第68話 三国・蜀の関羽

関羽(かん・う。?-219)

 関羽、字雲長、本来の字は長生。河東解の人。三国時代蜀の名将で、将星耿耿たる人材を輩出した時代において、関羽は抜群の知勇を備え業績輝かしく、威は二〇年間華夏に震った。かつて人々に立派と慕い仰がれた彼の成功と失敗は、非常に無念で、勿体なく思われるものだった。


 関羽は年少にして力強く勇武あり、敵のように悪を憎んだが為に、罪を犯すこととなって故郷から?郡まで逃亡した。?郡で劉備、張飛と知り合い、おなじ志を持つ二人と意気投合、一目惚れに男惚れしあい、以後の友愛は異常なほどで兄弟のように親しかった。


 後世の伝説によれば、劉備、関羽、張飛は桃園で魏を結んだという。<三国演義>に言う彼らの誓いの言葉は「我ら三人姓は違えども、すでに兄弟の契りを結んだからには、すなわち心を同じくして協力し合い、困を救い危を扶け、上は国家に報い、下は黎民を安ぜん。同年同月同日に生まれること敵わずとも、願わくば同年同月同日に死せん。」これはもちろん小説家の創作であるとはいえども、しかしながら時代の民衆の考え方、希求にぴたりと符合するものだったので、後世への影響力は非常に大きい。後世の多くの農民起義も、この結義の形式を模倣し、陣容を固め団結を強めたものである。


 劉備は起平して黄巾賊討伐に参加。関羽、張飛は彼の護衛を引き受けた。関張はそれぞれ彼の力優れた片腕と言えた。


 劉備は平原の相となると、関羽と張飛をそれぞれ別部司馬に任命、それぞれ別個に部隊を統べさせた。普段の日々において、劉備、関羽、張飛はおなじ器で飯を食い、おなじベッドで休み、その親密ぶりは相変わらず異常であった。朝廷の諸侯が広く散らばっている場にあろうと、関羽、張飛は劉備の身辺警護に努め、まったく飽くことがなかった。


 関羽は何度もの戦闘に参加した。戦陣の中、彊場の上で、彼は劉備に従い毎度辛い辛い目に遭い、しばしば多難を経験したが、その志水火も辞さず、決して劉備を見捨てぬことを心に誓った。


 建安四年こと一九九年、劉備は兵を率いて女囚を襲い、徐州刺史・車冑を殺し、関羽に太守の任を代行させ、その城下を守らせた。自らは小沛に帰る。


 建安五年、二〇〇年の春、曹操は劉備の梟雄であることを知って、しかもその勢力が徐々に大きくなっているため、後患を排するために東征の軍を起こす。劉備は戦い敗れて袁?に身を寄せた。関羽は曹操に捕らえられたが、曹操は関羽の容貌の立派さ、神々しさを非常に好み、彼を偏将?に封じ高く礼遇した。


 しかしまもなく、関羽の振る舞いから曹操は彼が曹営に長く留まる意思がないことに気づいた。そこで曹操は張遼に言い、「私はこれほどにも関羽を厚遇しているというのに、関羽は常にここを去ることを考えている。少々探りを入れて、彼の心積もりを計ってはくれまいか。」


 張遼が関羽を訪ねると、関羽は慨然として「曹公が私を厚遇してくれるのは嬉しいが、私の心は決まっている。劉将軍にから受けた昔日の恩義、かつて共に生きともに死ぬと誓ったその誓いを、私は裏切ることが出来ない。だから私はここに留まることは出来ないが、最後は手柄を立てて曹公の恩に報い、そしてここを去ろうと思う」


 張遼は関羽の言葉を聞いて感得すると同時に困惑した。もし関羽の言葉を直接曹公の耳に入れたなら、関羽にとってきわめて不利となる。しかし臣下としてこれは伝えないわけにはいかない。再三の思索の上、「曹公は父で関羽は兄弟だ。父に背けるはずがあるだろうか。」としてありのままを曹操に報告した。


