第71話 イスラム-サアド・イブン・アビ・ワッカァス

サアド・イブン・アビ・ワッカァス(五九六-六六〇)

 アラブの将軍。六百三十一年から六百三十三年のメッカ-メディナ戦争、六百三十一年から六百三十三年のアラビア征服戦争、六百三十四年から六百三十八年のメソポタミア征服戦争などに参加。主要な戦歴は六百二十四年バドル、六百二十五年ウフド、六百三十七年カーデシーヤ、六百三十八年ジャルーヤなど。


 メッカのクライシュ族に生まれる。ムハンマドの母とは縁戚に当たり、早い時期(六百十五年)からイスラームに帰依した。六百二十二年、彼は長じてメディナに移り住み、ムハンマドの指導の下六百二十四年バドルの戦い、その翌年にはウフドの戦いを経験した。ウフドの戦いではハーリド・イブン・アルワリードと敵対したはずだが、両者がこの戦場で見えた記録はない。彼は高名な弓手であり、無類の勇気と堅忍不抜の意思、状況に左右されぬ冷静な頭脳の持ち主で、「神の戦士」として選ばれた軍隊指導者であった。


 彼のペルシア攻略は六三三年初頭、サワードの一部を奪取した部族長アル・ムサンナが反撃を受け、初代カリフ・アブー・バクルに救援を求めたところにはじまる。最初ペルシアに送られたのは歴戦の「神の剣」ことハーリドだったが、彼はまもなくパレスチナ戦線へと転任、ためにアル・ムサンナはペルシア軍のために敗れて陣没し、六三七年、事態危急を知った2代目カリフ・ウマルによってサアドが派遣される事となった。


 サアドが率いた兵は三万五千、これをウマルの支持に基づいて運用し、カーデシーヤに布陣した。彼の陣には医師、法官、聖職者、ペルシア語の通訳、書記官なども含まれていたという。彼は決して戦闘を急がず、斥候を放ち警戒を厳にし、捕虜を尋問し自ら偵察に出、地方の名士らの意見を求めて慎重に情報を求めた。結果として敵の総大将・偉大なロスタムと十万を下らぬといわれるその軍勢の情報を手に入れ、これをウマルに報告する。多勢に無勢とみたウマルはペルシア皇帝ヤズィギルド三世に十四人の使節団を送らせ、時間を稼いだ。この結果としてアラブ軍は三ヶ月の時間を手に入れた。この冬の間サアドは環境や種族の別なく皆に平等に接したので、彼に従う奉仕者たちの結束はひときわ強固になったという。


 アラブとペルシアの交渉が行われている際、ロスタムは兵十五万でサワードの国境に陣取り、対するサアドはカーデシーヤにあって麾下の軍にサワードを蹂躙させた。皇帝ヤズィギルドはロスタムに「作戦開始」を命じた。


 ところでロスタムは将軍で宰相であると同時に、星の運行についての学問を修めた当代一流の占星術師という顔も持っていた。ために彼はペルシアの命運が尽きかけている事を予感しており、平和的解決の糸口を探していた。そのロスタムがヤズィギルドからの命を受け、「戦場にあっては、急いては事をし損じます」と答えた夜、空から下りてきた天使がペルシア軍の武器を縛って使えなくするという夢を見た。翌日ロスタムはサアドに書簡を送り、「欲するところあらば我に言え。望みが叶うよう皇帝に伝える」と申し送ったが、サアドは「我らは次の事しか望まない、ムスリムになるか、貢納か、あるいは剣か」とにべもなく答えた。


 かくして両軍出戦となる。ロスタムはカーデシーヤの平野を走るアティーク川の渡河を行い、夜の内に無事渡河を終えて象兵と騎兵隊を前衛におき、アティーク川を背にアラブ軍と相対する形になった。戦象は総勢三十三頭で、これを三手に分けたという。


 対するにイスラム軍はどうであったか。このころサアドは腹部と太ももの腫瘍が悪化して馬にも乗れぬ有様だったが、なお戦場背後の丘に本営を設けて全軍を統括、戦闘開始の前に部隊長や聖職者達に命じて「兵士達が何者をも恐れぬよう激励せよ」といった。また通達して「私は四回アッラーの御名を唱える。一回目で戦列を整え、二回目で全軍の布陣を完了せよ。三回目は戦闘開始の合図、そして四回目アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)を合図に総攻撃に移れ」。


