第67話 春秋・呉の孫武

孫武

孫武は春秋時代・呉の国の名将である。字は長卿といい、斉国楽安の人。生没年は不明。本姓は田氏、祖父は斉の大夫田書。莒を伐って功あり、斉の景公より孫姓を賜る。のち、斉に内乱が起こると孫武は呉に出奔、呉の重臣・呉子胥の推薦を受け、呉王闔閭に<兵法>十三篇を進呈、その内容の傑出を嘉され、将に引き立てられ重用された。当時呉は楚と覇を争っており、孫武と呉子胥は闔閭を助けて自国富強の諸制度を実施、機をうかがい、兵をわかって車輪状に楚を攻略、楚国を奔命に疲れさせ、国力損耗を強いる。周の敬王14年(前506)、闔閭は孫武議を容れ、楚の疲れに乗じ楚都郢に乱入、楚はこの敗戦を原因として覇王たるの力量を失った。呉は「西に楚を破り、北に斉、晋を脅し、南に越人を服す」といわれる大勢力を背景に覇王を称すに至るが、そこには孫武の存在が大きな作用を果たした。孫武の著作<孫武兵法>は後世の軍略及び政治その他、広範に至る大影響力を及ぼすことになる。


【簡評】孫武は世界レベルの名将というべきであるが、ただし彼の戦績に関して鮮明な資料は多くなく、その軍事的角食は意外と不透明である。孫武の名を不朽のものとしているのは<孫武兵法>の存在であり、古代から現代にいたるまで、軍事理論をここまで高度に分析し、学問として昇華させたものはほかに類がない。中国古代軍事学の定礎というべきであり、後世の広範に及ぶ多大な影響力ゆえにこれが「兵学聖典」、あるいは「兵経」と呼ばれることはなんら不思議ではない。孫武はこれにより、古代の軍事学・謀学の鼻祖と言われ、後世に「兵聖」と呼ばれる。


孫武

 孫武の祖父・父はみな斉の高官であった。孫武は貴族家庭の優れた学習環境にあって古代の軍事典籍<軍政>を閲読、黄帝に始まり四帝の神話から伊尹、姜子牙、管仲らに至る用兵史実を学んだ。当時は戦乱のさなかであり、激しさを兼ねるばかりであったから、彼の祖父と父はみな軍を帯びて将領となり、間諜を飛ばして戦いを繰り広げた。少年孫武が軍事的才能をはぐくまれたのはこのような環境によってである。


 当時の斉は内部矛盾を抱え、危機は四方にあった。孫武はこの種の内部闘争に極めて強い反感を抱き、これらを糾弾してやまず、これがのちに彼が斉を出奔、自己の謀略的才能の発展を念頭に置き他郷を求める遠因となった。このとき南方・呉の寿夢が王を称し、中原に向かって普段の学習姿勢を見せ、楚の支配と掣肘を離れて富国強兵に励んでいた。孫武は呉を自らの才能発展にとって良い国と認め、おそらく斉景公31年(前517)ごろ、山東から出て呉へ出奔した。このとき孫武は18歳の青年であり、その後一生を呉国発展のために尽くすことになる。


 孫武は呉にやってきたのち、呉都の郊外にあって、楚からやってきた伍子胥と出会う。彼らは語り合ううちすぐに意気投合し、ひそかに友の契りを結んだ。このとき呉の情勢は動転して不安の中にあり、二人は難を逃れて隠棲し、機をうかがった。


 斉景公33年(前515)、呉の公子光放った刺客・専諸により呉王僚とその子無忌が死亡。光は自立して王となり、闔閭と称した。闔閭は胸杯に大志あるひとで、位につくや賢者に礼を尽くし、士を重んじ、国中に布告を出してあらゆる方面での才人を求め、呉国発展の志を明らかにした。長江中域を舞台に、対するは楚との雌雄である。このとき、すでに呉の大臣に収まっていた呉子胥の推薦が隠居の孫武を招くべしと説き、孫武の才能は蓋世、邦を安んじ国を安定させることに関して並ぶものなき鬼才であると説いたが、呉王は信じず。呉子胥はかさねて何度も孫武を推薦し、呉王はようやく孫武を召し出し、応接した。


周の敬王4年(前516)、呉王闔閭は自ら親しく孫武を召し出し、孫武は闔閭にまみえると自ら持ってきた<孫武兵法>13篇を1篇1篇闔閭に読み聞かせ、説明し、闔閭は説明を受ける都度に驚いてことごとく叫び声をあげた。呉王はそれを実践における孫武の用兵能力として試してみたく思い、「先生の著した兵法13篇、拝読してみたところはなはだ精妙。あなたの理論の可不可を実際、操練で見せてはもらえないだろうか?」孫武答えて「当然でありましょう」闔閭重ねて「宮女たちにやらせてみますか?」孫武「いいでしょう」ここで呉王は宮女180人を徴発、孫武の操練に与える。以下に始まるのが有名な「三令五申」の場面である。