 はからずも曹操は後々まで関羽を恨むことなく、逆に彼は仁義の人であるといってさらに彼を重んじた。


まもなく、袁?の部下顔良が白馬をに至り、東郡太守・劉延を撃つ。曹操は四月出兵して劉延を救援、謀士苟攸が献策して「私たちの兵は袁?と対峙していますが、兵の不足はいかんともしがたいものがあります。ここは敵の兵力を分散させるべきでありましょう。まず延津に行き、河を渡って袁?の哨戒の範囲に敢えて身をさらします。袁?は必ず兵を挙げて西に向かうでしょうから、我々はこのとき軽騎をもって白馬を強襲するのです。そうすれば備えのない顔良を捕らえることが出来、この戦、勝つことが出来ましょう。」曹操はその献策を容れた。


 袁?は曹操軍が河を渡ったと聞くや、案の定兵を分けて西に向かった。曹操は兵を却して昼夜兼行、白馬に走ってこれを襲う。顔良が曹軍を発見したときには双方はすでに十余里を隔てるだけだった。顔良は大いに驚き慌て、宋江としながらも迎撃準備、曹操は先鋒に張遼、関羽を派遣して、軍を率いて進軍させる。


 関羽は遙かに顔良を遠望し、思わず雄心勃起し神威奮い立ち、猛進して過ぎゆく。顔良の軍陣は波浪に裂かれるように開き、関羽に当たるもの皆敗れて散り散りとなる。関羽は万軍の中に顔良を殺し、しかるのち右を衝き左を突き、破竹の勢いで突き進む。袁?の諸将に良く敵しうるものなく、戦わずして自ら乱れる。曹軍は勢いに乗じて進軍、白馬の囲みはついに解けた。


 曹操は関羽の偉功に対してますます彼を敬い愛し、朝廷に上奏して関羽を寿亭侯に封じ、熱く賞賜を与えた。関羽は曹操から下賜された宝物に全部封を施して保存し、告別の手紙を一通残すと袁?の軍に走り主君劉備を探した。


 曹操の部下は追って彼を撃つべしと言ったが、曹操は許さなかった。彼は言う「関羽はここを去り、その主のもとへと向かったのだ、追ってはならぬ!」


 関羽は彼を捕らえた曹操に功を以て報い、新たに再び劉備のもとに奔る。この物語は古今の耳目に語り継がれて、三国演義において人々に流布した。一つ一つが美しく、それぞれが故事成語として知られる。関公は山上に三時を約(漢に降るのであって曹操に降るのではない、兄嫁達の身柄を保証する、一度劉備の消息が分かったならば曹操のもとを辞去する)す。曹操関羽に長衣を贈る(関羽の衣服がみずぼらしく質素であったので曹操は立派な着物を贈らせたが、関羽はこれは劉備のお古で忘れるのが忍びない、と言った)。曹公赤兔を送る(曹操は関羽に赤兔馬を贈り関公は大喜びして謝辞を述べたが、それはこの名馬なら千里を駆けて劉備の処へ馳せることが出来るからだった)。関公顔良を斬り文醜を誅す。関公金に封印す。関公単騎千里を行き、五関を抜いて六将を斬る。古城で兄弟相まみえるなど、中国人でこれらの逸話を知らぬものは滅多にない。


 建安六年こと二〇一年九月、関羽は劉備に従い荊州の牧劉表のもとに身を寄せる。劉表は礼を以て劉備らを遇し、こののち、荊州にあって兵を屯すこと数年。


 二〇八年建安十一年、曹操、荊州に侵攻。劉備は樊城より南に出発し、民を連れて江を渡る準備をし、命を受けた関羽は船数百隻を帯び、江に沿って進発、江陵での再会を約す。


 曹操は江陵地方の大量の食糧および武器そして落人が劉備の手中にあることから、兵を統帥して直に襄陽を目指す。劉備すでに長江を渡らんとすと聞くや騎兵五千で猛追。一昼夜に三百余里を駆け、当陽の長陂でこれに追いつく。劉備はこれと戦って大敗を喫し、妻子老幼を抛り捨て、数十騎に守られて逃げた。漢津にて関羽と再会。


