第58話 唐の尉遅敬徳《新唐書》89巻

尉遅敬徳(うっち・けいとく。585-658)

尉遅敬徳、名は恭、字を以て行わる。朔州善陽の人である。隋の大業末、高陽に従軍し、閲兵を積んで朝散大夫となる。劉武周の乱でもって偏将となり、宋金剛とともに南侵し、晋、滄などの州を得、永安王・李孝基を襲い破り、独孤懐恩らを執える。武徳二年、秦王李世民と柏壁に戦い、宋金剛は敗れて突厥に奔り、敬徳は余衆を合して介休を守る。王は任城王・李道宗、宇文士及を遣わしてこれを諭し、すなわち尋相と地を挙げて降り、引き立てられて右一府統軍となり、従って王世充を撃つ。


たまたま尋相叛き、諸将敬徳の乱を疑い、行台左僕射・屈突通、尚書・殷開山曰く「敬徳剽悍、今これを執え、已に結んでの背反を猜疑す。すなわち殺さずば、後悔及ばざるなり」秦王曰く「然らず。敬徳必ず叛くなら、寧ろ後ろの尋相なるものを肯んぜずや?」といってこれを許し、臥室に引見して曰く「大丈夫が相いに気を許し、小嫌を胸中に置いて足らざれば、我終いに良士の讒害を以て終わらず」よって金を賜り、曰く「必ず欲して去り、もって汝の資となせ」この日、楡?に狩し、たまたま王世充自ら兵数万を率いて来戦した。単雄信なるもの、賊の驍将なり。騎乗して一直に秦王に趨る。敬徳は躍馬太呼して横から刺し入り、単雄信馬から落ち、すなわち王は助かって出る。兵を率いて還戦し、大いにこれを破ってその将陳智略を擒え、兵から矛を排すること六千。秦王顧て曰く「衆人意うに公かならず叛く。我独りそれはないと保つ。なんぞ相報いるの速きか?」金銀一篋を賜る。


竇建徳が板渚に営し、秦王は李勣らに命じて伏兵を置いて弓を手挟ませ、敬徳には令して矛を奪わせ、その塁を略し、太呼師を致せと。竇建徳の兵出て、すなわちやや引き下がり、殺すこと数十人、衆ますます進む。伏兵発し、大いにこれを破る。時に王世充の兄の子・王?が竇建徳に使いし、隋帝の厩馬に乗り、鎧甲華美、出入りの軍中もって衆を憚る。秦王望み見て「誰か取るべきものやあらん?」敬徳は請うて高瓶生、梁建生と三騎で馳せ往き、王?を擒え、その馬を以て帰り、賊は敢えて動かず。劉黒闥討伐に従軍し、賊を奇兵で李勣が奇襲し、秦王は兵を帯びてその後ろを襲う。俄かにして賊は四面合し、敬徳壮士を率いて賊に馳せ入り、王は陣乱に乗じてかろうじて囲みを脱す。また徐圓朗を破った。功を以て王府左二副護軍。


隠太子かつて書をもって招き、金皿一車を贈る。敬徳辞して曰く「敬徳は幽賤から起ち、たまたま天下騒乱にして、久しく逆地に陥つ。秦王実にこれを生かし、我は身をもって恩に徇ず。今殿下においては功なく、それあえてまさに賜与するか? もし私が許せども、すなわち二心に懐き、利に殉じて忠を棄てるは、殿下またいずくんぞこれを用いるか?」太子怒って止む。敬徳以て聞く。王曰く「公の心岳山の如く、金を斗に至るまで積んだと雖も、豈よくこれを移さんか? しかるに恐るべきは己に非ざるの安計」巣王果たして壮士を遣わし秦王を刺させる。敬徳は門を開いて安臥し、賊至るも敢えて入れず。しかるに高祖を僭せようとするもまさにこれを殺され、王争いを固めて免ずるを得る。


その後隠太子、巣王の計は日に急を増し、敬徳と長孫無忌は入白して曰く「大王先に決せずば、社稷の危機なり!」秦王曰く「我これ同じ気ではあるが、未だ忍ばざるところ。其の発するを伺い、然る後義を以てこれを討つ、如何に?」敬徳曰く「人情は死を畏れ、衆は死を以て王を奉じる。これ天の授ける機なり、天とともにこれを取らずば、反してその咎めを受けよう。大王聴かずば即ち、請い従いてここに亡ぶ、交手蒙戮するあたわず」無忌曰く「王が敬徳の言に従わずば、敬徳はまた王の有に非ざる。今敗れたり」秦王曰く「寡人の謀、未だすべて棄てるべからず。公さらにこれを図れ」敬徳曰く「このことは智に非ず疑にあり、難に臨んで不决は勇ならず。王今自ら計って如何? 勇士八百人悉く入宮し甲を被り弦を牽く、尚なにを辞すや?」のちまた侯君集ら懇熟に勧め、計即ち定まる。時に房玄齢、杜如晦は排斥されて外に在り、召されても至らず。巣王怒って曰く「これ我に背くや?」ちなみに解す所佩刀これを授かり、言いて曰く「すなわち従わず、その首を斬る以来なるべし」敬徳は終に房玄齢らを訪れて諭し、計議に入略させた。


