやんちゃしちゃ駄目ですよ?」
その言葉に、加藤は改札へと走り去っていった。イヤリングも受け取らずに行っちゃったよ。これじゃあ俺が強盗みたいじゃないか。あとで届けなくちゃあなぁ。ま、この駅で無理やり降ろされたんだ。その内戻ってくるだろう。電車を待っていたって言うのに駅を出るなんて、最後まで不思議な人だったねぇ。
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