蝶々結び

カピバラ番長

蝶々結び



 ある日の炎天下の事。

茹だる様な暑さに可愛い顔を汗で滲ませて独り屈む幼女。

苛立ちを隠す様子もなく、何度か顔を上げるその度に小さい唸り声を出す。

そこへ同い年くらいの幼男が現れる。

 「どうかしたの?」

たどたどしい口調で屈み俯く幼女に語りかける。

 「うるしゃい」

同じくたどたどしい言葉を幼女は投げつける。

言葉の意味こそ強いものの語調は弱く、むしろ空元気を見せている事の裏付けになってしまっている。

けれどそれはある程度の年の人が聞けばの話。

まだまだ音の鳴る靴で喜んでいる齢の子にしてみればその場を後にしてもおかしく無いくらいに強い言葉だ。

だが、幼男は臆する事なく幼女のもとに近寄った。

 「こにゃいで!」

今度こそ、語調も共に拒否の念が露わになった言葉を口にする。

どうやらこの幼女は背伸びして買って貰った靴の紐が解けてしまい、結べず歯嚙みをしていたようだ。

 「くつ、むすべないの?」

その事が分かった幼男は幼女と同じように屈み込み、顔を覗きながら聞いた。

 「…しょう。だからほぅといて」

 「かして」

そう言うと幼男は不慣れな手つきながらも、幼女の靴紐を正しく結び始める。

紐が円になるようにつまみ、それらを重ね合わせて結ぶ。幾つか種類がある中でも特に簡単な結び方。

 「しゅ、しゅごい!ママみたい!」

 「えへへ、前におとうさんからおしえてもらったんだ!」

そうして出来上がったのは、左右の翅は不恰好ながらもしっかりと蝶々型に結べた靴紐だった。

 「あいがと!」

満足した幼女の満面の笑みは空から照りつける太陽よりも眩く、幼男を固まらせる。

その間に幼女は頭を下げると、アスファルトを走り抜け蜃気楼に姿を歪ませた。

幼男は彼女の後ろ姿が消えるまでその場から動けなかった。

ただひたすらに瞳に映った彼女の事を忘れないように記憶に焼き付けていたから。




       ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー ーーー




 「…久し振りに見た」

 蒸す暑さ、喧しい日差し、けたたましい目覚ましに懐かしい想い出。

止めた目覚まし時計を見れば、時刻は7時12分。

ベッドの下に雪崩た掛け布団に呆けを送ってあくびをしてみる。

 「あーあ、なんであの時にSNS聞かなかったんかなぁ」

ついさっきまで観ていた夢を思い出して溜息が出る。

なんでこんなところに立て掛けたのか、目の前にある姿鏡に寝癖で整えられた俺が見えた。

たとえ二枚目の俳優だったとしても寝起きは俺と大差ないと思いたい。

 「…なんて、馬鹿だな」

言いつつ身体を起こして右手側にあるカーテンを開ける。

漏れ出ていたモノとは比べ物にならない強さの日差しと、向かいの家が歪む暑さに顔を顰める。

 「あーー…もっと夏休みよこせよ…」

学生の味方・夏休みは昨日に一方的に別れを突きつけられ、今日から新学期。

普段は確かに遅刻気味な俺だけど、流石に今日みたいな日にそれはマズイ。

 「めんどくせー」

自棄気味にもう一度大きなあくびを吐いてベッドから降りる。

二日前にクリーニング屋から帰ってきた制服と、昨日わざわざ買ってきた真っ白のワイシャツに着替えて、洗面所に寄ってから俺は一階の茶の間に向かった。

 「おはよ〜」

 「んあ、おはよう母さん」

階段を降りてすぐ右の台所で朝食を作るのは義母さんの雪花さん。幼い頃に母を亡くし、暫くして死にやがった親父の新しいお嫁さん。

今の俺を女手一つで殆ど育ててくれた、とても強い人で、今では本当の母さんだ。

 「今日は早いわね」

 「うん。新学期初日だしね」

朝の挨拶を交わして、流れるように、テーブルの上に置いてあるコップの麦茶を飲み干す。

若干、温めではあったものの寝起きには丁度よく、上手い具合に目が覚めた。

 「あ〜!それは義母さんが飲もうと思ってた麦茶なのに〜!」

 「そうなの?名前書いとかないから分からなかったよ」

その様子を背後にある台所から見ていたと思われる母さんに怒られてしまった。

 「あのねぇ……。まぁいいわ、後で冷えてるの淹れ直すから。時雨君にはあげないから」

 「んな子供な…」

ぶつぶつ言いながら朝食を運んできた母さんが視界に入る。

白いノースリーブに裾の広い薄灰色の七分丈パンツという、見てるだけで涼しくなる格好なのは変わらないのだけど、普段は下ろしているはずの長髪を今日はサイドテールで纏めている。

 「いつもと違うね。何かあった?」

 「今日から学校だし、またお弁当作りが始まるからその意気込みも兼ねて、かなぁ~」

 「へぇ~」

ふふっ、と笑いながら母さんは指先でサイドテールを遊びだした。

嬉しいとよくやる母さんの癖だ。

 「さてと、それじゃあご飯にしよっか」

 「ん」

その一言で意識はテーブルに並べられた料理に向いた。

あるのは、茶碗に山盛りにされた白米に豆腐とわかめの味噌汁。それに小分けにされた市販の味海苔と昨晩の残り物の肉じゃがだ。

 ーー朝食にしてはちょっと多過ぎないか…?

そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。

 「育ち盛りなんだから、しっかり食べないとね!」

そう言って自分の分にと、よそっていたはずの肉じゃがを俺のところへ差し出して来た。

 「こんなに食えないよ、俺痩せてるし…」

と言うか、このクソ暑い朝にこんなに食べろというのは中々に酷だ。

 「文句言わないで食べなさい」

母さんはどことなく後ろめたそうに肉じゃがを差し出してくる。

…ああそうか、これってつまり、母さんも暑くて食欲が無いから俺に食わせようとしてるってことか。

勘弁してくれよ。

…と思いつつも、昨日の晩に食べた肉じゃがの味を思い出してしまい、ついつい皿を受け取ってしまう俺。

ま、ただでさえ料理の上手な母さんが得意とし、さらには大成功とまで言わしめた昨日の肉じゃがだ。きっと、暑さくらい跳ね除けて食べてしまえるだろう。

 「それじゃ、戴きます」

 「戴きまーす」

感謝の気持ちを口にした後、早速口に運んだ肉じゃがは昨日よりも更に味が締まっていた。




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 「ごちそーさま!いやぁ美味しかった〜。

一晩寝かせると更に美味しくなるっていうのはカレーだけじゃ無いんだね」

 「ご馳走様でした。

そうねぇ、味が染みて柔らかくなるから大体の料理が美味しくなるんじゃ無いかしら」

 思った通り…いや、それ以上の量を食べることが出来た。

昨晩のでも充分以上に絶品だった肉じゃがは、一晩寝かせた事によって至高の逸品と味を変えていて、ご飯のおかずなのかご飯がおかずなのか分からない勢いで食べてしまった。

食事の余韻に浸りつつ、天気予報の流れているTVを何気なく見る。

右上に出ているデジタル時計は【8:02】。

普段は八時三十分に出て遅刻ギリギリに登校できるから、今日はもう少し早めに出ようかと計画を立てる。

俺は手早く汚れ物を重ねて流しに運び、サクッと歯ブラシを終わらせて身支度を整えた。

デジタル時刻は8:12。

うん、悪く無い。

 「じゃあ、行ってくるよ」

身体に残る休みの感覚に喝を入れる為、少し大きめな声で母さんに挨拶をした。

 「あら、もうそんな時間なの?

それならコレ、着けて行きなさい」

俺とは違い時間に余裕のある母さんは丁寧に重ねた汚れ物を流しに置いてくると、ズボンのポケットから見慣れない紐を取り出しつつこちらにやってきた。

 「ん?何それ」

 「これはね、靴紐で編んだミサンガよ。

あ、勿論綺麗に洗ってから編んだからその辺りは気にしなくて大丈夫よ?」

母さんは靴紐で編んだというミサンガを両手の上に乗せて苦笑いを見せる。

多分、汚れとかその辺を気にしてるんだろう。

 「靴紐で編んだって…って、その靴紐ってもしかして俺が初めて母さんに貰った誕プレの?」

どこか見覚えのあるそれは思った通り、まだ母さんが母さんになる前に俺にくれた靴の生き残りだった。

確か、小二だか小三の頃に貰ったような……

嬉しくってずっと捨てられなかったんだっけ。

今じゃどこにしまったのかも忘れてるくらいだけど。

 「そ。

実はね昨日の夜、急に思い立っちゃって、ネット知識でそれっぽく作ってみたの。

まぁ、冷静に考えればこんなの腕につけてって言うのも変なんだけど、作ったからには一応は聞いてみようかなって」

 「うーん」

自分で説明していておかしな事をしてると思ったらしく、話し進める毎に声は小さくなり表情は陰る。

さて、靴紐で作ったミサンガか…

確かにあの紐靴には思い入れがあるけど、元々は足に使われていた物を腕に巻くというのはどうなのだろうか。

綺麗汚いと言うより、固定観念の問題だから気にしなければいいだけなのだが、うーーん。

 「…まぁいっか。

丁度、新学期に向けてイメチェンとか考えてたし」

色々考えてみた結果、ちゃんと洗ってあるならいいし、よくよく考えれば別に大した問題でも無いだろう。

見た目もお洒落だから周りに変に茶化される事も無いはずだ。

 「本当!?それじゃあすぐに巻くわね!」

そう言うと母さんは嬉しそうに笑みを浮かべて、練習でもしたのかというくらい手際よく俺の左手首に靴紐ミサンガを着け始めた。

小さくて履けなくなってしまった想い出の靴、その紐。

知らぬ間に捨てられてると思っていたが、まさかこうやって再び共に日々を歩めるとは思わなかった。

…靴だけに。

 「はい、出来たわ!」

なんて、くだらない事を考えている間にミサンガを巻き終わったらしい。

少しだけ色褪せた深い青色のミサンガは、キツ過ぎず緩過ぎ無い絶妙な感覚で腕に着けられている。

 「じゃ、行ってきまーす」

少しの間感慨に耽ってから、気持ちも新たにドアを開ける。

 「えぇ、行ってらっしゃい」

一か月ほど前通りに挨拶を交わして玄関から出る時、母さんを見ると夏休み前よりもなんとなく可愛らしい顔で笑っているように見えた。





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 辺りにはチラホラと見受けられる学生服の男女達。

それもそのはず。目の前は既に見飽きた校門だ。

 「あーったく、イヤんなるぜ…」

人目も憚らずに大声で愚痴を言う短く整えられた黒髪の男子学生が一人、高校の名が刻まれたプレートに背を預けている。

 「うわー、変な人が居るなぁ…近づかんとこ…」

当然、俺はその男の横を通り過ぎる。触らぬ神になんとやらだ。

 「おいコラ待てよお前」

声が聞こえたのだろう、そいつは俺の肩をつかんできやがった。そして俺は当然の如くそれを振り払って校庭を進む。

残念ながら零点だ。

夏休みの間何をしてたんだこいつは。

 「えっ、ちょ、待ってくれよぉ〜!なんで無視すんだよぉ、さこたぁ〜」

後ろからバタバタと喧しい足音が聞こえる。

それの主が俺の肩に手を回してきた。

 「なぁなぁ、なんで無視すんの?」

そんなのは決まってる。

早歩きをやめて止まり、隣にいる男をしっかり見据える。

 「つまらないから。もっと腕磨いてから来い」

そう言うと男は、まるで一昔前のマンガのようにオーバーな表現を使って驚いてみせた。

言い表すなら雷が落ちて驚きを隠し得ない格好、ってところだ。

 「んな馬鹿な…

夏休みの間、ずっと考えた末のコレなのに…ッ!」

右手で顔を隠す男。

しかし、これは落ち込んでいるのではなく、彼が好きなマンガのキャラと同じポーズを取っているだけだ。

腕の曲げ方、腰の捻りや足の位置などは何処かの彫刻のそれを思わせる。

 「お、それはちょっと面白い。二十点」

 「イェェェス!」

仕方が無くつけた点数。それに彼はガッツポーズして分かりやすく喜んだ。

この同級生の男の名は屋島 考兎。

なんでも将来はお笑い芸人か道化師のような人を笑わせる職に就きたいらしく、クラスメイト達に自分のネタを披露しては採点してもらいセンスを磨いているのだ。

 「それよりも久し振りだな、さこっち!課題は終わったか?」

 「喧しいぞ、やっくん。愚問はやめてくれ」

 「だよな!終わるわっきゃない!」

 「「あっはっはっは!」」

俺は数日振りに再会したやっくんと肩を組み合うと、笑いながら校庭を進んで行った。



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 「おはよーす!!」

 教室に入るなりやっくんは大声で挨拶をする。隣にいる俺の耳のことも無視して。

 「おっはー!」「おはよ〜」「ぐっもーにーん」「オハヨーっす」

俺たちは親も嫌う高校生。

ルールは破るのがちょっとかっこいいなと考えて、【ダリ〜】【メンドクセ〜】が口癖の、【レカレ(レトルトカレー)】といった具合にテキトーな単語を量産し、当然挨拶をする・返すなどはカッコ悪いと思ってるお年頃。

にも関わらず、クラスにいた生徒達は男女分け隔てなく彼に挨拶を返した。

 「いやぁ、みんな元気だな!俺はまだ休みボケしてるのに!」

そう言いながらやっくんは頭を掻きながらみんなに背を向ける。

「寝癖か、0点」「敢えて用意したの?それじゃあ一点もあげられないわね」「健気じゃないか、よろしい5点あげよう」

その上で帰ってきたのはあまりに辛辣なお言葉の数々。

それでも、何人かの採点を聞いて満足したらしくやっくんはみんなの方に向き直る。

 「おい!もっと優しくてもいいだろ!?久々の再会だぞ!」

頭に手を当てながら大笑いしたやっくんにつられ、クラスのみんなもまた笑い出した。

 「ほら、そろそろ先生来るぞ」

 「お、了解」

もう少しみんなとの会話を聞いていたいところだが、時計が示すのはショートホームルーム真近の時間。

やっくんの尻を叩いて席に促すと、それほど時間の経たないうちにガラガラと聞き慣れた耳障りな音が喧騒の中に響いた。

強引に静まり返った教室内で唯一存在感を示すハイヒールの音。

 「や、みんな良い朝だな。まさに登校日和だ。それじゃあ早速、ショートホームルームを始めるぞ」

艶のある黒色の髪を後ろで束ねた俗に言うポニーテール。

半袖で且つ薄手のワイシャツに紺のタイトスカート。

そして真っ白なハイニーソックスを履いた、街で見かければ誰もが振り返る絵に描いたような美女が教卓の隣に立って、聞き飽きた定型文を口にした。

凛としているがどこか抜けている、そんな印象を受ける彼女は担任の御山 燕先生だ。

俺は隣の席で机に突っ伏しているやっくんに視線を向ける。

 「(………)」

彼もまた、鋭い双眸で俺を見た。

 ーー長い戦いの幕開ける。

アイコンタクトで、再び開演する学校生活の火蓋が切って落とされた。

 「さて、まだまだ暑さの続く今日この頃だが、夏休み中に風邪を引いたりした者はいないな?」

長期休暇明け恒例のつまらない話。

それも御山先生の綺麗な声で話されれば自然と耳を傾けてしまうのだから不思議なモノだ。

これが声豚ってやつか?

 「よし、少なくとも今日はいないみたいだな。みんなの元気な顔を見れて先生は嬉しいぞ」

クラス内を見渡し、欠席者が居ない事を確認すると嬉しそうに微笑む先生。

 「お、そうそう、柳川!深夜にゲーセンで彼女といた事は校長にも学年主任にも言ってないから、安心しろよっ!」

 「ばっ、声デカいッスって!」

 「あぁ!?誰のが他人に比べて小さいって!?」

 「誰もそんなこと言ってないッスよぉぉ!」

それで終わればいいのだが、彼女はいつも一言多い。その上、誤聴するものだから大変だ。

あぁ、可哀想な柳川。

御山先生の前で〈大きい・小さい〉のような大きさを表す言葉は使ってはいけないと彼女が担任になった日に学んだろうに…。

「(また始まったな、オウボウツバメの難聴が)」

隣のやっくんが俺にだけ聞こえるよな声の大きさでぼやく。

この御山 燕という人は小さな胸に大きなコンプレックスを抱えている。

それだけなら分かるのだが、手に負えないのは物の大小を表す言葉を使うと自分の都合の悪いように解釈してしまうところだ。

要するに、何でも胸の大きさに変換してしまう。そして、その事で怒ったりする。

生徒が笑ってるからまだいいけど、そのうち問題になるんじゃないか?

 「(あれさえなければ、綺麗・可愛い・デキるくせにちょっと抜けてる、の三拍子が揃った人なのにな…)」

物悲し気に呟く彼。あぁ、やっぱお前は分かってる。

 「(全くだ。

更にそこにポニテ・ハイニーソ・平胸の三拍子が追加されて、まさしく俺好みなのに…)」

完全な同意を送るも何故か難色を示す親友。

何かおかしい事でも言っただろうか。

 「(やっぱお前マニアックな趣味してるよな…)」

 「(は?)」

チッ。所詮は猿の延長線上の生き物か。この崇高な審美眼を理解できないとは。

 「(あのなぁ……。

いいか?まずちょっと抜けた性格と平胸の親和性だがな)」

今更語るまでもない事実を口にしようとしたその時。裁縫針にも似た鋭い痛みを頬に感じる。

 「ぉおいコラ。私の前で胸の話をするとはいい度胸してるじゃないか、時雨」

 「は…?」

唐突に名前を呼ばれ、俺の思考は一瞬停止した。

そうして同じ過ちを起こしたことに気が付いた時にはもう遅かった。

 「国語教諭に向かって皮肉とは中々面白い冗談じゃないか。えぇ?」

遠く離れた教卓から迸る殺気。

 「な、な!?」

矛先は不覚にも俺。

やっくんは最後列な上に窓際から二列目、そして俺はその左隣だ。つまり、教卓に腰を預ける御山先生からは一番遠い所にいるはずだ。

 「なのに聞こえていた……?」

 「訳分からんことを言うな。あれだけハッキリ口にしていれば誰にでも聞こえているだろうが」

 「マ、マジ?」

 「い、いや、俺は分からんかったぞ」

彼女の発言の裏を取るように前の席の奴に確認してみるも横に振られる首。

嘘だろ?目の前の奴にすら聞こえてないのに?

 「時雨、お前はこの後職員室に来るように」

 「はぁ!?ちょ、ちょっとま…」

 「一時間目は学年主任・副主任による自転車点検があるので、始まる五分前には自転車小屋にいるように!

以上!ショートホームルーム終わり!」

取り付く島もなく必要事項を言い切った先生は振り返る事無く教室を後にする。

 「待ってくれ先生ーー!」

当然その背中に声を投げかけるが……。

 「イヤだ」 

横暴な鳥は職員室へと羽ばたいていってしまった。

取り残される空虚な俺の心と無音の教室。

それらがクラスの笑い声で埋まるのにそう時間は掛からなかった。

 「全く、お前も大概だよなぁ。結構な距離ないとあの人が気にしてる発言は全部拾われちゃうんだから、気をつけろって」

 「うっせ!心配するか笑うかどっちかにしろ!」

 「はっはっ!ごめんごめん。

で、行かなくていいのか?先生のとこ」

クソ、このサル野郎。一歩違えばお前が俺の立場だったってのに他人事みたいなツラしやがって。

 「不本意だけど行って来るわ。ったく、なんで俺ばっかり…」

 「地雷踏まないよう気をつけろよー」

 「分かってるー」

適当にやっくんに返事を返しながら、未だ笑い声の満ちる教室を出る。

 「まだそこにいるな、悠々と歩きやがって」

教室を出て少ししたところの角を曲がる御山先生が確認できる。走ればまだ間に合う距離だ。

困った事に御山先生の呼び出しは、御山先生と同じかそれよりも早く職員室に入らなければ遅刻とみなされてしまうという謎仕様。

つまり、今すぐに追いつかないとお咎め確定だ。

 「ちょいちょい」

と、今にも走り出しそうな格好でいる俺の肩を誰かが優しくつつく。

 「ごめん、用あるからまた後で」

だが、今は相手をしている場合じゃないので適当にあしらう。

この人には悪いが別の誰かを捕まえてもらおう。

後は、ちらほら見える生徒たちをどう避けて行けばいいかルート確保をして…。

 「ちょいちょいって言ってるでしょ。

人が呼んでるんだから断るにしろまずは面と向かえって」

しかし俺の意思とは無関係に、無理やり身体の向きを変えられる。

 「んなっ、何すんだ!」

突然目の前に現れる女学生。

彼女が誰なのか判別するよりも先に彼女の声が鼓膜に響く。

 「何すんだじゃない!面と向かえっつってんの!」

 「は、はい!」

厳しい声色に竦む身体。無意識に正される姿勢。

 「あ…。

えぇと、その、ごめん。ちょっと、時間いいかな」

かと思えば、今度は打って変わって自信のない声で伺われた。

 「それは、まぁ…。多分もう手遅れだし」

 「手遅れ?」

 「あぁ、いや。こっちの話」

ここまでくればもう無理だ。

俺の教室から職員室はそれほど遠くない。今頃御山先生は到着しているはずだろうし、どうあがいても遅刻は免れない。

だったら、後はいくら遅れても大差ないだろうし、この迷惑な女生徒の話を聞いてもいいだろう。

 「それで……誰?」

 「えっと、転校生、って言えば分かるかな…」

ついさっきの厳しい声は何だったのか。自信も何もなく、尻すぼみに話す、転校生だと言う女生徒。

制服は間違いなくこの高校の物だし、見慣れない顔だからから嘘ではないだろう。

…とは言え、本来は締めるべきワイシャツの第一ボタンを開けてスカートから裾を出したり、薄くメイクをしていたりで校則を遵守している様子もない。

勿論、完璧に校則を守っている生徒なんてそういないだろうが、ここまであからさまに破っている生徒も少ない。

 「ちょっと、どこ見てんの?」

 「えぇ、あっ、ごめんごめん。

えーと、転校生?でもそんな話なかったような…」

極めつけはこの金髪だ。栗色やブラウンではなく、見事なまでのゴールドヘア。

ここまでくればもう言い逃れは出来ない。

 「ちょ、な、なに?」

再びしっかりと女生徒を見定め、結論を下す。

 「うん、どこからどう見でもギャルだ」

今日日、ここまでわかりやすいギャルがいるだろうか。いいや、恐らくいない。

故に、学校長も彼女の在り方を認めたのだろう。怒りよりも、関心が勝って。

 「…まぁ、否定はしねーけどさ…。

けど、もうちょっとこう、口にしないって選択肢とかはなかったのか…?わかっててやってても、言われると少し、傷つくんだぞ…?」

 「え、そうなの?」

 「そりゃあ、まぁ」

……良く分からないけど、彼女の前でギャルと言うのはダメらしい。何か理由があってあえてやっているのだろうか。

 「まぁいっか。

それで、クラスはどこ?二年ならこの階であってるけど」

学校側が許可しているのなら俺が口を出すべき事は無いだろうし、とりあえず転校先のクラスを尋ねてみる。

これで別の学年とかだったら案内が必要だろう。その場合、遅刻の言い訳も立つ。

 「それがココなんだよね…」

 「………は?」

などと考えていたら、実は少しだけ大変な状況だったりした。



          ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー  



 「失礼しまーす、御山先生居ますか?」

 所変わり保健室前。

俺と転校生の女子ーー夏乃(かの) 眞結(まゆ)は職員室に行き、御山先生が保健室に向かったことを聞いて、ここまでわざわざ足を運んだ。

呼び出し先に先生がいないと言うのは割とあるあるだが、彼女の場合は横暴しといてそれなのだから、如何なモノだろうか。

 「ねぇ時雨、本当についてきてもらって良かったの?」

 「うん、俺も御山先生に用があったし、まだ夏乃も学校のことよく知らないだろ?だから会いに行くついでに案内しようと思って」

 「なるほど」

と、話している間に扉越しにハイヒールの音が近づいてきた。

 「居るぞ。入ってこい、硲」

 「失礼しまーす」

若干立て付けの悪いドアを開けると、そこには教室に入って来た時の服の上に白衣を羽織った御山先生が腕組みをして立っていた。

 「遅いぞ!今すぐにそこのベッドで横になれ!この包帯でぐるぐる巻きにした後、そこにある川に沈めてやる」

 「「えぇ!?」」

強風にたなびくカーテンを背に不穏な事を言う御山先生。

彼女は白衣の両ポケットから取り出した太い包帯を指と指の隙間に挟んで不敵に笑い、今にも俺を縛り付けようとしている。

 「『えぇ!?』じゃない!うら若い乙女の心を傷つけたのだ、そのくらいされても文句は言えんだろうが」

確かに、『傷つけた』というのは事実かもしれない。しかし、うら若い乙女と言う部分はどうなんだろう…?

 「…って、今女性の声が聞こえたような」

やっくんの警告通り変な地雷を踏まないように返答を考えていると、ふと御山先生がそんな事を口にする。

そう言えば、俺の驚きに声が重なっていたような…?

 「あ、それ私」

と、ここでもう一人この場に居た事を思い出す。

俺に背後に重なるようにして立っていた夏乃だ。

 「!!!!!?????」

夏乃の登場と同時に、声にならない声を上げてとんでもない表情になる御山先生。

凄いな、人の顔ってこんなに赤く染まるんだ。

 「いっ、居るなら居ると言え!てっきりさこ…時雨一人かと思ったじゃないか…

そ、そうだ。そんな事より夏乃はクラスの誰かと仲良くなれたか?」

一向に引く気配のない赤さを顔に残したまま、どうにか表情を見られる程度に戻した御山先生は口早に夏乃に問いかる。

だが、答えは当然NOだ。

そもそも紹介もされてないのだから知り合いすらできるか怪しい。

 「えぇ…。

そもそもセンセ、私のこと紹介してくれてないじゃん…。強いて言うならこの時雨…くんだけだよ」

同じことを思ったらしく夏乃も抗議を口にした。

その上で薄っすら頬を赤らめているのは俺の事を友達と紹介しているからだろう。

わかる。友達の前で「こいつ俺の友達!」て初めて言う時、少し気恥ずかしいよな。

 「……あ」

夏乃の話を聞き、御山先生は指で挟んでいた両手の包帯を床に落としながら近くにあるソファに倒れかかるようにして座り込んだ。

 「そうだった。その時は、そいつのせいで怒ってたからなぁ。完全に忘れていた。

すまない。一時間目が終わったら必ず紹介するから許してくれ。この通りだ」

頭を下げながら両手を合わせて夏乃に頭を下げる御山先生。

その勢いに圧倒された夏乃は半歩後退しつつも慌てて両手を振った。

 「だ、大丈夫だよ!そこまで気にしてないから、顔上げてよセンセ!」

 「……そうか、そう言ってもらえると有難い」

余程堪えているのか、酷く落ち込んだ表情のまま感謝を口にする。

やっぱり、御山先生ってちょっと変わってるよな…。普通転校生忘れるわけないし。

 「…あ、そうそう時雨。お前を呼んだ理由はその子に学校を案内する事でもあったんだ。

念のため言っておくが、思いついたからでは無いぞ。曲がりなりにも副委員長だからな。出来れば同姓である三船に頼みたかったんだが」

更にはこの心変わりの速さだ。今さっきのあれで夏乃の事を半回転させて俺の方に身体を向けられるか?

……まぁ、表情はあまり変わって無いから申し訳ないと考えてるのは変わって無いんだろうけど。中々謎な人だ。

 「それは別に構いませんが、説教と言うか、怒りはもういいんですか?」

彼女の案内を断る理由は俺にはない。問題があるとすればそれはあのオウボウな怒りのみだ。

 「ふむ」

御山先生は軽く頷くと夏乃から離れてソファに腰をかけ直し、ハイニーソが美しい脚を組む。

 「それは一旦いいだろう。これ以上夏乃を待たせるわけにもいくまい。

代わりに、お前には今日の放課後にもう一度会いに来てもらう。決着はその時だ」

……成る程。何が何でも説教はするのか。

 「けど、そしたら夏乃の事を案内する暇がないと思うんですが」

 「その点は問題ない」

勿論説教など受けたくない俺は唯一の回避方法である放課後の案内を何としても行いたい。そのために切り札とも言える事情を告げるが、何故か御山先生は憂う様子もなくそう言い放つ。

 「今日の四時間目は商店街の人が何人か来てする講習会があってだな、講習の内容と言うのが【ゴミのポイ捨て止めよう】と言った趣旨のものなのだが…

聞きたいか?」

呆れ気味に首を倒して語る御山先生。

そうか、この人にはこの人で切り札があったのか。

 「そりゃあ…」

問いの答えは言うまでもない。何故って、絶対つまらないし。

何より今までやってきた事は無いし、今後もやるつもりはない。分かり切っている答えをわざわざ改まって講義される必要はない。

 「私は聞きたくないなぁ…。だって、そんなのしないのって当たり前じゃん?

