第57話 イスラム-サラーフ・アッディーン

サラディン(1138-1193)

 ユースフ・イブン・アイユーブ(アイユーブの息子ユースフ)は1138年、現代のイラクで生まれた。彼はスルタン・ナット・エド・ディンに仕えるクルド族仕官の息子であった。のちに彼が有名になったとき、人々は彼を呼んでエルマリク・エン・ナセル・ザ・コンクエディングと読んだが、彼は彼自身の名、アイユーブの息子ユースフを取り、サラーフ・アッ・ディーン「信仰の名誉」を名乗った。西洋人はこの名を発音できず、しばしば彼をサラディンと呼び、イギリスのリチャード一世(獅子心王)と対比させるが、実際には彼はリチャード一世ときわめて対照的であった。


 リチャードは彼の王国から遠く離れて、そしてそこで彼の人生の大半を過ごした。彼は並外れた騎士であり、そして不安を知らぬ心の持ち主であった。リチャードは叙情詩の愛好家で、ヨーロッパの騎士道のすべてに凝った方法で没入したが、しかし読書を好まず、国費のほとんどを軍備に充てるぐらいの戦争愛好家でもあった。対するにサラディンは戦争を憎み、読書を好んだ。本来であればサラディンが戦場に出る事はないはずであったが、セルジュク帝国の崩壊と家庭の義務によって戦争に引きずり出される事となった。一旦戦争に関わると、彼が卓越した戦略家である事はすぐに明らかとなった。しかしリチャードと異なり、彼は決して彼自身の軍を誇示する事をしなかった。


リチャードとサラディン、その対決を謳う中世の伝説にもかかわらず、両者が総力を挙げて決戦を起こす事はなかった。サラディンはリチャードに対して武力で劣り、しかし彼は支配者として為政者としてイギリス国王より遙か前にいた。彼は一つの国内にエジプト・シリア・メソポタミアと北アフリカを含む広大な版図を合併した偉大で賢明な王であり、そして寛仁な支配者であった。彼の時代、一時的にイスラム教はシーア派とスンニ派を結びつける事にすら成功した。


 サラディンの賊するクルド人とリチャードのノルマン人はある意味で互いによく似ていた。彼らは双方共に冷徹で用心深い、そして徹底した戦略家であり、両者共にそれぞれの騎士道を重んじたが、どちらとも恐ろしく残酷な性質と能力を秘めていた。かつて、交渉の席でサラディンの側が遅滞したため、リチャードはサラディン軍の人質2000から3000人の虐殺を命じた。サラディンは我慢ならず、もし保釈ための身代金が速やかに供出されるようであれば、彼の領域を侵すディナーゲストを出し物に皆殺しにするものをといった。


 サラディンはシリアにおける彼の地位を確固たるものにするため、彼の叔父シール・クーフ(スルタン、ヌールッディーンの作戦指揮官であった)に従軍した。それは達成されて、ヌールッディーンはシーア派カリフが彼らを遮るためエルサレムに送り込んだキリスト教派の王アマルリックを排除するため、エジプトにサラディンとシール・クーフを送り込んだ。アマルリックは2度シリア人を止めたが、シール・クーフは王室にクーデターを起こさせ、キリスト教擁護主義を標榜しない新たなカリフを立てた。シール・クーフはそのままエジプトに入り、国家の舵取りを行ったが、2ヶ月後、(おそらく毒殺されて)彼は死んだ。サラディンは数人のシーア派信徒をシール・クーフ殺害の罪で告発し、彼らのとがが裁かれるよう促したが、しかしサラディン自身に叔父殺害の嫌疑があり、告発はうまく進まなかった。傀儡のカリフがサラディンをエジプトのスルタンに任命し、うまみを得たのが彼であった事も理由に挙げられる。1174年、ヌールッディーンとアマルリックの両者が歴史から消え、サラディンはシリアに侵攻してヌールッディーンの土地を奪った。彼をスルタンに推したのはカイロのシーア派カリフであったが、彼はバグダットのスンニ派カリフの管轄下に(彼がシリアで征服した人々と共に)自らの首府を置いた。


