第65話 南朝斉の周山図

周山図(420―493)

 周山図は字を季寂といい、義興郡義郷の人である。幼少にして赤貧であったが、人から本を借りて読み読書に没頭し、大義に通じたという。長じて気力才幹あり、呉郡は晋陵の防衛隊長となった。宋の孝武帝の時、劉劬討伐に参与して功があり、関中候とされる。?州刺史・沈僧栄が瑕丘に鎮守すると、互いに交流を深めて自ら彼の建武府の参軍となった。竟陵王が広陵で謀反を起こすと、沈僧栄は周山図に200人を与えて沈慶之の節度下に送り出す。事後の論功行賞で中書舎人の戴明宝に功を奪われたが、泰始の初め、中将軍とされた。当時各地で叛乱が起き、この形勢に対して僕射の王彧は周山図を推挙し、周山図は皇上に召されて談話し、非常に気に入られた。すぐさま走舸(突撃用の小型艇)百艘を与えられ先鋒を任される。周山図と軍主・佼長生はたちまちに湖白、赭圻二城の賊を打破し、この功績により員外郎、振武将軍を加えられる。さらに濃池平定にも参加して賊を殺し西陽まで逐い、明帝はこの壮挙を嘉して周山図に邸宅を授けた。


 鎮軍将軍・張永が彭城に猛将・薛安都を攻めたとき、周山図は兵2千を率いてこの兵たちを武原にて迎撃した。北魏の騎兵と合戦するも多数の死傷者を出し、しかも敵軍が急転して斉軍を囲んだので、周山図は城に拠して堅守し、しかるのちに陣を結び死戦。囲みを衝いて特攻すれば当たるところ披靡せざることなく、縦横無尽。人々はその勇を称えて彼を“武原将”と誉めそやした。しかし他方で張永はすでに敗れていたので、周山図は失散した兵士千余人を集めて下?を北慮の憂いから守り抜く。帰還の後、給事中、冗従僕射、直閣将軍を授かった。


 周山図は酒の飲みすぎで失誤を犯すこと多く、明帝からしばしば叱責されただが、のち、自ら一念奮起してこの欠点を克服した。京師を出て銭塘は新城の守りを任され、このとき豫州の淮西一帯が侵入した北賊の手に落ちると歴陽に鎮を建てることを建議した。泰始5年(469)、竜驤将軍、歴陽令として銭塘一帯の兵馬を司り守備を任される。


 はじめ、臨海に亡命した田流が自ら“東海王”と自称し会稽・?県の海山谷中に潜伏、要害に陣営を築くと、官軍はこの防備を討つ事あたわず。明帝は聞人襲(ヘンな名前ながら人名)を遣わして竜驤将軍の地位を餌に投降を勧める。田流はこれを受けて余衆とともに出頭、と、見せかけて、海塩に至るや造反。放縦に掠奪を行った。同年冬、田流は?県の耿猷を殺し、境内は大いに震え上がる。泰始六年(470)、周山図は命を報じ軍を率い、東は浹口に屯し、懸賞をかけて広く田流を捜索した。田流は副将の曁拏に刺されて死んだが、別の頭目・杜連、梅洛生らがそれぞれ衆を擁して各個守りを固める。翌年、周山図は兵を分かって出兵し、田流とその余党が奪い取った諸地を悉く回復した。


 また、豫章の張鳳が康楽山に衆を集め、豫章江を渡る商家の道を截って劫掠した。台官軍の軍主・李雙と蔡保が連年これを捕まえようとするも擒らえられず。軍主・毛寄生も大敗して、ここで明帝は周山図を起用する。ご下命を受けた周山図は張鳳討伐に着手し、現地に到着するやまず病弱な兵・老兵を隠しごまかして壮士にカモフラージュして、ついで幢主・?嗣を遣わして張鳳に厚く礼を尽くし、擬兵を集め、威容を見せて対戦してみろと挑発させる。?嗣に騙された張鳳はこれを信じ、望蔡まで逃走。周山図は水辺に埋伏させた伏兵を発し、張鳳の軍は壊乱し張鳳は戦死。余衆百余人は手をつかねて投降した。この功により周山図は寧朔将軍、漣口軍主を加えられる。周山図は北賊の騎兵の南下道を断絶させるべく漣水の西に城を築き、またこの築城作業を利して農田の灌漑工事を請け負い、現地の民から喜ばれた。


 元徽三年(475)、歩兵校尉、建武将軍とされ、転じて高平・下?・淮陽・淮西の4州諸軍事、寧朔将軍、淮南太守とされる。盗賊が桓温の墓を暴き大いに宝物を手に入れ、あるひとがひそかに周山図にこれを贈与しようとしたが周山図はこれを受け取らず、帳簿に記入して官府に戻した。左中郎将とされる。