てか、その講習会に来てる大人達とか絶対昔にやってるでしょ。そーいう人から【ダメ・やるな】なんて言われてもさ」

問われてはいないが思うところがあったようで夏乃が頭を掻きつつ先に答える。

 「安易な決めつけは良く無い。が、実は私もそう思ってしまう人種でな。

人に何かを強制する人間は大概その事を出来ていない、と言うのが私の持論だ。

故に教師としてではなく、私一個人の考えとしては…まぁ無意味だと思っている」

彼女の想いに頷き、やれやれと首を振る御山先生。

この手の発言を聞くたびに、仮にも教師がそんなことを言っていいのだろうかと思ってしまうが、それが御山先生の人気の秘訣だったりする。

 「で、時雨的にはどうなんだ?やっぱり先人の教えは聞いておくべきだと思っているクチか?

反面教師としては良いかもしれんぞ。なにせ今日来る彼らはこの学校で番張ってたらしい悪ガキだからな。校長に講習会を提案しに来た時にどこか自慢げに話していたぞ?」

 「まさか」

再び問われた俺は、次こそ口ごもる事無く答えた。

 「煙草と一緒にプライドまで捨てた奴らの話聞くくらいなら、転校生の保護者をする方が良いです」

 「保護っ…!」

思わず出てしまった真意に困惑を見せる夏乃と、それとは真逆に腹を抱えて御山先生は笑い出した。

 「面白い冗談だ!よしよし、お前のようにセンスのある生徒になら任せても大丈夫だろう。

夏乃はそれでいいか?」

惜しげもなく笑みを見せる先生に対して若干不服げな顔をしつつも仕方無さそうに夏乃は頷いた。

 「はい、大丈夫です。ちょっとムカつきますけど」

 「ふふっ、それが彼の良い所だったりするのだ。

それでは時雨、頼んだぞ」

 「分かりました。迷子にならないようきちんと案内します」

 「あのねぇ……」

 「うん。微笑ましいケンカは仲良くなるための最良の薬だが、ほどほどにしておけよ。

ではまた放課後にな」

そう言うと御山先生はソファから立ち上がり、保健室を後にした。

 「…ちゃんと覚えてたな」

 「ふっふ~ん、ざまぁ」

それとなく残された最後の言葉に肩を落としつつ夏乃に向き直り、ふと思案する。

 「どうしたの?」

 「夏乃は自転車通学?」

 「ううん、徒歩だけど、どうして?」

 「うん、だとすると一限目はどうしようかなと」

 「あ」

思わぬところで御山先生のチャームポイントの一つを再確認してしまった。


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 体育館へと繋がる外廊下。その途中でとうとう俺は我慢が出来なくなった。

 「っだー!!ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー喧しいんだよ!セミか?お前らはセミなのか!?一週間したら諸共黙るのか!?だったら今すぐ黙ってくれ!!」

 「お前も黙れーー!?!?」

ワイワイガヤガヤと校舎裏に響く学生たちの声と、日本を分け隔てなく照り焦がしてくる太陽に向かって放たれる絶叫。

どうせ聞こえやしないんだし叫んだって構わないだろうと思ったが、どうも夏乃の気に障ったらしい。同様に大声で怒られてしまった。

……しかし。

 「がぁぁぁぁ……。悪態付けばイライラがマシになるかと思ったけど」

止む事のない学生の声。悪びれる様子もない太陽。

 「余計イライラするに決まってるでしょ、馬鹿」

夏乃と一緒に太陽光を一切遮らない青空にしかめっ面を送った。

 「暑いよぉ……」

ワイシャツの胸元をパタつかせ風を造り出す夏乃。

……言うべきではないかもしれないが、彼女の胸元は、その、それほど豊かではない。

ともなれば。

 「こっち見んなスケベ」

必然的に内側が見えやすくなってしまう。

このくらいの役得は見逃して欲しいところだがそうもいかないだろう。見てないぞという雰囲気を出しつつ視線を逸らした。

 「しっかし、やっぱり四時間目に案内するべきだったかぁ。どうせならしっかりサボリたいから、って余計な欲かかなきゃ良かった」

 「冗談。せっかく舞い降りた自由時間なんだから有効に使わなきゃ。時雨もそう言ってたでしょ?」

相変わらずワイシャツからの風に頼ったままの夏乃は、死にかけた視線で辺りを品定めして、見つけた日陰(オアシス)に身体を隠した。

くそ、外廊下の屋根を支えるパイプか、良いところに目を付けたなぁ。

…大して幅が無いから俺は入れないか。

 「うぅ…ちょっとマシ……」

なんとなく和らいだように見える彼女の顔を見て、再び自分の判断が正しかったのか考えてしまう。

保健室から教室に戻る間、『この暇な時間をどうするか』という話になった俺たちは、夏乃がそれとなく言った一言で予定を大幅に繰り上げて校内の案内を始めたのだ。

しかし、あまりの暑さに参ってしまった俺たちは保健室の次に移動した体育館の外で根を上げてしまった。

 「どうする?今ならまだ引き返せるけど」

 「話聞いてた?このまま回るよ」

言葉こそ強いものの力を感じられない。

なんと言うか、意地を張っているように聞こえる。

 「だとしてもちょっとキツくないか?この暑さ」

 「うっ…

い、いいや。いいや。アタシはもう流されないぞ。アタシは今度こそ…」

そう言って何故か片意地を張った夏乃はいきなりその場に座り込んで俯いてしまう。

……うーん、御山先生を乗り越えたからと言って安心し過ぎていた。まさかこんなところに罠(じらい)があったか。

 「…あー。ちょっと待ってて」

幸い怒っているわけではなさそうだし何とかなるだろう。

ともかく、サッと行ってパッと戻って来よう。


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 「……あっ、時雨!ちょっと、どこ行ってたんだよ」

 それから数分後、日陰から身を乗り出してこちらを睨む夏乃と眼が合った。

間を置いたからか落ち込んでいる様子が改善され、最初の時のような元気さで声を掛けられた。

若干怒っているのは多分暑さのせいだ。

 「悪い悪い」

 「全く、保護者が勝手にどっか行かないでよ」

夏乃は定位置になりつつあるパイプの所に座り直すとため息交じりに皮肉を溢す。

 「じゃあ、保護者ついでにこれあげる。割と汗かいたし」

言いながら飲み口の首を指の間に挟み、ニ種類のスポーツドリンクを見せる。 

 「普通のかレモン。好きな方選んでいいぞ」

それを見て俺がどこに行っていたのか、夏乃は直ぐに感づいたらしく僅かに唇を尖らせた。

 「……別に、喉乾いてないからいいよ」

そうして、手を振っての拒否の仕草を見せらてしまった。

 「…へぇー」

 「何?」

 「いや、別に」

しかし身体は正直なようで喉の動きがしっかりと確認出来る。

どうやら気を使っていらないと言っているらしい。

 「何、喉乾いてないの?ホントに?」

 「うん。だからいいよ」

もう一度確認してみるがやっぱり手を振って断られる。だがその度に喉の上下運動が確認できてしまう。

どうしてこうまで断ろうとするのかはよく分からないが、多分、しつけの厳しい家庭で育ったんだろう。……そしてその反動でギャル化した。

のかもしれない。

 「ふーん、成る程。じゃあこの甘くて冷た~いのと、ちょっとすっぱいけどそれが癖になるこれは、どっちも俺が飲むか。

きっと、この暑さの中で飲んだら冷たすぎた頭がキーンってなるかも知れないし、ゆっくり飲も」

それはそれとして見せつけんばかりに目の前でペットボトルを振る。

僅かに跳ねる露結した水分。腕に当たった滴からはえも言えぬ冷気を感じ、つかの間の天国を覚える。

……せっかくの好意を、理由も示さず無下にされたんだ。簡単に引き下がるわけにはいかない。

 「うっ…の、飲みたい…

い、いいや、今更欲しいなんて…でも…ぐぅ…」

 「そういうのは心の中で言うんだぞ」

視線をきょろきょろと忙しなく動かして心の葛藤を余すことなく伝えてくれる夏乃。

しかし、その目の奥からは形容できない怒りが垣間見える。

どうせならもう少しからかいたかったが、ここら辺で詰めにするか。

でないと夏乃から恨みを買うだけでなく校内を案内する時間も無くなってしまいそうだ。

 「なんて冗談だよ。俺一人でこんなに飲んだらお腹下すからどっちか貰ってくれ」

言いながら半ば押し付け気味に飲み物を見せつける。

 「たまたま当たったんだ、自販機で。こんなにはいらないけど、だからって棄てる気にはならないし、温いのも飲みたくないから」

そう聞いてやっと観念したのか、そろそろと上げた右手でレモン味の方のスポーツドリンクを夏乃は指した。

 「…そう言うなら…こっちを」

 「あいよ」

示されたレモン味を渡すと、途端にその冷たさに魅了された夏乃は一呼吸しないうちに首元に当てる。

 「あぁ~天国ぅ~」

浸る夏乃を横目にまだまだ冷たいスポドリで喉を潤す。

 「………あぁ、飲めば極楽だぜ」

一足先にお釈迦様にお会いした俺が言うんだから間違いない。

 「ああああぁぁぁ…。生き返るーーー!」

小気味いい音を立てて半分近くを一気に飲み干す夏乃。その顔は本当に天国か極楽で過ごす人のようだ。

あまりのふやけた顔にこっちまでつられてしまいそうだ。

 「さて、休憩もしたし、そろそろ校内見学に戻るか?」

 「うん!今なら勢いで全部回れると思う!」

元気をリチャージできたのだろう。勢いよく立ち上がった夏乃の笑顔はこの空に負けないくらい晴れやかだ。



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 チャイムの音が所構わず響き渡る。

一カ月ちょい前までは気にするのも嫌だったチャイムだが、久々に聞くと気が引き締まる気がしないでもない。

 「えー。では、今学期より我々の仲間となる生徒を紹介しようと思う」

開口一番。誰も考えていなかった、或いはもう諦めていたイベントにクラス全体がどよめく。

 「御山先生!男ですか!?女ですか!?」

定番の文句を真っ先に口にしたのは、挙手と同時に立ち上がった我が親友・やっくんだ。

こういったイベント事では基本こいつが一番最初にリアクションを起こすのが決まりごとのようになっている。

 「お前はどっちだと思う?」

優しい微笑みでやっくんに質問で返す御山先生。

俺の隣の奴はそれをもう少し気持ち悪くした感じの笑いを見せてから堂々と答える。

 「当然!可愛ければどちらでも!」

こいつはやっぱりブレないな。

男だろうが女だろうが可愛ければなんでもいいと公言して憚らないこいつの性癖はクラス全員の知る所だとは言え、転校生に聞かれた時のリスクを考えないのだろうか。

それでも彼の揺るがない意志に教室のあちこちから、『よく言った』『それでこそだ』という肯定的発言から『最低』『バカ』といったまっとうな意見も飛んでくる。

 「はいはい静かに。

じゃあ、転校生の夏乃。入ってきていいぞ」

柏手二つで小声だけになったクラスにドアの開く音が響く。

続いて聞こえる足音は、緊張しているのか少し前までの軽やかさを失っていた。

 「てっ、転校生の夏乃 眞結です。えっと、父親の故郷であるこの街に引っ越してきました。

こっ、これからよろしくお願いします!」

如何にもギャルな見た目とは想像もつかないほど深々と頭を下げ、ぎこちなく挨拶をする夏乃。

俺の耳に届く限りの声では、かなりの好印象を与えられたみたいだ。

分かるぜ。ギャップっていいよな。

 「えーっと、引っ越してきた理由はまぁそういう事だ。

夏乃はそこでにやついている時雨…時雨 硲の後ろの席に座ってくれ。クラスに空きの机がなくてな、誰かの隣にというわけにはいかなかったのだ。申し訳ないが少々見辛い所で少し我慢していてくれ」

黒板に夏乃の名前を書き終え、持っていたチョークで俺の後ろに配置された机を指す御山先生。

どうやら一時間目の間に誰かが机を用意したらしい。

 「分かりました」

頷いた夏乃は教壇から降りて、ひそひそと聞こえる黄色い内緒話に照れつつも愛想笑いを見せながら席に着く。

 「(よろしく、時雨)」

 「(ん。ま、何かあれば)」

それとなく後ろに視線を送りつつ夏乃に答える。

しばらくの間、背後の席を気にしたことがなかったからなんとなく変な感じだ。

 「(ありがと)」

 「二時間目は主にプリントなどの配布物を配るぞ。それが終わったらクラス委員を決める」

夏乃の小さな笑い声が御山先生の声で聞こえなくなる。

どうやら御山先生の話を聞く体勢に入ったみたいだ。

俺も、あまり他所に気をやってると御山先生に何言われるか分からない。さっさと授業に集中するか。

 「もしそれでも時間が余れば、お待ちかねの席替えだ。みんな、キビキビやるように」

言い終えると同時に教卓の中から取り出した何束かの大量のプリントを現クラス委員長の女子生徒に手渡す。

中学校までとは違い、肩甲骨の下辺りまで伸ばした黒に近い栗色のロングヘアの彼女の名前は三船 凉。相変わらず一部の強調が激しい。

一先ず受け取った束を丁寧に仕分け、混ざらないように交互に重ねていく凉。

彼女の姿を視界に映しながらこの後やるかもしれない席替えに思いを馳せる。

さっきああ言ってしまった手前、夏乃とは近い席になってほしいところだけど……

 「こら、副委員長。早く前に出でこんか」

そんな考えを遮ったのは御山先生の声。

 「やべっ」

長期休暇の弊害、とでも言うのだろうか。面倒事に対する記憶の欠落。

御山先生に呼ばれるまで忘れていたが、俺はこのクラスの副委員長だった。

ほぼ無理やり任せられた時の経緯は今思い出しても頭に来る。

 「(おいおいさこっち、彼女の事ほったらかしにするなんてひでぇな)」

隣ではニヤニヤと薄気味悪く笑うやっくん。

こういう時のコイツは本当に生き生きしててムカつく。許されるなら今すぐに殴りたいくらいだ。

 「(だからちげーつってんだろ。アイツが指名したのは昔から馴染みがあるからで…)」

 「時雨君?その、早く来てくれないかな?」

 「(ほれほれ呼んでるぞ、しーちゃん。早く行ってやれって)」

……ダメだなコイツは。後で殴ろう。

固い決心を抱き、立ち上がる。

教卓までの道中に冷やかしの小声が耳に入ってくるが今は放っておこう。

最悪、俺の右拳が潰れるだけだ。

 「悪い悪い。忘れてた」

 「全く、しっかりしてよね?」

細めた眼で覗いてくる凉から半分くらいに分けられたプリントの束を預かる。

実を言うと、俺は小学校の頃からよく配布物を任せられていた。

と言うのもこの凉という人間とコンビを組む事が多く、その時に任されていたのが配布物や生徒の整列、教師を呼びに行ったりなどで、学校で行う所謂雑用がお手の物になってしまっているのだ。

時々別の奴とやらされることもあったが、どうにも上手くいかない事が多かった。

混乱するプリント配布、何故かかみ合わない号令、行違う教師…など、酷い時はとことん酷かった。

けれど、凉と二人で行う時は失敗する事は殆どなかった。慣れてからは勿論の事、初めの頃からずっと。

理由は多分、学校以外でも小さな頃から付き合いがあるからだ。なんでも、生まれた病院が同じで母親同士の病室が一緒だったとか。

退院してみれば同じスーパーに通っている事が分かり、そこから更に親睦が深まった……らしい。

 「終わった?」

 「丁度」

やっぱ、面倒な事をする時は別のことを考えるに限るな。

凉に声を掛けられた時には残り一列分の束を配れば俺の分は終わりだった。

彼女に関しては俺より早く終わっていたようで、御山先生に次の指示を仰いでいた。

 「では次はクラス委員を決めようと思うのだが、仲間が増えたためどこかの委員人数を一人増やす事になった。

そこで、前期の委員活動において人手不足だったところは教えて欲しい」

椅子に座ったままの御山先生がクラス全体に聞いてみるものの、小さなざわめきが起こるだけで挙手はない。

みんな、仕事自体はあるが人を増やす程ではなかったり、逆に仕事がなくて暇だったりなのだろう。

かく言う俺たちも二人で回らない程の仕事量じゃないし、下手に人数を増やすくらいなら…

 「そうか。では、副委員長を一人増やすとしよう。今学期は前期に比べ催し物が多いからな、委員長を含む三人で指揮を執ってくれ」

増やすくらいならいない方がマシまである、と思っていたところに御山先生のありがたいお言葉。

ま、今回も俺と凉とで委員長をやるとは決まってないから別にいいけど。

 「…うん、異論はなさそうだな。

では早速、委員長と副委員長を決めたいと思うが…」

 「はい!硲君と三船さんがいいと思います!」

元気よく大声で最面倒な仕事を押し付けてくれたのは我が仇敵の屋島クソ野郎。

分かっていた発言……とは言え、こうも思った通りに事が起こるとため息が出てしまう。

 「ふむ。その理由は?」

 「どちらも任せて安心できる人だからです!」

 「確かに、前期の働きぶりは見事なものだったからな。安心できるという点では同意だ。

後はもう一度この仕事を受け持ちたいと思うかだが、さっきも言ったように仕事は増える。……それでも良いと言うのなら、任されてくれるか?」

などと考えている間に話は決まってしまった。

担任から頼まれてしまえば断りようもないし、何より断ったところで誰もやらないだろう。そうなればどんどん時間は過ぎていき、席替えに手を付けられなくなる。

 「どうだ、二人共?」

そう言って俺と凉を上目使いで覗き込んでくる御山先生。

いい加減見飽きた光景だが、死ぬほど可愛いせいでついつい引き受けてしまいそうになる。

だが今回も凉がいるし俺一人の気持ちで決めるわけには。

 「はい。任せてください!」

というのは杞憂だ。そもそも、決定権は俺にない。

何を隠そう凉は御山先生大好きクラブの会長。彼女に頼まれれば何でも引き受けてしまうんだ。

そうして凉が引き受ければ俺もそれに続くしかない。なにせ、友達の少ない凉が、話したこともないような人と組んだところで結果が見えてる。

 「そうか、三船はやってくれるか。で、時雨は…」

 「時雨君…?」

これが噂に聞く誘導尋問か。確かに逃げ道がない。泣きそうだ。

 「わかりました。やるよ、やりますよ。やりゃあいいんでしょ、やりゃあ」

 「そうか!二人とも快諾してくれるか!ありがとう!」

何が快諾だちくしょう。辞書で赤線引いてこい。

 「さてと、問題は二人目の副委員長だが、誰かやりたい者は…」

俺の快諾を受け、増えた一枠の候補を探す御山先生。

しかし、分かり切っていた通り手は挙がってこない。

 「ま、いるわけないか。そうなると、三船と時雨に指名してもらおうかと思うが」

御山先生の一言にクラスがざわつく。

副委員長を俺たちが自由に決めていいとなると、さっきまでのように押し付けるという訳にはいかなくなる。

さて、何島君に押し付けてやろうかと考えていると、教室の奥の方から自信なさげに挙がる手が見えた。

 「む。いいのか、転校して来たばかりなのに」

 「はい。すぐに馴染むためには丁度いいかなって」

若干自信なさげに挙げているのは夏乃だ。

成る程。確かにクラス全体をまとめなければならない副委員長ならば他の人達と仲良くなれるのは早いだろう。

問題はこなさなければならない仕事が面倒かつある程度分かっていないと大変だという事だけだが、最悪の場合俺と凉がメインで仕事を回し、夏乃にはこまごまとした仕事をやって貰えばその点も問題ないだろう。

その上、委員仕事とは関係ないが例の約束も守りやすい。俺としても願ったりだ。

 「夏乃がいいのなら私からは何もないが…。二人とも構わないか?」

 「はい。自分でやりたいって言ってくれる人の方が何かといいでしょうし。

時雨君もいいよね?」

凉に尋ねられ首を縦に振る。

そもそも凉の性格上、無理矢理誰かにやらせるというのは無理だったから、その点でも申し出は嬉しい。

 「わかった。では夏乃。大変だと思うが頑張ってくれ。なに、困ったことがあれば三船や時雨に聞くといい」

 「わかりました」

そう言うと夏乃は席から離れ教壇に上った。早速進行を手伝ってくれるのだろう。

 「(二人ともよろしく)」

 「(よろしくお願いします)」

 「(よろしく)」

小さく挨拶を交わし、それが終わるのを待ってたのか御山先生はこっちを一瞥するとすぐに向き直り。

 「では、後の進行は前に立つ三人に任せる。みんな、くれぐれも彼女らを困らせないように」

言い終えると、教員用の机から取り出した何枚かのプリントのうち一枚にボールペンで何かを書き始めた。

御山先生は御山先生で何か仕事があるみたいだ。

 「んじゃ、今から黒板に書くからそれまでにやりたいのを決めといてくれ」

俺の一言で堰を切ったように教室が騒がしくなる。

またこの憎たらしくも楽しいクラスの指揮を執るんだと思うと、思わず笑いそうになるな。




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 「で、この時間はどうするの?」

 「案内、だよね?」

 風通しの良くなった教室で、涼んでいるのは俺を含め三人。

他二人とは、凉と夏乃。

それぞれ自分の席に着き、互いの顔を合わせられるように座っている。俺と凉は隣で、夏乃は凉の前。つまり、夏乃は椅子に跨り背もたれに身体を預ける形だ。

パンツが見えそうなのは言うまでもない。

 「えっと、それはもう大丈夫」

 「え?」

正面に座る夏乃に間抜けな声で聞き返してる凉は俺たちが一時間目に校内を回ったことを知らない。

当然、このままサボろうとしてることも知らないだろうし、サボるために案内役を引き受けたとも思ってないだろう。

 「でも、御山先生が…」

真面目な凉の事だ、終わったと言えば『念のため』と言いだしてもう一度案内しようとするに違いない。

そうなる前に先手を打つ。

 「気にすんな。重要なのは夏乃が学校を案内してもらってるかどうかで、この時間に案内することじゃない」

 「そうそう。むしろ今は、新しい委員仲間の仲を深めた方が後々いいかもしれないよ」

 「…それはそう、だね」

どこからどう聞いても方便でしかない俺達の言葉に、不服ながらも凉は納得してくれたらしい。

渋々頷くと、どこかそわついていた雰囲気を収めてくれた。

 三時間目、どうにか席替えまで終わらせた俺たち三人は、授業が終わってから御山先生にこんなことを言われる。

 『委員が同じになったし、三船も夏乃の案内をしたらどうだ?引率は私一人でもどうにかなるからな』

当然、凉は御山先生の提案を受け入れた。

真面目が取り柄の凉とはいえ、やっぱりつまらない講習を聞きたくはないのだろう。何より御山先生たっての提案だ。断るとは思えない。

夏乃も特に断る理由がないため、二つ返事で頷く。

だがここで問題になるのが、繰り上げて終わらせてしまった校内案内。

この三船 凉と言う女性はかなりの真面目人間だ。

高校二年になった今でも買い食いを数回しかしたことがなく、登校して席に着いてまずすることはスマフォの電源を落とすことで、それに再び電流が流れるのは放課後校門をくぐった後。

頭髪、身なりと校則を遵守しており、とても健全な女子高生とは思えない健全ぷりだ。

そのせいか[硬い人間]と思われてしまい、友達は男女合わせて三人しかいない。うち一人は俺なのだから実質二人。

そんな真面目ちゃんの前で『サボる』なんて言ってしまえば、すぐさま体育館へと連行されて講習を聞くというバッドエンド。

それだけは何としても避けなければならない。

というわけで、自分の座っている机と椅子をガタガタと寄せる。

突然近付いてきた俺に凉は目を白黒させている。椅子にまたがるように座っていた夏乃も同様だ。

幸い三人とも席が近い。夏乃には悪いがくるっと半回転してもらおう。

 「さてと、それじゃあ親睦会といきますか」

その苦肉の策がこれだ。

親睦会という名の座談会。

始まりは真面目でも、気が付けばただのおしゃべりになる上、誰かに見つかっても『思いの外案内が早く終わって』『講習中に入ったら迷惑かなって』と逃げられる。

 「そうだね!えっと、三船さん。下の名前は?」

 「あ、えっと、下の名前は凉って言います」

どうやら俺の思惑に気がついたらしい。夏乃はすぐに机を移動し、凉に質問を始めた。

こうなればあとは流れでこっちに持っていける。作戦通りだ。

 「へぇ、凉か…って言っても、時雨が呼んでたからなんとなくは分かってたんだけどね」

「えへへ」と少し恥ずかしそうに笑い、後ろ髪を掻く夏乃。

まぁ、あれだけ呼んでるのを聞いていれば分からない方が変だ。きっかけ作りのための前振りというやつだろう。

 「それで、これから下の名前で呼んでも良い?この学校で初めてできた同性の友達だからさ」

そうして告げられた本題に凉は目を丸くする。

 「か、構いませんけど…私、つまらない人ですよ…?あんまり友達いないし…それに、頭も良くないし…要領も…」

メガネを上げたり、襟足の生え際を掻いたりとせわしなく動きつつやんわりと自己否定を入れる凉。

コイツにあまり友達ができないのは真面目さだけでなく、このネガティブさ…と言うより、自己評価の低さも原因だ。

大抵の人間ならここで愛想笑いをしてそれとなく距離を置いてしまうのだが。

 「まだ殆ど話したことないのにつまらないかどうかなんて分かんないし、大丈夫大丈夫」

彼女は少し違ったようだ。

 「え、あ、は、はい…」

するりと差し出された夏乃の右手。凉は戸惑いながらも左手で応える。

少しーーいや、語弊を恐れずに言えばかなり強引な話法だが、それは正しい。

真面目で自己評価の低い彼女にいつしか追加されてしまった奥手さ。元々は人ともっと話せていたが、自分が人の輪にそぐわない人種だとどこかで理解した途端に現れた静かさ。そんな人物と仲良くなるために必要なのは夏乃のような暖かい強引さだ。

それを彼女は分かっててやったのかは分からない。けれど、凉を幼い頃から良く知る俺から見れば、この上なく優しい人だと思った。

 「これからよろしくね、凉」

 「は、はい!」

しっかりと結ばれた二人の手を目にし思わず緩みそうになる頬をぐっと我慢する。

良かった。これで俺と古海と氷室以外にも友達が出来た。ただでさえ友達が少ない上にこの性格なのに、高校卒業という無視できない行事があるんだ。最悪、近場に仲の良い人間が一人もいなくなる可能性だってある。

そうならないように友人が増えてくれるならこんなに心強い事は無い。

幸い俺はここから離れる気はないからとりあえずは平気にしても同性の友達が居なくなると色々不便だろうし、そういった点でもありがたい。

 「っと。ところで、夏乃はどうして転校して来たんだ?」

 「あ~…それ聞いちゃう?」

などと杞憂に近い思考を巡らせている中で気が付いた一つの疑問。

時期的には節目だからそれ程変ではないが、俺たちは高校生だ。場合によっては電車で二時間かけて通学する人だっていてもおかしくない中での転校。気にならないはずがない。

 「う~ん……

まぁ、二人にならいいか」

凉の手を放しながら、何とも言えない微妙な表情で夏乃はこっちを向く。

 「実はね、みんなの前で言ったのは半分ホントで半分ウソ。父親は関係あるけど、故郷は関係ない。その、ね。結論から言うと、アタシ、父親に勘当されそうなんだ」

苦笑い交じりに口にした理由。

その内容を耳にした時、聞きなれない単語のせいで一瞬脳がフリーズしてしまった。

 「あはは、ヤバいよね。家追い出されてるなんて」

 「…って事はやっぱ」

 「うん、その勘当」

徐々に軟化した脳がやっと導いたのは【縁を切る】と言う意味で使われる勘当という単語。

ドラマやアニメなどでもたまにしか見なくなった、かなり大変な状況を指す言葉だ。

 「と言っても騒いでるのはお父さんだけでね、お母さんはそんなことはないの」

慌てて付け足された事実に、僅かに胸が軽くなる。

しかし、だとしたら転校というのは解せない。まさか父親一人の意見で決められるわけない。

 「ただね、その、言い辛いんだけどさ…実はアタシ、前の学校でちょっと浮いてたんだ」

そんな俺の予想は容易に取り払われた。

 「…こっちも、聞きたい?」

僅かに濡れた瞳に映る俺と凉の顔。

芳しさの欠片も無いそれは、彼女にとっては重荷でしかない。なら、どかすのがやるべきことのはずだ。

けれど。

 「うん、私は聞きたいかな。その方がいいと思うし」

凉は目の色を、表情を変えて頷いた。

 「だな。ここまで聞いといてやめるのは良く無いし」

微かに視界に入った凉の視線に心で頷きつつ返事を返す。

そうだ。聞いたのはこっちで、彼女は話してもいいと思って言葉にしてくれた。なら俺たちにはそれを受け入れる責任がある。

 「あんまり面白い話じゃないけど…」

 「友達と話す時だもん。内容はなんだって大丈夫だよ」

凉の言葉を受け、夏乃は少し瞳を下ろしたかと思うと、ゆっくりと口を開き始めた。

 「……イジメられてたわけじゃないし、凄く嫌な思いをしたわけでもないんだけどね。

前のとこ、無理して入った進学校でさ。元々勉強だけするってのはあんまりキャラじゃなかったんだよね。なのに浮かれて、高校デビューっていうのかな。中学までは遊び三割の勉強七割くらいで、それが嫌で髪とか染めてみたりしたんだけど、失敗しちゃって。幸い、誰も私の頭のことなんて気にしてなくてさ。でも、それが逆に笑われてるみたいに思っちゃったんだよね」

