第73話 清の睿親王ドルゴン

多爾袞(ドルゴン。一六一二-一六五〇)

 ドルゴンは明の万暦四〇年(一六一二)一二月二五日に生まれ、清の順治七年(一六五〇)一二月九日に没した。清の太祖ヌルハチの第十四子であり、母は大妃ウラナラ氏、同母兄にアジケがおり、同母弟にドドがいる。


 後金(清の全身)の天命十一年(一六二六)、ヌルハチが沈陽近郊のウジ堡で死ぬと、ドルゴンの母は逼られて殉死を余儀なくされた。すぐさまヌルハチの第八子ホンタイジが即位し、清の太宗となる。当時ドルゴンは15歳でペイレに封ぜられ、(在命男子中の)年齢排列の順が九番目であったので九ペイレ、あるいは九王と称される。


 天聡二年(一六二八)二月、17歳のドルゴンはホンタイジに従ってモンゴル・チャガルタラト部に進軍、大捷し、ゴボデをとらえる。戦陣にあって身を士卒に先んじ、勇猛果敢であったので、ホンタイジの深い賞識を得、ボルコンタイキン(聡明王)の美号を賜る。ここにおいてドルゴンは機智あり勇敢にして善く敵を謀る、として後金の主要な将帥の一人に算えられることとなった。


 翌天聡三年一〇月、ドルゴンはまたホンタイジに従い明の辺境、龍井関に攻め入る。彼と三ペイレ・マングルタイが南に漢児荘を攻め、使いを出して迫ると、漢児荘の明朝守兵は城を棄てて投降した。十一月、ドルゴンは先駆けて通州に到達、渡河の機を伺い哨兵を捕獲。またホンタイジに従い北京城攻打に参与、広渠門の外にあって明の寧遠巡撫・袁崇煥、錦州総兵・祖大寿の援軍を打ち破る。十二月、ドルゴンの軍は薊州にあって山海関の明朝援兵と遭遇、これを殲滅。四年二月、ホンタイジの湾河回宮にマングルタイとともに先行。明の大営を攻めて六十余人を殺し、戦馬八匹を俘獲した。


 天聡五年七月、清朝ははじめて六部を設け、ドルゴンは吏部を掌る。八月、ドルゴンはホンタイジに従い大凌河城を攻囲し、明軍の出戦を誘った。諸将とともに明の陣中に突撃し、城下に逼って奮勇、攻め立てる。明の援兵来たるも、全て入城することかなわず、ドルゴンらは百余人を壕に溺れさせ溺死させた。十月、錦州の祖大寿が錦州城ごと投降。


 天聡六年五月、ドルゴンはホンタイジに従いチャハルを攻打。彼とペイレ・ジルガランは帰化城の西南黄河の岸にあって敵の部衆一千余人を俘獲した。


 天聡七年、ホンタイジは詔を下し諸ペイレ、大臣らに征戦の意見を求めた。明朝とチャハルどちらを先に伐つべきかと。ドルゴンは明朝攻打を先にすべしと強く主張し、明を死地に置き、しかるのち全国政権を奪取すべしと。ここに彼はホンタイジに良策を献じて曰く「まず春軍を練って整え、我が方の農耕が完遂して、明朝の穀物まさに熟した頃、明の辺境に攻め入ります。進んで燕京に逼り、その援兵を断裁して屯堡を打ち壊し、敵の糧を奪って、もって長久的に駐扎すれば、あとは座してその斃れるのを待つばかりであります。」


 天聡八年五月、ドルゴンはまたホンタイジに従い明朝を攻打、龍門口から攻め入り、明兵を打ち破る。保安州に攻め克ち、五台山に到ってからのち軍を還す。


 清の崇徳八年(一六四三)八月九日、清の太宗ホンタイジ暴卒。忽ち起こったのは後継者問題であり、清の皇族統治集団内部に激烈な闘争が起こった。当時ホンタイジの後継者として擁立され名を挙げられたのは二人、一人がドルゴンであり、一人はホーゲであった。


