第63話 アレクサンドロス三世大王

アレクサンドロス三世大王(前三五六-三二三)

 マケドニア王にして実質的なペルシャ皇帝でもある。主に前三三九から三三八の第四次神聖戦争、三百三十六年の民族統一戦争、三三四から三三〇年のペルシャ征服、三三〇から三二七年の中央アジア侵攻、三二七から三二六のインド侵攻を統率指揮。主な戦歴は前三三八年カイロネイア、三三四年グラニコス、三三一年ガウメカラ、三二六年ヒュダスペスの戦いなど。

 前三五六年夏、マケドニアのペラにおいて国王フィリッポス二世とその妻エピロスのオリュンピアスの間に生まれる。幼年時代アリストテレスに師事した。父フィリッポスのマエディ征服の間留守を任され、そのさなか340から339の間にビザンティウムを陥とし、三三八年八月二日カイロネイアの戦いでは左翼騎兵隊を指揮して勇戦、非凡な才能を見せる。

 三三七年母オリュンピアスがフィリッポスと口論の末実家のエピロスの実家に一時逃亡、帰還後数ヶ月にして王と王妃は和解するも、同年六月、公式の場でフィリッポスは暗殺され、アレクサンドロスが継ぐ。彼は征服されていたテッサリーおよびマケドニアを覇権国として承認していたギリシア連合を三三六年八から九月、ボイオテイアで短期決戦。トリボリとゲートの反乱軍および服従していたイリリア人と戦い、六から八月までの間にイリリア人をペリウムで破って勝利の栄光を飾る。テーベの反乱軍を打ち破り、テーベを背信への報復として九月、完全に再起不能に破壊した。

 アジアに四万人を渡らせたフィリッポスのプランを受け継ぎ東征を開始、まず解放したイオニア人をギリシア諸ポリスに編入し遠征軍を組織すると、ついでペルシアに渡り、三三四年五月二日辺境のグラニコス河畔の戦いでペルシア軍総督を撃破。のち九から十一月ハルカリナッソスで困難を極める包囲戦を制し、その後三三四から三三三の冬期またたく間に対フィリギア人作戦を展開、服属させた。三三三年四月ゴルディオンを占領、四月から八月までにカッパドキアを征服する。

 のちシシリア門を強襲により突破してアルザムスを下すと、九月、戦うことなくこの要地を通過。彼は軍を収集して機動戦によりペルシア皇帝ダレイオス三世の後背に出るようマケドニア諸軍に伝達、これが三三三年十月中旬日のことで、十一月一日決戦、イッソス近郊のピナルス川で背面突撃により優勢なペルシア軍を圧倒し、単騎逃亡したダレイオスの妻子家族を捕らえた。

 タイアーを占拠して三三二年一月から八月まで包囲、さらにフェニキアを服属させ、ダレイオスからの黄金一万タラントン(三百トン相当)を含む有利な条件での和平提案を拒む。九月から十月までガザを攻囲してこれを陥とす。

 三三二年十一月から三三一年四月までエジプトに入る。

 ダレイオスの潜伏先を捕捉、新規に軍を編成して行軍しタイアーを通過、三三一年四から九月北メソポタミアに入って反対も受けずに進軍し、九月一九日にはティグリス川を渡って再びペルシアの大軍と対峙、三三一年十月一日、アルベラとガウメカラで一日二戦し、これを下す。

 十月バビロンに入り十一月にはスーサに入城、十二月にペルシア門を占拠。三三一年十二月ペルセポリスに入城するから熱狂のなかでペルセポリス宮殿が炎上、三三〇年三月のことだった。

引き続きダレイオスを追って三三〇年五月エクタバナに入り、そこでギリシアとテッサリアの同盟軍を本国から呼び寄せる。三三〇年六月一日ダレイオスを見つけると最後のペルシア皇帝は暗殺され骸になっており、アレクサンドロスは捕らえていた彼の家族をカスピ海南岸へ送り届けた。

 更に継続してペルシアの残部を経略していき、三三九年九月から十月、パルティアおよびアリアを征服、三三〇年十二月、抑圧され暗殺計画を練って彼に取って代わろうとしたフィロタスおよびその父パルメニオンを処刑。

 二三九年一月から四月、アラチョーサに侵攻、さらに四月から五月バクトリアに入る。スキタイの街を見つけてこれを破壊せんと望み、八から十月、オクサス川で衝突のすえこれを破り、同月スピタメネスの娘ロクサナと結婚。

 三二七年三月? ソグド人の指導者はカイロン岸壁の要塞に拠った。鎮圧戦のなかで彼は軍を複数に分かち、敵軍の将カリステネスを斬った。

 ついで三二七年六月から九月、インドのバーミヤンとシャープールに侵攻、三二六年三月には嵐の中アルナス砦を陥とし、同年四月にインダス川を少数部隊で渡り、五月ポールス王の軍とヒュダスペスの戦いで撃破、六月、さらに遠くへと望むが戦争に倦みこの先のマガダ国の威容を恐れた衆将の請願により東征を取りやめ、ヒュダスペスからインダス川を下り、三二六年八月から三二五年六月までかけて海へ出る。途上三二六年十一から十二月にかけてマリエンヌを征服。

 艦隊を建造、ネアルキウスにこれを指揮させ、彼自身は困難な砂漠の行軍を選ぶ。大ゲドロシアン砂漠を進んで踏破し、ついにペルシアに戻り三二四年一月ペルセポリスへ帰還。彼は精力的に軍を再編成し、ペルシア兵をギリシア・マケドニア正規軍に正規兵として編入したため、古くからのギリシア・マケドニア兵の反感を買い暴動が起こった。また三二三年早春、明らかな決意を込めてバビロンを首都としたが、これも王のペルシアかぶれと受け取られた。のち彼はバビロンで病に倒れ、そのまま回復することなく死んだ。おそらくは余りにエネルギッシュな征戦につぐ征戦の疲労、そして悪性のマラリアが原因でなかったかと言われる。

 アレクサンドロスは将帥として人後に落ちない能力の持ち主であり、彼を名将の座から除名することは不可能であろう。彼は唯一無二の戦略家であり形式的にとらわれない戦術家であり、また不測の戦線にあってもその軍規は厳格であり軍は整然、山岳においても平原においても実力をフルに発揮した。彼の発想とひらめきは彼だけのものでもはや半伝説的ですらあり、為政者としての彼は素晴らしく正しき人であって、ゆえに大王の称号で呼ばれる。彼は秩序あるリーダーとして最高で最良の存在であった。

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