彼女が口にしたのは、恐らく多くの人が胸に抱いているであろう不安だった。

新しい環境に身を投じる際に嫌が応にも覚えてしまう期待と不安、そして焦燥。

人によっては楽観視できるのだろうが、殆どの人間にはそうはいかない。

何より、最も怖いのは周りの人間との考えの齟齬だ。

それまでの環境で培われてきた感性が通用する場所ならば問題はない。

けれど、ただでさえ同じ地域でも学年が一つ違うだけで流行りのモノが変わったりする中、様々な地域から人が流れてくる高校という場所だ。何らかの違いが出るに違いない。

多少なりとも無理して入った場所だと言うのならば尚更ズレる可能性は高いだろう。

 「だからお父さんとかに愚痴ってたんだよね。『転校したいなー』とか。

んで、その後大喧嘩しちゃってさ。『お父さんなんていらない!』なんて言ったせいでもう大変。逃げるように部屋に戻って閉じ籠ってる間に、お父さんが学校に連絡して転校手続きを済ませちゃったんだ。お母さんもお父さんにそりゃあもうカンカンに怒ってたけど、親の有難みを知るいい機会とかなんとか言って結局は転校させちゃうしでさ。当事者の私も、何が何だか分からないうちにここにいたよ」

もう一度笑い、話を終えた夏乃の笑顔はどこかで見た事があるモノで。

それは中学の頃よく見た顔なのだと、直感に近い速さで記憶が蘇った。

 「そっか、大変なんだね」

 「まーね。けど、お陰で一人暮らし出来てるし悪い事ばっかりじゃないよ。仕送りだってあるし」

 「ふーん」

どこか少しだけ嬉しそうにはにかむ夏乃。

確かに、同じ高校生として一人暮らしを嬉しく思うのは分かる。その上仕送りだってあるのならバイトに精を出す必要も薄いだろう。

……そう考えると、実は夏乃はとてもいい状況なのかもしれないと思い始めてきたな。

 「それもあって早いうちにこっちの友達が欲しかったんだ。

あ、でも、だからって誰でもよかったわけじゃないからね?」

 「うん。それだけの理由ならしーちゃん、じゃなくて、時雨君だけでいいもんね」 

若干焦る夏乃に向けて柔和に微笑む凉。

それに対し夏乃は思い出したように手を叩く。

 「そう言えば、二人はどういう関係なの?もしかして…付き合ってるとか!?」

年相応というかなんというか、言い始めから言い終わりまでハイなテンションで聞かれたそれは、凉にとって禁句でしかなく。

 「そ、そんなわけない!私と、し、時雨君は…そういうのじゃ…ない、です」

落ち着いている見た目からは想像もできないような瞬発力を彼女に発揮させてしまった。

 「あ…ご、ごめん。プライベートなことだもんね…」

ガタンと大きな音を立てて倒れた椅子の余韻に被さる夏乃の謝罪。

  「ご、ごめんなさい!」

それを耳にした凉は、自分の起こした惨劇に気付いて声にならない声で夏乃に頭を下げ続ける。

 「そんなことで暴れたわけじゃないから、大丈夫」

 「あ、暴れてないから!」

俺が元に戻した椅子に傷が出来てないかを確認してから座る凉。

その間ずっと俺に困惑顔を向けていた夏乃に説明を始めた。

 「それに、踏み込んだのはこっちが先だし。お互いさま。丁度いいから夏乃には教えておくよ。

……つっても、同じ中学の奴らはみんな知ってるんだけどさ」

 「……?」

小首を傾げて耳を傾ける夏乃と、頬を薄っすらと染めて目を逸らしてしまう凉。

凉には悪いが、妙な噂で誤解を招く前にも彼女には伝えておいた方がいいだろう。

 「…凉とは産まれた時から一緒でさ。家も近所、学校も一緒と来れば仲良くならない訳がない。何より両親同士が意気投合してて、家族ぐるみの関係が出来上がって月に二回くらいは母親同士が俺たち連れて買い物行ったりしてたんだ。

保育園の頃からそれが普通だったから変だとは少しも思わなかった。けど、小学校の四年くらいだったかな。ませたクラスの女子が『あの二人付き合ってるんじゃない?』とか言い出したのをきっかけに、実はそんなに普通じゃないって気が付いたんだ」

そこまで聞き、凉は観念したように視線を夏乃に向け、続きを話し始める。

 「けど、言葉の意味が分かってた子なんて言い出した菫(すみれ)ちゃんだけだったし、私たちもよくわかってなかった。だからカップルって言葉より、友達だと思ってた人達に馬鹿にされてる感じがしてすごく嫌だった。

それでとうとう先生が帰りの会の議題にしてね、それでとりあえず誰も言わなくなったの」

けど、と続けて凉は黙ってしまう。

 「そ。あろうことかそん時のクソは問題の原因を俺にあるとか言いだした。男なら守ってやれー、とかなら分かるんだけどさ、『お前のせいで三船が悲しい思いをしたんだから、罰として学年が変わるまでの間ずっとトイレ掃除な』とか言い始めたんだ。流石に冗談だと思ってたんだけどなぁ……。マジで二か月もさせられるとは思わなかったよ。

で、だ。本来被害者である俺がまるで加害者みたいな扱い受けて、そのことがクラスで噂になり、最終的には俺が無理やり凉に交際を迫ったみたいになってさ。そのことに関して凉は未だに俺に負い目を感じてるってわけだ。

一週間もしたらプイキュアだの戦隊だのの話に戻ってたし、中学の件もあるしで、おあいこだって何度も言ってるんだけど」

 「中学でも何かあったの?」

 「まぁね。これはほぼ俺が悪い」

 「そんなこと!」

再びの凉の大声で夏乃は豆鉄砲を食らったような顔をする。

結構身を乗り出して聞いていたせいで鼓膜にダイレクトアタック、といったところだろう。頭の上でヒヨコが輪を作ってそうだ。

 「…あると思うけど」

しかも凉は俺の発言を認めてしまっている。これでは俺も夏乃も数値化された魂を削った甲斐がない。

 「だって、いきなりみんなの前であんなこと言うなんて…。普通に考えて頭おかしいもん…」

顔を覆った手では隠せていない耳が真っ赤に染まってる。

そりゃそうだ。俺だって死ぬほど恥ずかしいし、ダミゴえもんがいるならタイムマシンを奪い取ってでもあの時の俺を抹殺したい。

 「…まさか、凉は俺が守る!って言っちゃったとか?」

若干引き気味に訪ねてくる夏乃だが、事実はもっとヤバい。

だがらこそ、唐突に言ったわけではないことを伝えなければいけない。そうしなければ俺はただのアホだ。

 「えっとだな、中二になってすぐくらいに急に例の噂が広まったんだ」

 「例のって、付き合って云々?」

 「そう。

で、やっぱり、俺が悪いってことで始まって、広まり切った時に男からは『あの身体目当てで強迫した』、女には『いつも一緒にいるから手を出した』とか言われてたんだよ。全く、小学生の頃からこんなにあったわけねーだろ。第一、お前らの内の何割かは同じクラスになったことあんだろっつーのに」

 「しーちゃんのスケベ」

この話題になるたびに何故か胸を隠して体を遠避ける凉。

……それでも隠しきれてない辺りが凄いというか、違うの分かってんだろというか。

これを見る度、流れた噂に納得しそうになるのだから俺もどうしようもない。

 「サイテー。だからアタシがワイシャツで扇いでる時に覗いてきたんだ」

正面では、取り換えを待つばかりの三角コーナーを見るような眼をしている夏乃。

勘弁してくれ。それは中学の時に見飽きた。

 「さては国語の成績悪いな?お前ら。

いいか?まず俺は胸なんぞで人を判断しないし、無理やり付き合うように迫った覚えもない。一から十までガセなんだ」

 「わかってるって。冗談だよ冗談」

 「私も冗談だから安心して」

世の中にはいっていい冗談と悪い冗談がある事をどうも二人は知らないらしい。というか、凉に関してはそれでそこそこ大変な目にあったのを忘れたのだろうか。

…覚えている上で冗談として言えるようになったというのなら、それはいい事なのかもしれないが。

 「まぁいいや。それで、話を戻すとだ」

さてと、ここから先は非常に話辛い。少なくとも、凉の前でするのは二度とごめんな内容だ。

……けど、ま、凉が冗談と扱えるようになってるんだから多分大丈夫か。

 「で、どんどん噂が広まって、俺が性犯罪者として扱われそうになった時に凉がクラスみんなの前で言ったんだ。『しーちゃんは何も悪くない』って」

胸の奥が僅かに疼く事実ーー所謂トラウマの始まりを切り出す。

 「あの、さっきから気になってたんだけど、『しーちゃん』って?」

その出鼻を挫くように夏乃が疑問を投げてきた。

 「私が小さい頃から時雨君のことを呼ぶときに使ってるあだ名、かな。子供っぽいからやめた方がいいとは思うんだけど、癖で時々出ちゃうんだ」

 「特に、感情が高ぶった時とかが多いかな。気にしなくていいとは言ってるんだけどさ」

 「ふ~ん。なんか、大変っぽいね」

 「見ようによっては、だけどな」

二、三度頷き納得した夏乃を確認して話を戻す。

 「…その結果。何故か凉が俺を騙した稀代の悪女だって噂が広まってさ。立場逆転。俺が被害者で凉が加害者。

こうも簡単に入れ替わるとは思わなくて嬉しいだの悲しいだのより先に、何で?が来てさ、やっくん…えっと、俺の隣の席だった奴で、俺と凉をクラスの公僕に推薦しやがった奴」

 「あぁ、あの休み時間ずっと流行りの芸人の真似してた」

 「そうそう。そいつに聞いたんだ。『どうしてだ?』って。そしたら、別クラスのよくわからん女子が原因だって教えてもらって、どうやらそいつが好きな男子が凉のこと好きだったらしくて、その腹いせに言い出したらしい。

始末が悪いことに、そっちのクラスじゃ発言力のある奴だったからすぐ広まったって事」

 「うわー。とんだ災難」

 「…うん。しかもその男子、絶対好きになれないタイプの人だったから余計にヤだった。ホント、ああいう熱血系嫌い。一人で走ってて欲しい」

大きなため息を吐いて毒を吐く凉。

アイツの話題が出ると凉は頻繁に悪態を口にするようになるのだから、よほど嫌だったんだろう。

そのおかげでこの後の俺の行動が許されやすくなったとこもあるからラッキーと言えばそうなのだが。

 「で、広まった噂を消し去るにはどうすればいいか考えたところ、凉と同じ手を使えばいいってことになって」

 「叫んだんだ。クラスの中心で、愛を」

ニシシと小悪魔的に笑う夏乃。

悔しい事に、八割方正解だ。

 「そういうこと。

正しくは、放送室を借りて『俺の彼女だ、文句あっか』って」

言って、吐き気を催す。

分かってる、分かってるよ。若気の至りだって。あの年代の男どもなら間違いなく一度は妄想の題材にしているはずだ。その点では俺の発想は正しい。

……問題なのは、何故思いとどまれなかったのかということだけ。

 「あぁぁぁぁ…ホントマジで、なんであんなことしちゃったんだろう。

別に愛奈の馬鹿に伝えればよかったのになぁぁぁぁ。噂はなくなるし、誤解は解けるしでその時はいい案だと思ったんだけど…」

抉り返される心的外傷の傷口。

口にした途端に当時のあらゆる記憶が蘇ってくる。頼む、誰か俺を殺してくれ。

 「間違いなく中二病だったよね。いつ思い返しても顔から火が出そうになるよ。

…おかげで助かったけど」

褒めてるのか貶してるのか分からないけど、まぁ、凉がはにかんでるし良しとしよう。

……呆れられてるわけじゃないよね?

 「へぇ~。結構やるじゃん。時雨の癖に。よし、胸を覗こうとしたことは許してあげる!」

何が彼女の琴線に触れたのか、唐突に先の無礼を許してもらえた。

しかし、会ってまだ一日も経っていない夏乃に、時雨の癖に、と言われるのは少し心外だ。

…………まぁ、今の話を聞いて引かないでいてくれてるから感謝しかないのだけど。

 「ありがとう。けど、どうせなら、覗かなくても見える胸がいいです」

 「は?」

 「冗談だから。本気にしないで」

心ばかりの抵抗をしてみるも、流石は勘当されそうな女子高生。殺気が他の女子のそれと違う。

彼女にとって胸の話題は禁忌だと、今理解した。

 「でも、誤解しないで、夏乃さん」

 「眞結でいいよ!何なら、しーちゃんみたいにまーちゃんで!」

 「確かに、かーちゃんだと母親みたいだしな」

 「そこ!あえて言わなくていいの!」

鋭い突っ込みに思わず笑いがこぼれた凉。つられて俺と夏乃も笑ってしまう。

 「うん、わかった。それでね、まーちゃん」

聞きなれない響きなのか、凉に呼ばれた途端に目を輝かせる夏乃。

直感だけど俺が同じように呼んでも、さっきみたいな目で見られて殺気が飛んでくるだろう。

 「私たち、付き合ってるわけじゃないの。

放送した後にすぐ担任の先生が来て時雨君は拘束されたんだ。元々恋愛関係に厳しいところだったし、やったこともやったことだから一週間の停学。その間に先生たちがこの件をしっかり処理してくれたんだ。

前々から手を考えてたらしいんだけど、タイミングがなかったらしくて、そういう意味では時雨君は感謝されてた。

あと、一部の女子生徒からはビックリするくらい好かれてた」

 「マジ?初耳なんだけど」

 「言ってなかったもん。言ったら調子に乗ると思ったし。それに、もし誰かと付き合ったりしたらまた変な噂流れただろうし」

そう言って眼鏡越しに見える凉の睨み目に少しだけ肝が冷える。普段は温和な分、怖く感じやすい。

 「…あれ?ねぇ時雨君、なに手に巻いてるの?」

睨み終えた凉の目が俺の左手首を捉える。

何事かと思い視線を辿ると、今まで存在を忘れていたアレのことだった。

 「ん?ああ、これ。今朝母さんがくれたんだ。靴紐で作ったミサンガで、良かったらどう?って。ちょっとしたイメチェンにいいかなと思ってさ」

「へぇ~」と生返事を返しつつ近くに寄って、手にもって眺める凉。つられて夏乃も顔を寄せてくる。

興味の対象がミサンガではなく俺だったら、例えるまでもなく桃源郷だろう。

 「…なんか、見覚えあるような気がする」

 「まぁ、有名なところのだし」

ぼそりと呟いた夏乃だけど、それはそうだろう。

未だに子供靴メーカーのトップを駆け抜ける【迅速】だ。靴屋の中を回れば嫌でも目に付く。

にも関わらず、さっきよりも注意深く調べるように観察してくる夏乃に、なんとなく腕を引っ込めてしまった。

 「う~ん、記憶違いかなぁ」

腕を組んで机に仰向けに寝そべる夏乃。うーうーと可愛らしいうめき声が聞こえる。

 「…しーちゃん、後で、雪花さんに聞いてみたら?」

 「いいけど、なんて?」

 「靴はまだありますか?って」

なるほど。末端(ひも)がダメなら本体(くつ)を見せれば分かるということか。

 「分かった。後で聞いてみるよ」

 「ホント!?サンキュー!しーちゃん」

夏乃は効果音が付きそうな勢いで起き上がる。

その勢いに乗せておかしな言葉まで口にしてきたのだからよほど嬉しいのだろう。

 「誰がしーちゃんだ。まーちゃん」

 「うへぇ。気持ち悪ぅい」

 「だろう。俺をしーちゃんと呼べるのは今後ずっと凉だけだ」

 「…凄く気持ち悪い」

 「悪かったな!みっちゃん!」

 「うわあ!それはやめてよ!バカバカ!」

教室に明るく響く笑い声は、未だ遠い喧騒にも負けていないだろう。

ポカポカ叩かれる左肩は痛いけど、できれば、あともう少しだけ続いて欲しい。

後にも先にも講習が長引いてほしいと思うのは、多分今日だけだ。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「ご苦労だったな、硲。また転校生が来た時は頼むぞ」

 放課後、と言っても四時間目の終わりなのでまだ昼少し前の時間。

俺は夏乃と凉に別れを告げてから職員室に向かい、朝の後始末をするため御山先生の事務机まで来ていた。

授業が終わった後の職員室とはこんなに静かなのだろうか。御山先生と事務の人が二人程居るだけで、他の教師は部屋の奥にもいなさそうだ。

つまり、小一時間説教確定かな…

そう思いきや、予想もしてない出来事が起きた。

 「さて、来てもらって悪いが、早速学校を出ようと思う」

俺が来る前に纏めていたのだろう。

黒革の手提げカバンと肩掛けの布のバッグを手にして御山先生は職員室のドアへと向かっていく。

あまりに突然過ぎる出来事に頭がついていかない。

 「どうした、帰りたくないのか?」

首を傾げて訪ねてくる御山先生に、つられて首を傾けてしまう。

呼んでおいて帰るとは何事だろうかオウボウツバメ。

 「はぁ。存外鈍いのだな。そんなのでは嫌いになるぞ」

 「何言ってるんです?」

失望の念を混ぜたため息は俺のこめかみを震わせるのに充分で、思わず強い言葉が口から出てしまう。

 「成績をやらんと言ってるのだ。バカ」

精一杯の抵抗は、しかし、意にも返さず踵を返す御山先生。それはいけない。

 「お荷物お持ちしますね!ツバメさん!」

ただでさえ低い成績をこれ以上落とされたらたまったものじゃない。

瞬間移動に近い素早さで御山先生の傍に寄り、荷物持ちを願い出る。

 「はは、現金なやつめ。評価は三確定だな」

カラカラと笑い職員室を出て行く御山先生。俺の手元に鞄はない。

ちくしょう、だからオウボウツバメなんだ!と叫びそうになるのをグッと我慢して急いで後を追いかけた。


        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー

 

 「えっと、それで、どうして俺まで先生の車に?」

 職員室を出て約五分。

訳が分からないまま教員用の駐車場に連れてかれた俺は御山先生に言われるがままミニトトタのペッソに乗せられ、今まさに走り出そうとしていた。

 「…説明は道中にしよう。とりあえず今はシートベルトをしてくれ」

少し肘を張ればぶつかりそうな距離にいる御山先生は沈んだ声でそんなことを言う。

普段は暗い面なんて一つも見せない御山先生にこうまでさせるとは…。かなりの大事件だろう。

 「分かりました。俺に出来る事ならなんでも言ってください」

エンジンで揺れる車内の中で告げると、御山先生は嬉しそうに薄く笑い、ガチャリとドライブに入れて走り出した。 

それから車で揺られること十五分。

 「すまなかった、急に連れ出して。実は、少し困ったことになっていてな」

この辺りでも車通りの多い十字路に出た辺りで重い口が開いた。

俺はなんと返せばいいか分からず、とりあえず頷いた。

 「…その、馬鹿な事だとは思わないでくれ」

御山先生のハンドルを握る手に力が入る。恥ずかしいのかほんのり顔が紅い。

微かに漏れる吐息に誘われてフルフルと震える薄い唇に目がいく。

隣に人がいなければ今にも泣いてしまいそうな感じだ。いや、隣に人がいるからなのだろうか。

そうして、神経を研ぎ澄まして音に耳を寄せていると、ゆっくりと俺の鼓膜が揺れる。

 「言い辛い事に、私は誰かに付けられてるかもしれないのだ。

…おい、何故そんなにも意外そうな顔をする?」

バックミラー越しに確認したんだろう。過去最大の驚き顔をしている俺を見てご立腹のようだ。

 「いえ、その、なんて言うか…

先生にも可愛いところがあるんですね」

 「なんだ?もう二年くらい私のクラスになりたいか?」

肝が絞め殺されるような殺意に、咄嗟に防御姿勢を取る。

流石に留年はシャレにならない。何としても回避しなければ。

 「違いますよ!普段の御山先生があんまりにも完璧だから、ついですね。そんな女の子らしい悩みを持つとは思いもしなくてというか、なんと言うか」

取って付けたような言い訳だけど、誤魔化せるだろうか。

 「………」

構え続けている腕の盾の隙間から薄目を開けるように御山先生を覗く。

けれど、周りが混んでいて運転に集中しているからか返事は返ってこない。

というか、言ってから気づいたけど今の言い訳って逆効果だったんじゃないか…?もしかして、怒りが頂点に達していて、嵐の前の静けさ的な感じのサムシングだったり…?

冷静になるにつれ自分の犯した失敗に確信を得てくる。

比例して心拍数が跳ね上がるのが分かる。

その中でも思わず息を呑んでしまう大きな鼓動の後、御山先生はゆっくりと口を開いた。

 「…ははは。私もそう思うよ。我ながら女々しい悩み事だ」

拍子抜けな返答だった。

てっきり叩かれるか、最悪車から放り出されるかを予想していたのに、眼の前にいるのは少し遠くを見上げて笑う御山先生。

それは空元気と言うよりも自嘲的な言葉で、俺が自分の取っていた態度を悔いるのには充分だった。

 「すいませんでした。そんなに思い詰めているなんて思いもしなくて…。俺でよければいくらでも力になりますから、何でも言ってください」

たった今決めた覚悟を、恥ずかしげもなく、遠くに見えてきた御山先生の家を見据えながら口にする。

俺は余計な傷を御山先生につけてしまった。それは許される事ではなく、付け焼刃だろうが何だろうが、御山先生の力になって償わなければならない。

 「あぁ。ありがとう。頼もしいな硲は」

御山先生の笑顔は小さい。

けど、明らかにさっきまでの御山先生とは雰囲気が違い、嬉しそうに笑ってくれていた。

 


        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー 



 「適当に座ってくれ。今座布団を持ってくる。クーラーもそのうち効いてくるだろう」

 俺を居間まで案内し終えた御山先生は、いつの間にか手にしていたリモコンのボタンを押して、テーブルに置いて部屋を後にする。

起動音を立ててゆっくりと冷風を送り始めるエアコン。数秒もすれば送風音も聞こえてくることだろう。

生ぬるい空間において風の当たる今の位置は天国の一部にいるような気分だ。

……そうして、室内を見渡した。

 「こ、これはまた…」

今まで思わず無視していた、眼前に広がる味気のない空間に言葉を無くす。

白い壁に囲まれ清潔感に包まれた気分になれる部屋。

フローリングの床には薄茶色で毛のない絨毯。

エアコン以外で他に見えるのは三人用くらいの大きさのテーブルと、天井まで届きそうな高さのあるいくつかの本棚。

そのほかにあるのは、端の方の一人用のテーブルとその上に置かれたデスクトップパソコンと座り心地が良さそうな背もたれのある回転椅子だけ。

端的な感想で言えば、かなり質素で、必要な物だけを置いた部屋、といった感じだ。

夏休みに上がった凉の部屋とは比較にならないほど簡素なインテリアばかりなのは、年齢差だけが原因ではないだろう。

魅せどころのはずのカーテンすら黒単色の厚手の物だけで、むしろ男らしさまで感じる。

下手すれば俺の部屋の方が飾りっ気がありそうだ。

 「どうした、座らないのか?物はない分、場所なら余ってるはずだが」

 「え?え、えぇ。ちょっと見惚れてしまって」

いつの間にか部屋に戻ってきていた御山先生に振り向き答えると、何かをさし出される。

 「あれ?可愛い色してますね、これ」

 「直はよくないだろうと思ってな。座布団だ」

それはこの空間においてはかなり異質な物だった。

色は薄ピンクで、毛が多く滑らかそうな肌触り。

形は円形で大きさはそれ程じゃなく、手にしてみると分かる低反発さ。

 「これ、座布団というより、クッションでは?」

それを敷いて座りながら疑問を投げてみる。

 「似たようなものだろう。気にするな」

テーブルを挟んで同様に腰を下ろした御山先生。

学生の間でも『女性らしくないよな』とよく噂にされているが、まさかここまでとは思いもしなかった。

もしかして、服はスーツしか持ってないんじゃないか?

 「流石に服装くらいには気を遣うぞ。この時期にスーツなぞ、仕事でもなければ着たりしない」

パタパタとワイシャツの襟を掴んで風を送る仕草をする御山先生。

なんで伝わってんだこの人。

 「ま、そのクッション同様、私服の殆どは妹からのもらい物だがな。言うなれば逆お下がりだ」

ははは、と笑って床に手を置いて御山先生は背中の力を抜く。

こういうだらけた姿勢を見るのは初めてで、つい、ドキッとしてしまう。

 「妹さんがいるんですか?」

 「あぁ。私と違いボインボインのたゆんたゆんでおまけに女の子っぽさを詰め込んだような奴でな。少し抜けたところもあるが、可愛い奴だよ。

そのクッションも去年の誕生日に貰った物なんだ。有り難く使えよ?」

よほど自慢なんだろう。眼を輝かせて妹さんのことを教えてくれた。

 「機会があれば紹介しようか?だが、可愛いからって手を出すなよ?」

ニヤリと笑ってこっちを見る御山先生。

本当に嬉しそうだ。こっちまでつられて嬉しくなってしまう。

 「大丈夫ですよ。どっちかっていうと女の子っぽい女性より、御山先生みたいな方が好みですから」

なんて冗談を口にしてしまう辺り、割と飲まれてるんだろう。

 「…本当か?」

 「え?」

 「本当かと聞いている」

なんていう和やかさから一転。急に御山先生の口調が真剣なものに変わった。

……マズい、すっかりやっくんの忠告を忘れてた。うっかり踏んじまったのか?地雷を。

 「ま、まぁ、あくまでもどちらかと聞かれればですけどね」

再びの取って付けた言い訳。

しかし、今度は誤魔化せていないらしく、御山先生の表情は晴れない。…というか、俯いたまま何一つとして行動が無い。

 「……なぁ、硲」

 「は、はい!!」

かと思えば勢いよく両肩に振り落とされる御山先生の手。

衝撃もさることながらびっくりするほど強く肩を握りしめられ悲鳴が喉元まで上がってくる。

 「せ、先生?ちょっと落ち着いてくださいぃぃぃい!?」

時を追う毎に増していく両肩の圧迫感。まるでプレス機で押しつぶされているのかと勘違いしてしまう程に力強い。

 「あ、先生!?あのぉぉぉぉ!!!」

 「あ…!す、すまない。つい…」

我慢できず漏れ出た悲鳴。それを耳にし、御山先生は直ぐに手を放してくれた。

 「ま、まぁ大丈夫ですよ」

俯いていたはずの御山先生の顔が俺の両眼に映る。

それは、余裕があって明るくて楽しげな普段の顔とは似ても似つかない。何かこう、思いつめているような、不安なような表情。

いや、これは不安というより恐怖や危機感を感じているような…?

 「い、今のは忘れてくれ。

今日はもう夕方になる頃合いだし、家まで送っていこう」

御山先生はそそくさと立ち上がり、慌てて身支度を整え始める。だが、慌てるあまり意識しなくてもできそうなことに手間取ってしまっている。

……分からない。

どうして御山先生がこんなにも慌てているのか分からない。

でも。

 「落ち着いて下さいよ先生。俺まだここに呼ばれた理由についてちゃんと教えてもらってないですよ」

俺にはまだやるべきことがあるのは分かってる。

 「ストーカーか何か知らないですけど、だとしたら俺が居た方が寧ろいいんですし、もう少しゆっくりさせてくださいよ」

仮にもし、焦った理由が[俺がその犯人かも知れない]と勘違いしたからなのなら、なおの事だ。

恐らくはここ最近被害にあっている中で、身近な人間に好意を伝えられれば疑いたくなって当然だ。

 「え、あ、ああ。うん…。そうだったな。悪い、私としたことが取り乱してしまった」

俺の提案を聞き、僅かに落ち着きを取り戻した御山先生は座り直すと、俺の方を見ては目を逸らし、見ては目を逸らしを繰り返す。

……あれ、これやっぱ俺が犯人だと疑われてやしないか?

 「あの、先生?俺はその…」

 「う、うるさい!私にだって心の準備は必要なんだ!」

テーブルを叩き、勢い余って膝立ちになる御山先生。

あれだけ忙しなく動いたせいで御山先生の体温が上がったらしく、部屋は涼しいのに顔が赤い。

それとも、怒りで顔を赤くしているのか……?

 「せ、先生の好きなタイミングで良いですから、言えそうになったら教えて下さい。それまでスマフォでも弄ってますし」

それとなく時間が作れるよう提案し、ポケットからスマートフォンを取り出す。

大丈夫。ちゃんと考える時間さえあれば、俺が御山先生をストーキングする余裕が無いと気が付いてもらえるはずだ。そもそも家が遠すぎるし、基本直帰だから母さんに話を聞いてもらえればアリバイが説明できる。

……いや待て?確か、身内の証言はアリバイに使えなかったんじゃなかったか?だとしたら無実を証明するのは厳しいぞ……。

ど、どうする!?