 カーデーシーヤの戦いは三日間続いた。初日「アッラーフ・アクバル!」と鬨の声を上げて突撃したアラブ軍だが、冷静なロスタムの指揮と戦象という動く要塞を前に戦況不利であった。サアドはとある部隊長に「象への対策を考えよ」と命じ、その部隊長は射手に命じて「象の御者と籠を狙え」とする。また、アラブ騎兵達は馬が象に蹂躙されて使い物にならないので徒になり、剣と槍とで象の頸輪を斬り、御者を地上に落とさんとする。この攻勢にさしもの象兵がたまらず背中を見せた。


 このときペルシアからジャーバーンという勇士が出て一騎打ちを申し入れた。受けてたつは部隊長のひとりアーシム、カリフ・ウマルの息子であり驍勇の士である。両者激しく切り結んだがやがてアーシムの勝ちとなり、アラブの陣地に喊声が起こる。この日、アラブ軍は数の不利にかかわらず間違いなく善戦したが、大局はなおペルシアに有利であった。


 二日目、アラブ軍は再度中央突破を試みるも果たせず、ロスタムは「今や敵を撃滅できる希望が持てます」とヤズィギルドに書き送っている。ヤズィギルドは二万の兵を動員してロスタムに援軍として送り、一方アラブ軍のキーパーソンとなるのはカアカーウ・イブン・アムルーであり、彼はシリアから駆けつけた援軍の先鋒隊長であったらしい。彼はサアドに「お見受けしたところ、あなたはとても馬に乗れる状態ではない。明日の合戦では指揮権を私におゆだねくださいますよう」と言い、サアドはこれを受諾。その夜カアカーウはロスタムの援軍を考慮し、一部隊五千人を切り離してシリア街道方面に送り、「夜明けを待って戦闘開始ともに姿を現せ。敵に援軍到着と思わせよ」といって敵を欺き味方にも援軍到着と思わせる謀略を施した。


 三日目決戦。カアカーウの計略で増援来たれりと思い込んだアラブ軍は、歓喜して敵中に突撃した。この日ついに彼らは象兵攻略に成功、弓矢の斉射で籠に乗っている御者を殺し、怯んだ象の目を槍で突き、剣で鼻を斬るのである。このままでは全面敗北となるとみてロスタムは本営を出て督戦、対するにサアドもペルシア軍が陣形を変えたのを見て、各部隊長に「各兵はもとの位置に戻って野戦に備えよ。歩兵は最前列に、ついで槍兵及び弓兵隊。剣で戦うものは徒となれ」と伝達しもそして特に左右両翼を固めた。アラブがはじめて経験した夜戦は凄惨を極めたが、ついにアラブ軍が押し勝ちペルシア軍を壊滅させた。この日の戦いの損害はペルシア軍十万、アラブ軍六千だったという。


 カーデシーヤ勝利後、一時シリアに転戦。のちまた戻って六三八年帝都クセノフォン制圧。一二月、やけくそになったヤズィギルドの軍をジャルーヤでたたき、勝利した。ついで彼らはカリフ・ウマルの命でクーファに野営地を置き、六三九年砂上ユーフラテスに向かい、六四二年ウマルによって解職されるまでの約三年間、州都督兼任野戦司令官としてそこに留まった。彼はアラビアに帰還したのちメッカに退去し、オスマーンがカリフとして立つとムハンマドの縁者という立場故か権限の一部を委譲されたが、にもかかわらず彼は冷淡な態度をとり続け、オスマーンの方針に反対した。彼は六五六年六月、オスマーンの殺害計画を図って活動し捕縛されたがその後処刑されるでなく生存している。六六〇年没。死亡日時と死因は謎。


 彼は優秀な野戦司令官であり、早くからムハンマドとイスラームに帰依した血縁者であるにかかわらず、宗教的狂信者でなかった。カーデシーヤ後、彼はペルシャを放棄してシリアに向かったため残余の兵から批判を受けることになったが、これはやむを得ない措置で病気や臆病から逃げを打ったのではなかった。彼は優れた助言者であり戦闘指導者であった。

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