第62話 東晋の桓温

桓温

 桓温は字を元子といい、?国竜亢の人である。東漢の桓栄の末裔であり、父桓彝は東晋初年に宣城太守となった。


 桓温は出産予定よりだいぶ早く出生し、ほどなく桓?の深い寵愛を受けた。桓彝から任地の一隅、温の地より取って桓温と名付く。桓温は長じて大柄となり、その姿貌ははなはだ奇偉、性格も豪快で進退がさわやかだったので、明帝の娘婿に選ばれ南康長公主を娶った。これにより附馬都尉、また琅邪内史を委任される。


 桓温と?翼は公私にわたってはなはだ親交深く、常に二人一組で天下平定の体計に当たった。?翼は桓温の才幹を非常に高く評価し、成帝に推挙して「桓温年若なれど雄才大略あり、陛下の希望に常人は不要、彼一人あれば善し、尋常の娘婿も不要、しかして中興の大業に応答し委ねるには、必定勲功を建立せしむべし」建元3年(343)、?翼は北伐の準備に取りかかり、すぐさま桓温を勝手に抜擢して徐州刺史に任ずると、北伐軍の先鋒に彼を組み込んだ。


 永和元年(345)、?翼が病死。朝廷の大臣たちはみな?翼の息子?爰が当然後を継ぐものと思った。ただここで?氏と不仲だった何充がそれならばいっそ桓温に権力を集中させた方がいいと推薦した。丹陽尹の劉?も桓温の才幹を賞賛していたが、しかし桓温の野心は上澄みを浚った程度で底が知れるものではなかった。会稽王司馬昱に曰く「桓温、険阻に据して譲る能わず、彼の権威を常に抑制すべし」併せて司馬昱に建議し危険を避けて自ら荊州に出鎮を請う。しかし司馬昱はこの建議を採納しなかった。劉?がまた自ら提出して荊州に出任を請うも、司馬昱はこれも握りつぶした。しばらくのち、桓温は荊、梁等四州諸軍事、安西将軍、荊州刺史とされ、はからずも?翼が望んだ“長江中流を遊行する軍事統帥”の地位に近づいた。


 桓温は蜀地の李勢が日ごと衰弱を示すのに乗じて、陣頭に立って出撃し成漢を滅ぼすという勲功を建てた。永和2年11月、彼は配下の将士の反対も顧みず、朝廷に上奏して西の成漢を伐たしめよと請求した。しかして朝廷に回答なく、桓温は即時独断で軍を率いて出発した。東晋朝廷の大臣たちは蜀道の険阻で道のり遠いことを考え、桓温が孤軍深入りしたことを深く憂いた。ただほかの人間よりは桓温をよく知る劉?は桓温が必ず成漢に攻め克つであろうことを予見したが、桓温本人に言わせてもこの独断専行はハイリスクハイリターンの大博打だった。必ず勝つのだとその意志だけを握り、彼は決して下卒の言葉や注意に耳を貸さなかった。果然、桓温は蜀漢の土手っ腹に飛び出し、ここに到り部卒の袁喬の進言を受け、軍を一極集中させ食料は三日分の糒だけを持たせて、一鼓気を作って成都を直撃、はなはだ速やかに成漢平定は成し遂げられた。桓温は功により昇遷せられて征西大将軍、開府儀同三司。爵を得て臨賀県侯に封ぜられる。


 桓温が成漢を平定すると、その名は大いに振るったが、それは同時に朝廷の疑惧をも引き起こした。執政、会稽王司馬昱は日増しに桓温から受ける無言の威圧に悩まされ、腹心の殷浩に命じて桓温と抗争させた。桓温対殷浩の図式は非常にわかりやすいが、事情通は彼らの会話が空談に過ぎないことを知っていた。根本的な原因は瞳には映らないところにあった。