 「……いや、それには及ばない。もう大丈夫だ。迷惑をかけたな」

どうやって身の潔白を証明しようか知恵を巡らせていると、背筋を伸ばして座っている御山先生はこちらを見据えてそう言った。

…同時に部屋の空気が張り詰める。

とうとう本題らしい。自然と姿勢が正されていく。

 「車の中でも言ったように私は誰かにつけられているみたいなんだ。

異変を感じたのは半月ほど前。その時は特に何とも思わなかったのだが、ここ一週間でおかしな事が起こるようになってだな」

 「おかしな事?」

 「うん。

車を停めた車庫があったろう?あそこの辺りに花も何も生えてないスタンダードな植木鉢があったのを見たか?」

言われて少し考え、それらしい影があるのを思い出す。

真新しい植木鉢にならされているらしき土。…うん、確かに見た。変なところに置いてあるなと思ったんだ。

 「はい、見ました」

 「あれな、本当は花が咲いていたんだよ」

 「花?」

 「まぁ、花と言ってもアサガオの芽が少し出てた程度だったから、野良猫かなにかがほじって食べたのかと思ったんだが…」

 「それにしては綺麗に慣らされてましたよね。ぱっと見なので見間違いかもしれませんけど」

 「いや、私が見た時も肉球の跡一つ無かった。利口な猫がいたものだとその時は呑気に構えていたんだが、他にも不審な事が起きててな」

 「次の日にそのアサガオが植え直されてたとか」

 「近いな。正しくは、何もなかったはずの場所に萎れたアサガオが置かれていたんだ」

 「…怖すぎません?」

 「あぁ。肝が冷えたよ。そのせいで、猫が考え直して花を返しに来たんじゃないか、なんてメルヘンな想像までしてしまう始末だ」

思い出しただけでもゾッとする、と両肩を抱いて竦む御山先生。

これは割と本格的にヤバい臭いがしてきた。今更だけど、警察とか…。

 「そうですよ、警察に連絡したんですか?ちょっとヤバい事になってるって」

すると御山先生は生ゴミでも見るかのように顔を顰める。

 「勿論したさ。だが取り合ってもらえなかったよ。『それだけだと事件性は薄いですね。近所の子供の悪戯では?そのくらいなら彼氏にでも相談してください』とな。あまりにも失礼だったから思いっきり電話を切ってやった」

かなり根に持ってるらしい。今にも中指を立てそうな勢いで話している。

でも確かにそうかもしれない。車庫は道路のすぐ近くに面していて例の植木鉢はその近くにあった。それなら警察の言う通り近所の悪ガキが悪戯したのかもだ。それに…。

 「結局、彼」

 「何か言ったか?」

 「い、いえ何も!」

稲妻もびっくりのスピードで飛んでくる殺気。ギロリと見上げてくるその眼は処刑人のそれだった。

 「…全くどいつもこいつも男男男男…。そんなの……親のあんた達がよく知ってるだろうが…何が見……しには好きな…」

何とか命は繋いだらしい。

御山先生からの殺気はすぐに消え、床が身代わりになって呪いの呪文を一身に浴びてくれている。

けど、こんなところで御山先生の噂の一つが明らかになるとは思わなかった。

というのも、これだけ綺麗な人なのに浮いた話が一つも転がってこないのは何故だろう。という噂なのだけど、まさか真相が【妹が好きで他に興味を持てなくなったシスコン】だったとは。想像もしなかった。

憶測だが多分間違いない。今度、やっくんにも教えてやろう。

 「……は!」

なんて考えているうちに正気を取り戻した御山先生が顔を真っ赤にしてこっちを見ている。

いや、驚きたいのはこっちなんだけど。

 「…どこまで聞いていた?いや!やっぱり言わなくていい!恥ずかしくて死んでしまうからな!この変態が!」

言い終えた瞬間に御山先生は両手で顔を覆って突っ伏してしまう。それまでたったの十秒程度だったのに、俺は胸ぐらを掴まれ、押し飛ばされ、いわれなき罵倒を受けた。

誰が好きで呪いの呪文なんかを盗聴するか。少し考えて欲しい。

 「…すまない。取り乱してしまった」

 「いえ、別にいいですけどね。先生が落ち着いたなら」

呆れ気味に言ってみるが流石はオウボウツバメ。身体を起こすと、俺の両手をしっかりと握って。

 「そうか、ありがとう!いい男だなお前は!」

なんて、満面の笑みで言ってくる。

顔がいいのはやっぱり反則だ。あれだけ滅茶苦茶してもこんなにいい笑顔を見せられたら何でも許してしまうに決まってる。

にやけそうになる頬をどうにか保ちつつ頷いて、それを見た御山先生はホッと息を吐く。

けれどそれも束の間。静かに瞼を開いた御山先生はすぐに眼を見開いて飛びずさる…ような勢いで俺から離れた。

今度は一体何だっていうんだ。

 「ッ!いやっ、そのっ!あ、ありがとう」

御山先生は今日で何度目かの赤面を見せる。いい加減飽きが来てもよさそうだけど、どうもまだ見足りないらしく心配してしまった。

 「今度はどうしたんです?俺の手に毛虫でもついてましたか?」

 「そういうわけではないんだがな…その…」

俯いて口ごもってしまうところを見るとかなり言い辛い理由らしい。

いつもなら気遣いの見せ所だ、なんて打算的に考えたりするけど、原因の元が俺ともなるとそうはいかない。

まさか、トイレの後に手を洗ってないと思ったとか?

いや、憶測で避けるほどの過敏な潔癖症とは聞いたことがないし、何より、もしそうなら不用意に手を握ってくるわけがないし…

ダメだ。分からない。

けど、だからと言って放っておくわけにもいかない。今後の御山先生のためにも、本人には悪いが教えてもらおう。

 「何言ってるか聞こえないです。授業の時みたいにちゃんと教えいてください」

近くに寄りつつ、嫌味っぽくならないよう気を付けて話しかける。その間も御山先生は俯いたままごにょごにょと言葉にならない言葉を口にしたままだ。

そんなにとんでもないことをしでかしていたのか?と、そう思った瞬間に目の前の風景が大きく変わった。

 「私にだって羞恥心くらいある!乙女心を、分かれ…とは…」

目の前にあるのは目尻に涙を溜めて今にも泣きそうな美しい顔の女性。

キメの細かな白い肌と、薄く柔らかそうな紅い唇。それは今、ほんの少しだけ顔を寄せれば一人占めできそうで…

 「ばっ…!」

音もなく忍び寄ってきたそれは、静かに俺のありふれた唇に重なる。

痛みはない。

あるのは僅かな浮遊感と小さな衝撃、それと、遅れて来た鋭い圧迫感。

 「ばかぁぁぁぁぁぁ!!!!」

視界に映る映像が再び大きく変わる。

力強い白の光を放つシーリングライト。僅かに漂う赤と、純白で汚し難い白天井。それと、背中に訪れる強い衝撃、肺にかかる鈍く重苦しい痛み。

その僅か後に意識は暗転した。



         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「悪かったと思ってる」

 クーラーが少し寒く感じる。

ぼんやりと聞こえる女性の声。

奥で響くように痛む頭をゆっくりと動かし、ぼやけた視界で窓を見る。外は帳が落ち始めているらしく、薄っすらと暗かった。

…背中が痛い。口元もヒリヒリする。

 「なぁ、無視だけはやめてくれないか?辛いなんてものじゃないんだ」

かすんだ聴覚が女性のーーー御山先生の声を拾う。

どうしてそんなに暗い声をしているんだろう。

音を頼りに顔を向ければ、借りてきた猫のように座る御山先生が見える。

両手を、綺麗に折りたたんだ太ももの間に差し込んで、もじもじと身体を動かして目を泳がせている。

なんていうか、悪いことをして怒られるのを待つだけの子供のような姿だ。

…………あぁ、そうか、思い出してきた。確か、俯いていた御山先生に近づいたら急に顔が現れて、それで。

 「…俺、空飛んでた?」

 「うっ…

しっ、仕方ないだろう!いきなり目の前にお前の顔が現れれば殴りたくも…なる…」

言い訳を口にするも正当性がないと分かってきたのかどんどん声が消えていく。

どうやら記憶の通り、俺は御山先生の攻撃で宙を舞い背中を床に打ち付けたらしい。同時に頭も打ってそのまま気絶したんだろう。

なんつー馬鹿力だ。これなら変質者だって裸足で逃げるんじゃないだろうか。

 「…その、どうだ、具合は?」

いつの間にかすぐそばまで寄っていた御山先生が探る様に視線を送ってくる。

 「まだどこか痛かったりしないか?」

心配そうに 身体を近づけて。

 「まぁ、背中がまだ少し…でも、そこまでじゃないです」

いい匂いがする。

駄目だとはわかっていても、身体を寄せてくる御山先生の柔らかくて心の落ち着く香りが鼻腔に入ってきてしまう。

 「頭も打っていたように見えたが、そっちはどうだ?」

そうして、御山先生は後頭部を覗くようにして身を乗り出した。

 「え?そ、そっちは特に」

 「そうか…」

小さな吐息と共に胸をなでおろす御山先生の顔の位置は俺の目と鼻の先。

これは…マズい。

何がって、うっかり痛みの反射でも起こそうものなら御山先生と顔が合わさってしまう。

けど、それよりもマズいのは御山先生がそれに気づいていないという事だ。

安堵して閉じている目が開けば最後、もしかしたらまた殴られるかもしれない。

 「…本当に悪かった。お詫びと言っては何だが、その、泊まっていかないか?」

 「…は?」

突拍子のない、ってほどではないかもしれないけど、頭の中が一瞬白くなるくらいの事を聞かれた。

お詫びに、泊まっていけ…とは?

 「頭を打っていることだし、安静にしていたほうがいいかな…なんて、思ってだな…その…」

いつの間にか座り直していた御山先生はバタバタと、らしくなくジェスチャーを交えて説明してくる。

なるほど、確かに『頭を打つと後々になって症状が出てくる』と聞いたことがある。御山先生の不安も最もだ。

 「あ、おい!無理はするな!」

身体を起こそうとすると御山先生の心配する声が飛んでくる。

 「…とりあえずは、大丈夫そうですけど」

身体が重い…とまではいかないけど、それでも普段に比べるとやっぱり本調子とは言えない。

 「まぁ、少し怖いですよね」

 「そ、そうだよな、すまん」

さて、どうしようかとヒリつく鼻の頭を掻きながら考える。

この年にもなれば外泊にああだこうだと言われないからそこはいいんだけど…

 「どうした?」

 「いやぁ、親になんて説明しようかなぁ、と」

 「…そこが問題か」

悩みの種を打ち明けると、御山先生も同様に考え始める。

まさか、担任教師に殴られたから、とは口が裂けても言えない。御山先生的には勿論、俺としても担任教師が変わるのは何としても避けたい。

確かに御山先生は難があるが、基本的にはいい人で、先生としても頼りになる。今更他の教師に変わって欲しくない。

こういう時、漫画の主人公とかだと一人暮らし設定が猛威を振るうんだけどなぁ。

 「屋島とは仲が良かったと思うが、【あいつの家に泊めてもらってる】というのはどうだ?」

 「いや、あいつの家は割と厳しくて、友達が泊まったりできないんですよ」

 「む、そう言えば厳しい親御さんだったな。となると、三船の家だが…」

 「無茶言わないで下さいよ。いくら兄妹みたいだからって、同い年の女子の家になんかそうそう泊まれないですよ」

 「当たり前だ。『そうそう』じゃなく、【絶対に】に決まってるだろう。いくら私といえど、不純異性交遊なんぞ認めんわ」

何かいい案が無いかと二人で探るも中々でてこない。

 「…ところで、硲の成績をお義母様は知っているのか?」

その中で出てきた唐突な質問。

なぜ今俺の成績を気にするんだろうか。

 「まぁ、成績表はキチンと見せてますし、卒業後の進路も相談したりしてますから、多分わかってますよ」

 「そうか。

確かに二年の夏も終わるという頃だ、進路のことを相談しているのはいいぞ」

疑問に思いつつもとりあえず答えると、ズボンのポケットに手を伸ばしながら御山先生にそんなことを言われた。

自慢じゃないが俺の成績はクラスでも五本の指に入るくらいに凄い。流石に学年となると十本の指にすら入らないが、それでもロクに勉強もしないでこの成績だ。

初めて母さんに話したとき、ひどく驚かれたこともある。

全く、今思い出してもあれはちょっと驚き過ぎだったんじゃないかな?

 「…もしもし、担任の御山です。…はい、お察しの通り硲君の成績の事についてなのですが…。はい。お恥ずかしい話なのですが、息子さんの進路をまだ把握できておらず…いえ、そう言っていただけるとありがたいです。ですが今のままですと、どこかに行きたい、ではなく、ここに行くしかない、という事になりかねず…

はい、分かりました。大切に預からせていただきます」

コッ、と液晶をたたく音と共に通話は終わる。

 「よかったな、硲。これで何の心配もなく宿泊できるぞ」

悪魔的微笑みのあと、何もなかったはずのテーブルの上にはいつの間にか、参考書が嫌になるほど並べられていた。



          ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー 



 「せんせいそろそろかえってもいいですかおなかがすきました」

 「ダメだ…何故これだけ丁寧に教えているのにむしろ頭が悪くなっていくんだ…」

 時計の針は既に深夜。

テーブルの上にあるのは、何冊かの参考書と二冊のノート。そして、今はもう亡骸となった御山先生の身体。

 「せんせいできましたかえっていいですか」

 「どれ…」

重力が万倍にもなったかのような動きで身を起こした御山先生は効き手である左手で身体を支えると、重い手つきで俺のノートに手を伸ばす。

 「うん、そうか。そうだな。気持ちはわかる。気持ちはわかるぞ硲。だがな、この問題は微分ではなく積分だからその公式ではなくてだな…」

何度目かわからないこのやり取り。

何度も、何度でも根気強く丁寧に教えてくれた御山先生だったが……

 「……るか」

ここにきて、とうとう、壊れた。

 「えぇい!もう知るか!硲、お前はアホだ!無理して勉強するより、頭のいい人間と付き合いを深く持った方がよほど早い解決になる!それがわかっただけでも今日は収穫だッ!」

 「はい、先生!俺もそう思います!」

 「さ!食事にしよう!お前の進路は、その時になったら考えればいい!」

鬱憤を払うように口を荒げ、乱雑に参考書をしまい始める御山先生。

アホになっていく演技は少し疲れたけど、これ以上地獄を長引かせるよりはいい。

…けど、まさかあれも間違いだったなんて。数学は方程式やアルファベットが多すぎて意味が分からないから困る。点Pは勝手に動くな、どこの弟だ一緒に行けよ。

 「…ところで、嫌いな食べ物やアレルギーはあるか?」

いつの間にやら片付け終えた御山先生は、部屋のドアに手をかけて俯き気味にそんなことを聞いてくる。

俺は首を傾げつつも「ない」と答える。

食事を準備するからだとは思うが、だとしたら俯く理由が分からない。

 「そうか。わかった」

兎も角、御山先生はゆっくり頷くと部屋を後にした。

 「…今頃になって俺の学力に落胆を…?」

寂し気な表情の正体に思考を奪われつつも御山先生が戻ってくる三十分の間、しまい忘れられていたノートに目を落とした。


       ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


 並べられているのはさっきまであった紙資源の成れの果てとは全く違うもの。

鼻腔だけでなく味覚までもくすぐる湯気。

視界を奪い去る鮮やかさを備えた様々な料理。

テーブルいっぱいに並べられた御山先生手製の料理は、食べ盛りな上に空腹だった俺を一瞬で魅了した。

 「では食事にしようか」

 「いただきます!!!!」

 「うん。いただきます」

合図と同時に箸がつかんだのは一口大のハンバーグ。つつましくかけられたケチャップに轍を刻み、湯気も逃さず口の中に運ぶ。

 「あっつ!!!」

 「ふふっ、バカだなぁ硲は」

噛み締めた途端に熱を閉じ込めた肉汁が舌を襲う。

爛れたのかと錯覚するほどの痛みに、咄嗟に、用意されていた水を口に運んだ。

 「死ぬかと思った…!」

 「いや、ははは、ホント、見ていて飽きないな。お前は」

食事中だというにも関わらず床に寝そべり腹を抱える御山先生。

俺的には全く面白くないけれど、輝くような笑顔を見せられてしまえば何も言い返せない。

 「いやいや、かなり面白いぞ、今のは。先生的に百点を上げよう」

 「嫌だ!高校入って初の満点が自分の失態なんて絶対に嫌だ!」

というか、また見透かされた!?何故だ、どうして俺の考えは御山先生にこうも予まれてしまうんだ!?

 「まぁそう言うな。私なりの賛美と受け取ってくれ」

 「それが嫌だってんだ!」

一通り笑い終え、乱れた呼吸を整えながら身体を起こして同様にハンバーグに箸を伸ばした御山先生。

それを一度取り皿に置き、四等分の大きさにするとそれを口に運ぶ。

ちっ。流石は教師。キチンと学んでいる。

 「熱っ!」

……と、考えていると、御山先生に待っていたのは至福のひと時などではなく、俺のように顔を歪めながら冷水を求める恥ずかしい姿。

警戒して対策までしたにも関わらず同じ轍を踏むだなんて、ひょっとして俺よりも恥ずかしいのでは?

成る程。そう思うと、確かに面白い。

 「ははは!ざまあないぜ!」

ともなれば仕返しも兼ねて悪態を突くべきだろう。

煽られたら煽り返す。これは常識だ。恨むなら己の言動を恨むといい、オウボウツバメ。

 「…いと思ったがそんなことはないな!うん、なんてことはない!」

などと口にするも水を口に含んだ上に俯いているのだから強がりとしか思えない。

 「いや、ダメだね。絶対そんなことあったですから。少なくともコップの中を半分飲むくらいには!はっはっはっは!」

と、調子に乗って畳みかける。

すると、コップから手を放した御山先生は僅かに涙ぐませた目でこっちを睨み付けるて。

 「う、うるさい!硲!お前の今度の国語の成績は一だ!」

とんでもないことを言い出した。

 「はぁ!?んな横暴な!」

 「ふふん。私はオウボウツバメらしいからな。この程度、慣れたものだろう!」

 「な!?どうしてそれを!!」

目尻を拭いつつ口にしたのは本人には秘密のはずのあのあだ名。

何故だ、何故それを御山先生本人が知ってる!?

「バカめ。あれだけ授業中に屋島と言っていればイヤでも耳に入る。

全く、本当にバレていないと思ったのか?なら何故夏休みに入ってからすぐに私の補習が入ったと思う。あいつはまだしも硲は、国語はそれほど悪くなかっただろう」

未だ潤んだ瞳で問い詰められ、何も言い返せなくなる。

女の涙は武器になると、他でもない御山先生の授業でやったけど、まさかこんなに早く事実確認ができるとは思わなかった。

……だとしても、バレバレでもいいから嘘をつくべきなのに、俺はついうっかり本当のことを口にしてしまった。

 「あ、あれは、その、ボーナスステージ的な?」

嘘偽りない真っ黒な本心を打ち明けると、御山先生は呆れたような顔をしてため息を吐く。

 「何をバカなことを。クラスでだれよりも騒いでいたお前たちがどうして補習を喜ぶんだ。私ですら暑くて根を上げそうに…」

そこまで言うと何かに気が付いたように息を呑み、身体を護るようにして抱きかかえる。

 「お前たち…まさか」

 「…綺麗な色でした」

 「どこに墓を建ててほしい?」

 「ごめんなさい!悪気があって見たんじゃないんです!時間が経つ毎に透けるワイシャツが悪いんです!」

本日何度目かの殺意は、本来なら可愛いはずのポニーテールをわなわなと逆立たせていく。

これは本当にヤバいかもしれない。今までも何度も怒らせたことがあるが髪が逆立ってると錯覚するほどのはなかった。

いよいよ、殺されるかもしれない……

 「…ま。今更仕方がないか」

そんな予想とは裏腹に、御山先生は箸を置いて大きくため息を吐いた。

 「お、怒らないんですか…?」

俺の不安を他所に食事を再開した御山先生は、もう一度口に運んだハンバーグを飲み込んで話し始める。

 「まぁな。なに、あの時は本当に暑かったからな。屋島は兎も角、硲には私の下着を見るくらいのご褒美はあってもいいだろう」

 「マジか」

 「マジだ」

取り皿に別の料理を取りつつ言われるが、それはつまり透けたのを見た事を怒らない、というのだろうか?

……前々から変わってるなとは思ってたけど、まさかここまで変だとは思わなかった。

汗で透けたワイシャツ越しとはいえ、下着を見られたのだからそれこそさっきのように殴り飛ばされてもおかしくはない。

なのにそれどころか暴言の一つもない。

 「どうした?食べないのか。朝食のことなら気にするな。まだ備蓄はあるからな」

殺気を放つ前の穏やかさを取り戻している御山先生は柔らかに微笑みながらそんなことを言う。

本人が気にしていないなら俺が気にする必要は無いのだろうか。いや、それはそれで少し違う気がするが……

 「言っていなかったが、私はかなり食べる方でな。残り物が出るとは思わない方がいいぞ」

 「え、は、早!?」

考え事をしている間に、ひょいパク、と、気が付けばとんでもないペースで食事をしている御山先生。

流石にこの量を一人で食べるのは無理だと思いたいが…

 「ほら、無くなるぞ」

一向に手を休める気配のない姿に不安を覚え、食事に専念した。


         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


 「お風呂、先にいただきました」

 室内に充満する冷風が火照る身体を包み込む。

あれほどあった夕飯を綺麗に平らげた俺と御山先生は軽い食休みの後、いつの間にか用意されていたお風呂が沸いたので入浴することとなった。

問題の順番に関しては。

『乙女の後に入りたいのか?スケベめ』

とのお言葉により、家主から先に入ったらどうですか?と言う俺の意見は出すまでも無く却下された。

 「お、そうか。では、次は私だな」

自称乙女の御山先生はババ臭く腰に手を当てて軽い伸びをしつつ立ち上がると風呂場に向かう。

手にしていた缶を置いて。

 「…マジか。本当に先生かあの人」

残された俺は半ば定位置となりつつある場所に座る。

同時に、テーブルの上に置かれている中身の無い缶を手にして見つめた。

[ほんのり酔い レモン風味 アルコール度数3%]

 「未成年の前で飲酒って…。あ、いや、前、ではないか」

空き缶の出っ張った部分を掴んでそれとなく回してみる。こう、グラスに注がれたウォッカを弄ぶような感じで。

 「おっと!テーブルに酒があるが呑むなよ!」

 「のっ!飲みませんよ!」

唐突にドアの向こうから聞こえた御山先生の声に心臓が跳ね上がる。

即座に缶をテーブルに戻したし変な誤解はされていないはずだ。

 「ったく、そんな心配なら今日くらい我慢しろって」

変に誤解されるのも嫌だし、とりあえず酒の事は置いておこう。

若干手遅れかとは思いながらもクッションの隣に置いてある一人の時の強い友・スマートフォンを握る。

 「…おぉう。相変わらずなんも通知ねぇ」

初めてスマフォを手にした時ならいざ知らず、今となってはゲームかツゥイッターの通知しか来なくなったらスマートフォン君。

先生と連絡したとはいえ、母さんから何かしらあってもいいんじゃないかな。

 「ん?」

なんて少し寂しい気持ちになっているとスマフォのバイブが作動した。

…なんだお前、俺を慰めてくれるのか…?

見上げていた天井から目を離して画面に目を落とす。そこには『泣かないで』という電子生命体からのメッセージが…。

 [今週、暇な日ある?]

 「うん?凉?」

あるはずもなく。ごく普通に、凉からのメッセージが届いていた。

暇な日、か。

今日は金曜日。となると土日のどちらかの事を言ってるんだろうけど。

 [月曜日の祝日も私バイトないから平気だよ]

 「そういや休みだったか。んー」

続けて入ってきたメッセージを見て今度の休みは三連休だった事を思い出す。

俺自身はバイトらしいバイトはしていないのでいつでも問題はないのだが。

 「そうだなー。ここは日曜にしとくか」

明日は一日どうなるかまだ分からず、祝日の月曜日は翌日から始まる苦行のためにも休息日としたい。

そうなると遊べる日は決まっているようなものだった。

 「日曜日にしよう、っと」

特に打ち間違いをする事なくスムーズに日にちを提示して送信を押す。すると、十秒も経たずに返信が来た。

 「お、新作出たのか。あとで買お」

送られてきたのは俺と凉の間で一年ほど流行っている動物のマーク。

動物と言っても、カピバラとカモノハシを合わせたカピノハシというよくわからない生き物なのだけど、それが妙に可愛く二人してハマったのだ。今回送られてきたのはいつものカピノハシに加えてピンク系の体毛をしたカピノハシの二匹がローマ字の[O]と[K]を模したものだった。

…そうか。一年の時を経て君も恋人ができたんだね。僕は悲しいよ。

 「くそぅ、仲間だと思ってたのに…」

マーク相手にガチ泣きをしそうになるも必死に耐える。

泣くな。俺はまだいいだろう。やっくんを見てみろ。女の子とメッセージのやりとりなんてした事ないんだぞ。俺はまだマシだ。

 「…よし、俺はまだ平気だ」

 「…何が平気なんだ?」

 「み、御山センセ!?随分早いっすねお風呂」

思わず涙ぐんでいると、いつの間にか風呂から上がっていた御山先生がハンドタオルで髪の水分を叩き落としていた。

なんというか、かわいそうな子を見るような目で見下ろされている。

 「あまり長湯をする習慣がなくてな。教師は忙しいんだぞ?」

 「そ、そうなんですね。あ、そうだ!お酒でも飲みます?俺、取ってきますよ!」

 「いや、それには及ばない。酒は一日一本と決めていてな。呑みすぎるとどうも良くない」

出来るだけ不振に思われないようスマフォをしまい、話題を逸らす。

メッセージの相手が女性の凉だと知られれば不純異性交遊がどうのと言われかねない。

 「……む、あまり見るな。私の歳だと、まだすっぴんを見られるのは堪えるんだ」

息を吐きながら向かい側に座りタオルで髪をまとめる御山先生は、近くにある小物入れから自立できるタイプの鏡とスキンケア系の化粧液を取り出す。

 「あ、はい。ごめんなさい」

どうやら軽い化粧をするらしいので仰向けに寝転がって呆然と天井を見つめる。

すっぴんでも充分綺麗なのは、普段からケアを欠かさないからなのだろうか。



       ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「…よし、もういいだろう。こっちを見てもいいぞ硲」

 「あーい」

どっこらしょとジジ臭く掛け声をつけて起き上がり、言われるままに御山先生を見てみる。

…なんか変わったのかな?

 「どうだ?見違えるようだろう。これが女の本気というものだ」

 「そ、そうですね。あんまり綺麗なんで言葉を失いましたよ」

 「そうだろう、そうだろう」

適当に言葉を合わせつつどこが良くなったのかを必死に探す。勿論、悟られないように。

 「…あ、あまり見つめるな。整えたとはいえすっぴんよりまし程度なのだからな?」

 「あ、ごめんなさい。肌ツヤとかが良くてつい」

 「よし、何か欲しい物は?」

 「単位です」

 「却下」

 「そんなぁ!」

口から出まかせ、って程ではないけど、とりあえず真っ先に目についた事を言い、舞い降りた言葉に欲望をありのままぶつけてみたものの、与えて貰えるわけもなく、二つ返事で断られてしまった。

 「ふふっ。だが今日は気分がいい」

足元に置いてあったタオルを首に掛け、その場から立ち上がり、そのまま台所へと向かう。

それから数分の内に両手にそれぞれ一本ずつ、何かの缶を持って戻ってきた。

 「ほら、こういう物に興味があるんだろう?飲むといい」

言いながら右手に持っていた缶を投げられる。

 「うぉっと!ちょ、投げないで下さいよ!」

 「ははっ!そう言うな。

単位はやれんが、飲み物くらいならくれてやる」

 「…これお酒じゃん!あ、アンタとうとうやらかすのか!?」

 「ばか、よくみろ。ノンアルコールだろうが」

手元で冷気を放つ缶飲料を再び確認する。

…ホントだ。よく見れば確かにノンアルコールって書いてある。

 「そも、家に上げた異性にアルコールなど差し出すものか。危なっかしい」

 「た、確かに」

 「それに今日お前に泊まって貰うのは、もしもストーカー…或いは悪ガキか?…が現れた場合の対抗策としてだ。酔われてもらっては困る」

 「あぁ…そう言えばそうだった」

 「忘れるな」

言われてみるまで忘れていた事を反芻しつつ、プルトップを立ち上げて飲み口を開ける。

小気味いい音と僅かに香る柑橘系の匂い。それが何味なのかわかるのは喉を通してからで。

 「…レモン」

 「む?嫌いだったか?それなら悪い事をした。この家には基本レモン系しか置いてなくてな。飲めないのならテーブルに置いておけ。あとで私が飲む」

 「いえ、別に嫌いってわけじゃないんですけどね。父も良くレモン味を飲んでいて」

 「…そうか」

目を伏せた御山先生は、先に呑んでいた味と同じ物を一気に傾ける。

そうして缶をテーブルに置いた軽い音がして。

 「そう言えば硲のお父様について聞いたことがなかったな。いい機会だ、私に教えてくれないか?」

俺の親父の話を切り出した。

 「勿論、話したくなければそれで良い。だが、担任の教師として息子さんのお前を預かる立場だし、事情も事情だ。不躾かもしれないが色々知っておきたい」

姿勢を正しての裏表のない真っ直ぐな瞳。進路相談や悩みを聞く際に見せる真面目な時の御山先生だ。

このモードに入った御山先生は普段の倍は頼りになって、どんな事を話しても必ず答えを返してくれる。

それは、迷える生徒ならば誰もが求める教師像であり、俺も何度か救われた事がある。

 「…別に、話すのを避けてたわけじゃないんですけどね。ただ、特に話すべきじゃないかなぁと」

知らず知らずのうちに言葉が口から漏れていく。

言った事は本当だ。今更親父の死を気にしてなんていないし、わざわざ誰かに話さなきゃいけないと思った事もない。

でも…

 「子供が余計な気を遣うな。同級生には言えないことだってあるんじゃないか?」

優しく微笑む御山先生に、愚痴をこぼしてしまった。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「はっはっは!本当に酷い人だな!お前の親父さんは!」

 酒気の僅かに満ちる室内。

テーブルの上に転がるのはノンアルコールとアルコールの缶。

 「ホントですよ!なんで隠してたエロ漫画の場所わかるかなぁ…!仮にわかっても、母さんに見せようとはしないでしょ!?」

 「ああ全くだ!私が同じ事をされたら自殺ものだな!」

 「しかもあれ、合作本だったから義母とのそう言う話もあって、すっごい気まずかったんですよ!?」

 「うお、それは余計にキツイな。

しかしやるなぁ硲も。まさかそんな趣味があるとは」

 「ありませんよ!たまたまです、たまたま!