〈蜀記〉によればこの年、劉備は許昌で曹操と会って狩猟している。関羽は人々の混乱の際に乗じて曹操を殺し、後患を除けと提案したが、形勢がそれを許さず、劉備は堪えなかったと言うがそもそもこの当時に劉備が許昌にいたのでは先んじて曹操に殺されているだろうから、実に眉唾な話である。さておいて漢津で再開したとき、関羽は不平満々、憤慨して「あのとき狩りのさなかに私の言葉を聞いていれば、今日の災厄は免れたでしょうに」劉備はこれに対して「あのときは私は曹操が天下にとって必要な人材であると考えたのだ。もう一度言うが、もし天意を知って正しきを行うのであれば、今日の我々の漂泊も他日の幸運となるのではないか?」


 十一月、孫権、劉備の連合軍は赤壁で大いに曹操を破る。関羽率いる一万の精鋭水軍は劉備の虎の子で、この戦役の重要な作戦を担った。戦後、劉備は機会に乗じて江南諸都市を占領し、軍功ある家臣達を爵に封じ漢を授けた。関羽は襄陽太守、蕩寇将軍に任命され、江北一帯防衛のため当地に駐屯する。


 後人は関羽を突出した“義による交わりを重んず全き人物”と称揚し、演義では華容道で逃げる曹操を許したことになったと人口に膾炙しているが、わかったものではない。


 二一一年建安一六年一二月、劉備入蜀。関羽は荊州の留守を守る。


 二〇一九年建安二四年、劉備は漢中で曹軍の兵を大いに破り、曹操は漢中から退出するを得ず。これにより、文武百官に擁立され、劉備は自立して漢中王を名乗る。関羽は前将軍に任ぜられ、あわせて節、鉞を賜る。


 諸葛亮の戦略により曹操を両路から挟撃する策が立てられる。今回の漢中での勝ちの勢いに乗じ、再び荊州から出兵して中原を攻めんと。


この年七月、関羽は南郡太守・廉芳に江陵を守らしめ、将軍・士仁に公安を守らせ、自らは大軍を率いて北伐し、樊城に侵攻して曹仁を攻めた。曹操はこれを聞き、于禁を派遣して曹仁を補佐させる。


 于禁は用兵が巧みであり、曹操の重んじるところの武将の一人であったが、しかし彼は南方の地理気候に明るくなかった。曹仁は于禁と?徳を樊城の北に屯せしめ、城中と相互呼応を考えたが、于禁は意外にも地形の要素を考えず、彼の率いるところの七部隊をすべて低地に駐屯させた。


時はすぐ八月となり、連日の大雨止むことなし。漢水は猛烈に膨張し、平地に水が数丈もせりあがる。四方八方大洪水であり、于禁の率いる七軍営は悉く溺れて覆滅された。于禁はこす狡く少数の兵とともに高地に撤退した。関羽は于禁の駐軍を忌み、平地に逃れた于禁をさっさと擒えるべくする。彼は大水に乗じ、全軍を率いて大船に乗船、曹軍を攻める。于禁は退路が完全に遮断されたと知るや、手を束ねて投降。?徳はほかの兵士を連れてとある土手の上に逃れた。彼は堅い鎧を身につけ強弓を持ち、むなしく矢を放って徹底抗戦した。朝から午後までずっと苦闘が続いたが、関羽は更に攻勢を強めた。水勢同時に騰がって勇ましく、堤防は水没。曹軍は全面降伏し、?徳はなお船を引っかけて曹仁の営と合流しようとしたが、水勢強すぎて船方向き、ついに捕らえられ屈さずして死んだ。


 関羽は勝ちに乗じて急迫、樊城を衝く。樊城の外は全部水で、城壁のほとんどが水に洗われていた。曹仁の部下は皆恐れ戦き、ある人が曹仁に向かって「今この局面はまだ挽回可能です。関羽の包囲に取り合わず、小舟で打って出て城を捨て逃げましょう」と言ったが、曹仁はそれを躊躇した。