 永和5年4月、後趙の石虎死す。諸子が後継者争いに並び立ち、変乱が発生した。桓温はこの機に乗じて北伐を思い立ち、朝廷に上奏したが遅々として回答はなく、桓温は自分が猜疑を受けていることに強いストレスと怒りを覚えた。こののちの幾年の内に、桓温は自ら控えていた八州の全士卒全物資を一点に集め、それらの高給に朝廷を通さない、厳然たる一個の独立王国を樹立しかけるのだが、東晋朝廷が存続する以上この壮挙は失敗に終わることが確定する。しかし歴史のこの時点においては、桓温という男の可能性は至上類を見ないほどに巨大なものだった。


 かくのごとく対峙して数年、永和7年12月、彼はまた朝廷に上奏した。批判と服従の意見がそれぞれにあったが、桓温は無視して4万の軍隊を動員、江陵から順流を下って武昌に到る。この一挙に東晋朝廷は震撼した。撫軍司馬高崧は会稽王司馬昱に桓温への信頼を致せと議し、利害の一致をもって暁に向かわんと。またひととおり説き終わって国の安寧を思えばしかしてのち外の話と図るべし。ようやく桓温に使いし、桓温は兵を退け江陵に還った。


 桓温が兵を退けて後、東晋朝廷は妥協せず独走しがちな桓温を恨んで北伐の旗幟を剥奪し、殷浩に北伐軍を指揮させた。しかるに殷浩は将才なく、連年北伐しては連年敗北する。物資の損耗はなはだ著しく、朝廷の内外に怨みの声満ちる。桓温はここをいい機会とみて永和10年正月上奏、殷浩の過ぎたる罪を数え上げ、彼の軍務からの廃黜を要求。朝廷はやむを得ず殷浩を庶人に落とし、ここに東晋内外の大権は桓温の手に帰した。


 そこで桓温は精兵4万を統帥して水陸両進、江陵から出発して北伐前秦を伐つ。彼は征戦に一途であり、この年3月進んで?上に到り、長安を直撃した。関中の諸郡県から投降を請うもの雪崩を打ち、民草は先を争って酒を献じ慰労する。男女老少みな狭い道を桓温の采配に従って東晋に帰らんと賭け、老人らは激情に熱い涙をこぼしつつ「想い今日に到らず、また官軍を見ることがあろうとは!」


 しかして、連戦連勝の桓温といえども、北伐を完遂させる前に自己の実力を損耗させるのは無謀というもの。されど?上の駐留軍では長安とその近郊の軍を相手に、発して侵攻し勝ちに乗じて退却することは出来ない。まもなく、桓温の部将が白鹿原の一戦で一敗地に塗れ、加えて前秦が取った堅壁清野戦術のため桓温軍は食料の欠乏に悩まされ、ただ軍を率いて撤退した。


 永和12年7月、桓温は征討大都督に任ぜられ、また江陵から北伐し、今度は姚襄を伐った。8月、彼は軍を率いて洛陽城南の伊水から攻めかかった。彼はこれまでと違い自らを上陣に置いて動かず。戦は桓温の勝利に終わり、洛陽を回復。しかして桓温は工人を遣わして西晋歴朝の皇帝陵を修築させ、二千人の戊守像を象って地下に留め置かせると、自分は兵を率いて南に還った。まもなく、一度は回復した司、豫、青、?州がまた敵に陥とされる。


 昇平5年(361)、桓温はまた自分の弟桓豁に兵を授け、燕軍を破らせ許昌を奪取させた。ほどなく、齢19で穆帝崩御、成帝の子司馬丕が後を継いで立つ。これが哀帝である。桓温は帝室の喪に乗じて乱の機を垣間見せ、隆和元年(362)5月、朝廷に恫喝文を上奏、洛陽への遷都を要求し永嘉の乱以来南に遷ったすべての民を北に帰すべしと主張、朝廷は恐れを成して頷くしかなかったが、実際問題洛陽遷都はいくら脅されたところで不可能ごとであり、ひとまず荒ぶる桓温を鎮めるべく朝廷は従来の官職に加え侍中、大司馬、都督中外諸軍事を授けて機嫌取りにつとめた。


 興寧2年(364)、東晋朝廷は人を使わして桓温を召し、朝政への参与を打診する。桓温は要地荊州を放棄して京師に馳せるなど出来るものかと、京師に往くことを全く頑是なかった。これは朝廷が手管を尽くして遣わした詔だった。桓温が本当に転身して京師にやってくるなら恐怖に任せてこれを害す手はずが整っていた。多忙を理由に断るなら計略は流す。桓温は勢いに乗じて赭圻に城を築き、ここに住んだ。