…まぁ、買った手前読まないのはと思って読みましたけどね」

カコン、と軽い音が響く。

中身のなくなったノンアルコール缶を俺がテーブルに叩きつけた音だ。

 「はは…。

あー、こんなに笑ったのはいつ振りだろうな。やはり、お前といると退屈しなくて良い」

 「惚れないで下さいよ?教師と生徒のヤツだって好きなんですから、何するかわかりませんよ?」

 「さてはノンアルなのに酔ってるなお前。

アホ抜かすな。少なくとも今はまだそんな風には見れんよ」

 「って事は!卒業したら良いって事です!?やったー!彼女確定だー!」

 「だからお前はばかだと言われるんだよ。[卒業したら]じゃない。[良い男になったら]だ。ばか」

 「つまり既に合格ライン!?」

 「ふふっ、言ってろ」

口角を釣り上げて御山先生は挑戦的に微笑む。顔が赤いことからも酔っているんだとわかる。

勿論俺はノンアルコールなので酔っていないはずだが、今までの発言を鑑みるに雰囲気に酔っている可能性は充分にあった。

 「…さて、もう夜も遅いしそろそろ寝るとしようか。特に外から物音も聞こえなかったし、やはり私の思い過ごしだったのだろう。

勿論、私たちの笑い声でかき消されてなければ、だがな」

だいぶ出来上がっているのかお風呂あがりとは言えかなり着崩しているにも関わらず片膝を立てて座る御山先生。

短パン…恐らくはホットパンツと呼ばれる物に薄手のノースリーブという思春期男子にはとても目の毒な格好。

さっきの冗談ではないけど、こんなので男を家に上げたら誘ってると思われてしまうだろう。

 「ふっ、だらしないと思うか?家ではこんなものだぞ。女なんてのはな」

 「は、はぁ」

視線を感じた…というわけではないらしいが、とても良いタイミングの発言にどきりとしてしまう。

今の一瞬で三日は寿命が縮んだぞ。

 「…いや、アイツは…妹の雀はそんなことなかったな。うん。いつも可愛らしく乙女だ。

はぁ…。私も精進しなければなぁ」

 「先生ってもしかして泣き上戸?」

 「いや、落ち込みやすいだけだ。泣きはせんよ」

 「なら慰めてあげましょうか?」

 「抜かせ。20年早い」

ポツリポツリと減っていく会話に思わず時計を見る。

時間は既に0時を回っていた。

 「ところで、俺はどこで寝ればいいんですかね?」

 「ん?あぁ、決めてなかったな。

ふむ…私と一緒に寝るか?」

 「先生がいいなら」

 「はは。そうきたか。なら断るしかないだろうな。私としては一緒に寝たかったが」

 「…え?」

 「嘘だ。今、布団を持ってこよう」

立ち上がり、部屋を後にする御山先生。その去り際、寂しげに笑ったような気がしたが、多分気のせいだ。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー ーーー



 時刻は、全ての生あるものが眠りにつく丑三つ時。

草木の囁きはなく、風すらも口を噤み、あるのは、時計の秒針が動く不気味な音と。

 「(いや、眠れねぇわ)」

一人寂しく悪態を吐く俺の小さな小さな声のみ。

御山先生と空き缶を片し終えてそれぞれ床に就いたのが一時間ほど前。その後、話し疲れや慣れないことばかりあったしすぐ眠れるだろうと安易な考えで布団の中に入ったのだが。

 ーーよく考えろ。学校一の美人教師…下手すれば生徒を含めて一番の美人と一つ屋根の下だぞ。それだけじゃない。あんなことがあったのに、無神経に眠れるわけないだろ!

血走る眼球を感じながら繰り返される下世話な思考。

それに飽き飽きしながらも止める事は出来ない。

 ーーなんだあの思わせぶりな態度。絶対俺に惚れてんじゃん。仮に惚れてなくても、襲ってこい、って言ってるようなもんだろ。違うとは言わせねぇからなオウボウツバメめ!

募っていく劣情のはけ口となりつつある妄想。悪態でも吐いていなければ今すぐにでも二階に行ってしまいそうになるのは健全な男子生徒だからだと思いたい。

 ーーそうだよ。なんでわざわざ『二階で寝る』なんて伝えてきたんすかねぇ!まるで試すように!

もはや寝ることなど不可能な現状。このまま朝まで感情のままに妄想を続けるのもアリか?と思いつつある中、不意な物音に気がつく。

 ーー…二階?いや、外だ。窓の外。…って事は、例の植木鉢が置かれてた場所か?

弾かれるように身を起こし、カーテンからチラリと覗く事が出来る外を注視する。

すると、僅かに影が動いたような気がした。

 ーーまさか本当に来るとはな…。いけるか?俺で?

ーーーカチャリ、カタン、カチャン。

あからさまに何かしているような音からしても、人的な物でまず間違いないだろうし、見えた影は恐らくは少年から女性のようなシルエット。つまり、猫や犬ではない。

 「(…行くか。イカツイおっさんじゃなきゃやれんだろ)」

意を決し、身なりを軽く整える。

着崩したままで行けば何が戸惑いのきっかけになるかわからないからだ。

スマフォは近くに置きっぱなしにする。出ている下着は入れ直す。そうして万全と思える体勢を整えるのに要した時間は十秒前後。

次に必要なのは一歩踏み出す勇気と、上ずらない第一声。

前者は言わずもがなだが、後者はかなり重要だ。これで如何に相手を圧倒できるか、威圧できるかで今後の向こうの対応が変わる。

 「(上手くいけば良いけど)」

刺された場合に備えての装備はない。命綱のスマフォは迷いになるだろうから置いていくしかない。

 「(ま、気づいてくれるだろ。頼むぜ御山先生)」

自分を奮い立たせるための軽口に重い笑みをこぼす。

意思を確固たるものにしてからの突撃。大丈夫。途中で怖気付いて腰を抜かすことなんてない。

 「誰だお前は!!!」

カーテンと同時に窓ガラスを開ける。響くはずのない音に影は確実に硬直していた。

数秒後か、それとも十数秒後か、それは分からないが、必ず直ぐに何か行動を起こすはずだ。

大丈夫、どうにかなる。最悪、上で寝てる人が助けてくれる。

後はとにかく、恐れない事だ。

緊張で乾いていく口腔内を、無理矢理唾液で喉を鳴らして集中する。

聞き逃さないように、見逃さないように。

……けれど、返ってきたのは思ってもいない反応。

 「……す」

普通は騒ぐか逃げるか攻撃してくるはずのその影は。

 「雀ですぅ!」

鈴を転がしたような涙声を上げた。


 

         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「…そうか、深夜にそんな事が…」

 「えぇ、そうなんです。深夜にそんな事がありました。ね、雀ちゃん」

 「はい。時雨君」

 翌日の早朝。時間は八時頃。

俺たちの話を聞くと御山先生は額を抑えながら台所へと直行する。

何をしに行ったのかはよく分からないが、御山先生は戻ってくると低く唸り声を上げながらテーブルの向かい側に座る。

そうしてテーブルに突っ伏して昨夜の飲酒を懺悔し、『もうこんなに飲まないぞ』と、恐らくは定番の文句を口にしてようやく俺たちを視界に捉え。

 「はぁ!?」

今後もう聞く事がないだろうという程大きな声で、大いに驚いたのだった。

 「な、なら何故私を起こしてくれない!?硲を泊らせた私が言うのもなんだが、男女二人が同じ家で寝泊まりするなど…」

 「起こしに行きました!でもねぇさん、イビキばかりかいて起きてくれなかったじゃないですか。だから仕方なく…って言うと時雨君に悪いですけど、ねぇさんが起きてくるまで一緒にお話ししてたんです」

 「そうそう。雀ちゃん、二回も起こしに行ったんですよ?なのになんで起きないのかなぁ。まぁ、お陰で御山先生のいろんなお話聞けたんですけどね」

あまりにも想定通りの反応に思わず笑いそうになるが固く口を結んで我慢する。

流石は御山先生の妹さんだ。昨日の夜に言っていた事と殆ど一緒の事しか言われてない。

 「う、嘘だろう?まさか、雀がそんなことするわけ…」

 「だって、時雨君っていつもねぇさんが話してくれてる生徒さんでしょ?だから、良いかなって」

 「い、良いわけないだろ!?

どこだ!どこまで…いや、どんなことを話した!教えないとガチ泣きするぞ!良いのか!?」

微笑みを崩さず平然と[裏切った]と言ってのける雀さん。

そうか、本当にあの作戦を行うのか。

……御山先生には少し悪い気もするけれど、それ以上に昨晩雀さんが言っていた事の方が正しいし、俺も心を鬼にしよう。

 「あ、パニクると本当にそんな脅し文句使うんですね。びっくりしました」

雀さん曰くの、とっておきの一言を当人に惜しげもなくぶつける。

すると、見る見るうちに御山先生の目尻に涙が溜まっていき。

 「う、嘘だぁ!本当に雀が、見ず知らずの人間に私の秘密を!!う、うわぁぁぁ!!!」

声を上げて泣き出してしまった。

 「あらあら。本当に泣き出しちゃった。ふふふっ」

雀さんは何故か隣で笑っているのだが、俺にはそんな余裕はない。

確かに『一発よ、一発』とは言っていたが、まさかここまでの威力を発するとは思っていなかったし、何より、それなりの年齢の人の泣き顔を見るのは思ってた以上にキツい。

何と言うか、精神的にクるものがある。

 「……ふぅ。

さてと。それじゃあ時雨君、そろそろ終わりにしよっか」

 「そ、そうですね、雀さん。もう充分反省したと思いますし」

上ずり気味の声で言う雀さんに頷く。

……目尻を指先で拭っていたのは季節外れの花粉症のせいだと思いたい。

 「全部嘘ですよねぇさん。時雨君には殆ど何も話していないですから安心してください」

柔らかに告げられた言葉に意識が行き、涙を拭き続けている御山先生の手が止まる。

 「未成年を使ってのストーカー撃退は……まぁ、目を瞑ります。一番信頼出来る男の人が生徒っていうのはちょっと、というかかなり…思うところありますけど、そういうこともあるんでしょう」

厳しい口調で今回の作戦の意図を説明し始める雀さん。

御山先生はそれを鼻啜りの音を響かせつつも静かに耳を傾ける。

 「でも!そのストーカーが現れて、かつ捕まえられたと言うのに起きてこないとはどういう了見ですか!?」 

 「うっ…!そ、それは……」

真っ直ぐに伸ばされた指先で指し示され御山先生は言葉を飲み込む。

 「その、昨日呑み過ぎたというか、眠りが深かったというか…」

 「だったら、そんなになるまで飲まないようセーブしなきゃダメでしょ。仮にも先生なんだから、そういうとこでも生徒の手本にならないと」

 「う、うぅ…仰る通りです」

やっとの事で口にした言い訳も、とてもじゃないが正当性はなく、どころか雀さんがより優位になっていく。

 「全く。ねぇさんは昔からそうです。普段はそれなりでここぞという時はしっかりしているのに、気を抜くと直ぐに崩れる。脆いようで硬いようでやっぱり脆い。そんなんだから今回みたいな失敗をするんです!分かってますか!?」

 「直す努力は、しているんですが……」

 「努力していても結果が伴わないなら何もしてないのと変わらないんですからね!?見ている人は見ているかもしれませんが、その人が何してくれるんです?その駄目なところを完璧に治す魔法を持ってるわけじゃないでしょう!結局自分を正せるのは自分だけなんですから、もっと真剣に改善しようとしてください!仮にも教師なんですから!!」

 「は、はい……!!」

 「大体ねぇさんは……」

 「く、うぅ……」

まだまだ言い足りないのか、雀さんは更に直すべきところやその理由を連ねていく。

その渦中にいる御山先生の身体はみるみる縮こまっていき、顔をうつむかせたまま返事だけを繰り返す。

怖い。

確かに今回の件で結果的に問題があるとなったのは御山先生だ。元凶はストーカーだとは言え、雀さんがその後に口にしたことは全て正しい。唯一怪しい部分があるとすれば、加害者と被害者を鉢合わせる点だが、会う会わないは別にして起きて来て何かしら行動するべきだろう。

……とは言えだ。ここまで執拗に叱る必要があるのだろうか。姉妹だから思うところがあるにしても少しやり過ぎなのでは……

 ーーふ、ふふ。ふふふふ。

そう考え、止めようと雀さんの方を向くが直ぐに視線を逸らす。

眼が、悦んでいた。

小さな水たまりで藻掻く蟻を見るような、目の前で盛大に転んでひざから血を流している子供をあざ笑うかのような、陰鬱で身震いするような眼で、雀さんは実の姉を見下ろしていた。

 「と、ところでだ。その話から察するに、雀が私のストーカーをしていた…ということでいいんだよな?何故そんなことを?」

流石に堪えのだろう。御山先生は説教……もとい言葉の加虐の合間を縫って説教を遮る。

 「それは、ですね」

変わらず笑みを浮かべたまま『今度は貴方の番ですよ』とでも言い出しそうな顔を向けられる。

この期に及んでまだやれというのかこの人は。……というかアレ、冗談じゃないのか。

 「それはですね、俺がお答えします」

雀さんとの会話を思い出して肝を冷やしながらも、打ち合わせ通りのセリフを口にする。

悪いけど、俺はこの人に説教されるのだけはごめんだ。御山先生には悪いけど、もう少しだけ加虐の対象になっててもらおう。

 「なんでも、雀さんはかねてより御山先生のことを心配なさっていたみたいなんです。見た目は元より、佇まいや声質など、どこをとっても男の人を誘惑する御山先生に悪い虫が近づいてきた場合どうするのか。

今回はそれのデモンストレーションだったみたいです」

正しいようで全く正しくない事情をつらつらと口にする。

雀さんの考えも分かるが、だとしても何か別の手段で試すべきだ。

 「そういうこと。もしもこれが本当にヤバイストーカーだった場合、頑張って捕まえて応援を求めに行ったのに起きてこないねぇさんのせいで拘束から抜け出したストーカーに二人とも刺されてたかもしれない。最悪の場合、時雨君は殺されて、ねぇさんはそのストーカーにあんなことやこんなことされてたかもしれないんだよ?」

そうは思っていてもこの状況では言いようが無く、片棒を担ぐしかない。

正直、ほぼ初対面の人にあのように言われたら生きていられる自信が無い。ごめん、御山先生。

 「起きないことが一番いいけど、仮にもし本当にストーカーだった場合、大変な事になってたかもしれないの。だから、今回の事を教訓にもっとちゃんと防犯とか考えてね。

時雨君を呼ぶにしても、せめて鈍器くらいは持たせてあげないと」

至極真面目な顔で全てを言い終えた雀さんはここにきてやっと悦びの溢れていた瞳の色を変える。多分、満足したんだろう。

……けれど、雀さんの言っている事にも一理ある。

幾ら普段から御山先生が周りに気を付けていたって、問題が向こうからやってこないとは限らない。

事故は起こさなくても巻き込まれる可能性がるのと同じ事だ。そういう意味では今回のデモンストレーションには意味があったのかもしれない。

後は御山先生が納得すれば丸く済む…のだが。

 「確かに、雀の言う通りだ……私が浅はかだったよ。硲もすまなかった」

特に物申す様子もなく、御山先生は全てを受け入れ、納得した。

それはそれでどうかとは思うが、こんなに簡単に話が進むのも相手が妹だからだろう。多分問題ない。

 「(ふふっ。相変わらず簡単だなぁ、ねぇさんは)」

それ以上に問題があるとすれば間違いなくこの妹だろうけど……

 「(ふふふっ)」

俺にできる事は何もないだろう。

せいぜいが御山先生にエールを送るくらいだ。早く、おもちゃにされている事に気が付いてくれ、と。

 「さて。私はそろそろ寝ようかな。ここ最近寝不足だったし。ねぇさんのベッド借りてもいい?」

もう本当に気が済んだのだろう。

雀さんはそう言って立ち上がり、扉の方まで歩き出す。

 「ああ。勿論だ。どうだ?久しぶりに一緒に寝るか?」

 「はい!」

御山先生の提案に可愛らしく返事を返し、抱き着く雀さん。

ここだけ見れば仲睦まじい姉妹なんだけど……

 「そうそう、硲も眠った方がいいんじゃないか?私が言えたことじゃないが、徹夜は身体によくないからな。寝れる時に寝た方がいい」

 「本当に、よく言えましたねそんなこと」

 「いちいち気を使ってたら舐められるからな。適度に理不尽して嫌われとかないといけないんだ」

優しく笑って雀さんの背中に手を回した御山先生は、「おやすみ」と残すと、そのまま部屋を後にした。

 「…少なくとも先生はそうそう嫌われないでしょうけどね。

あーあ。俺もイケメンに生まれたかったなー」

御山先生の処世術に少し思うところがありながらも、すっかり乱れてしまっていた布団やシーツを直して床に就く。

瞬間、背中一帯を冷たい布の感触が覆い、変な声が出そうになる。

 「忘れてたけど、この部屋ずっと冷風効いてたんだな」

少しずつ暖かくなる毛布の中、ゆっくりと瞼が重くなっていく。

その間に脳内をめぐるのは、御山先生の部屋もクーラー効いているのだろうかとか、だとしたら電気代大変なんじゃないかとか、妹と寝るのは同じベッドなのだろうかとかの他愛もないこと。

それでも、気が付けば俺は眠っていた。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー

     


 それから目が覚めたのはお昼頃の十三時過ぎだった。

目覚めるきっかけになったのは、鼻腔をくすぐるおいしそうな匂いとリズミカルな包丁の音。

そして。

 「(ふふふ。お昼ご飯できるまでに起きないと…わかってますよね?)」

山羊か羊かわからないメルヘンな動物に足の裏を永遠と舐められる拷問の夢だ。



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 ほぼ丸一日を睡眠で使用した翌日。

駅まで御山先生に送ってもらい家まで帰ると、直ぐに呼び出されてそのまま凉のお父さんが運転する車に乗せられた。

そうして連れていかれたのが。

 「お、おおおお邪魔しまーす」

 「へぇ。ここが夏乃の住んでる部屋なんだ。なんていうか、普通だな」

知らぬ間に約束していた夏乃の家だった。

 「フツー言うな!これでも頑張っておしゃれしたんだからな!」

場所としては御山先生の住む住宅街から車で十分くらいの場所にある新しめのマンション。夏休み前くらいに入居者を募っていたところだ。

恐らく割と直近で入居する流れになっても入れたのは運が良かったのだろう。

噂ではオートロックだのの高価な防犯器具がついていない代わりに家賃やらが安いらしいので、夏乃家の両親的に都合がよかったのかもしれない。

 「そもそもしーちゃん、私と雪花さんの部屋しか見たことないのに普通とかわかんないでしょ?」

 「いや、そんなことないだろ。ドラマとかで見るのに比べたら味気ないし」

 「ドラマとかと一緒にすんな!」

 「そうそう!」

どうやら先ほどの発言が二人的に嫌だったらしく、玄関先で抗議を喰らう。

 「分かったよ」

確かに至極まっとうな意見だとは思うが意見を変えるつもりはない。

センス云々というのは知識以上に生来の感性の方が重要だと思っている。だから、直感的に覚えた[普通]という感想は間違っていないはずだ。

 「……コイツ、話聞いてるけど聞いてないな。

いいや、こんなの放っておいて私と凉だけで遊ぼ!」

 「え、う、うん」

 「時雨はもう帰っていいよ」

 「よく見れば全体的にまとまっていて素朴に感じるけどところどころにセンスを感じるいい部屋だな!俺の眼が節穴だったみたいだ!!」

と、感じていたがどうやら勘違いだったので急いで前言を撤回した。

 「………まぁ、いっか。分かればいいよ」

渋い顔をしつつも何とか許してくれたらしく、居間に上がってもいいぞと合図をくれた夏乃は凉を連れて先に中へと入って行く。

危ない、まさか部屋の感想一つで追い返されるとは考えもしなかった。やっくん含む男友達とはそれが常だったからそのノリで言ってしまったがそれはダメなのか、肝に銘じておこう。

…多分、他にもそういった違いがあるだろうから気をつけないとな。

 「さってと、それじゃあお菓子でも食べながら何かしよっか!」

兎も角、一先ず上げてもらえた俺は、既に居間のテーブルについていた凉の隣に腰を下ろす。

それとほぼ同時にお菓子やジュースの入っている袋をどこからともなく取り出した夏乃が微笑む。

 「そ、そそ、そうだね!」

 「あはは、凉驚きすぎ」

控え目で可愛らしいテーブルを三人で囲むようにして座り、その真ん中に袋を置きながら凉の反応に笑う夏乃。

 「え、えへへへへ、へへ……」

彼女の言葉で自分の態度がおかしいと気が付いた凉は誤魔化すように笑って頬を掻く。

学校以外滅多に友達と合わず、数少ない友人も部活が忙しかったりで殆ど遊べない凉の事だ。久々のお呼ばれで緊張しているんだろう。

 「……あれ?開かない」

お菓子の一つを取り出し、所謂パーティー開けを試みる夏乃だが梱包の仕様のせいか中々開けられないらしく苦戦している。

 「あ、それなら貸してみて」

 「…?」

ふと気が付いたようにそのお菓子を渡してもらい、同様に開けようとする凉。

すると、さっきまで苦戦していたのが嘘のように簡単に開いた。

 「凄い!開けるの上手だね!」

 「親戚に小さい女の子がいるの。家が結構近くてよく遊びに来るんだけど、その子が好きなお菓子だから、開け方のコツ?知ってるんだ」

 「へぇ~!なんか、お姉ちゃんって感じするね!」

 「あ、あはは」

夏乃の言葉に苦笑いを返すばかりの凉。

悲しい事に、凉は年上扱いをされると手離しには喜べない性格なのだ。その理由が。

 「良かったな、お母さんじゃなくて」

 「ちょ!?」

 「お母さん?」

 「ああ、その子から呼ばれてるんだ。ママって」

中学生の時、その親戚の子に頼りになるからとあだ名をつけられてしまったのだ。

 「しーちゃんのバカ!」

 「ははは、そんな事じゃお母さんは怒らないぞ?」

 「知らない!!」

顔を真っ赤にした凉は口を尖らせるとそっぽを向いてしまう。

実際頼りになるし、もうそろそろ受け入れてもいいと思うが流石にまだダメらしい。今でも親戚の子と会うと『おねぇちゃん』と呼んでもらえるように頑張っているんだとか。

 「はいはい、二人とも!乾杯しよっ」

 「ん、それもそうだな。ほら凉、いつまで拗ねてるんだ」

 「拗ねてないよ!怒ってるんだよ!!」

 「あ、あはは……。じゃ、じゃあまあとりあえずこれ」

 「……ありがとう」

俺を睨みつけながら凉がジュースを受け取り、三人全員に飲み物が行き渡る。

 「それじゃ、乾杯!」

 「かんぱーい」

 「……乾杯」

夏乃の言葉を合図にそれとなくコップを手前に上げる。

若干一名不機嫌な人物がいるものの、とりあえず集まりが始まった。



         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「でねでね、その時のしーちゃんもおかしかったんだよ。ただのドッジボールなのに『ここは俺に任せてくれ!』って言って、なのに投げられたボール避けて後ろにいた屋島君に当たったの」

 「うわ~。サイテー」

 「アレはいいんだって。アイツも似たようなことするからその仕返しだし」

 夏乃の家に上がってから数時間。

俺の恥ずかしい過去話を夏乃に話す事で機嫌を取り戻した凉は半分も無くなっていたコップの中を飲み干しながら話をしている。

テーブルの上にあったお菓子や飲み物は殆ど無くなっているにも関わらず、なおも止むことのないガールズトーク。

その内容の大半が俺だ……と言えば聞こえはいいかもしれないが、話題にされているのはあくまで失敗談や恥ずかしい事が中心で、容姿や頭の出来は全くない。

言ってしまえば公開処刑だ。いい加減やめて欲しいと思いつつもさっきの一件のせいでどう頑張っても言い返されてしまうだろうし、どうにもできない。

 「それでしーちゃんがねー」

 「うんうん!」

 「え、まだあるのかよ」

 「当たり前でしょ?しーちゃん、すっごいバカだし」

酒でもないのにすっかり出来上がっている凉は上機嫌で話の続きを始める。

いい加減話のネタも尽きたと思っていたが、本人が覚えていないだけでまだまだあるらしい。

けど、考えてもみればこの二人の直接的な接点は俺か性別くらいしかない。流石にもっと仲良くなれば他の共通点も見つかるだろうが、今はこれしかないし、話が自然と俺のものになってしまうのは当然といえば当然かも知れない。

……それに、凉は分かるにしても、夏乃に笑われたり小馬鹿にされても何故か不思議と腹は立たなかった。

 「とは言っても、そろそろいい時間だし帰った方がいいんじゃないか?駅に迎えに来てもらうんだし、あまり遅くならない方がいいと思うけど」

言いながら部屋に掛けられているデジタル時計に視線を向ける。

友達の家で遊んでいる事だけ考えればまだ早い時間かも知れないが、さっき言ったように迎えの都合もある。まだいるにしろそろそろ連絡した方がいい。

 「あれ?今日泊りだって言ってないの?」

 「あれ?そういえば言ってなかったかも」

 「…は?」

夏乃に告げられた衝撃の事実に頭の中が白くなる。

なんて言ったんだ、この二人は。

 「ほら、私のマンションって二人の家から遠いじゃん?だから今日は泊ってもらった方が楽かなって凉と話してたんだけど…」

 「ごめん、伝えるの忘れてた」

てへへ、と普段ならするはずもない可愛らしいポーズで誤魔化そうとする凉。その隣の席では夏乃が苦笑いを浮かべている。

 「それに、私のお父さんとお母さんは月曜日まで泊りで出かけてるしどっちにしても迎え来れないんだよね」

 「あー、そんな事言ってたっけ」 

 「マジか」

そもそもの問題、凉の両親は迎えに来ることが出来ないらしく、いよいよどうする事も出来なくなる。

俺の母さんの車は車検に出しているせいで火曜日まで戻ってこないし、代車も借りてない。ここから駅までは歩いても行ける距離だけど、駅から自宅まで割と遠い上この時間だと治安的にもあまり行きたくはない。

残る手段としてはこのマンションから歩いて帰る事だが、車でも三十分近くかかっていたんだ、昼間ならまだしも夜直前の現状ではとても難しい。

と、くれば……

 「泊まるしか、無いか」

腹をくくるしかない、だろう。

 「ちょっと、そんなにアタシの部屋は嫌だっての?」

 「いや、そうじゃないけどさ……」

 「じゃあ何さ」

あまりに俺の態度が鼻に付いたんだろう。夏乃は僅かに眉根を顰めて睨んでくる。

 「……なんと言うか、その、ねぇ?」

問題点があるんだぞとほのめかすも納得のいかない様子の夏乃。

正直、これ以上明言化すると後々の関係に支障をきたす恐れがあるので言いたくない。

 「…………あれだよ、布団あるのかとかだよ」

……ので、俺も知らないフリをした。

ここまでくれば仕方が無い。凉とは幼い頃に何度も泊りあってるから安心してるのは分かるにしろ、夏乃はもう少し色んなことを考えて欲しい。

 「……まぁ、布団は無いんだけどね」

 「そうか、残念だ」

その上、今日は床で寝る事が確定した。



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 母さんに泊りの連絡をして説教が確定した後、夏乃がお風呂の準備を終えたので、それぞれが入る事になった。

最初に入ったのは家主の夏乃で、今入っているのは凉だ。なんでも、二人とも男の子が先に浸かった湯船には入りたくないらしい。

彼女達のお父様の心労が少し伺えた気がして寂しい気持ちになった。

 「ホームシック、ねぇ。勘当されてるのにホームシックも何もないだろ」

 「正しくは勘当じゃないの。あくまでお父さんが騒いでるだけで、ほとぼりが冷めたらまた向こうに住むんだからホームシックにだってなるよ」

湯気の立ち上りそうな熱気を放つ夏乃はそんな事を言いながら髪を拭き上げる。

いつもは化粧をしているのでお風呂上りはどんな顔になるのかと少し気になっていたのだが、どうも眉の全剃りをしていたりするわけではなかったらしく、全体的に薄い雰囲気になっただけで普段とあまり変わらない見た目になっていた。

年齢の差なのかは知らないが、御山先生とは違ってスキンケアなどはしていない。

或いは、脱衣所で済ませたのだろうか。

 「しっかし、女の人ってのはわかんないな」

 「何が?」

 「あー、いや、なんでもない」

思っていた事がうっかり口から出てしまったらしく夏乃に突っ込まれてしまう。

 「なんでもなくはないでしょ。ほら、言いなよ」

身を乗り出して、話すように急かす夏乃。

お風呂上がりのせいだろうか、妙に色っぽく見えて鼓動が早まる。

 「何?言い辛い事なの?」

こっちの気も知らないで彼女は更に身を寄せてくる。

…いや、今は雑念を払おう。仮に焦って、化粧がどうのと言ったら殴られるに決まってる。冗談じゃない。昨日の今日のでそう何度も殴られてたまるか。

 「ね~、教えてよ」

 「あー、それは、その」

どうしても聞き出したいらしく、一向に引く様子のない夏乃。

かと言ってその疑問に合う言い訳が思いつくはずもなく、視線だけが天井へと向かってしまう。

クソ、もう殴られるのは嫌だし、今日は泊まるのに変な空気にもしたくない。頼む、誰か助けてくれ!