 ドルゴンはホンタイジの弟であり、兄が死んで弟が跡を継ぐのはごく合理的なことであった。況んやかつてホンタイジが帝位についたとき、本来であれば太祖ヌルハチはドルゴンを‘聡明にして智恵多く、謀略人に過ぐ’として位を継がせたがっていた。ただし当時ドルゴンが十五歳の年少であったのでそうはならなかったのである。今ドルゴンは戦功赫赫、かつ背後には相当の勢力が後ろ盾として彼を皇帝に推戴しようとしている。これに反対したのがホーゲを帝になさんとする両白旗の勢力で、ドルゴンに倣ってホーゲを帝位に擁戴した。正紅旗の主ペイレ・ダイシャンはホーゲ立つといえども趨勢を考え、ドルゴンを帝となすことに賛同した。またダイシャンの息子ショートゥ、孫アダレも相次いでドルゴンを支持した。


 ホーゲとドルゴンを相比較すると、ホーゲはホンタイジの長子であり、その筋目から帝位継承の勢はなお互角と言ってよかった。かつホーゲの背後の支持者たちはドルゴンのそれよりさらに重厚であった。満洲両黄旗が挙げてホーゲを支持している上、ホーゲ自身は正藍旗の主ペイレ、かくて八旗のうち三旗までがホーゲの帝位登極を支持した。


 八月十四日、ホンタイジの死後五日にして、ドルゴンは諸王大臣を招集して嗣君の事を議した。当日はちょうど晴天、両黄旗の大臣もまた大清門にあって会盟し、両旗の精鋭の護軍に弓に矢を張らせ宮殿に環立し、政変の動乱に準備して武力で政権を奪取せんとした。


 この危急的状況にあって、ドルゴンの明智はひとつの折衷的辨法を導き出した。ホンタイジの六歳の息子プーリン(後の順治帝)を帝となし、ドルゴンとジルガランがこれを輔政し、プーリンが年長に到ったら政権を還すというのである。この折衷案に双方異を唱えることが出来ず、抜剣張弩の形勢もここにおいて終熄した。


 二日後、ダイシャンの子シェートゥ、孫アレダはドルゴンの識らざるところでなお謀略を巡らしてドルゴン登極を画策たので、ドルゴンはこれを察知するときわめて果断ながら即刻この二人を殺した。かつアダレの母(シェートゥの妻)およびシェートゥの子をも殺す。


 輔政よりまもなく、ドルゴンはジルガランに先んじて一同に諸王ペイレの管理と六部の事務掌握を宣布した。これにより権力を高度に自己の手中に集中させ、さらに大事な政治として自らの存在を告知した。これによってジルガランは実際的に退去してドルゴンの風下に立たされることになり、ドルゴンは事実上の皇帝として権力を享有した。通称を摂政王、太上皇。


 崇禎十七年(一六四四)三月、李自成率いる大順軍が北京を攻めて占拠、崇禎帝は自ら首くくって死に、明は滅亡した。


 ドルゴンはこのとき農民軍が北京を占拠したことを知らず、沈陽で明伐の軍を編成して軍事力を緊急動員、三分の二が満洲およびモンゴル軍、残余が漢軍の全兵力を持って、四月九日、彼は‘奉命大将軍’に任命され(実際上自ら任じたのであるが)、‘宜しく事を行う’大権を担い、アジケ、ドドらおよび降将孔有徳、耿仲明、尚可喜らを率いて山海関に向かい進軍。四月十三日、清軍は遼河に到達、明の山海関総兵・平西伯呉三桂は清軍に使者を遣わし、農民軍が北京を落としたという消息を報告のうえ清軍に救援を請うた。突如として変化した状況に対して、ドルゴンは脅威的応変能力を発揮、彼は呉三桂の言葉に毫も遅疑することなく、すぐさま策略を改変、臨行の大学士范文程の建議を受けて農民軍を主敵と定める。彼はまた征伐について洪承?の意見に従った。洪承?の意見はほぼ范文程と同意であったが、それ以外のこと、官憲を派遣して進軍の目的を宣布し逆賊を相当、農民軍を殲滅するという名目を明らかとするという点は彼の主張による。序でにドルゴンは布告し、内応して大功を建てた者には破格の封賞を約した。争取の時間を計算するに、精兵前にあって輜重はなお後方。ために日時は限られ、急ぎ北京に向かった。十九日、呉三桂は副将の楊坤を派遣してふたたびドルゴンに書を致し、ドルゴンは正式に返信の書を呉三桂に送った。曰く「崇禎帝惨亡し、指を発さずして勝つ」ついで出兵の目的を声明し「率いるは仁義の師、舟沈もうと釜破れようと、誓って必ず賊を滅ぼし、民を水火の難より救わん」そして「ただ中原を平定し、民を休息さして已む」と言い、ここに清朝による明確な中国統一の意思表示をしてのける。同時にまた呉三桂を仲間に引き入れるべく「伯(呉三桂の官爵)は主の恩に報いんと思い、流賊とは不倶戴天、誠忠義の臣なれば、遼東の守りなからくして我と敵を同じくすに、なおまた懐疑あらん。・・・・・・(中略)伯がもし衆を率いて来帰すらば、かならず故土にもって封じ、藩王に並べん。国の仇に報じ、家と身を保ち、子孫代々、長く富貴を享受すべし」厳然として主客反転、ここには全国最高の統治者の姿があった。この密書に表示されたことをもって、清政権は徹底して打撃目標を改変し、最終的に政治上、軍事上の戦略を転変させるのだった。すなわち、ヌルハチやホンタイジが目指したのは明朝からの独立であって中原制覇ではなかったから、この志を表明したドルゴンこそが清朝の本当の父であるともいえるのである。


