第72話 西晋の王濬

王濬(おう・しゅん)

 王濬は2千石(太守)格の官吏の家に生まれた。幼くして博覧強記であり、知識はなはだ豊富、長じて人となり俊英であり、また翩々たる美男子でもあった。彼は放蕩不羈であり、功名を求めるところがなかったので郷里の古老たちからへそ曲がり者と指弾されたが、やがて彼は行いを改めると胸杯に大志あり、闊達にして度量広く、国のために功を立てんと図り、名を世に建てんとする大丈夫となった。彼はのち、自宅を修築したが、そのとき大門を広げて十歩の広さに作り変え、隣人が訝しんでそんなに広くしてどうするのか、と問うと王濬は将軍の儀仗として戟や旗を掲げるからには、当然の広さだろうと応えた。多くの人々が王濬の大言を笑ったが、王濬は「陳勝もよく言ったものだ、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや、と」うそぶいただけだった。


 のち、王濬は召されて河東従事となり、法を厳守したが、境内の郡守、県令に汚職が横行したので職を辞した。のち、王濬は参軍として尚書僕射・羊?の南征に従軍、羊?は彼の軍事的才能を賞賛しまた重く用い、車騎に昇進させて巴郡の太守となした。巴郡は呉と国境線を接し、両国常に打撃の地、兵役、夫役は頻繁に行われ、人民は苦しみ任に堪えず。苦役を逃れ、多くの人が生まれた子を棄て、養育の義務を放棄し、これは長期的な視点で見て疑いなく国の損失であった。王濬は任につくと堅忍不抜の覚悟で改革に取り組み、彼は厳密な徭役の徴発制度を制定すると同時に軍人による強制的な徴発を厳禁し、また奸吏を罰して弊民を慰撫し、さらに徭役と課税に関して一定の上限を定めた。これによって子供たちを口減らしする必要もなくなり、命を保全された子供たちは数千数万にのぼった。彼が巴郡太守であった期間、境内は安定し、民は非常に王濬への好感を持った。


 泰始8年(272)、王濬は広漢太守に転任。当時益州の軍官張弘が叛乱を起こしており、益州刺史の皇甫晏を殺害した。王濬は主簿・李毅の勧めで朝廷の命なくして軍をすすめ、これを討伐。朝廷はこれをはなはだ嘉し、即時彼を後任の益州太守とする。張弘の乱平定の功をもって、王濬は関内侯。益州にあって淫祀を禁じ、教化を奨励し、西南の少数民族に対しては恩威を併用して対処にあたった。現地の百姓はこぞって帰服し、王濬は傑出した政績をもって右衛将軍、大司農。


 車騎将軍・羊?は当時呉伐の議をおこし、その中で王濬の智謀人にすぎることを上奏に書き含め、王濬を益州鎮守から呉伐の大計に参与させるべく説いた。晋の武帝(司馬炎)は羊?の建議により、改めて王濬を益州刺史、監益州諸軍事、加えて竜攘勝軍となし、巴蜀の地で大量の船を建造、水軍を練兵するよう命じた。詔を受け、王濬は皇上の期待通り廃船を修築し、滅呉戦における最重要戦力の提供を担った。


 当時の造船の規模の大きさはその工事の木くずが長江を下り、川面を埋め尽くしたほどであったという。これを見た呉の国では上流で未曽有の大船団が建造されていることを察し、晋国が呉を滅ぼさんとしていることを知る。呉の建平の守将・吾彦は川面から救い取った木くずを取って呉主・孫晧に呈上、晋国の侵略を告訴して建平に防衛線を敷き、敵が勢いに乗って長江を降りきる前に阻みとめることを請うた。大将・陸抗もまた重ねて進言し、建平、西陵防備の重要性を解いた。これにより江上に鉄柱と鉄網、そして何個所かの防衛施設が敷設されることとなる。


 王濬は呉伐の準備を進めると同時に、晋朝内部における呉伐の是非に関する激化する論争に参加。この時期一貫して呉伐を主張していた元老の羊?が死に、朝廷には張華、杜預、王濬ら小人数を除いて呉伐の推進者はいなくなる。反対者は賈充、荀?らであり、こちらが多数派を占めた。ために武帝は一時決心を揺らがせる。


 咸寧5年(279)4月、王濬はまた上書して呉伐を乞い、言辞切実に理路整然と説いた。彼曰く、いま孫晧は荒淫無道であり、人心はかれのもとを去っていること、もし今を逸して孫晧が死んでしまえば新たに賢君が呉に立ってしまい、晋の強敵となって倒すこと容易からずとなることを説いた。これに張華、杜預があいついで上表をかさね、呉を滅ぼすべしと説いたので、武帝はついに呉を滅ぼす決心を決める。11月、武帝は亡き羊?の策を容れて20万の大軍を6路に分けて呉に侵攻の師を発し、王濬は水軍の主力を率いることとなった。