…そんな、心の叫びが神に届いたのだろうか。

 「お風呂いただきました~。いいお湯だったー…って、なにやってるの!?」

お風呂に入っていた凉がタイミングよく出てきてくれた。

 「お、おぉ!じゃあ次は俺だな!!」

 「あ、ちょっと、なんでか言えって、の…?」

 「ま~ゆ~…!!!」

このチャンスを逃せば恐らくお風呂に入れるのはかなり後になってしまう。夏乃に追いつかれる前に急いで脱衣所へと向かった。

 「ちょ、なんで怒って…」

 「正座!!」

 「は、はい!」

時雨に逃げられ、居間に残された夏乃。

彼女は何故か、凉の怒りを買っていた。

 「あのね、眞結。お風呂上がりで薄手の服を着てる時にあんなに男の子に近寄るのは絶対やめた方がいいよ!!」

 「あ、へ?」

僅かに頬を染めて声高に告げた凉だが、肝心の夏乃はいまいち言われている意味を理解できていないらしく小首を傾げる。

 「しーちゃんは…まぁ、多分平気だと思うけど、でも、もしもって事があるし!」

 「……どういうこと?」

 「あ~!もう!」

恥じらいを覚えているせいで直接的な表現にならないようにしか注意出来ない凉と、それでは全く察する事の出来ない夏乃。

二人の不毛な争いは時雨が恐る恐ると戻ってくるまで続けられた。


        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


 それから更に数時間後。

 「…もうこんな時間か。どうする、そろそろ寝るか?」

時刻は深夜を回り、場所が場所ならフクロウの声が聞こえて来てもおかしくない時間。

どうやらお風呂に入っている間に夏乃の話は終わってくれていたらしく、あらかた掘り尽くしたはずの俺の過去話にまた花を咲かせていた。

流石にもういいだろうと思いつつもあの話題に戻るよりかはと己を叱咤し会話に混ざると、こんな時間になっていた。

 「そうだね。夜更かしは美容の天敵らしいし」

 「もう手遅れな時間な気がしないでも無いけどな」

 「しーちゃんうるさい」

いい加減話疲れたのか二人から反対の声はなく、それどころか肯定的な意見まで飛んできたので夏乃達も眠いのだろう。

 「それで、寝る場所なんだけど……」

言いながら思い出し、少しばかり悲しい気持ちになる。

ふかふかのベッドじゃないと嫌だ、とは言わないが、せめてシーツくらいは欲しいが……。

 「…ごめん、布団は一組しかないし、洗濯物は毎日回してるわけじゃないからタオルも無いんだ」

 「……了解」

本当に、何もなかった。

確かに一人暮らしともなれば節約のために洗濯機の回数を減らしたりもするだろうけど、俺が泊りに来るのが分かっていたんだから今回くらいは無駄使いしてもいいと思う。

 「くそー、凉は夏乃と一緒に寝れるから問題ないだろうし、ずりーぞ」

 「あ、あはは。ごめんね、しーちゃん」

子供っぽいとは分かっていながらもこぼれてしまう愚痴。

最初から無いと知っていれば家からジャンパーなりなんなり持ってきてごまかしも効いたのに、今日は母さんが凉に持たせた替えの下着くらいしかない。

幾らなんでも下着をかけて寝るなんて出来ないし、そもそも女子の前なんだから選択肢として持っていちゃいけない。

 「…はぁ、しゃーない。今日は座布団ベッドだけで我慢するか」

 「ホントごめん、次までには用意しておくから」

 「いや、そんなに安いものでもないし気にしなくていいよ。寧ろ、気にするべきはタオルの洗濯だと思うし」

 「うっ……。肝に銘じます」

申し訳なく頭を下げて謝り、それぞれの座っていた座布団……と言うかクッションを夏乃に手渡される。

 「まぁ、これ全部いい感じの柔らかさだし、寝心地は心配なさそう」

受け取ったクッションを抱きしめ気味に抱え、夏乃のベッドがある位置から離れた場所に縦に並べてその上に横になる。

うん、思ってた通り寝心地は悪く無い。

毛もどちらかと言えば暖かいタイプっぽいし、これならうつ伏せで寝ればクーラーに当たっててもお腹を壊したりせずに済みそうだ。

 「そ、それじゃあまぁ、おやすみ……」

 「ごめんね。おやすみ、しーちゃん」

 「ん、おやすみ」

申し訳なさそうな二人の挨拶に返事をし、暗くなる室内。

どこを見ても黒で覆いつくされ、もぞもぞと布団に潜る夏乃と凉の音だけが聞こえる。

天井を見上げ、僅かに動かした視線が捉えるのはクーラーの作動している証明の小さな灯り。

……あぁ。まさか二日連続で女の人の家に泊まる事になるなんて思いもしなかった。

本当なら泣いて喜んでおまけに遠吠えくらいする状況なんだろうけど、悲しい事に俺はヘタレだし、法を順守する従順な民だ。下手な事をする気はない。

大丈夫。御山先生の家でもトチ狂った事はしなかったし、今回もいける。

静かに目を閉じて確固たる自信を胸に呼吸をゆっくりと整える。

 ーーそうだ、さっさと寝てしまえばこんな気持ちとはおさらばできる。だから寝よう。寝てしまおう。

言い聞かせるように胸の中で何度も繰り返し、微睡が地面に穴をあける瞬間を俺は待ち続けた。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



  けれど。

 ーーまぁ、分かってたけどね。

授業中あれほど遊びに来るはずの睡魔は今日に限って鳴りを潜めているようで、一向に眠れる気配がしなかった。

 ーーそりゃあ、無茶だよな。俺、健全な男子だし。御山先生の家で寝れたのも滅茶苦茶疲れてたからだし。

薄ぼんやりと暗闇に浮かんで見えるライトを見上げ、己の性にため息を覚える。

 ーーまぁいいや。二連泊で疲れも溜まってるだろうからそのうち眠れるだろ。

そう自分に言い聞かせてもう一度瞼を瞑る。

視界に広がるのは部屋よりも真っ黒な瞼の裏。

 ーー大丈夫、今日の俺は夏乃のようにとても鈍感。眠れないのはあくまで疲れが出てないからで、それ以上の理由はない。

見えない微睡に理由をつけ、身体の力を抜いて眠る態勢を取る。

……すると。

 「ねぇ、時雨。起きてる?」

僅かに眠たげな夏乃の、小さな声が聞こえてきた。

 「……起きてるよ」

 「あはは、やっぱり、眠れないよね」

困ったような、照れたような声で返事をする夏乃。

 「実は私さ、友達とのお泊りって、初めてなんだ。だから、眠くない」 

どうやら彼女も眠れないらしく、そのまま話をし始めた。

 「中学までの友達は高校に行くようになってからは疎遠になっちゃってて遊んだりとかなかったし、そもそも中学は気が付いたら勉強ばっかりやるようになっててあんまり遊んだりしてなかった。

いつから意識するようになったのかは覚えてないんだけどね」

耽るように口にした彼女は、けれどそれを拒むために微笑む。

 「だからね、今日は凄く嬉しいんだ。毎日会える友達が出来て、その人たちと一日一緒に居られて、本当に嬉しい。だから、眠りたくないんだ。

……凉は、寝ちゃってるけどね」

幾ら目が慣れ始めたとは言え夏乃の顔は見えない。

しかし、その寂し気な囁きからは凉に視線を落としているのだろうと予想できた。

 「そいつは寝付きがいいからなぁ。気にしなくていいと思うぞ」

凉に誤解が生まれないよう夏乃に告げる。

そのせいかは分からない。

そのせいかは分からないが。

 「あは、ホント、仲いいんだね。二人は」

尚更、寂しそうに呟いた声が、聞こえてしまった。

 「まぁな。赤ん坊の頃から知ってるし、双子みたいなもんなのかもな」

 「うん、そうなんだろうね。アタシ姉弟とかいないから羨ましいなぁ」

 「けどさ」

 「…ん?」

きっとそんなつもりは無いんだろう。

ただ、思わずこぼれてしまったとか、本当に意識などしていないのかもしれない。

だとしてもこれだけは言っておかないといけない気がして、ガラにもなくちょっとだけ真面目な話をしようと思った。

 「『双子みたい』なだけで、双子じゃない。凄く仲の良い友達なんだ」

暗闇の先で夏乃の困惑する顔が容易に思い浮かぶ。

俺の言葉が、今の彼女にとってどんな風に受け取られるかは分からないけれど、だとしても、言うべきだ。

 「だから別に気心が知れてるかなんてどうでもよくて、俺は、俺と仲良くしてくれる人ならそれだけでいいんだ。

…だから、別に気にしなくていいぞ」

 「……時雨」

少しだけ聞こえる夏乃の声に胸が苦しくなる。

あぁ、やってしまった。

俺は、なんて恥ずかしい事を言ってしまったんだ。

 「ま、まぁそういう事だから変にセンチになる必要はないぞって、それだけだから。おやすみ」

早口にまくし立てて、二人の寝てるベッドに背を向ける。

何が『センチに』だ。センチメンタル勝手に感じたのは俺じゃねぇか。

それなのに偉そうに言いやがって、[こいつやべーやつだな]とか思われたらどうすんだよ。下手したらそれと仲良くしてる凉まで被害受けるかも知れないのに。

 「(……やっちまったなぁ)」

自分のしてしまった失敗に今更ながら気が付き、思考だけに留めようとしていた言葉が小さく漏れ出てしまう。

恥ずかしい。とことんまで恥ずかしい。こんな事だから凉やみんなに馬鹿だと言われてしまうんだ。

いい加減直そう。その方が今後も楽だろう。

自戒も込めて深く強く自分に言い聞かせ、さっさと眠ろうと目を閉じる。

……多分、その時だ。

 「……そんなことないよ、時雨。ありがとう」

夏乃の声が聞こえたのは。

けれど、そのすぐ後に寝てしまったらしい俺はこの声を、ただの思い込みだと思ってしまった。




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 翌朝。

唐突に響いた不思議な音で目が覚めた。

ぼんやりとした最中で聞こえたそれは現実のモノなのかを少しの間疑っていたが、同様にして凉や夏乃が起きてきたので三人で顔を見合わせた。

 「窓の外、だよね?」

 「うん、多分」

 「ここ、二階なんだけど……」

微かに恐怖を帯びた瞳でカーテンの掛かった外を見やる二人。

その正体は俺も気になるところだ。 

 「……ちょっと、見てくる」

 「気を付けてね、しーちゃん」

瞼を擦り擦り窓へと向かい、そっとカーテンの隙間からベランダを覗く。

そこから見えるのは昇りかけている太陽の眩しい光。

そして。

 「……なんだ、これ」

ベランダにぶちまけられた何かの破片と土だった。



         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 俺たちが起きてからおおよそ一時間。

 「ねぇ、ホントに大丈夫なの?」

 「あーー、んーー…まぁ、夏乃が平気なら」

 「ごめんね、私の家にもあれば良かったんだけど……」

夏乃が大家に電話で事態を説明し終え、後程伺いに来ると約束をした後。

 「でも、しょうがないよ。部屋余ってるとかって姉弟とかいないと難しいし」

 「その点、俺の家なら一個余ってるからな。居候する場所としてなら悪く無いはずだよ」

恐怖のあまり泣き出しそうになってしまった夏乃を見かねた俺は、家に来ないかと誘ってしまった。

 「それは、そうかもだけどさ……」

 「けど、誰の植木鉢かも分かんないんだろ?」

 「……うん」

歯切れ悪く遠慮を見せる夏乃。

その気持ちは嬉しくはあるが、とは言え事が事だ。今回は図々しいくらいの行動を取ってもらった方がいいだろう。

ベランダに散らばっていた土と破片。

恐る恐るそれらを見れば、どうやら土の入った植木鉢が落ちて割れたために出来たモノだと分かった。

だが、夏乃に聞いてもそんな物を買った覚えはなく、どうしてここにあるのかも検討が付かないそうだ。

もしかしたら上の階のベランダから落ちてきたんじゃ?と、凉に言われたが、ベランダの上は、上の階のベランダになっていて物を落としたとしても直接道路に落ちるようになっているためあの場所に散らばるはずがない。 

それでも万一があるので大家に電話する際上の部屋の住民の事を聞いてみたそうだが、仕事上外泊が多いらしく最近は帰って来ていないだけでなく、菜園をやったりするタイプでもないためこの件には関係ないだろうとまで言われてしまった。

両隣りの住人はどちらも家族で子供も小さく、危険なベランダに出す事は勿論、割れる恐れのあるものは日用品以外は買わない、と夏乃が直接聞いたことがあるためこれもあり得ない。

となれば、他に考えられるのは別の部屋の人間か全くの外部の人間に、意図的に投げ込まれた可能性だ。

だが、一番の問題はそこじゃない。

 「……ごめん、時雨。やっぱり、少しの間泊まらせて。迷惑はかけないから」

 「分かった。落ち着くまでいていいから」

 「……うん。凄く、助かる」

今、最も優先して解決すべきなのは夏乃の安全の確保。

犯人の目星が付けられない以上、彼女をこのままにしていてはダメだ。

 「気にしなくていいよ。近くに凉の家もあるし、寝る時だけ家にいるでも構わないから」

 「うん、うん。ホントにありがとう」

目尻に涙を浮かべて夏乃は感謝を口にする。

さっきも言ったように俺の家には、俺や雪花さんの部屋以外にももう一つ部屋がある。だから一人くらいなら居候として住んでても問題ない。

独り暮らしではなくなるので多少の不便はあるだろうけど、そこさえ我慢してもらえれば、俺も母さんもいるし、大体の事には対応できるはずだ。

 「じゃあ、取り合えず大家さんが来るまで待ってるか」

 「……そうだね。なら、その間に荷物とか纏めようかな」

 「私も手伝うよ。眞結」

 「ありがとう、凉」

少しずつ落ち着きを取り戻し始めた夏乃はそう言うと凉と一緒に身支度を始めた。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 大家に状況を説明し終えて駅まで歩いて行った俺たちは、特に不審な人物に会う事無く電車に乗れた。

向かう先が先だからかは分からないが、幸いにも混雑していない車両に乗車できたので一先ずは安心しながら目的地へと向かい、到着したのは学校近くの駅。

ここから俺や凉の家まで十分ほど歩くが、その間も特に不審な人物に会わずに俺の家まで辿り着けた。

 「ここが、時雨の家なんだ」

若干疲労が見える中で目にした、少しの間お世話になる家に小さく喜びの声を上げる夏乃。

 「部屋の用意とかしておくから、先に凉の家教えてもらったらいいんじゃないか?」

 「そうだね。私の家、ここからそんなに遠くないけどどうする?」

 「……その方がいいかも。悪いけど、お願いできる?」

俺たちの提案に少し思案すると夏乃は僅かに首を傾げて凉に案内を頼んだ。

 「もちろん!」

それを聞き、凉は喜びを露わにして頷く。

あまり楽観視できない状況ではあるが、それでも久しぶりに友人が自室に上がるのだ。昨日の夏乃ではないがやはり嬉しいのだろう。

 「準備できたら連絡するし、荷物も預かっとくから」

 「うん、ありがとう」

 「じゃ、行こっ!」

荷物を受け取り、凉に引っ張られる夏乃を見送り玄関へと視線を向ける。

 「……さて、行くか」

ドアノブを握りながら自分に喝を入れる。

 ーー大丈夫。事が事だし、母さんも受け入れてくれるはずだ。

自分に言い聞かせ、玄関の扉を開けた。

 「ただいまー」

身震いしてしまいそうな静寂の中、帰宅の挨拶が一帯に響く。

即座に返事はない。

だが、ほどなくして。

 「あら、おかえりなさい。硲君?」

にこりと微笑む母さんが、居間の扉を開けてゆっくりと現れた。


        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


クーラーの効いた室内。

露結する麦茶の入ったコップと、その中で小気味よい音を立てて崩れる氷。

それは二人分テーブルの上に置かれていて、囲むようにして俺と母さんが座る。

……そして。

 「それで。何か言いたい事はありますか?」

 「……あの、ただいま」

昔のように、敬語に戻った母さんの声が、最初に響いた。

 「御山先生のお家でのお勉強は捗りましたか?」

 「ま、まぁ、それなりに」

 「それはよかったです」

うふふ、と笑みを見せる母さん。

だけど、母さんが敬語で話すのは嬉しい時や楽しい時じゃない。

 「……それで」

それまで閉じていた瞳を薄っすらと開き、俺を視界に捉える。

 ーー本題だ。

 「昨日は、三船さんと一緒にお友達の家に泊まったそうですが」

 「そ、それはだね、母さん!」

直ぐに弁明しようと口を開く。

だが。

 「あら、まだ母さんが話してる途中ですよ?」 

 「あ……、はい、ごめんなさい」

即座に、母さんに牽制されてしまう。

マズった、久しぶりに怒ってる時と話しているせいで手段を誤った。

 「……どこに、泊ったんですか?」

 「それは、えっと……」

いけない、これじゃあ母さんのペースになってしまう。

 「硲君、いつもはちゃんと連絡くれるのに昨日はありませんでした。三船さんがついていましたし、おかしなところに行く事は無いと分かってますけど……」

話しの主導権を握られてはいけないと分かってはいるものの、母さんの見せてきたスマートフォンで俺とのやり取りを見てしまう。

書かれているのは『凉と友達の家に泊まる事になった』とだけあるメッセージ。

確かにこれだけでは重要な部分がはぐらかされていると言える。……勿論、そうなるように送ったのだが。

 「友達って、誰ですか?まさか、硲君以外の男の人の家に三船さんが『泊まる』と言う訳がありませんし、ねぇ?」

 「は、はい……それは、ですね」

あまりにも痛いところを突かれ、いよいよ言い訳が出来なくなる。

『違うんだ、母さん!実は俺も泊まるのは知らなかったんだ!!』などと言おうものなら尚更怒りを逆なでするだけだろうだ。それだけは避けないといけない。

 「全く。先生のお宅から返ってきて直ぐに出かける事になるからと思って、暇があればとお渡しした着替えが、まさかお泊りの為に使われるなんて、母さん思いませんでした」

 「お、俺も、なんでこんなに用意がいいんだろうと驚きました」

 「あらあら、素直でいい子ね」

 「あ、ありがとうごます」

 「その調子でどこに泊まったのか教えてもらえるといいんですけどね?」

ニコニコ笑い、隠しているモノを差し出すよう忠告する母さん。

怖い。やっぱり、怖い。前に一度怒らせた事があったけど、あの時よりも全然怖い。

そりゃそうだ、同い年の女の子とどことも告げず外泊して来たんだ。まともな親だったらブチギレるに決まってる。

 「ね、硲君?」

二度目の忠告に背筋が凍る。

このタイミングで事実を告げなければいよいよどうなるか分からない。最悪、何を言っても信用してもらえない可能性さえある。

それはダメだ。何も信用してもらえなくなるって事は、俺にとっての本題である夏乃の居候の話をしても相手にしてもらえないって事だ。 

 「それは、ですね……」

 「はい」

意を決して口を開く。

分かってる。妙な詮索をされないように話せばいいだけだ。俺は凉と一緒に友達になった転校生の家に泊まりに行った。そこではなにもなく、ただ夜更かししただけだ、って。

……これなら、いける!

 「な、夏乃っていう、転校生の女の子の家に凉と泊りに行ったんです。そこでは変な事は何も起きず、夜遅くまで話してましたっ!」

よ、良し。とりあえずほぼ理想通りの返答が出来た。

問題は、妙な焦りが出てつい言ってしまった『変な事は』という単語だが……

 「う~ん、成る程?」

小首を傾げ、言葉の意味を吟味する母さんを他所に、不安ばかりが募っていく。

これでうまくいけばお説教はここまでだが、もし下手な方向に考えられたら一巻の終わりだ。

 「変な事はしてない、ね」

言うべきではなかった単語に案の定母さんは引っかかりを覚えている。

マズいな、どうにかしてそれをスルーさせないといけない。

何か、あと一押しはないか?こう、母さんが懸念している事項よりもインパクトのある事件…は……。

 「そ、それで母さん」

 「ん?どうしたの?」

あった。母さんが度肝を抜かすような事件が。

その上、ここで話をしてしまえば後で言い辛い雰囲気の中で切り出す必要のなくなる話題が。

 「今朝、妙な物音で眼が覚めたんだけど、その夏乃の家のベランダに植木鉢が投げ込まれてたんだ。マンションの二階なのに」

 「……え?」

例の話をした途端、母さんの眼の色が変わった。



         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー

 


 「……そう、そんな事が」

今朝の事件を聞き、母さんの眼から怒りの色が無くなる。

 「うん、それで、夏乃が凄く怖がってさ。今はちょっと事情があって一人暮らししてるせいで家族に頼れない状態でさ」

話を全て伝え終え、いよいよ本題のために切り出そうとする。

 「それは大変ね……。その子が嫌じゃなければ、うちに泊まりに来てもいいんだけど……」

……はずの、俺の言いたかったことを、母さんが先に口にした。

 「え、マジ?」

 「…?

うん、本当よ。ご家族との事情は分からないし、口を出すべきじゃないけれど、今のままその部屋に住み続けるのはよくないもの」

 「け、けど、向こうも学生だし、なんか心配になったりしない?」

止めておけばいいのにわざわざ余計な言葉が口を吐く。

でも、ここははっきりさせておかないといけないところだとも思う。

 「そりゃあ心配が無いと言えば嘘になるけど、時雨君と夏乃さんは仲がいいんでしょう?それに、もう、一度泊ってて何もなかったのなら、義母さんもいる家で何かするとも思えないし」

 「た、確かに……」

 「部屋もなっちゃんのがあるけど……時雨君は平気?」

 「そりゃあもちろん。俺も夏乃が泊まるってなったらそこしかないと思ってたし」

 「それなら大丈夫。後は夏乃さんのお返事次第ね」

 「だ、だね」

驚くほどとんとん拍子で進む夏乃の居候の話に多少面喰らうが、けど、不安が杞憂で終わってよかった。

後は、最初の予定通りに夏乃をこの家に呼ぶだけだ。

 「あ、そうそう。時雨君?」

 「ん、なに母さん」

スマフォを取りだして夏乃と凉、どっちに連絡しようか迷っていると、麦茶を飲んでいた母さんに呼びかけられる。

 「一応言っておくけど、その夏乃さんにナニカしたら、どうなるかはちゃんと考えておいた方がいいわよ」

 「あっ、はい」

首を傾げて柔らかに微笑んで口にしたその言葉は、敬語ではなかったけれど今まで聞いてきた母さんの言葉の中で一番背筋が凍った。

……肝に銘じておこう。


         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


 「「お邪魔しまーす」」

 十数分後。

結局凉に連絡をした俺は、二人が来るまでの間になっちゃんーー俺の、もう一人の母さんの部屋に掃除機を軽くかけつつ待っていた。

 「いらっしゃい。三船ちゃんと……貴女が、夏乃さんね」

 「は、はい!少しの間、お世話になります!」

 「えぇ、落ち着くまでゆっくりしていっていいからね」

 「あ、ありがとうございます!!」

 「お、来たか二人とも。部屋に案内するから上がってきな」

 「「はーい」」

玄関先での簡単な挨拶を聞きつけて迎えに行き、すっかり仲の深まった二人を連れて夏樹母さんの部屋へと案内した。

 「ここが夏乃の部屋だ。

普段使ってないから勝手は微妙かもしれないけど、前使ってた人のとかも好きにしていいよ。ベッドもシーツとか取り替えてあるから使って大丈夫。気が引けるって言うなら一応来客用の布団もあるから言ってくれ」

説明しつつタンスや棚の中身が無い事を教える。一通りの収納スペースはあるはずだし、物がしまえなくて場所を取るって事も無いだろう。

 「い、今更だけど、ホントに使っていいの?ここ」

型式の少し古いテレビを指さしながら夏乃に問われる。

まぁ確かに、これだけの設備をいきなり提供されれば妙な不安も覚えるだろう。

けど、それは間違いなく夏乃の杞憂。

 「勿論。前の住民はもう使わないからある程度自由にして平気だよ。

まぁ、壁壊したりとかってのだけ無ければ」

俺達にしてみれば、ある物を貸してるだけで、寧ろお古で悪いかな?と思ってるくらいだ。 

 「流石にしないから!」

 「なら大丈夫」

既に持ってきていた荷物を夏乃に手渡し、それをどこか適当な場所にしまうよう促す。

 「部屋の確認が終わったらお昼にしよう。多分、母さんが作り終わってる頃だし、今日は凉も食べてけって言ってた」

 「え、ホント!?雪花さんのご飯美味しいから嬉しいなぁ」

 「じゃ、じゃあとりあえず荷物置いてくるね」

何処か照れつつもそう言って荷物をベッドの傍に置いた夏乃と、ニコニコ笑う凉と共に居間へと戻る。

 「ん、お部屋は大丈夫そうだった?」

 「はい!もったいないくらいです!」

扉を開け、居間に入ると空腹を刺激する料理の匂いが香ってくる。

 「そう、なら良かった。何か必要なのがあったら言ってね。高価な物は難しいけれど、買って来るから」

 「い、いえそんな」

人数分の取り皿を並べながら夏乃に部屋の様子を尋ねた母さんはその返事を嬉しく思ったのかにこやかな笑顔と共に返事を返した。

 「さ、それじゃあご飯を持ってくるからみんな席に着いてね。

夏乃さんはアレルギーがあったら言ってね。レトルトだけど買い置きがあるから」

 「あ、はい!特に無いので大丈夫です!」

 「そう、なら良かった。今日は割り箸だけど、持ってきてるなら後で教えてね」

 「はい!」

二人の会話が終わるのとほぼ同時に全員の前に茶碗に盛られた白米が並ぶ。

他に並んでいるのは野菜炒めと、プチトマトが鮮やかな小鉢のサラダ。

どれも作りたてでで食欲をそそられる。

 「それじゃあ」

母さんの声に合わせて全員の手が合掌の形を取る。

 「「「「いただきます」」」」

誰かが合図を待つでなく、意識せずに重なり合った食事の挨拶が響き終わると、それぞれが料理を口に運び始めた。


       ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


 昼食を終え、再び夏樹母さんーーもとい、夏乃の部屋に戻ってきた俺達。

途中、お風呂場やトイレの案内もし終えているので一先ず困る事は無いだろう。

 「それにしても、時雨のお母さん優しいね」

 「ん?そうか?」

 「えー、雪花さんは優しいよ」

夏乃の部屋にあったタイプの小さめなテーブルに囲むようにして座り、いつの間にか母さんが用意してくれていた飲み物を手元に会話が始まる。

 「そうは言ってもなぁ。前にペットが欲しいって言っても絶対頷いてくれなかったし」

 「そりゃあ、甘やかすのと優しいのは違うもん。しーちゃん、めんどくさがりなとこあるしお世話できないと思ったんじゃない?」

 「……まぁ、否定はしないけど」

 「アタシ犬飼ってるけどやっぱり散歩とか大変だなって思う時もあるから、雪花さん?が正しいかもね」

 「夏乃まで……」

二人に言われて妙に悲しい気持ちになる。

確かに、エサ・散歩・狂犬病の注射・場合によっては動物病院、等々大変な事が多いから今では買って貰わずに良かったと思ったりもするが、実際に飼っていたらどうだったかは誰にも分からない。

……なんて、そんな未確定要素に判断を委ねてる時点で論外か。

 「それより、夏乃の滞在期間?だけどさ」

今更飼おうとも思っていないペットはさておき、夏乃の居候期間の話に話題を変える。

 「母さんも言ってたかもしれないけど、事が落ち着くまで暫くは家に居ても大丈夫だし、帰りたくなったとか、親に帰って来いって言われたりだとかした遠慮なく教えて欲しい」

 「うん」

 「少し前に言ったように、凉が良ければだけど、寝に帰るとかでも平気だし」

 「私は大丈夫だよ。眞結と一緒にいると楽しいし!」

 「とまぁ、改めて言うとこんな感じだ。とにかく、自由にしていいって感じだな。それでよければ、暫くよろしくな、夏乃」

 「……うん。こちらこそよろしくね!時雨!」

夏乃は満面の笑みと共に頷く。

 「よし、んじゃ俺の部屋からゲームでも持ってくるか。みんなでいただきまストーリートやろうぜ」

 「えー、あれしーちゃん意地悪するからやだなぁ」

 「何それ、やってみたい」

 「悪いな、凉。二対一だ。持ってくる」

少しだけ嫌な顔をする凉を他所に部屋を出て、自室へとゲームを取りに行く。

その足取りはどこか軽く、胸も何故か弾んでいるように感じる。

 「……気持ち悪いとは思うけどさ」

自戒の念も込めて自室で呟くもこればかりはどうしようも無い。

不安が無いと言えば嘘になるけれど、やっぱり、同じ家に同級生と住むっていうのはテンションが上がる。



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 夏乃が時雨家に住むようになってから一週間後。

 「雪花さん、おはよう!」

彼女はすっかりこの家に馴染んでいた。

 「おはよう夏乃ちゃん。悪いんだけど、時雨君起こして来てくれる?」

 「はーい」

居間へ入り、朝食の準備を殆ど終えている雪花は夏乃に頼むと、彼女は直ぐに階段を上り時雨の自室へとノックも無しに入り込む。

 「時雨!起きろ!!」

 「……あぁ、おはよう、夏乃」

カーテンの閉め切られた部屋の中で響く彼女の大きな声でゆっくりと目を覚ました時雨は寝ぐせの付いた頭を掻きながら身を起こした。

 「さっさと降りてこないと、アンタの分の朝ごはん、アタシと雪花さんで食べちゃうからね」

 「すぐ、行く……」

あくび交じりの返答を受けて夏乃は部屋を後にするが、時雨はまだベッドから降りられていない。

 「…………慣れって、すげぇなぁ」

ただ一言、そう漏らすと、眠い瞼を上げて彼もまた夏乃と同様居間へと向かう。

 「おはよう母さん、夏乃」

 「おはよう。

ご飯出来てるから、顔洗ってきちゃいなさい」

 「あい」

 「寝ぐせも一緒に直しちゃいなよー」

 「あーい」

まるで二人の母親に促されているような感覚で洗面所へと向かった時雨はうがい、洗顔、寝ぐせ直しを手短に終えて、再び居間へと戻る。

扉を開けた彼の眼に映るのは、日常となった夏乃と雪花が座って待っている食卓。

 「遅いよ、時雨」

 「お前なぁ……」

夏乃に文句を言われるも席に着き、コップに注いだお茶を一口飲む時雨。

 「じゃ、食べましょうか」

最早恒例とも言える二人の会話に今更何を言う必要もない雪花は手を合わせる。

 「「「いただきまーす」」」

三人の挨拶が響き渡り、新しい週が始まった。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「そういえばさ、時雨」