 汝南太守・満寵は彼の守城を鼓舞して「山津波は速いが、退くのも速い。ここで逃亡すれば荊南で黄河をうち捨てるに等しい。将軍、あなたが思うところを主張なさるが良い。」といったので、曹仁は満寵の言に道理ありとして、将士らと制約を交わし、宋軍総力で都市を守ると決した。呂常は力を振り絞って襄陽城を堅守した。


 襄・樊は関羽に囲まれることますます厳しく、内外断絶され、荊州刺史史脩、南里太守?方は関羽に投降した。関羽の勢力はこのとき最大のものとなっており、この機会に軍を派遣して?下深くに攻め込み、また陸渾ら地方の反曹勢力を扇動した。許昌以南は反曹勢力の力が強く、みな印号をもつて関羽を受け入れた。関羽の名は華夏を震わせ、中原は震撼した。


諸葛亮は<隆中対>に言う「もし荊益にまたがらんとするなら、その岩阻を守るべし。西戎と和を結び、南は彝越を撫し、外は孫権と結んで内に政を修めん。天下に変あるを待ち、一朝ことあらばまさに荊州の兵を以て宛洛に向かわん。将軍(劉備)は荊州の衆を率いて以て秦川より出られれば、民衆食壺の漿を革めずしてもって将軍を迎えんや?」


 言われるまでもなく、劉備が荊益二州を獲得し事業の基を建立する意思を固めるなら、必定、外は孫権と和を結ぶしかない。強固な同盟の結成があってしかる後はじめて中原平定の望みが出るのだから。


 上に見るように劉備・孫権の同盟は劉備の中原回復の基礎とも言えるものであった。が、この同名は今、いくつかの要因によって決裂しようとしていた。


 一つには荊州の所有権の問題があった。荊州は長江中央部に位置し、北は漢?、利は南海に尽き、東は呉に連なり、日は巴蜀に通ず。劉備、孫権、曹操の誰にとっても重要な戦略的価値があるのだった。曹操は荊州を占領して天下を統一すべくしたが、しかし赤壁で虚しい夢と化し、孫家の一団は荊州を必争の地と認識していた。なぜならばなぜならば荊州を手元に置くと言うことは自らの立場を動乱の中に置くからである。赤壁の戦いの結束より劉備と連合して曹操に当たってきたが、これはやむをえず劉備に荊州を貸していただけであって、劉備が益州を手に入れた今、荊州は返還されるべきだという意向が当然のようにわき起こった。このようにして劉・孫両家の間に、ほとんど刀兵をもって相対す緊張が走る。


 二つには関羽がこの同盟の意義を正しく認識していなかったことにある。彼は自らの勇武を恃み、孫呉の集団に対して倨傲無礼な態度をとり続けた。魯粛は彼と単刀赴会において荊州の必要性を訴えたが、関羽はたとえ戦争となってでも譲らぬ構えであったから、両家の両家の連合の着眼点の相違から、問題の妥協的解決は不可能と言えた。孫権は使者を派遣し息子を関羽の娘にめあわせようとしたが、関羽は取り合わぬどころか怒りを発した。


 反するに陸遜は関羽にへりくだった手紙を送り、これを受け取った関羽は大いに自尊心を満足させて陸遜を侮り無視し、孫呉に対する防備を緩める。そこに孫呉の兵はゆっくりと進んでひそかに樊城を攻めた。


