第61話 南宋の王堅

王堅(おう・けん。?-1264)

 王堅について生年・郷里および子供時代の逸話などは伝わっていないが、嘉煕年間(1237-1240)に孟?の幕下に加わり、以降手柄を重ねたことで知られる。孟?の命を奉じ、わずかな遊撃の兵を率いて鄭州順陽のモンゴル軍後方基地を襲撃、これを擾乱して敵の造船用木材を焼き壊し、淳祐三年(1243)にはまた孟?の命で六千の兵を率いて蜀地の晋徳のもとに派遣された。これ以降王堅の活躍はおもに四川で部隊を率いてのものとなる。四川における抗モンゴル戦の最先鋒をなし、敵陣を陥として前後の功績をもって昇進し武功大夫(南宋の武臣の階級としては二七番目)とされ、遙郡団練使に任ぜられる。


 宝祐二年(1254)夏、モンゴルの将・王徳晋が軍を率い、北向川から試験的に侵攻、嘉陵江沿いに南下して一挙合州と広安軍の防衛ラインに迫る。王堅は曹世雄とともにその率いるところの部卒をもって頑強に抵抗し、遂にモンゴルの攻勢を挫き撃退した。理宗は王堅の奮闘と功績を激賞、徳に詔を下して二階級特進、さらにひるがえってまた王堅を興元都統制兼知合州とした。


 宝祐六年春、モンゴルのモンケ・ハンは入念な準備のすえ、弟のアリク・ブケに留守を任せると蒙古の兵を三路に分かち、大挙南宋に侵攻を開始した。フビライは京西と湖北、ウリャンハタイは雲南、から、そしてモンケ自身は本軍を率いて四川に迫り、四川を占拠して長江を南下するための橋頭堡を築かんと企図した。その進軍路上にある四川の防衛戦および都城は悉く徹底的に破壊された。京西、湖北、湖南から同時に襲い来るモンゴルの大攻勢の前に、長江上流の南宋軍遊撃は無力であり、四川を援護するための兵力を提供する余力がなかった。年末までに川西、川北、川中のほとんどの地域はモンゴルの手に落ち、実質的に南宋領として機能しているのは河東のみ、しかも形勢は非常に厳しいものであった。


 合州と重慶は河東の中心、心臓部といえる。合州は嘉陵江、渠江、?江の交わるところに位置し、そこから要地重慶に繋がる。合州-重慶のルートは軍事的に非常な価値があった。さかのぼって嘉煕四年(1240)以来、四川制置副使・彭大雅は合州の防備を着々と固め、部将の甘潤を合州から東に十里、釣魚山に派遣して山上、釣魚寨の修築を命じた。その後、四川制置使・余?が四川の府を釣魚山上に遷し、この頃王堅は知合州に任ぜられた。以後余?は人を招き寨を大量の人員を投入して大改築、釣魚城を築く。釣魚城には軍人平民あわせて十万余が住まい、城内の水源豊富であり、糧は豊富でモンゴル軍の猛襲を迎え撃つ構えは万端であった。


 開慶元年(1259)正月、モンゴル軍は釣魚城を囲む。モンケは降将使・晋国宝を使者に派遣して王堅に降るべしと招いたが、王堅は断固徹底抗戦の気構えを崩さず、釣魚城の閲武場において晋国宝とその衆を殺した。モンケはこれを聞くや大いに怒り、二月三日、自ら軍を率いて釣魚山の山麓に立ち、各路のモンゴル軍を指揮して猛攻を開始した。