学校への登校中、おもむろに夏乃が口を開く。

 「凉なら委員長だけが集まる会議があって俺らより早く登校してるぞ」

 「それは知ってるんだけどさ」

普段なら隣にいるはずの凉が居ない事に疑問を持ったのかと考えた時雨だがどうやら違うらしい。

 「そのミサンガ、何で作ったって言ってたんだっけ」

 「ミサンガ?」

 「そう。左手首に巻いてるの」

夏乃に指さされ、左手に目をやった時雨。

そこでようやく思い出したのか、小さく頷いてから話し始めた。

 「これは確か、俺が子供の頃に履いてた靴紐で母さんが作ってくれたやつだな。あんまり気にしてないせいで忘れてたよ」

 「あはは。それで、その靴なんだけどさ。まだ、現物とかあったりするかな?」

 「現物か、どうだろうなぁ」

妙な事を聞いてくるなと思いながらも時雨はミサンガを貰った日の事を思い出す。

その時には確か、靴を捨てたとは言っていなかったはずだが。

 「……分からん。今日家帰ったら聞いてみたらどうだ?」

確信のもてない情報を伝えるべきではないだろうと考えた時雨は、より確実な答えが得られる雪花に聞くよう夏乃を促した。 

 「んー、やっぱそっか。おっけい。雪花さんに後で聞いてみる」

彼女も特に急ぐ理由が無いのだろう。

少し残念そうな顔をしながらも彼の言葉に頷いた。

 「けど、すっかり慣れたよな、夏乃も」

 「ねー。アタシもビックリするくらい居心地がよくってさ。いっそ住んじゃおうかなって思うくらい」

 「ははっ、それもいいかもな」

夏乃の提案に微笑みを見せる時雨。

同じ屋根の下で暮らす事で生まれるいくつもの衝突、それはいずれ無視できない障害になるだろうーーそう考えたりもした時雨だったが、元々彼があまり気にしない性格が幸いしたのか、分かりやすく両者がぶつかる事は無かった。

また、母・雪花との兼ね合いもどうかという不安もあったが、寧ろ二人の相性は良く、昨日の休日は時雨を置いて凉を連れた三人で出かけるなどの仲の良さを見せていた。

 「ホント、こんなに一緒でも平気だなんて思わなかったよ」

 「えー、何それ。まるで最初は駄目だと思ってたみたいじゃん」

 「そりゃあな。付き合ってないどころか会って数日の仲なんだから、不安に思って当然だろ」

 「アタシ、時雨のそういうドライなとこキラーイ」

 「俺はお前のそういう軽いとこ苦手だよ」

笑顔を浮かべたまま仲睦まじく進む二人は気が付けば校門の前まで来ていた。

 「っと、あそこに凉いるから行ってくる。また教室でね」

 「あぁ、じゃーな」

校門の入ってすぐくらいのところで凉を見つけ、急いで駆けて行く夏乃。

それと入れ替わりに、屋島が時雨の隣へとやってきた。

 「なんだ?浮気か?」

 「朝一の挨拶がそれかお前。家が近いだけだよ」

 「ま、そうだよな。あんだけの事しておいて今更鞍替えなんて…」

『あり得ないよな』と屋島が言い切るより早く、彼の頭に時雨の手刀が飛ぶ。

 「お前はあの時いただろうがっての」

 「いってぇ……。ったく、冗談だっての」

 「知ってるけど叩いたんだよ」

 「かー、酷い人ね、全く」

 「うるさい」

お互いに悪態を突きながらも決して離れようとせず、校舎へと向かう二人。

校庭には予鈴の鐘の音が鳴り響くが、まだ余裕がる。特に急ぐ様子もなく、時雨たちは校舎の中へと入って行った。




       ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー

 




 それぞれが席に座り、一限、二限、三限と授業が過ぎていく。

その間時雨は、可能な限り聞き耳を立てていた。

ショートホームルームや休み時間は勿論、授業中にされるような益体の無い話にも注意深く。

理由は勿論、夏乃のベランダに植木鉢を投げ込んだ人物に繋がる話を聞くためだ。

……けれど。

 「……では最後に、今週末にある花火大会についてだが」

ただの一回も、それに関するような話を聞く事は出来なかった。

 「当日は車の交通規制によって普段は車道になっている場所が歩道として扱われるそうだ。また、今回は市が少々力を入れているらしく観光客が来ることも予想される。恐らくは変質者も出るだろう、特に注意するように。

高二の夏だ。殆どの者が行くと思うが、くれぐれも気を付けるんだぞ」

結局のところ、今日もまた時雨は有益な情報を手に入れられずにホームルームを迎えていた。

相変わらず暑そうな服装の御山先生が手短に花火大会の注意事項を説明している中、時雨は僅かに不安を覚える。

 ーー今朝は確かにああ言ってたけどさ。

思い出されるのは登校中に夏乃の口にしていた『住んでしまおうか』という一言。

彼女の性格上、嘘を吐いてはいないはずだが。

 ーーとは言え、色々マズいよな、いい加減。

当人たちが納得していたとしても部外者たちが何と言うかは分からない。

 ーー向こうの両親はみんなで説得してどうにかして、そこさえクリアできれば学校側とも話はしやすいハズ。残る問題は、世間体……だよなぁ。

頭の痛くなる問題に時雨は机へ突っ伏してしまう。

 ーー余計な心配なのはそうだろうけどさぁ。

何であれ母の雪花と本人の夏乃が許しているのだ。心が擦り減るほどの大問題は起きないだろう。

 ーー何にせよ、いい加減手掛かり見つけないと。

この問題は幾ら思考したところで実はない。そう結論付けた時雨は気を取り直して再び情報収集に取り掛かる。

 「……連絡事項は以上だ。それでは皆は清掃作業に取り掛かるように。

それと時雨。お前は放課後私のところに来い」

 「……え?」

 「いいなーしーちゃん。放課後も御山先生に会えるなんて」

 「なんかやったの?時雨」

 「いや、別に何もないはずだけど……」

不意の呼び出しを受け、時雨の心臓が跳ね上がる。

 ーーまさか、夏乃との実質的な同居がバレたか?いやだったら……

 「ん?」

駆け巡る不安を押し掃うように前の席に座る夏乃を見る。

まるで何も不安などないといった顔で彼女は時雨を見て小首を傾げている。

 ーーそうだ。もしバレたんなら夏乃が呼ばれないはずがない。だから別件だ。

 「…はぁ」

 「え、何それ」

一先ず安心し、安堵のため息を漏らす時雨。

けれどそれを何と勘違いしたのか夏乃は僅かに眉根を潜めると、斜め後ろの席に座っている凉に向かって。

 「時雨置いて先に帰ろ」

若干怒ったように告げた。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー




 退屈な教室清掃も終わり、呼び出された通り職員室へと足を運んだ時雨。

要件が済み次第帰れるように荷物は全て持ってきている。

 「失礼しまーす」

 「ん、来たか時雨。早速で悪いが、私の車に行くぞ」

閑散とした職員室で一人席に座ってた御山先生は開いていたノートパソコンを閉じて時雨を促す。

 「迷惑かけてすまないな。急用、という程ではないが、出来ればすぐに解決しておきたい事案があってな」

 「はぁ」

御山先生の後を付いていき、職員用駐車場へと出た時雨。

以前にも乗った軽自動車を見つけ、迷うことなく乗り込んだ時雨はエンジンをかけてシートベルトを締める御山先生に倣い、いつ車が走り出してもいいように準備を行う。

 「以前、硲が泊った時、妹の雀が来ただろう?」

車が走りだすのとほぼ同時、御山先生が口を開く。

 「そうですね。とてもユニークな人だったと覚えてますけど」

 「ああ。ユニークかどうかは分からんが、覚えてくれているならいい。それでだ、その雀がだな」

言って、彼女の口が言い淀む。

 「……?」

 「…いや、何、少し厄介な事になっててな。お前には少し口裏を合わせて欲しいんだ」

 「……良く分からないですけど、俺でよければ」

どうにも歯切れの悪い御山先生の言葉に首を傾げながらも時雨は頷く。

……それが良くなかった。

 「…………という事なんだ。済まない、本当に済まない」

事の内容を聞き、しばし唖然となる時雨。

あと十分もかからずに御山宅に着く頃になって、やっと言葉を発せるようになった時雨は一言呟く。

 「んなベタな」

 「頼む…!」

御山先生からの心からの懇願。

これを見て・聞いてしまえば時雨が首を横に触れるはずも無く。

 「……分かりました」

渋々ながらも受け入れた。

 「ありがとう……!恩に着るよ!!」

 「あ、あはは」

あまりに想定外の事案に苦笑いばかりが込み上げてくる時雨。

しかし、一度受けると言ってしまった以上撤回は出来ない。

 「それで、問題の口裏合わせなのだが……」

喜びに満ちた表情で運転を続け、用意して来たのだろう作戦を共有するため御山先生は話し始める。

その作戦会議は御山宅に着くまで続けられ、車から降りた瞬間から実行する事となった。



        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「まぁ、予想はしてましたけどね。ねぇさん」

 「そ、そうか。それなら話は早いな!な、硲!」

 「そ、そうで…だね、燕!」

まるで居心地の悪いリビングにて、隣同士で正座する時雨と御山先生。

その正面には少しばかり渋い顔をしている雀が同様にして座っている。

 「一応、言っておきますけど、犯罪一歩手前ですよ、これ」

中央付近に配置されているテーブルへもたれるように身体を預けて爪先で突く雀。

理由は非常にシンプルだ。

 「教え子と付き合ってる、だなんて」

大きく……肺の中身をすべて出し切るほど大きく、雀はため息を吐く。

 「な、なにを言うんだ雀!今時十や二十の歳の差婚など珍しくもないだろう!」

 「それはお互いが成人していればの話です。それに、教師と生徒だなんて……はぁ。胃が痛い」

額を抑えて落胆する雀。 

 「…あの」

それを見て、これまで沈黙を保っていた時雨が口を開いた。

 「確かに褒められた状況ではないと思いますけど、先に好きになったのは俺なんで、燕を責めるのは筋違いかと……」

 「……硲」

おずおずと、けれど明確に告げる時雨。

だが、彼の言葉で雀はなおの事瞳を尖らせた。

 「だったら尚更です。ねぇさんは妹の私から見ても綺麗な人だと思います。なら、当然生徒から羨望の眼を集めてしまうでしょう。

ですが!それを拒み、教え、諭すのも先生であるねぇさんの務めであるはずです。

情熱的に言い寄られただとか、寂しげな瞳で訴えられたとか、関係ありません」

 「ぐ、ぐうの音も出ん……」

 「ですから、ねぇさんには母さんたちが用意したこちらの人とですね……」

そう言って、雀の背後から取り出されたのは白い板のような何か。

良く見ればそれは二つ折りにされている冊子のようなもので、開かれた中にあったのは……

 「……げ」

写真自体は非常に綺麗な、所謂お見合い写真だった。

 「こちらの人はあまり大きくはないですが会社を経営されている方で結婚経験は無し。年収も教師のおおよそ倍で、ねぇさんが望むなら今のまま仕事を続けても良いとおっしゃってます。家事等は家政婦を雇っているのでできなくとも問題ないのだとか」

写真の男の端的なプロフィールを述べる雀。

確かに、彼女の言ってる部分だけを聞けばかなりの好条件だ。

好条件なのだが……

 「す、雀さん?この人、何歳です?」

 「……それで、この方の趣味なのですが」

 「今、明らかに話逸らしましたよね?」

写真写りがいくら良いとはいえ、どう見ても五十は過ぎていそうだった。

 「……歳の差婚は関係ない、そう言ったのはねぇさんでしたっけ」

 「いやいやいやいや。この場合は[以前から認識があれば]でしょうよ。幾らなんでも話した事もない人にその理論はちょっと」

 「ですが、少なくとも時雨君よりは経済力がありますよ?」

 「だ、だとしても、流石にこれはどうなんですかね。だって、燕は二十四ですし、その人とは三十近く離れてるんじゃ……」

 「……歳の差だけで言えば四十、ですかね」

 「最早介護前提じゃないか。いいのか、貴女のねぇさんヘルパー資格取る事になるぞ」

あまりにもあんまりな事実に時雨の顔つきが変わる。

 ーー見合いの話が嫌だから恋人のフリしてくれって言うから驚いたけど、内容がこれなら納得だ。先方には悪いが、どうにかして破談にしないとな。

 「まぁなんにせよ、その人じゃ俺と燕の間に割って入るのは無理ですね。早々にお引き取り願うよう伝えてください」

 「へぇ、言いますね、時雨さん。何をどうしてそう言い切れるんでしょうか?」

覚悟を決め、真っ向から雀に挑むと決めた時雨は臆することなく例の作戦を進める。

対して、彼女もまた分かっていたと言わんばかりに彼の言葉を正面から受け止めた。

 「まず、第一に年齢。七つしか違わない上に俺の方が年下です。燕的にもその辺は嬉しいところでしょう。それに、俺が介護する羽目になっても、その逆は普通に年を取ればあり得ません」

 「その覚悟がある、と?」

 「勿論です。結婚してほしいとまで言った以上、その程度の覚悟くらいあります」

 「さ、硲?」

驚く御山先生に構う事の無い、時雨と雀。

御山先生の当初の予定では[付き合っている]と言うだけで、[結婚を前提に]とは予定していなかったはずだが…

 「後になってやっぱり嫌だと言う可能性もありますよね?」

 「いいえ。燕が担任になってから今日まで散々お世話になった恩返しです。愛に恩が加われば、出来ない事など無いのでは?」

時雨の中では既に、破談にするためなら手段を問わない、となってしまっているようだった。

 ーーし、仕方ないか?あくまで破談に出来れば、後はいつの間にか別れていた、ともできるし、最悪、卒業と同時に自然消滅とも……

想定外の流れに困惑する御山先生。あまりに不安を覚えてしまう状況に、自ら頼んでおいて恐怖すらしているが。

 「……いいでしょう。その覚悟は分かりました。けれど、経済面はどうなんです?今のままでは貴方は養われるだけの身。ねぇさんからも成績は芳しくないと聞いています。それなのにどうやって愛する人を楽させることが出来るんですか?」

 「そこも問題ありません。燕は教師であり、俺はまだ未来に展望する身。二人が合わされば、いかなる可能性だって生み出せます」

 「つまり、伸びしろがあるから大丈夫だと?二人で堅実にいかなければならない選択をするのに、それは少しばかり雑なのでは?」

 「……仮に職に就けなかったとしても、家庭を預かる者となれます。所謂、主夫ってやつですね。疲れて帰ってきた妻を労うのもまた夫の役目だと言えると思いますが」

どうも、その不安が明確になりつつあった。

 ーーこれ、別れたと言って雀や両親は納得するだろうか。

 「主夫ですか。成る程。教師は心的にも肉体的にも疲労が激しいですからね、それは良い事でしょう。しかし……」

御山先生の心など知る由も無く進められていく二人の会話。

それはいよいよ大詰めと言えるところまで来ていた。

 「一番の問題の、未成年との交際はどう説明する気ですか?それも生徒と教師。ねぇさんの経歴に多大な傷がつくのは目に見えていますよ」

最も大きな問題。それは、犯罪スレスレの二人の関係だ。

交際自体は法に触れない。だが、そこから少しでも先に手を伸ばせば当然処罰される。

しかし、世間的に見れば法に触れた触れないは関係なく、未成年と付き合っていると言うだけで犯罪者扱いされるだろう。

更に言えば御山 燕は教師だ。信用商売的側面もある教師が生徒と付き合っているなどとバレれば即座に懲戒免職モノだろう。

それが例え、清い付き合いだったとしても。

 「……それは」

言い淀み、口が重くなる時雨。

その隙を逃さず、雀は更に続ける。

 「時雨さんだって何度か目にしたことがあるはずです。ニュースやSNSなどで取り上げられた際の言われようを。確かに一部からは支持する声もあるかもしれません。でもそれはあくまで一切の被害を被らない部外者の無責任な言葉。実際に被害者の親ともなれば全く意見が変わるはずです。それに……」

 「……それが」

続けようとして、けれど時雨は強引に割って入る。

 「それが何だって言うんですか。他所の人間の感情が何だ。親の意見が何だ。それこそ部外者の無責任な言葉ですよ!

俺が生涯を共にしてもいいと思ったのは燕で、それ以外は所詮ただのモブ!口を開こうが息をしようが構いませんが、口出しなんて絶対にさせない!」

そうして告げられたのはこの上ないほどの明確な意思。

筋など通っておらず、理論など蚊帳の外に置いてきた子供の我儘だった。

 「……最後の最後でそれですか。時雨さんの子供っぽさには呆れますね」

 「だとしても、これが答えです」

目を細めて落胆したように肩を落とす雀の視線と、決して覆る事のない強い意志を宿した時雨の視線が交じり合う。

……そして。

 「負けました。そもそも、[結婚してほしい]というのもこちらの我儘でしたね。これを否定してしまえば、持ちかけてきたこちらには何も残りませんから」

吐息を漏らし、雀は敗北を口にした。

 「じゃ、じゃあ」

 「えぇ。二人の交際を認める……とは言い辛いので、知らなかった事にします。父さんと母さんには私から上手く言っておきますから、ねぇさんたちはそのまま清い交際を続けてください」

 「や、やったーーー!!」

明確な言葉を受けてやっと勝利を実感した時雨は両手を掲げて喜びを口にする。

 「やったね、燕!」

その余波は当然隣に座る御山先生にも行くが。

 「……燕?」

 「…………うるさい」

彼女は顔を赤面させてそう言うだけで、時雨と共に喜んだりはしなかった。

 「…悪い二人とも。少し席を外す」

 「え、燕?」

いそいそと立ち上がる御山先生に声をかけるも返答はない。

結局そのまま、彼女は部屋の扉から外へと出て行ってしまった。

 「……どうしたんだろう?」

 「……ふふっ」

残された時雨は御山先生が出て行った理由が分からず小首を傾げる。

その正面で、二人の交際を事実上認めたーー敗北したはずの雀は、何故か笑みをこぼしている。

 「あの、どうかしたんです?」

不安に思い声をかけるも返ってくるのは押し殺す笑い声ばかり。

 「……ううん、あのね」

少ししてやっと笑い声以外が返ってきたかと思えば。

 「ねぇさん、想定外だったんだろうなって」

 「………??」

良く分からない事を言ったっきり、何も教えてはくれなかった。


 

       ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー

        

     

 時刻は夕暮れ。

太陽は夕陽へと姿を変え、空は橙色に染まっている。

すっかり人通りも減った道を行くのは一台の軽自動車。

速くもなく、遅くもない、法定速度を遵守した速度で進むそれは、やがて一軒の家の前で停車する。

 「すいません、送ってもらってしまって」

 「いや、気にするな。今日は、助かった……からな。その礼も兼ねてる」

車内で会話するのは時雨と御山先生。

彼女に懇願された代理彼氏の務めも終わり、清い付き合いをしていると示すためにも遅い時間になり過ぎないよう彼女が送って行ったのだ。

 「それなら良かった。

流石にもうないとは思いますけど、もしまた必要になったら言ってください。まぁ、御両親への挨拶…とかだったらちょっと考えますけど」

 「あ、あぁ、そうだな。そうならないよう気を付けるよ。それじゃあまた明日」

 「はい、また明日」

妙に歯切れ悪く、どこか追い出すように時雨に別れを告げると、御山先生の運転する車は住宅街の方へと走り去っていった。

 「しっかし、疲れたなぁ……。役者ってこんな感じなのだろうか」

御山先生の異変に気付かない程疲労しているらしい彼はコリをほぐすように首を軽く回しながら家の扉を開ける。

 「ただいまー」

 「あ、遅かったね、時雨」

中に入ると、先に帰って来ていた夏乃と遭遇した。

 「うん、ちょっと呼び出しが長引いて」

 「あは、時雨バカだからこってり絞られたんでしょ」

 「まぁなぁー」

扉を閉め、靴を脱いだ時雨は夏乃と一緒に居間へと入って行く。

しかしそこには普段ならいるはずの雪花はおらず、ラップに包まれた一人分の食事だけが置かれていた。

 「母さんは?」

 「時雨が遅いから先にお風呂に入ってるよ。お腹空いてるならご飯先に食べてって」

理由を聞き頷いた時雨は温めた方がよさそうな料理を台所にある電子レンジへと運ぶ。

 「そう言えばさ、時雨」

 「んー?」

 「朝の話、あるじゃん?」

温め温度や時間を設定していると、先に椅子に座っている夏乃に話しかけられる。

内容は、今朝登校中にも話題になった時雨の左手首に巻かれているミサンガの事だ。

 「アレ、帰って来た時に雪花さんに聞いてみたんだけどさ」

 「あー、どうだった?」

レンジの設定を終え、スイッチを押して居間へと戻る時雨。

温める時間を少し長めに設定したので座って待つためだ。

 「それが、その、ね」

時雨家に来てから約一週間。既に無くなっていたと思われる恥ずかしさが僅かに垣間見えて口ごもる夏乃。

彼女の行動に疑問を覚える時雨だが、それよりも先に彼には気になる事があった。

 「なんか、目赤くないか?」

お互い、手を伸ばせば届くくらいの位置まで近づいたからだろう。夏乃の目元が赤っぽく腫れているのが分かった。

 「…………バカ」

 「は?」

 「ホント、時雨ってバカだよね」

途端、夏乃の目元が薄っすらと潤み始める。

 「人の気も知らないでさ、仲の良い友達みたいに振舞って。なのに、見ないふりしてほしいところは何でかちゃんと見てる」

それを拭う事も忘れ、困惑する時雨も無視して、彼女は更に続けた。

 「初めて会った時もそう。『自分なら大丈夫』って言い聞かせてる時にどこからか現れて、頼んでも無いのに助けてくれた。二回目も三回目も、今回だってそう。アタシが困ってる時にアンタはいつも助けてくれる」

頬を伝ってゆく溢れてしまった涙。

時雨はその意味が分からずただ茫然と見つめる事しかできない。

 「何で分かんないかなぁ。さっきまでアタシが泣いてた事は気が付いたくせにさ。凄い悩んで、一人で勝手に納得して、これじゃアタシが馬鹿みたいじゃん」

 「……まぁ、俺にはそう見えるな。申し訳ないけど」

 「サイテ―、目の前で女の子が泣いてるんだから助けなよ。あの日みたいに」

 「……あの日?」

僅かに口元を尖らせ、けれどどこか嬉しそうに口にする夏乃。

まるで思い当たる節が無いハズなのに、何故か時雨の中で妙な引っ掛かりを覚える。

 ーー俺が泣いてる人を助けた日?

直近の記憶ではない。勿論、夏乃の存在しない、知り得るはずのない中学校や小学校の時の事でもないはずだ。

あるとすれば、お互いの名を知らずに出会った事のある日。しかも、[泣いている子を助けた]という、忘れようもない記憶が残っている日。

……そんなモノ、時雨には一つしか心当たりがなかった。

 「蝶々結びが出来なかった、女の子?」

 「あははっ、ひっどい覚え方!」

十年近くは前の記憶。

ある、うだるように暑い炎天下の日の思い出。

 「けど、あれは……」

一人で出歩いていたのを怒られるのが怖くて両親にすら、雪花にすら話した覚えのないその話を、ましてや最近知り合ったばかりの夏乃が知っているはずがない。

 「なんで、夏乃が……?」

理由は分からない。でも、時雨はその事実に気が付こうとしない。

何故か、気が付いてはいけないと、どこかでブレーキをかけている。踏み込んではいけないのではないかと。

……それを。

 「どうして気が付かないかな」

夏乃は容易く足を踏み入れて。

 「その時の女の子がアタシなんだよ」

満面の笑みを湛え、時雨の手を握った。

 「ずっと探してた。一度忘れた気になっても、結局思い出したりして大変だった。自分でもどうなのかーって考えたりもしたけど、でもやっぱりって。

それでも変だと思って、やっと違う人を気になり始めたと思ったら、これだもん」

握られた手から伝わる暖かなモノ。

それが体温だけではなく、高揚する彼女の感情だと分かった時には、時雨の瞳に夏乃の顔が目一杯に近づいていた。

 「二回も惚れさせた責任、取ってよね」

一瞬の忘我が時雨を襲う。

我を思い出し、次に目にしたのは酷く顔を紅くして口元を押さえる夏乃の姿。

 「い、今、なに……」

言おうとした時、無機質な機械音が鳴り響く。

台所でレンジに入れていた料理が温まった音だ。

 「さ、冷める前に食べちゃいなさいよ!!」

 「いや、おい!」

時雨の制止も聞かず居間を去って行く夏乃。

その後を追おうか一瞬迷う時雨。

だが、何を話せばいいのかわからず、結局立ち上がった脚で料理を取りに行く事しかできなかった。

レンジの中で湯気の立っている夕飯を近くにあったタオルを使い熱を遮断してテーブルへと運び一人寂しく手を合わせる。

その間も思い出されるのは夏乃の言葉と行動。

それの意味するところは当然分かっている。

問題は、そう。

 「……そりゃ、味なんかしないよな」

明日からの接し方だった。




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 翌朝、時雨の目は自然と覚める。

理由は分からない。

けれど、何故か起きないといけない気がして、時計も見ずに一階へと降りて行った。

 「おはよう母さん、夏乃」

 「あら、今日はギリギリじゃないのね」

いつものように告げた挨拶。

当然、いつものように二人からの返事があるだろうと思っていたのだが。

 「あれ、夏乃は?」

あれっきり会っていなかった夏乃の姿が見当たらなかった。

 「夏乃ちゃんならもう学校に行ったわよ。なんだか、用事があるって」

 「……へー」

いつもの席に座りつつ雪花の言葉に頷く時雨。

しかし、その内心は複雑なモノだった。

 ーーなんだよ、それ。

もう何度目かもわからない昨晩の事が時雨の脳内で思い返される。

告白に相違ない発言、昔から想いを寄せていたという吐露、そして……

 「時雨君、顔赤いけど風邪?」

 「えっ!?」

タイミング悪く声をかけられ、時雨の心臓が跳ね上がる。

 「さ、さぁ?暑いとこにいたからじゃない?」

 「そう?ならいいけど。少し待っててね、ご飯用意しちゃうから」

 「わ、わかった」

若干訝しむも時雨の言葉を信用した雪花は朝食を用意するために台所へと向かう。

後姿を見届け、危機が去った事に安堵した時雨の思考を覆うのはやはり夏乃の最後の行動。

あれは間違いなく、キスだ。

 「……ドッキリ、とかなら身体張り過ぎだもんなぁ」

 「なにか言ったーー?」

 「いやぁーー?」

結局、この時の朝食もあまり味はしなかった。


 

        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー


 

 「か、帰った!?」

 「うん、ついさっきね」

悶々とした一日を終え、久しぶりに屋島と放課後に遊んできた時雨は帰宅早々雪花から耳を疑うような話を聞いた。

 「け、けど、まだ犯人分かって無いんだぞ!?」

 「それはそうだけどね。本人が帰るって言うなら、私達が止められる理由もないし」

 「それはそうだけどさ、けどちょっと急すぎるだろ」

既に日常の一部となっていた夏乃の靴が玄関に見当たらず不思議に思った時雨はワケを雪花に尋ねた。

そうして返ってきたのは、『夏乃ちゃんならマンションに送ったわよ』という言葉。

いつかは帰るだろうと考えてはいたものの、なんの予告も無しにというのは流石に予想していなかった時雨は当然不満を覚える。

 「それは勿論、義母さんも思ったわよ?けど、ねぇ……」

 「な、なに?」

言って、何故か顔をニヤつかせる雪花。

あまりにも思い当たる節があるせいで時雨の額に冷や汗が垂れる。

 「されちゃったんでしょ?告白」

 「うっ……」

待ってましたと言わんばかりの表情で、予期していた通りの返答を受けて時雨の肝が冷える。

焦りが表情に出ていたのだろう。雪花はここぞとばかりに続けた。

 「昨日の夜、急に時雨君の靴の事聞いてきたし、何か関係あるのかなーって聞いてみたら、案の定って言うか。そりゃあ、もう泊ってなんていられないわよねぇ?