 四月二十一日、清軍は昼夜兼行二百里を行軍し、夜半近くなって山海関から十五里の距離に駐営する。この日、李自成は自ら二十余万の大軍を以て山海関に到達し、まさに呉三桂を関城の内に包囲しようとして関を奪い合っての激戦となった。呉三桂は自ら衆寡敵せずと知り、しばしば清軍に使者を遣わして急を告げる。ドルゴンとドド、アジケは経略を議し、のちすなわち敢えて呉三桂を軽信せず、と決しながら、当晩、清軍は「鎧を被り戒厳し、夜半陣を移した」。李自成と呉三桂の激戦はますます盛んとなり、砲声が夜を徹して止まず。二十二日早晨、清軍は関門から五里の所まで進み、呉三桂は清軍至るを見てついに大順軍への砲を停止、諸将十余人と甲兵百余を率い、囲みを突いてただちに清の営へと馳せ、ドルゴンに拝謁して剃髪し臣下を称した。ドルゴンは軍前にあって呉三桂の爵を西平王に進め、明朝の降将に官爵を進め富貴を与える事をこのようにして確立して見せた。ドルゴンは呉三桂に先行を命じ、関を開かせた。ドドとアジケはそれぞれ勁兵を率いて関門に馳せ入り、白旗を城上に立てた。ドルゴンは自ら大軍を全て後発し、また呉三桂を使って右翼とし先発させ、関を出て李自成と戦わす。李自成は辺兵の精強を熟知していたので、成敗はこの一挙にありと軍を指揮し、呉三桂と死戦した。山海関城内では砲声が雷のごとくであり、矢は雨が降りしきるごとし。その間清軍は鋭鋒を蓄えて動かず。昼の時分となり、ドルゴンは呉三桂支えきれずとみてようやく角笛を三度鳴らし、清軍みたび吶喊。ここに始めてドド、アジケ率いる鉄騎隊数万が呉三桂の陣より右から出て大順軍の陣をなぎ倒し、農民軍を潰走させた。この戦役で劉宗敏が負傷、李自成は残余の兵をまとめて北京に退いた。


 清軍は一日に百里という行軍速度で進み、途上何の抵抗に遭うこともなく、五月一日には通州に到達した。この一日前、李自成は輜重を満載にして北京を放棄、西に向かって撤退した。


 五月二日、明の故将旧吏が北京の朝陽門から五里のところで帝王の礼を以てドルゴンを迎接。ドルゴンは輦(みくるま)に乗って入城し、武英殿に昇殿、正式に明の降官降将の拝謁を受けた。


 九月、プーリンが山海関に入り、ドルゴンは諸王群臣を率いて通州でこれを迎える。プーリンは北京に到ってのち、馬上でドルゴンを‘叔父摂政王’に封じ、また併せて彼のために石碑を建て功績を記した。ドルゴンの同母兄アジケ、同母弟ドドもまた親王に昇格され、ジルガランは‘信義輔政叔王’に落とされた。ここにおいて摂政王はドルゴン只一人となる。