 モンゴルの将メンシデギンは火州のシュピース兵を領し、ファダットはジツィの兵を、チャオアコパンは臨?のチベット兵を、コグヤンはアルゴンの軍を、アタチはアシの軍を率いてそれぞれ釣魚城の一字城、鎮西門、東新門、奇勝門、鎮西門の小砦などを攻めたが、南宋軍はその都度これを撃退して斥けた。四月初めの攻囲開始から雨の降り続くこと二〇余日、モンゴル軍はやむなく侵攻を停止し、四月二十二日、モンケは自ら軍を率い近衛の兵を攻城戦に投入、釣魚城護国門におけるその激闘は熾烈を極め、二十四日夜、モンゴル軍はついに護国門外城を占拠することに成功するが、王堅はすぐさま兵を率いて反撃し、瞬く間に外城を奪い返した。五月、モンゴルの軍中に疫病蔓延し、攻城はわずかほども進まず。


 南宋の京西、湖南、湖北、四川宣撫大使・賈似道は河東を確保して長江中流の敵を圧迫せんと軍を動員、自ら信頼を置く部将・呂文徳を四川制使副使兼知重慶府となして四川に援兵を送る。時を同じくして宋の理宗は王堅の赫々たる戦功を徳に詔して顕彰し、以て釣魚城軍民の士気を鼓舞した。六月初め、呂文徳率いる軍は苦戦してようやく重慶に到着したのち、千余艘の船団を率いて嘉陵江を遡り、救援として釣魚城に入る。宋軍は三槽山にあってモンゴル軍と遭遇、これを迎撃する。モンケは自ら馬上弓をとって督戦し、蒙古の将・史天沢は蒙古の歩騎を展開し長江両岸を扼しつつ、弓取って箭を射かけ宋軍を攻撃し、さらに併せて水軍を流れに乗せて川下りさせ、宋軍の船団に突撃した。呂文徳はがむしゃらに前進したが、逼迫され利なくして退き重慶に帰った。


 六月中旬のある夜、モンゴルの将・汪徳信がその率いるところの部衆とともに夜襲を仕掛け、馬軍寨の外城を占領。王堅は南宋の軍卒を組織するとモンゴル軍が浮き足立って地に足がついていないうちに強襲、迅速に反撃を開始した。両軍の激闘は夜が明けるまで続き、このとき雷雨大いに轟き、モンゴル軍の雲梯をへし折ったために後続のモンゴル兵は行動を阻害され掣肘され、馬軍寨内のモンゴル兵は悉く殺戮された。汪徳信は懊悩し恥じ入りそしてかつ怒り、単騎城下に迫って城上の王堅に怒鳴って曰く「王堅、私の裁量で全城内の軍民を救ってさしあげる故に、貴公速やかに投降されよ!」これに対し王堅は投石機の一斉砲撃で答えた。汪徳信は躱すこと敵わず、その頭に岩石を喰らって流血、朦朧とし、軍営に戻り応急手当を受けたが功を奏さず、死んだ。


 モンケが見るに釣魚城は難攻不落、きわめて悩むと同時に怒り、火計によって場内をいぶり殺さんと決したが、それを決行する直前疾病にかかる。七月九日、モンケは敵の迫るのを前に諸将たちと建議し合い、ひとまず三千の精兵を以て釣魚城を警戒しながら、自分は主力を率いて悄然と立ち去らんとし重慶まで退く。七月二十一日、剣山の湯温峡にてモンケは病死。彼の死によりモンゴル軍はてんでに北へ離散、南宋政権を揺るがす大征戦に、南宋……というより王堅はかろうじて勝ち残った。九月二十八日、理宗の知遇を得て消息を尋ねられた王堅は、詔を以て寧遠軍節度使に昇遷され、また依然として左領軍衛上将軍、興元府駐箚御前諸軍都統制および知合州、節制軍馬を兼ね、爵位を進められて清水県開国伯に封ぜられた。


 景定元年四月、宋朝朝廷は王堅を臨安に召し戻し、侍衛歩軍司都指揮使に任命した。しかし翌年五月、王堅は宰相・賈似道の猜疑を買って忌まれ排斥され、左金吾大将軍、湖北按撫使兼知江陵府とされる。景定四年三月、王堅は知和州と管州按撫使を兼ねるも活躍の場を得ず、郁々として死んだ。

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