いいなー義母さんも青春したいなーー」

 「か、母さんはもうしただろ!?」

 「なによー!いいじゃない別に!年をとればとるほど憧れるのよー!青春したい!青春!青春!!」

 「し、知るかバカ!!」

 「あ、バカって言ったわね!?」

雪花のあまりのテンションの上がりかたに困惑し、捨て台詞のように言葉を残して時雨は二階へと駆け上がる。

 「もー!落ち着いたら降りて来なさいよーー」

 「誰のせいだと思ってるんだ!!」

自室へと駆け込み、そのままベッドへと飛び込む時雨。

 「ふざけんな。まだ俺の返事聞いてないだろうが」

枕に顔を沈め、ぼそりと出てきたのはそんな言葉だった。


   


         ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー




 「……あれ」

時雨が自室へ逃げて来てから二時間ほどの時が経った。

ベッドの上で横になっていた時雨は、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 「……お風呂とご飯、やらないとな」

若干気怠さの残る身体を起こし、居間へと向かおうとする時雨。

その際、ポケットに入れっぱなしだったスマフォのバイブが反応した。

 「……夏乃!?」

取り出し、画面に映っている通知を見れば、そこには夏乃からの連絡を示す通知が届いていた。

逸る気持ちを抑え、誰が見てるわけでもないのに平静を装って通知を開く。

映し出されるのは数件分のメッセージ。

どうやら、寝ている間にも送られてきていたようだ。

 【急に帰ってごめんね。昨日、あんな事したからか分からないけどなんか、恥ずかしくなっちゃってさ】

 【でも、ちゃんと安全だと思ったから帰ったんだよ!それはホントだから安心してね】

 【昨日、あの後に大家さんから電話があってさ。『上の階の人が出て行った』って】

 【仕事の都合らしいんだけど、やっぱり、一番怪しいのはあの人かなーなんて思ってたし。それに、アタシがいなくなってからはそういう悪戯も無くなってたらしくて】

 【だから大丈夫だと思って帰った】

送られてきていた通知を読み、帰った理由をちゃんと知った時雨。

これだけ彼女の中で理屈が通っているのなら、雪花が言っていたように納得するしかない。

納得するしかないとは思いながらも不満はある。それでも、[分かった]と返信しようとすると、画面に新しいメッセージが表示される。

 【つきましては】

 【今週末の花火、一緒に、行きませんか……?】

 「…え」

時期だけを考えれば当然の、けれど、時雨にとってはこの上ない不意打ちになる一文。

 【…イヤだったら、別に、良いけど……】

 「なわけあるか!」

取って付けられたような一文に対し独り言を漏らしながら即座に文字を打ち込む。

 【勿論行く。絶対行く。なんならもう待ち合わせ時間とか決めよう】

メッセージを送信し、返信を待つ時雨。

だが、直ぐには返ってこない。

まるで一秒が永久にも思える一分が過ぎ、ようやくメッセージが表示された。

 【バカ】

ただ一言。

罵倒と呼ばれる単語のうちの一つに過ぎないはずのその言葉は。

 「……うるせー」

少年の心を舞い上がらせるのに充分過ぎる一言だった。



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 時は流れ、花火大会当日。

ここ最近の蒸し暑さも気が付けば幾ばくか良くなり、夕暮れから夜ともなれば比較的過ごしやすい気候となっていた。

そんな中で開催されるからか、それとも、以前に御山先生が言っていたように観光目的で来る人が多いからか、花火大会の会場はかなりの盛況具合だった。

 「……遅いな、夏乃」

スマフォに表示されている時計を見つつ、浴衣姿の時雨は小さくぼやく。

前日に待ち合わせ時間として設定していたはずの時刻からは既に十分ほど過ぎている。

 ーー浴衣、着辛いんだっけ?

以前、街頭のテレビで見た際に特集されていたニュースの内容を思い返しながら遅れている理由を想像する時雨。

そのニュースの中では確か、帯を巻くのが大変だと言っていたはずだ。

 ーー手伝いに行くか。

どうせこのまま待っていても仕方が無い。

そう考えた時雨は出店の立ち並ぶ通りを背にし、夏乃の住むマンションの方へと歩を進める。

幸い、会場からマンションまではそれほど遠くない。仮に混雑していても十分もあれば着くだろう。

 ーーしかし、人多過ぎだな。何なら夏乃の部屋からでもいいんじゃないか?

気を抜けばぶつかってしまいそうな人通りの中を苦戦しながら進む時雨だが、それも最初の数分だけ。

いつの間にか普段の通行量か、それ以下の人数としかすれ違わなくなっていた。

 「アイツ、どんなの着るのかな」

スマフォのやり取りの際には教えてもらえなかった夏乃の浴衣の柄に時雨は思わず想いを馳せる。

 「やっぱ派手な感じのやつなのかな。なんかこう紅色の花が咲いてる的な」

浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す、存在するかも怪しいような柄や色合いの浴衣。

中には奇抜過ぎて人目を引きすぎる物もあるのだが。

 「夏乃ならなんでも似合いそうだよなぁ」

恋によって盲目に落ちた彼の思考では導き出せる答えがそれしかなかった。

 「……ん?」

留まるところを知らない妄想を侍らせ、マンションの近くまでついた時雨。

正面には夏乃の部屋が見え、あと二、三分も歩けば到着するだろうという場所。

そこで時雨の眼は、マンションよりも先に妙な人溜まりを見つけた。

 「なんかやってんのかな」

五、六人が囲むようにして立つその場所。

何か声も聞こえるが声援や感動を示すモノではなく、何かもっと暗いモノで。

 「……血?」

人々の隙間から僅かに見える赤い液体のようなナニカ。

何故か時雨は、それに異様なまでに興味を引かれた

ーーーいや。

 「あ、あの」

ーーーそれは興味ではなく、虫の知らせと呼ばれるモノ。

 「ちょっといいですか?」

異常なまでに早鐘を打つ鼓動を無視し、ただ立ち尽くしているだけの人間たちを押しのける。

行くな。

止まれ。

見るな。

そう、耳の中で木霊する言葉も無視して、分け入る。

そうして視界に映ったのは。

 「………………夏乃?」

見開いた両目から涙を流し、仰向けで横になっている夏乃 眞結だった。

 「……お、おい、何してるんだよ」

傍に駆け下り、声をかけても返事はない。

 「なぁ、おいって!」

肩を掴み、抱き上げ、揺らしても、瞼はおろか瞳すら動かない。

 「なぁ!!」

三度目の呼びかけ。

そこで初めて、夏乃だったモノに動きがあった。


くてん。


重力に逆らう術を持たぬ無機物のように、安易に、簡単に、抵抗なく、夏乃の首は傾げ、頭がそっぽを向いた。

まるで、生きていないかのように、すんなりと。

 「……あ」

同時に、首元から漏れ出る液体。

赤黒く、ほんのりと温かさを帯びた液体は、所謂血と呼ばれるものであり。

 「なんだよ……これ……」

座り込んで彼女を抱きかかえている時雨の周りには、致死量に足るだけの血液が溢れていた。

 「だ、誰か、救急セット持ってる奴はいませんか?」

辺りを見渡し、ただ突っ立っていただけの人々に向かって助けを求める。

 「絆創膏でもいい。この際タオルとか、帯とか、何でもいい」

動くたびに小さく響く液体の滴る音。

 「なぁ!誰も持ってないのかよ!」

呼びかけても返事はない。

木偶のように立っているだけの彼ら彼女らは、皆思い思いに口を抑えたり目を逸らしたりしているだけで、時雨の助けになりそうな事など何一つ行わず、ただの一声も発さない。

 「なぁ!!!!」

 「ど、どうかされましたか!?」

再三の呼びかけで、やっと返ってきた返事。

それは人を押し分けてやってきた制服警官だったが、今の時雨にとってはそんな事どうだっていい。

 「こ、これ、夏乃が……あ、いや、俺のかっ…友達が、大怪我……?してるみたいで、それで……」

回っているのか回っていないのか分からないろれつで時雨は状況を説明する。

とても冷静でいられるはずのない、事実彼の頭の中では様々な思考がごちゃ混ぜになっている中で、何故か、どうしてか、ただ一つだけ気が滅入るほど明確に、ある単語だけが浮かんでいた。

 「…………死んでる、のか」

それを口にした途端、時雨の意識は糸が切れたように、ぷっつりと、途絶えた。




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 それからの日々は時雨にとって実のある時間だった。

ーーー否。

実のある時間にしなければならない日々だった。

あの花火大会の日。

彼の友人だった夏乃 眞結は何者かによって殺された。

死因は出血性ショック死……俗に言う、失血死だ。

その人物の体内に流れる約二分の一の血液が体外に流出する事で起きるそれは、彼女の頸動脈が鋭利な何かで切り裂かれた事によって起きた。

 後日、事情聴取の際に夏乃の死因を聞いた時雨は四日間だけ学校を休んだ後、ごく普通に登校を始めた。

夏乃の存在しない初めての朝は一人で、以降は必ず凉と共に登下校を心掛け、時雨は学校に通い続けた。

遅刻せず、素行良く、勉学に励みながら、日常を過ごした。

十三日間は奇異の目に晒されもした。

一部からは陰口も叩かれていた。

殆どの学生、教師からは避けられるか、何の役にも立たない励ましの言葉を掛けられたりもした。

つまるところ、以前と同じ生活をおくらせてくれたのは、屋島と凉と御山先生、それに雪花だけだった。

けれど、時雨にとってはそれでよかった。

元々、彼の世界で存在感を示していたのはこの四人だけだったのだから。

……ただ、後から入ってきた存在が大きすぎただけで、元々はそれだけだったのだから。

 更に一週間が経って、時雨の手元に一枚のプリントが渡される。

教壇に立つ御山先生が言うには進路調査票という物だ。

記入欄が三つあり、上から第一志望となっている、生徒の今後の相談の指標となる紙。

殆どの学生にとっては悩みの種になってしまうそれを、時雨は迷うことなく書き埋めた。

 そうしてニ年と二十八日後。

時雨は第一志望にしていた警察学校を卒業し、警察官となった。

その期において最も優秀な成績を収め、引く手数多となった彼は、しかし頑なにそれらを拒んだ。

何故断ったのか。

理由を知る者は同輩や上官を合わせてもごく数名しかいない。

中でも、唯一同輩で知っている者が居た。

十ヶ月間同じ寮で苦楽を共にしてきた日向 秋華だ。

時雨に次いで優秀な成績を収めていた彼もまた多くの場所から誘いを受けていたが拒否し、彼と共に同じ場所への配属を希望した。

この人物もある秘密を抱えているが、明かしているのは時雨と一部の上官だけであり、そういった共通点からも二人の親睦は深まっていた。

 やがて警官学校を卒業し、希望した場所ーー時雨の住んでいた地方交番に配属された二人は、そこで初めて、警察になると決意した目的を行動に移し始める事が出来た。




______________________________________



 「やっと、ここまで来たな。硲」

 「……あぁ」

 時はいつかと同じ、比較的過ごしやすい夕暮れ。

ある、みずほらしい一軒家の前で、制服に身を包んだ二人は立っている。

 「大丈夫、邪魔は入らない。処罰が軽くなる方法も用意してある。外も私が見張ってるから、行ってきな」

 「……本当、何から何まで悪いな、秋華。いい加減惚れそうだよ」

 「冗談。私は男って事になってるんだからやめとけ。署に行った時に立つ瀬が無くなるぞ?

……それに、お前は」

 「いいんだよ。浮気にすら出来ないんだから」

 「……そうだな」

数言交わした二人は、ただそれだけで覚悟を示し合う。

 「行ってくる」

 「行ってらっしゃい」

言い終え、家の扉を開ける時雨。

僅かに立て付けが悪く、歪な音が辺りに吸い込まれていく。

 「……暗いな」

外から射し込む夕陽だけが照らす薄暗い玄関に入り、中へと脚を踏み入れる。

家屋内に人の気配はある。だが、くつろいでいるでも、緊張を張り巡らすでもない感覚だ。

 「……すみません、派出所の者ですが」

立ち止まる事無く呼びかけながらリビングらしき部屋の扉を開ける。

 「……酷いな」

中を覗き、最初に時雨が目にしたのは幾つものゴミ袋だった。

鼻を刺す異臭に小さく眉間を寄せながら、時雨はリビングの右側に置かれているソファ近くで座り呆けている一人の男に向き直る。

 「札木 佐久だな?」

 「………えぇ」

呼びかけに応じた男は、生気のない声で返事を返す。

 「あんたに聞きたい事がある。答えてくれるか?」

最早脅しと変わらぬ意思を持っての質問に、けれど、男は素直に頷いた。

それどころか。

 「三年くらい前の事件の事ですよね」

自ら心当たりを口にした。

【三年二か月と三日だ】

 「…………ああ」

そう喉奥から出そうになる言葉を飲み込み、男に頷く。

 「……やったのは、俺です」

問い詰めるまでも無く、弄り痛めつける事も無く、あっさりと男は自供を始めた。

 「魔が、差したんです。家族と花火を見る為、先に場所取りに向かった私は、途中であの少女を見かけました。

……妻にも負けない程、可愛らしい人でした」

鼓膜を揺らす声に、時雨は咄嗟に男の胸ぐらを掴む。

 「お前の感想なんて聞いてない。何をやったかだけ言え」

警察学校で、己の家で鍛え続けていた時雨の力に、男は成す術無く頷く。

 「…………それで、声をかけたんです。

悪質な行為だと分かっていました。それでも、我慢できずに」

 「……それで?」

 「それで……逃げられそうになりました。でも」

 「でも??」

 「……後ろから………押し倒しました」

 「なんでッ!!」

これ以上無い明確な証言に、時雨の感情は沸点を迎える。

 「…………何で、それだけでやめなかったんだよ、クソ野郎……!!」

けれど彼はそれを可能な限り抑え、出来る限り人間らしい言葉を使い、男を問い質した。

 「なんで、押し倒すだけで満足しなかったんだよ、えぇ……!?アイツは学生で、若くて、可愛かったッ!だから襲いたくなったんだろ!?それは分かる、納得できなくても理解は出来る……!

でも、だけど!殺す必要はねぇだろ!?」

三年二カ月と三日間。

それだけの長い長い時間の中で、導き出した最も優しい言葉を、時雨は吐き出した。

 「アイツは、ちょっと口が悪くて気が強かったけど凄く優しい奴だった。だからきっと、押し倒されたとしてもニ、三回殴るくらいで済ませてくれたはずだ。

なのにテメェは、一発で脳震盪が起きるくらい強く押し倒した。だから防御創が無かったし、抵抗した様子もなかった。その上でお前はお前の変態性の為だけに首を切ったんだろ?ヤる事もヤらなくても、ナイフで女性を傷つけると性行為出来た気になるんだろ!?知ってんだよ、知っちまったんだよ……!ふざけやがって、ふざけやがって……!何がサディズムだよ、クソゴミが…!植木鉢だってそうだ。お前みたいなのはあらかじめ、自分にしか分からない方法でマーキングするんだろ?それで、そのマーキングに対して対策を怠った相手を、お前は標的として襲うんだ。御山先生の家には俺が何回か出入りしたからな、ビビッて手出しできなかったんだ。学生の俺にすら怯えて、テメェの中でか弱いと固定化されてる女性だけを襲うために選択肢から外して!その点、夏乃は暫くしてから帰ってきた。だから決めたんだろ?俺と関係が深くなってるのも知らずに!!」

言葉と共に漏れ出る嗚咽と声。

知らぬ間に溢れていた涙のせいで、今の彼の声は怒りよりも悲しみが多く籠められているように聞こえてしまう。

だが、それでも、今この場にいる時雨の原動力は、今までの支えになっていたモノは、紛れもなく怒りだ。

 「……なぁ、その時に使ったナイフ、まだ持ってるんだろ?お前は殺した相手からじゃなく、殺しに使った道具を戦利品にして大切に保管するタイプの異常者なんだろ?

それ、持って来いよ。待っててやるからさ」

それまでずっと掴んでいた胸ぐらを離し、時雨は男に提案する。

 「そしたら襲ってきてくれていいんだぞ?どうせそうなるように仕組んでテメェを撃ち殺すんだ、遠慮なんてしなくていい。運よく俺を殺せれば好きに逃げてくれて構わない。お前みたいなゴミにだって助かるチャンスくらいあげないとな」

二階にあると思しき凶器を取りに行けるよう道を開けて催促する時雨。

彼の中では、男は当然取りに行くだろうと踏んでいた。

でなければこの場から生きて帰れなくなると、他ならない時雨が言っているのだから。

けれど、男は呆けた顔をして、自分を殺すと言ってきた男に対して疑問を投げかけた。

 「……死んだんですか?首を、切られて………?」

 「……………は?」

全く想定していなかった返答に時雨の脳内の一切が白く埋め尽くされる。

思考など、出来るはずがない。

よりにもよってこの男は、あろう事か自身の行った行動を覚えていなかったのだから。

 「てっ、テメェ……!よくもそんなふざけた事を!」

言いながら、徐々に色を取り戻し始めている脳内で、幾つかの考えが浮かび上がっていく。

 ーー行われた場所はどこだった?少ないとは言え、花火大会の日だったんだからいつもより通行者が増えているはずのあの場所か?

否。

 ーーいくら何でも誰にも見られず、気が付かれずに出来るのか?花火が始まる数分前でさえ五、六人も集まっていたのに?

思考が、満ちていく。

 「大体、おかしいだろ!押し倒したんだぞ!?頭を打ち付けて死んだって……」

 ーーいや、脳震盪の形跡はあったが直接の死因じゃない。死因はあくまで鋭利な刃物で切断された頸動脈からの出血による失血性ショック死。頭部外傷などが理由じゃない。

【あり得ない】と、除外していた問題点が今頃になって再び満たされていく。

 「だったらあれだ、お前の中にある変態性だ!それが暴走して……それで……」

 ーーなら何故、この家族から虐待の報告が無かった?妻がそれを望んでいたから?だとしたら、完璧な支配関係が構築されているはずだ。離婚なんてあり得ない。

 「じゃ、じゃああれだ……!お前は、本当に魔が差して、それで……」

言いながら、これまでの考えを否定し、次第に言葉を失っていく時雨。

あれほど流していた涙も既に消え、溢れ返っていた怒りも鳴りを潜め。

 「……殺してなかったのか?気絶させて、そのせいで自分のやった事に恐怖して……?」

時雨は、膝から崩れ落ちた。

 「……なぁ、それ、で……合ってるのか?」

呼吸をしても自然に吐き出せず、言葉を発する事によって空気を消費する時雨は佐久に尋ねる。

 「それも、少し違います」

 「……え?」

けれど、返ってきたのは素直には飲み込めない返答。

 「押し倒したのは路地裏で、確かに、何をしたのかに気が付いて怖くなりました。でも、俺はその場で固まってたんです。どうすればいいのかが分からずに」

 「じゃ、じゃあ?」

時雨は佐久の言葉を遮るように聞く。

それに対し、僅かに目を見開いた佐久は、唇を震わせながら続きを口にした。

 「どうしたらいいか分からずにいた俺は、どこからか聞こえてきた男の声で我に返って、急いで逃げたんです」

 「路地裏で、聞こえてきた声……?」

 「……はい。まだ若めの、貴方より少し歳を取ったくらいの男の人の声、です」

佐久のその言葉は時雨に届かない。

彼は今、夏乃が部屋を借りていたマンション付近の地形を必死に思い返していた。

 ーー確かに、あの辺には一つだけ裏路地がある。けど、あそこは人が二人並んで通れるかどうかくらいの場所で、下水管工事でもなきゃ滅多に人なんか通らない。知ってる人間だって、一部の業者かマンションの住人。後は……

交番勤務になってからの十ヶ月間。

やっと手に入れた、何を尋ねられても言い訳の立つこの立場を時雨は、秋華と共に夏乃の事件を可能な限り調べ上げた。

その結果得られた情報と照らし合わせ、最も犯人と思しき人物が札木 佐久だった。

その日に一人で行動し、その後唐突に音沙汰の消えた人物に該当するのがこの男だった。

だから二人は佐久を犯人だと判断し、今日この時を迎えたのだ。

……だが、同様にして。

もう一人だけ、疑問の残る行動を取っている人物がいた。

それは、佐久が言うように男で、当時の年齢を鑑みれば時雨とそう遠くない年齢であり、裏路地を知っていてもおかしくない者。

 「…………はは」

辿り着いてしまえば、どうと言う事は無い。

調べ始めた当初から答えは示されていたのだ。

 「ははっ、ははは!ははははは!!」

確かにあの男なら刃物を持っていてもおかしくない。

狙い違わず、失血死が起きるほどの切断を簡単に行える。

恐らくは時雨と同じ機関でそれを習っている。

その上バレたとしても、言い訳が立つ。

 「……硲?」

時雨の笑声に混じって、部屋の入口の方から声が聞こえる。

発したのは、外で待っているはずの秋華だ。

 「遅い上に、笑い声が聞こえてくるから心配になってきたんだけど……」

秋華の声は時雨には届かない。

今、彼の脳内を埋め尽くしているのは例の男。

佐久よりも、何倍も安全に行為を行え、服に血が付いていたとしても言い逃れの出来る男。

その男は。

 「………あいつかよ」

前任の派出所警官だった、時雨が夏乃を抱きかかえていた時に現れた、あの男だ。

 「そうかよ、そうかよ。俺と同じ理屈で警察になったのか。この立場なら、何やっても見聞きした奴が勝手にいいように解釈してくれるから……!!」

 「硲?急にどうしたんだよ」

 「……あぁ、秋華か。どうしたんだよ、こんなとこに来て。

笑いに来たのか?」

 「何言ってんの?それより、犯人の佐久……は………!」

秋華が後ろにいる事に気が付き、時雨は彼を見て、意図せず自虐的な笑みを浮かべる。

だが、その理由を知る由もない秋華は当初の目的通り、見つけた佐久に銃口を向けた。

 「……やめてくれ。これ以上は、もう、いい」

 「……!?」

だがその銃口を、他でもない時雨が床へと押し下げた。

 「硲、何言って…」

 「やめろってんだよ!!」

 「……!!」

秋華が状況を飲み込めるだけの情報も与えず、時雨は彼を怒鳴りつける。

 「もう、やめるんだよ。こんなのは」

 「……………………分かった。硲がそう言うのなら、私は何も言わない」

納得は出来ない。

けれど、人生を賭してまで執心していたはずの、男の殺害を当人が拒んだ。その異常性だけで、秋華が引き金から指を離すのに充分だった。

 「なら、こいつはどうする?」

秋華の問いに、時雨は口をつぐむ。

彼の目的は、夏乃を殺害した犯人を自らの手で殺す事だった。

そのために、今日までの日々を生きてきた。ただその一点の為だけに、今日まで、ずっと。

可能な限りの方法で、ありったけの時間を使って、そうやって見つけたのが今目の前にいるこの男だったのだ。

だが、蓋を開けてみればどうだ?

確かに夏乃が殺される要因の一つを作った人物ではあるかもしれない。だが、殺してはいない。殺してはいないのだ。

ならば、時雨の中に蟠る涅(くり)色の殺意は?この男にぶつけるべきか?

否。

それは、時雨の中では、断じて否だった。

 「……後で、派出所に来てもらおう。自首してもらって、この事件の事を洗いざらい、話してもらおう。

そうしたら後は署に連行して、それで」

 「……それで?」

 「向こうに全部、任せよっか」

時雨の口からその言葉が出た瞬間、彼の全身から完全に力が抜け落ちた。

 「硲が、それでいいなら私から言う事は何もない」

 「……良くはないけどさ。俺じゃもう、ダメだろ……?

あの日から今日までを全部賭けて、追い詰めたのが犯人じゃなかった。そんな奴が、これからもう一回復讐しようとしたってさ、上手くいくはずがないだろ」

怒りも無く、涙も無く、どこか遠くを見上げたまま、時雨は諦めを口にする。

協力者である秋華の前で、臆面もなく吐露する。

 「……って事です、札木さん。先程までのいわれのない侮辱の数々、お許しください。貴方は、きっちりとした場で法の裁きを受けますし、素直に全部話してくれれば情状酌量の余地が認められて刑が軽くなるかもしれません。

ですから、明日か明後日にでも派出所に来てください。俺か、コイツがいるはずですから」

ふらりと、力なく立ち上がり、言葉を残した時雨はおぼつかない足取りで部屋を出て行く。

先程までの激昂が嘘だったかのように、静かに、何事もなかったかのように。

 「………来なければ私がお前を殺すだけだから、無駄な事しないように」

次いで、札木に忠告を残して秋華が部屋を出て行く。

途端に静まり返ったリビング。

呆然と立ち尽くし、己が犯した罪の重さを本当の意味で理解した札木は一人その場で膝を折り、床に額を擦り始めた。

届きようもない謝罪の言葉を、喉が枯れるまで発しながら。



______________________________________


 後日。

時雨の告げた期間までに派出所へと出頭してきた札木は、彼に言われた通り全てを話した。

不備なく連行され、再開された夏乃の殺人事件の捜査は滞りなく進むかのようにも思われたが、容疑者が当時の派出所警官だとなった瞬間に難航し始めた。

時雨と同様に、無条件に信用してしまっている捜査官が多かったのもあるが、それ以上に何の役にも立たない仲間意識が元凶だった。

 半年後。

事実上停止していた事件の捜査に、動きがあった。

身内に庇われていたはずのその元派出所警官が転属先で些細ないざこざを起こしたらしい。

本来なら始末書程度で済むはずだったこの事件だが、偶然にも被害にあった警察官が夏乃の事件の事を知っていたために事が発覚した。

仕返しも兼ねた家宅への侵入。その際、被害者側の警察官が屋根裏の部屋で見つけたのが他でもない、夏乃の頸動脈を切断したナイフだった。

ナイフを包んでいる白いはずの布は赤黒く乾燥し、明らかに異臭を放っている。

屋根裏にあったのはそれだけではない。

彼がその時目にした物だけでも四本。同様に赤黒い布に包まれた何かがあった。

それが決定的な証拠になり、元派出所警官のその男は逮捕された。

 …………そうして今日。男に、死刑が言い渡された。

 


        ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー



 「眠れないのか?硲」

 「…秋華か。蒸し暑くて、ちょっとな」

 深夜、中天よりも西に傾いている半月を縁側で見上げている時雨の元に、秋華が現れる。

寝間着に身を包み、明るい時間帯ならば結って留めている肩先まで伸びた黒髪を下ろした姿で、隣へ座った。

 「月を見るのもいいけど、明日は三船さんと屋島さんが来るんだろ?ほどほどにしろよ。雪花さんだって寝てるんだし」

 「……ああ。それもそうだな」

秋華に返事を返すも動く様子はない。

時雨はただぼんやりと、変わらず月を見上げている。

 「…………」

 「…………」

暫くの間、二人の間に会話はなかった。

 「なぁ、秋華」

更に月が西へ傾き、叢雲が月光を覆う時になり、ようやく時雨が口を開く。

 「本当に、これでよかったのかなぁ……」

しぼんでいく風船のように力なく口にした時雨に、秋華の返事はない。

それでも構う事無く時雨は続ける。

ただの独白となった想いの吐露を、続ける。

 「あの時まで、俺はずっと、復讐するのが夏乃のためになると思ってた。でも、結局俺じゃどうにもできなくて、三年もかけたのに別の奴を犯人だと思い込んでて、そこで他に任せたら、一年も待たずに本当の犯人が捕まって。

……俺のせいで、解決が長引いたんじゃないのかなぁ………」

僅かに上ずる声を殺し、時雨はとうとう口にしてしまった。

最もあってはならない、自分の取った行動が裏目に出てしまったのではないかという疑問。

それを否定できる者など、この世のどこにもいるはずがない。

明確な答えが無い限り、どう足掻こうとも証明できるはずがないのだから。

 「………違う」

けれど秋華は、全てを理解した上で、彼の不安を全て否定した。

 「確かに硲は遠回りしたかもしれない。けど、あの男が捕まったのは、署の人たちが捜査に乗り出したのは、硲と私が見つけた男が自首するよう仕向けられたからだ。

それだけは間違いない」

自分の顔を見開いた眼で見つめてくる時雨に言い切り、肩に手を回す秋華。

彼を抱き寄せ、秋華はもう一言だけ告げる。

 「だから硲は夏乃さんを好きでいていいんだ」

時雨が、捨ててしまおうとしていた優しい想いを。

 「……そっか」

時雨の口から言葉が零れ落ちる。

鼓膜を揺らした秋華の言葉が、もうすっかりすり替わってしまっていたあの感情を時雨に思い出させる。

 「…………俺も、好きだったんだよ。バカ」

 「ああ、そうだな」

薄らぼんやりと明るい闇の中で、どこにも届かない声が染み渡って行く。

どこまでもどこまでも一途だった想いが、本当は結ばれるはずだった想いが、闇の中で霧散していく。

 ーーどうやっても解けてはくれないんだろうね、その紐はさ。

胸の中で泣き続ける時雨を柔らかく抱きしめ、秋華は空を見上げる。

月を隠している叢雲はまだ晴れてはいない。

………それでも。

 ーー大丈夫。硲の想いは届いているから。

いつかの日のように、時雨の行動は夏乃の無念を救ったと、秋華は信じていた。


    

______________________________________

  


 季節は夏。

数日後には黄泉との道が開かれる盆がある。

そこで時雨は初めて、彼女に想いを伝えられた。

昔のまま、爛漫な笑顔を浮かべた遺影の前で。

あの日まで他の誰も好きになれなかったのは、夢にまで見ていた誰かさんをずっと想っていたからなんだ、と。




 end.

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蝶々結び カピバラ番長 @kapibaraBantyou

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