孫武は宮女たちを2隊に分け、呉王の寵姫をそれぞれの部隊の隊長とした。そのうえで彼女らに戟を持たせ、操練の準備を始める。孫武が宮女たちに号令して厳かに命令するも、宮女たちは命令を聞かない。「言い聞かせましょう」と鼓を撃って伝令するも、やはりおかしがって腹を抱えて笑うばかりで収拾がつかない。孫武は厳粛に「約束が不明であり、号令が徹底していない、これは将たるものの失誤である」といい、また重ねて言い聞かして再び鼓を鳴らし、伝令した。宮女たちはまた号令を聞かず、大笑いしてやまなかった。孫武は「規律不明で号令が不熟達であるのは将帥の罪である。しかし今それらは明白であり、なお兵が号令に従わないのはすなわち下士官の罪である」言って隊長である二人の寵姫を斬らせようとした。台上で見ていた闔閭は大いに驚き、人を遣わしてこれをやめさせようとしたが孫武は「将軍たるもの、軍にあっては君命と言えども受けざるところあり」堅くそういって両隊長を斬らせ、新しく隊長を任命して再度鼓を鳴らし、伝令を飛ばした。今度は宮女たちは前後左右、規律正しく行動し、命令の通りに操練を済ませた。孫武は人を遣わして呉王に報告し、「隊伍は完璧に整いました、大王にあらせられては下りてご覧ください、この兵たちは君王のため、火水の中もいとわず進でありましょう」呉王は寵姫ふたりを失い、心痛でそれどころではなかった。孫武はそれに対して「王はわが兵法の言葉のみを愛して、その運用の深奥に触れることがなかったようですな」闔閭が一介の凡庸であればこれで終わった話だが、彼は心中孫武を好きにはなれないながらもその著書と言説の正しさを理解し、軍事的鬼才として彼に呉軍を統帥させた。孫武は将軍となり、日夜兵を練っては楚伐の準備を進める。


敬王14年(前506)、呉は楚伐の準備を完了させ、呉王闔閭は孫武を主将に3万の精兵で大挙、楚に進軍させる。この軍は楚都郢を直撃、当時の呉軍は現在の蘇州から江陵付近まで、1000余里にわたる長距離戦略を達成したことになる。


孫武らは闔閭を助け、楚軍の進軍路上を扼した。淮河を逆流して西に上り、しかるのち淮油にあって船を陸に乗り上げ、再度楚軍の北辺、守りの薄い空隙を叩き、著名な武陽関、九里関、平靖関からまた漢水に入った。呉軍は示し合わせて一路軍をすすめ、順次漢水から進んで楚の腹背を撃った。楚軍は打つ手及ばず柏挙に迫られここで一戦したが敗北。呉軍は勝ちに乗じて追撃し、11日で7百里を征き、5戦5捷、一挙郢を落とす。楚の昭王は城を棄てて南に逃れ、柏挙の戦いは史上、3万で20万の敵を打破した輝かしい戦果をもって中国戦史上に刻まれる。戦国時代の尉繚子は「三万の衆をひっさげ、天下に当たらざるなしはだれか? 即ち武子である」とたたえた。


敬王36年(前484)、孫武はまたその傑出した軍事的才能を発揮する。呉王夫差(闔閭の子)を輔弼し、艾陵の戦いで斉国を大破し、これによって呉の国威は大いに振るった。その翌年、黄池の会盟で呉は晋にとって代わり、覇主となる。司馬遷曰く「(呉は)西に楚を破って郢に入り、北に斉、晋を威し、諸侯に名、赫赫なるは、孫子の力によるところなり!」


この後の孫武の運命について、歴史は答えない。一説によれば呉王夫差を覇王としたあと、「飛鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らるる」の道理を悟るところあり、引退して著述家としての余生を過ごしたというが、また一説には斉に帰ってひとびとに兵法を教授したともいう。


孫武は後世の人から尊敬を込めて「兵聖」、「兵家の祖」「兵家の師」といわれる。それは顕赫たる戦功のほか、ことに重要な彼の<孫子兵法>13篇およそ5000文字によってであった。中国軍事学の発展はこの著作をもとに広がったといってよく、歴代の軍事家、兵法家はその意味で皆、孫武の弟子であるといえる。<孫子兵法>は中国のみならず、世界にも浸透した。8世紀に日本に入り、18世紀には欧州に伝わり、現在世界29言語に翻訳されている。一説に拠れは1991年、湾岸戦争で、アメリカ海軍陸戦隊の指揮官は<孫子兵法>を携行し、戦場で閲読していたという。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る