 太祖・蕭道成が政務を補佐していたとき、周山図は太祖に向かって「沈攸之はいずれ必ず叛くでしょうから、公におかれましてはそのときに備えて患いを防ぐべきです」と語り、太祖は笑いながらもその意見を採納した。武陵王が郢州刺史になって朝廷を出ることになると太祖はその護衛を周山図に託す。また、世祖と晋熙王・劉燮がともに郢州から東下すると、周山図はこの後方を固めた。果たして沈攸之が叛いて皇太子(世祖宣帝)が征討都督に任ぜられると、この副将に周山図が起用される。世祖は盆城を前に、衆臣とともにこの城は難攻不落、京師に還ろうではないか、と言うが、周山図は「今は江の中流を占拠して四方の応援を請うべきとき。大衆の力を致し、山岳の険阻を利するべきであります。城池の堅牢は些事にすぎす、難とするに足らず!」と説いた。そこで世祖は城局参軍の劉皆、陳淵らと周山図を防衛戦に繰り出す。周山図は走舸をもって江の流れを截ち、楼船を建造し、江の中に柵を立て、十日にして攻め寄せる敵をなぎ払った。世祖はこの成果を大いに嘉し、現地にて周山図に前軍将軍、寧朔将軍を加え、さらに輔国将軍に進める。


 ついで沈攸之は郢城の平西将軍・黄回を攻めた。世祖が周山図に命じて形勢を計らせたところ、周山図は「沈攸之と私は近隣にあってしばしば同じ戦に出征し、その人となりはよく知るところであります。彼は性、奸悪にして狭量、無法であり、士人に団結の心なし。彼が兵を堅城の下に並べて囲んだとしても、所詮は統制の取れぬ烏合の衆、壊乱させることは難しくありません」と言って沈攸之を撃破、沈攸之は華容まで落ち延びたが落ち武者狩りの百姓に殺される。沈攸之敗亡ののち、黄回は走舸に百余人を乗せて流れを下り、盆城を攻め立てて城内を震撼させた。須臾の間で黄回は盆城を抜いて叛賊を虐殺、凱旋する。これにて沈攸之の乱は終息を見た。世祖は周山図を「周公が前に言ったとおり、敵は士人の心が一つでなかったようだ。先見の明、見事である」と賞賛する。京師に戻ると太祖は周山図に部曲の兵を授けて京城を鎮護させた。各路の兵馬はすべて周山図の節度下に入った。遊撃将軍に遷され、輔国将軍の位は以前と変らず。建元元年、広晋県男に封ぜられる。食邑は三百戸。


 また外に出されて假節、?・青・冀三州、東海、?山軍事、寧朔将軍、?州刺史とされる。刺史として政務に有能ではなかったが民を愛し恵政を行って百姓を擁護した。建元二(480)年、進められてみたび輔国将軍。その秋、北賊が境を侵すと、皇上は淮陰から北賊を返さぬ覚悟で策を練り、周山図に勅を下して曰く「卿は国境の戎民に恵政を施し愛されておる。ゆえに応変の計略は卿に任す。ただ心がかりは賊をよく死地に送ることあたうか否か。卿はますらおとして賊を踏みにじること、ためらうべからず」北魏の軍は果たして?山を越え、玄元度、廬紹之らが打ち破られる。さらに北魏軍は淮から清州を侵犯、それまでに倍する行軍速度で進軍した。そこで周山図に勅命が下り、「卿はまさに軍旅統帥のことに長けておるゆえ、毎時のように全権を任せる。天下の事、ただ心を一つにして、山を抜くごとくに賊を打ち砕くべし。然るに兵を用いる背後には憂慮する必要なし、廷臣に一切横槍は入れさせぬ。痛打を加えるに目を閉ざし、打ち砕くこと敵わずということのなきよう。吾は金を鋳して碑を作り、卿が功を建てるのをただ待つのみである。もし四州が奪われ国家に難を呼び込むことあらば、ますらおにあらず。努力して運命を切り開き、他人に真似の出来ない大功を立てるべし」かくて周山図出馬と相成る。たまたま義勇兵が立つも北賊の前に敗れ、周山図は義軍三百戸の土地を回復して転進、淮陰を取り戻した。上表して東海郡は漣口を奪い返し、また石鰲にて陽平郡を創設してすべてを皇上に採納する。


 世祖が即位すると、周山図は竟陵王の北鎮司馬に遷えられ、南平昌太守を任されて、旧来のままの将軍職を継いだ。盆城の戦いにおける世祖との旧情により殿中に出入りするときの煩雑な手続きを省くことを許され、はなはだ寵愛を獲る。義郷県・長風廟の神は、県令となった者を殺し霊威を発揮する悪霊であった。そこで周山図は皇上に頼み、輔国将軍の上に神位を加えて対抗することを請う。皇上はこれに答えて、「供物は犬の肉があれば十分、なんぞ階級を用いて対抗する必要があるか?」と、言うが要請どおり、黄門郎、羽林四廟直衛の位を授けた。周山図は新森において営舎を建て、早晩ここに戻ることを日課とする。皇上はこれに対して「卿は万人の都督たる人傑であり、いつでも自由に郊外に家を持つことを許された身である。それが今新森の営舎と宮廷を行き来するとあればよろしからず、常に武器を携行し異常の事態に備えるべし」といたわりの言葉をかけた。このころより周山図は病を得、皇上は親しく手紙を送って慰問し、人を遣って薬を送らせる。しかし甲斐なく永明元年(483)、逝去。享年は六十四歳。皇上は詔を下し、朝服一套と衣一襲を下賜した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る