 十月一日、プーリンは北京で即位登極、ここに順治帝が誕生する。


 順治元年(一六四四)十二月、ドルゴンはドドに命じて李自成を攻打させた。ドドの軍は潼関にあって李自成の軍と激戦一ヶ月に及び、ついに李自成の軍に重創を負わせる。順治二年正月十八日、清軍は西安を占拠、このとき李自成軍はすでに威嚇の勢力を持たず、ドルゴンは馬上果断に南京征伐を命じた。李自成にはアジケに呉三桂を率いさせ、これを伐たせる。正月末、アジケは湖北省通山県に李自成軍を追い詰め、李自成は九宮山で殺された。同年、ドルゴンはホーゲを派遣して四川の張献忠を伐たせた。四月、四川の風鳳山で、張献忠はホーゲ率いる清軍に遭遇、戦い敗れて死んだ。


 あいついで李自成、張献忠らを殺したことで、起義軍の実力は大幅に削減された。とはいえなおいくつかの抗清勢力は存在し、清軍に対する能わずといえども大いに勢力として威嚇をなした。これにより、ドルゴンは江淮に兵力の集中を決策し、揚州の守帥史可法に書を致して清への帰順を促したが、史可法は正義のために堅く辞し、ドルゴンの書信に反駁し拒んで不投降を貫いた。順治二年四月十五日、豫親王ドド率いる大軍が揚州に到達し、史可法は死守したが二十五日、清軍は揚州城を破った。史可法は血を浴びつつ奮戦したが結局国に殉ずることになる。このときドドが行った大屠殺は史上に‘揚州の十日’といわれ、歴史上でも有数の残虐事件として名を残す。五月六日、清軍は江を渡り、南明王朝の軍は戦わずして壊滅。十四日、清軍は南京に攻め克つ。南明の小皇帝福王は逃れたがまもなく清軍の俘虜となり、南明王朝

文武官員二十余万は清軍に投降した。新軍は勝ちに乗じて南進し、南方各省を攻打。ここに到り、満人の漢人に対する軍事的勝利は決定的なものとなり、清政権は遂にようやくその基を固める。


 ドルゴンは位・寵・功ともに並びなく、政権を専断していた。清室の一員でホーゲのような、かつて彼と後継者問題で争ったほどの実力者であっても張献忠討伐に使われて諾々と従うしかなく、功あって京師に帰れば突然罪名を被されて死地に置かれた。ジルガランはドルゴンとの共同輔政者であったが、ドルゴン排斥の動きありとして輔政の任を外された。彼を排除すると同時、ドルゴンは身内で信任者を固める。同母兄弟アジケ、ドドの二人を重用し、特にドドに対してははなはだ厚遇を与えた。順治四年、ドドを‘輔政叔徳豫親王’とし、ジルガランに取って代える。


 ドルゴンは細身で長身、中風を患っており、入関後、日増しに病状は重くなった。常々「頭は昏く目は腫れ、体中不快に過ぐ」と語ったという。北京到着の時、病状はますます重みを加え、順治四年以降、疾病の重さ故に拝跪することが困難となった。にもかかわらず彼が見る政務は繁多にわたり、疲労によって躁鬱となり憤懣、怒りやすくなった。上下皆彼を恐れ、そのため顕貴といえども彼に直接話をすることはできず、彼が外出の際に謁見を申し込むことが多かった。正しかはあくまで満洲族の精神を清朝という国家に注ぎ込む大業に精神を傾注しており、軍国の重責を忘れたことはなかった。彼はまた臣下に令して「章疏をみなすべからく選切し、要者をもって聞く」と文字の簡明化と要約につとめ、不要の修飾敵文辞を許さなかった。もって徒に精神を費やす。


 順治七年十一月、ドルゴンは北口郊外での猪狩りで馬上から墜落し、膝を割る重傷を負う。薬物の服用も虚しく十二月九日、ハラ城で没。享年三十九。喪後、順治帝は諸大臣を率いて彼を迎え、東直門外に奠った。追尊して誠敬義皇帝、廟号は成宗。しかし心密かにドルゴンを憎んでいた順治帝は八年二月、生前のドルゴンに簒奪の野心があったとして生前の官爵の全てを削り、宗室より斥け、さらに家財を没収したが、のち乾隆四十三年、睿親王の封号を復し、改めて追諡して忠。ふたたび大廟に配享して名誉回復された。

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