 寛寧5年12月、王濬は成都を進発、率いる兵は巴蜀の7万、江に沿って下り、向かうところ呉の建平守将・吾彦が造って長江流域に渡した鉄鎖と鉄網に阻まれた。鉄鎖で船団の動きを止め、鉄杭が船底に穴を開けて晋の水軍を撃滅するはずであったが、王濬は状況を察知するとひそか兵に鉄鋏を持たせて水中に潜水させ、網と鎖を斬る。そして船団が足を取られている間に数十の大いかだを進発、これに鉄の外甲をかぶせ、兵器を持たせて先行させた。林立する鉄杭の間をいかだは快速で走り、しかるのち船団の上から王濬は鉄杭に火をかける。高さ10余丈、はば10囲におよぶ炎はさらに油を注がれて火勢を増し、鉄鎖を焼く。そこに工兵隊を江中に投入、焼け溶けた鉄鎖鉄杭を切り裂き、ついに船団の動きを阻むものはなくなった。


 呉軍では晋軍がこの障碍をとりのぞくにはかなりの時日を要するとみて、援軍の派兵が遅れた。王濬の水軍は地の利を得て進み、王戎、胡奮ら各路の軍を合併して江東に入り、呉の都建業を直撃する。孫晧は遊撃将軍・張象に水軍1万を与えて晋軍を防がしめようとしたが、ようやく建業から遠くないところに到着した晋軍を見た張象は晋軍の兵威や長江を満たす軍船の数に圧倒され、中るべからずとついに部下を率いて投降した。このとき司馬?、王渾ら晋の諸将が一斉に建業に殺到、孫晧と太子、そして諸王及び群臣は王濬が軍門に到着すると古来よりの投降の儀式にのっとり、後ろ手に両手を縛ると死衣をまとい、棺を前にして王濬に投降した。王濬は自ら孫晧の縛を解いてやり、棺に火をつけて孫晧の降伏を受け入れた。また、かれはこのとき人を派遣して呉の典籍保護にも尽力しており、倉庫に封印を施し朝廷の処理が入るのを待った。


 呉を平定した王濬だが、戦後にやることは愚者の蠢動に終始した。功を争う彼が朝廷に自らの功績を上表し、その証拠として呉の大将孫?の首を朝廷に送ると、杜預がおなじ孫?を生け捕りにして献じたので、洛中の人々は大笑いしてやまなかったという。このことは王濬という人物の功名心、利己的な性格をよく表す。また、建業侵攻の直前、彼と争って罪を着せられたのは王渾だった。


 王渾は王濬と一緒に呉伐の命を受け、当時彼の任地は呉から遠かったので、速やかに呉に突入できるよう牛渚にあった呉の新任丞相・張悌、護軍・孫震らの呉軍主力を攻めて撃滅する大功を立てたが、このとき彼は後れを取って進むことができず、やむなく勝ちに乗じて建業を衝く王濬の軍後に合流した。翌日、彼はようやく建業に入ったが、この日の晩に孫晧は王渾ではなく、王濬に降伏してしまう。功を盗まれたと王渾の心には怏々たる炎が燃え、武力をもって王濬を除き去ろうと画策、これに対し王濬は孫晧の身柄を護って退避し、この場の問題を当時秣陵武に来ていた帝司馬炎に言上。このとき王濬の軍は三山の江面にあり、王渾が王濬の船団前に立つと「風に利あれば泊まるもやむを得ず」と王渾に敵対の意を表明し、攻撃した。軍を率いて建業を落とした功績の一等は王濬のものとなり、ここにおいて王渾、王濬の対立は決定的に根深いものとなり、王渾は智謀の限りを尽くして報復を狙う。彼は王濬の嫉妬心を利用して復讐を果たそうとし、呉の宮殿に火をかけて孫晧の宝物を盗むと、放縦に斬りまくり、殺しまくった。王濬はこのことを上書して武帝に報告、武帝は内心では呉伐最大の功労者である王濬を嘉しながらも、詔を下して王濬を責めた。


 王濬が京師に帰ると、武帝は王濬を輔国将軍に任じ、また歩兵校尉とした。王濬は自ら蓋世の大功を自任していたが、しかし彼の周囲は王渾親子とその他の豪強からの圧伏を強く受けた。有事にはしばしば弾劾を受け、心中すこぶる不満あり。 ゆえに朝廷にあって毎度攻伐の労を言いながらも現状として屈従を強いられ、常に憂憤を抱えた。あるときの座会で言葉が過ぎ、武帝は彼の心意を汲んで許したが、やはり王濬の心には鬱々としたものが常に残った。


 平呉ののち、王濬は地位も勲功も高くなったが、年を重ねるにつれてその生活様式は豪奢でぜいたくなものになっていった。美食とぜいたくを楽しみとしつつ余年を重ね、太康6年(285)死亡。享年80歳。

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