第11話 恋心
二か月なんて、あっという間だった。
早朝から城に来ては天族の皆に囲まれてトレーニングに励み、午後からは披露宴の打ち合わせやリハーサルを重ねる日々。
気づけば今日が、婚約披露パーティー当日だ。
ルールーさんの作戦について不安な気持ちを抱えたまま眠れない夜を過ごし、いつもの通りに早朝、もらった養生用の薬をつけた状態で城に向かえば、慣れた様子であいさつに応じてくれた衛兵さんの隣に、長身の人影があった。
近づくと、それがルールーさんであることがわかる。
わざわざ城門まで迎えに来てくれていたのだ。
「おはようございます、ルールーさん」
「おはよう、ルミシカ。昨日はよく眠れたかしら?」
「ええと、あんまり……」
「あら、寝不足はお肌の天敵だって教えたでしょう」
そんな他愛のない話をしながらいつもの控室に向かうと、中では一座の人々が慌ただしく何かの作業をしていた。
「みなさん、随分忙しそうですね?」
「ええ、急遽演目が決まったの。あたし達も披露宴に参加するわ。お客さんじゃなくて、舞を披露するためだけど」
「え?」
披露宴の打ち合わせで、そんな話を聞いたことはなかった。
不思議そうな顔をしてルールーさんを見ていたのだろう。
彼はくすりと笑ってわたしの頬を人差し指でつついてから、「陛下からの、サプライズプレゼントみたいなものよ。主役の二人が登場する前に、場を温めておこうってわけ」と言った。
「だとすると、ルールーさんも忙しいんじゃないですか? わたしに付き合っていただいて大丈夫でしょうか」
「準備はみんながやってくれるから、あたしは綺麗に踊るだけよ。だから時間までは大丈夫。さ、始めましょ」
ルールーさんはそう言うとわたしの手を引いて、いつもの化粧台の前に陣取った。
「さて、まずはその養生おしろいを取りましょう」
おしろいと言ってもその本質は薬だ。
一日のうちに何回か洗顔しては薬の塗り直しを繰り返していた肌は、今では前のような赤みも脂っぽさも、ところどころあった粉が吹いたような乾燥もなくなった。
すべすべになって、みずみずしいそれはまるで、
「ゆで卵みたいね。寝不足だっていうから心配しちゃった」
満足げにわたしの頬を撫でると、ルールーさんはまず化粧水を手に取り、そのまま丹念に塗りこんでいく。
その指がこそばゆくて、わたしは彼の手を止めるように声をかける。
「あの、わたしが自分でやります。ルールーさんはいつものように、横で指導してくだされば……」
自分で化粧ができないと意味がない、と以前彼が言ったのだ。だからずっと彼から技術を学んでいた。
今日も同じだと思ったのに、ルールーさんはわたしの頬に手を添えたまま言った。
「今日は勝負所よ、失敗するわけにはいかない。あたしに任せておきなさい」
その言葉に、思わずしょげてしまった。
ずっとルールーさんから化粧の知識と技術を学んできたけれど、それがまったく身についていない、と断じられた気分だった。
わたしがうつむくと、そんな様子に気づいたのかルールーさんはわたしの頭に手を置いた。
「……いえ、違うわね。言い方が悪かったわ。あたしがやりたいのよ、だって、今日でおしまいでしょう?」
今日。ルールーさんの作戦が全部うまくいって。
リドさまが態度を改めてわたしを迎え入れてくれて。
他の人たちも、ムールカではなくわたしを見てくれるようになったら。
わたしたちはお別れだ。
王太子の婚約者として注目を集めるようになったら、こんな風には絶対に会えない。
雑技団も旅立って、遠目にだって次に会えるのはいつになるのかわからない。
そのことが、こんなにも寂しい。
「なに泣きそうになってるの? もしかして心配なのかしら。大丈夫、今日の作戦であなた自身を見てもらえるようになったら、きっとうまくいくわよ。
要領はよくないかもしれないけど、あなたは他人をないがしろにはしないでしょう。それは大事な資質だわ。
あたしたちみたいな商売をしている人間は見下されがちだけど、あなたは一回も、職業や見てくれであたしたちを判断しようとはしなかった。
そういう人が王宮にいるだけで、暮らしやすくなる人はたくさんいるのよ」
王妃になんて向いていないと言ったわたしの言葉を、ルールーさんは覚えていてくれたのだろう。
そんなことはない、わたしにだってできることはある、と言ってくれるのはとても嬉しい。
ずっと、周囲の人々のまなざしを恐れていた。
醜い自分自身を見られるのが怖くて、化粧はみるみる分厚くなった。
ルールーさんはそんなわたしを見つけ出し、手を差し伸べ、化粧をして、美しく装うということを教えてくれた。
それはわたしが『わたし』のままで、周囲と調和するための方法だ。
それは、わたしがこれから戦っていくための力になるのだろう。
だけど。
「だけど、化粧を整えて、美しく装っても、その見た目だけを褒められて、わたし自身を見てくれる人がいなかったら? このままずっと孤独に、王宮にいなければならないのでしょうか」
だけどわたしは、もう知ってしまった。
わたし自身を、見てくれる人がいるという心地よさを。
わたしをいたわり、至らない点を指摘して、寄り添おうとしてくれる温かさを。
これを失うのが、怖い。
今日の披露宴で正式にリドさまの婚約者になっても見向きもされず、
かといって責任だけ負わされて、今いるこの居場所まで奪われたら。
今度こそわたしは持たないだろう。
ルールーさんはわたしの弱音を、笑わなかった。
困ったように「うーん」と首をかしげて考えて、それから、
「どうしても無理で、絶対にそこじゃああなたが幸せになれないと思ったら……きっとあたしが迎えに行くわ」
優しく微笑んで、両手で頬を包んで。まっすぐに目を見てそう言ってくれた。
この人が、一生側にいてくれたらどれだけ幸せだろう。
王太子の婚約者とは名ばかりで、わたし自身になんの権力もなくてよかったと心から思う。
人の一生を左右できるほどの権力がもしあったら、この人をずっと閉じ込めて、ずっとそばに置いてしまったかもしれないから。
そんな過激な考えが自分の頭に浮かんだことに驚いて、
同時にわたしは、シャラの言葉を思い出す。
恋が、誰かが欲しいという攻撃的な想いであるのなら、
わたしの恋心が彼に向けられていることは、もう間違えようがない。
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