 陸遜は関羽の移動状況を精査して孫権に詳細な報告をし、且つ自分自身の見解を明らかにした。彼が思うに、関羽が出てきたならばこれを擒えることは可能であると。


 このとき、関羽が于禁を降して新たに得た兵士は数万人、しかし食糧欠乏し、竟には孫呉が湘関に貯蔵していた食糧を勝手に占拠して奪い取った。


 孫権はこれを知るや機は熟したとばかり、呂蒙を大都督に任じて関羽の後方を攻撃すべく進発させた。


 孫権は出兵ののち曹操と連絡を取り、機密裏に曹操と盟約。当時徐晃が樊城を救い、曹操は樊城の囲みを解いていた。徐晃は孫権起平の報を故意に関羽に漏れないようはかった。関羽は江陵の守りは堅固であるからしばらく落ちることはないと認識し、馬上樊城を落とせざればこれまでの攻囲の苦労が無駄になると思い、すぐに帰還すべきであるのに決断を躊躇し、樊城を再包囲し続けた。


 このとき、徐晃が関羽に対して進発進行。関羽と戦い、利なくして樊城の包囲の中に戻る。ただし彼は水軍の戦艦て河水を占拠し、襄陽を救援から隔絶した。


 呂蒙は尋陽まで来ると戦艦を偽って商船となし、商人に人を遣わして白の喪服を買わせ、そのまま昼夜兼行して荊州に入る。


 関羽の江辺哨戒部隊の士卒は本当に商船が来たと思い込み、まったく防備しなかった。呂蒙は部下に命じて彼らを皆擒え、呂蒙の大軍は神も知らず鬼も覚えず、北岸を占領して公安に進出した。


 関羽は平素士卒を可愛がったが、士大夫には驕慢であった。公安の守衛と江陵の主将廉芳および士仁は昔から関羽の傲慢ぶりに不満を抱いており、関羽が樊城を攻めると、二人は軍資の供給をストップさせてしまい、任務を完遂することが出来なかった。また関羽は二人を責任問題で責め、「帰ったら汝らを厳罰に処する!」かくして恐怖心と嫌悪から、二人の心に反心が芽生えた。


 呂蒙は虞翻公安にたどり着くとすぐさま虞翻に書信を持たせて士仁に成敗の利害を説き、これを投降させた。すぐに続いて、廉芳もまた投降する。


 呂蒙は江陵に侵入して秋毫も犯さず。彼は心を攻める戦術を採用し、人を派遣して荊州軍の家族たちを慰撫し老若を助け、貧病を救済し、飢寒を賑恤し、食糧を授けて人心を掴んだ。


 関羽は江陵の守りが失われたと聞き、馬上兵を統べて南に帰る。その途上、しばしば人を派遣して江陵の状況を探った。呂蒙は常に礼を尽くして待ち受け、使者に場内を案内した。使者は関羽の元に帰り、将士は皆無病息災つつがなく、戦意を失っていて、戦うとあっては多くが逃亡するか呂蒙につくだろうと報告した。


 関羽は時勢を調べ、ついに彼が孤立させられ窮したことを知る。軍を西に向け麦城に退いてそこを守り、援軍を待ったが、あいにく劉封、孟達の両将は傍観して救援の兵をよこさなかった。

 孫権は人を遣わして関羽に投降を勧め、関羽は見かけ上応答しながら城上に偽の人と旗を立て、自らは城を捨てて逃走する。従うのはわずか一〇余人。孫権は朱然、潘璋に命じて関羽の退路を裁たせた。この年一二月、関羽は潘璋の部将馬忠に擒えられるところとなり、屈さずして殺された。劉備は関羽に謚して壮繆侯。


 関羽はひととなり高慢であり、人の下につくことを肯んぜなかった。二一四年建安一九年、涼州の豪強馬騰の息子、馬超が蜀に投降した。関羽は馬超と交友がなかったが、又聞きに馬超の勇武を聞き、諸葛亮に書信して「馬超の人品、才覚は誰に秘するべきでありましょうや?」と問うた。諸葛亮は関羽の意図を汲み手紙を返して曰く「馬超は文武兼備し、雄烈人に過ぎ、鯨布、彭越に比するべし。まことに一代の英雄ではあります。張飛と先駆けを争う器でありましょうが、むろんいかんせん、あなたの比類なき絶倫ぶりには及びません」と答えた。これを受け取った関羽は非常に喜び、賓客にこの手紙を見せびらかして回ったという。