 2年5月、桓温は赭圻から姑孰に鎮を遷し、建康にまた一歩近づいた。これと同時にまた自らの弟桓豁、桓冲を分路派遣して荊州と江州の軍権を掌握させた。まもなく哀帝病に崩じ、琅邪王司馬奕が帝位を継ぐ。これが廃帝海西公である。太和3年(368)、朝廷はまた桓温に格別の冷遇を加えた。位は皇室諸王侯の上に置かれ、朝政を専断し内外のすべてを総督する権利に桓温の野心はいや増し、部族のものに大言して恥じず。曰く「大丈夫たるもの百世の後に芳を残すこと能わずば、臭を万年に残さん。」


 太和4年、桓温は再び北伐に乗り出し、軍を率いて前燕を伐つ。同年4月、桓温は歩騎9万を率いて姑孰を出発、連戦してことごとく捷ち、7月枋頭に到る。前回前秦北伐の際、?上に兵を滞らせて敗北した経験を踏まえ、あらかじめ枋頭に停留させたのだったが、この軍を率いるのが惰性の老兵ばかりだったので燕軍に糧道を断たれて戦闘継続に利なく、輜重鎧甲儀仗を棄てて陸路を退却した。途上前燕と前秦の連合軍に追撃され、重傷および死者はなはだ多かった。


 桓温はもともと北伐を成功させて名を挙げたいと想っていたのであって、東晋簒奪の野望はおまけでしかなかった。本命の北伐で枋頭に惨敗し、その威望もへし折れた。彼は還暦を前にして内心いよいよ焦る所あり、信頼する腹心の?超に謀議の席で次のように言われた。「殿は天下の重責を担われておられますが、歳今60才、北伐に利なく、非凡な勲功を建てること能わずして、どうして人心を脅迫するに足りましょうや。」と。桓温は願わくは伊尹、霍光の挙に倣いたく、権威を樹立して四海を心服させるのが望みだと言った。桓温と?超はよくともに商議し、皇上に毒疾の薬を散布したのも、三人の皇子がみな後宮以外の場所で生まれた私生児であると流言を流したのも、皇太后に司馬奕を廃嫡させ会稽王司馬昱(簡文帝)を立てたのも、すべてこの二人の謀議の結果である。それは自明すぎるほど自明のことだったので、桓温はまた叛くだろうという声は自然と上がった。とくに強くそれを口にするのは、殺された殷浩の息子殷涓、および?倩、?柔らであった。


 桓温は自らの心の欲するまま公邸を立てては廃し、大臣を殺戮し、権勢は比べるものがないほどに重かった。簡文帝は時日がたつにつれ不安に恐惶とし、廃黜されるのを待つも耐えられず、ただ?闡の詩句を吟じて詠嘆し「志士病なれば朝危うく、忠臣は主の辱めを哀れむ」この一句に心中の憂悶が詰め込まれている。即位してから一年とおかず、郁々として死んだ。


 簡文帝危篤のとき、桓温はいよいよ禅譲劇の始まりと満身に期待を込め臨終を待ったが、このときに到り政を乱さんとする腰巾着の少ないことに気づき、周公、霍光に似て単身後世を託されるかとまた期待した。しかしこここで尚書僕射王彪ら大臣の堅節のもと、太子司馬曜が即位して帝室を継ぐ。これこそ孝武帝である。桓温は怒り心頭、憤怒と怨嗟は脳天を衝き、今後の朝廷の補弼を断固拒否した。とはいいつつも寧康元年(373)2月建康に到り、とどまること14日、人の噂に依れば病を得て姑孰に還った。


 桓温が病篤くなったとき、彼は幻想に朝廷から九錫を賜った。謝安、王坦之らは彼が間もなく人の世を去ることを知り、故意にたがを外させ、桓温が遂にかなえられなかった願望を実現させるにつとめた。寧康元年7月、姑孰にて病卒。

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