隠太師死し、敬徳は七十騎を領して玄武門に趨る。秦王馬を逸し、林の下に堕ちる。李元吉はまさに秦王から弓を奪って頸絞め、敬徳馳せてこれを叱咤し、元吉逃げてついに射殺される。宮、府の兵玄武門に屯し、戦わずして解す。敬徳は手に二王子の首をもって示し、すなわち去る。時の帝海池に舟を泛かべ、敬徳王命を待つ。敬徳は甲を脱がずして行在所に趨り、帝は驚き曰く「今日の乱は誰か? 爾来りてなにをやらん?」対して曰く「秦王の太師冊立に対し斉王が乱を為し、挙兵これを誅す。陛下畏れて不安あらば、遺臣宿に衛す」帝は意、悦ぶ。ここにおいて南衙、北門の兵と府兵尚の雑闘は、敬徳が帝を手招きし諸軍に秦王の節度を聞かせて、内外初めて定まった。


王は皇太子となり、敬徳は左衛率を授かる。時に隠、巣のために坐すもの百余家、将に悉くこれ没入す。敬徳曰く「悪者二人がなして、今既に誅。もしまた窮して支党をなせば、安道を取るに非ざるべし」このよしにより普原。論功第一位と為され、絹万匹を賜り、挙げて斉府の所の財を得、これを士卒に散らした。しかるに剛直、頗る自らの功を負い、また宮廷の大臣と得失を語って宰相と不平あり。出て襄州都督。累戦して同州刺史。かつて慶善宮で宴に侍り、目上の者に対して「汝に名の功やある、坐して我が上にあるか?」任城王・李道宗はこの喩を解したが、敬徳は勃然、李道宗の目を撃って潰した。太宗は許さず、罷免し、召して譲って曰く「朕が観る漢史に、かつて高祖の功臣で怪しまれて身を全うしたもの少なし。今見る卿の所為は、すなわち韓、彭の夷戮に均しくあるも、我高祖を過ぎるに非ず。国家の大事、これ賞と罰、恩を横にしてしばしば得るべからずは、務めて自ら修めいましめよ、悔いても及ぶべからず!」敬徳は頓首して謝した。のち改めて鄂国公に封ぜられ、?、夏二州刺史。老いるに至って開府儀同三司を授けられ、朝廷を遠くに臨む。


帝がまさに高麗を討つとき、敬徳は言上して「輿に乗って遼に至られ、太子を定州に屯す。遼京空虚となれば、畏れるは楊玄撼の変。夷狛は小国、万乗を枉げるに足らず。願わくば将臣に委ね、摧滅の時を待たれんことを」帝は容れず。詔をもって本官行太常卿、左一馬軍総管。軍を還して間もなく、致仕。顕慶三年卒。享年七十四。高宗は詔により京官で五品以上の者、および朝集使を臨弔に赴かせ、司徒、并州都督を追贈し、忠武と諡した。儀仗兵、羽葆(棺桶に使う羽根つきの天蓋)、鼓吹隊を給わり、昭陵に倍葬される。


敬徳は晩年、賓客に謝して滅多に遇わず、道観で自らを戒め、沼が奏でる清らな楽を楽しみ、自らを養うこと甚だ厚かった。また食事に雲母を喰らい、法士の術をなすこと延年。その戦いぶりはよく矛を避け、ことごとに単騎賊に入り、矛の群れ刺さると雖も傷一つ負わず、またよく矛を奪ってその矛で敵を刺した。斉王李元吉が刀でこれと技を比べるを請うと、敬徳は請うて王に刀を持たせ、自らは素手で相手をし、一切当たる能わず。帝がかつて問いかけて曰く「矛を奪うと鋒を避けるの、どちらが難なりか?」対して曰く「奪うが難なり」試しに斉王李元吉と戯れ、尽く見切り、李元吉は三度矛を奪われてついに大恥をかいて服した。

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