 二一九年の建安二四年七月、劉備が漢中王に進んだとき、関羽は前将軍、黄忠は後将軍、張飛は右将軍、馬超は左将軍となり、関羽には併せて益州の前部司馬・費詩から印綬が授けられた。


 関羽は自分が黄忠と同列に並べられたと聞くや大いに不快になり、烈火のごとく怒って曰く「大丈夫たるものがついに老兵と同列になろうとは!」といって印綬を受けずと詔を拒んだが、費詩から「王の立業のはじめ、用うべき人材は一人でも欲しいところ。かつて蕭何と曹参は若き頃より高祖の朋友でありましたが、陳平、韓信はのちに別所から高祖に投じたものです。のちに韓信は王となり、蕭何、曹参は侯爵にとどまりましたが、かれらは一切恨み言など言いませんでした。いわんや漢中王にとってあなたは同体も同然、その身は姻戚より近く、これまで禍福をともにしてきたのではありませんか。あなたと彼の爵禄等しかろうと比較にならないことは私も存じております。大局を重んじ以てお受けなさいませ」と言われたので、関羽はこれに感悟するところあり、聞き入れて印綬を拝領した。


 関羽は天性高慢、孫権を貶め、陸遜が呂蒙に代わるとこれを侮り、ついに孫、劉の同盟が瓦解する結果を作り、あげく荊州を失った。その教訓は痛ましい。しかし忠義絶倫であり、人は彼を立派な人物であると慕い仰いだ。


 関羽は諾全重きをなし、信用を守り、劉備およびその軍団における利益に無限の忠誠を尽くした。彼は劉備と甘苦をともにすること多年、信義を厳守することにおいて首尾一貫したが、終わりはついに愉しむところとならなかった。白馬で擒われたとき、身を曹操の陣営に寄せて、劉備の元に帰ってからもその恩を忘れなかったのも、彼の無双の忠義ぶりを示している。

 

 関羽は勇武異常、全軍に冠絶した。後世の小説では彼は華雄を斬り、車冑を擒え、顔良を斬り、文醜を誅し、七軍を水没させたとなっているが、それには史実と異なる部分が大いにある。しかしそれはひるがえって彼の突出した勇猛と神韻を表現することになった。骨を削って毒をいやした説話に関しては、万人の知るとおり以下のようである。


 関羽はかつて乱箭の中で左肘をうがたれ、傷口はふさがったけれど雨や曇りの日になると骨が疼痛を訴えるようになった。医者が言うには箭頭に毒が塗ってあり、それが骨中をむしばんでいるから、傷口を切開して毒を切除しなければ苦痛から解放されることはないと。関羽はそれならと肘をまくり、その場で医者に切開させた。このとき関羽はまさに諸将と宴のさなかであり、流血血のごとく注ぎ、刻々盆を満たす。しかし関羽は依然として酒を飲み肉を喰らい、談笑して平素と全く変わらぬ様子であったという。小説<三国演義>の描写では「華陀執刀し、皮肉を破り、直ちに骨へと達す。骨すでに青く変ず。華陀、短刀で骨を削り、帳上帳上、見るもの皆顔を覆い色を失う。公は飲酒食肉、談笑して奕棋を指し、全く苦痛の色無し」とある。


 正史の<三国志>における簡潔で公正な関羽評は「関羽、張飛、みな万人の敵、世の虎臣なり。羽は手柄を以て曹公に報い、飛は義によって厳顔を釈し、ともに国士の風あり。しかれども羽は剛にして自ら矜り、飛は暴にして恩愛なし。短によれば敗を取る、これ理の当然なり。」


 関羽は剛強にして自らを誇り、軽佻浮薄の徒を馬鹿にして、大局を見ることから目を背け、非常に短い期間に華夏の大事業の頂点をもたらし、威信響き渡ったが崩れ落ちるのも速かった。麦城の敗北の悲劇的幕切れは、我々に深い教唆を与えてくれる。

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