それからサラディンは十字軍諸国に向き直った。エルサレム王国は大きな問題を抱えていた。アマリックの相続人は13歳の息子ボールドウィンであり、これはハンセン病患者であったが、そのいとこ、トリポリのレイモンドが三年間の摂政に任ぜられた。レイモンドは抜け目ない真の武人であったが、しかし彼の摂政期間が過ぎたのち、ボールドウィンは既に彼が年の行った人々のアドバイスを必要としない事を証明した。1177年、彼は彼自身の名によって「サラディンの軍を高く評価し、よってこれを伐つ」と裁決した。サラディンはかろうじて司直の手から逃れ、1178年から新軍を募兵して再起したが、初めの2年間、ボールドウィンはサラディンよりずっと少ない兵力で、絶えず強大なサラディン相手に術策で勝ち続けた。


 1180年、ボールドウィンとサラディンは停戦に合意した。ボールドウィンの内部問題の一つはヌールッディーンの地下牢で16年を過ごしたレイナード・ドゥ・カティリオン(旧アンティオキアの公子)であった。レイナードはサラディンのような宗教的寛容の人とは相容れないキリスト教至上主義者であり、実際、彼はイスラム教徒の巡礼を阻害して攻撃するため紅海にガレー船を置いた。彼は紅海アラビア岸と兵を擁するイスラム教の都市を攻撃し、略奪した。


 しかしこういうこともあった。サラディンとその軍の出現に際し、レイナードの軍には新婚者がいたので、彼は停戦の旗の下から結婚のごちそうの一部をサラディンに送った。辺礼として、サラディンは新婚者の滞在する塔を攻撃しないよう彼の技師たちに命令している。


 一方でボールドウィンをむしばむハンセン病は以前よりずっと酷くなっており、彼は両手足の指を失い、まともに座る事さえもできなかった。彼は義理の兄弟・ガイ・ドゥ・ラシグナンが摂政として立つ事に同意したが、それはガイが全くの無能である事を証明するための時間に過ぎなかった。


 トリポリのレイモンドはサラディンとの間に新しい条約を取り結び、ボールドウィンの7才の甥がボールドウィン5世として叔父の後任になった。しかしこの子供は18ヶ月後に死に、彼の母シヴィリは自ら女王位につき、あろうことか無能なガイ・ドゥ・ラシグナンを王位に就かせた。


 レイナード・ドゥ・カティリオンは再び約に叛いた。サラディンは十字軍地方を侵略し始め、ガイ・ドゥ・ラシグナンは彼が集めうるすべての兵をかり集めて接近するシリアーエジプト勢力と対決した。夏の半ば、サラディンの軍は大きく、そして彼はパレスチナの枯れた土地に馬の飼い葉と水以外の食糧を見いだす事が出来なかった。


 トリポリのレイモンドはガイに待つよう進言した。なぜならサラディンは今回、長期間軍隊を維持できる状況になかったから、このまま待てば勝利は自ずと転がり込んでくるはずであった。しかしガイはレイモンドではなく、攻撃的な扇動者、レイナード・ドゥ・カティリオンに耳を傾けた。サラディンは十字軍士の水場への接触を防ぎ、重厚に防衛戦を築いた。レイモンドと少数の彼の追従者はかろうじてイスラム教の防衛線を突破する事に成功したが、ほとんどのキリスト教徒は矢と、それ以上にほてりと乾きで死んだ。国王ガイは虜囚となり、サラディンは以後長らく武器の運搬を行わないという約束をのみ約させて、身代金を取らずに彼を保釈した。「王は王を殺さない」とはこのときの有名な言葉である。


 しかしサラディンはレイナード・ドゥ・カティリオンに対しては自らこれを殺す事を誓った。彼はレイナードにイスラームを受け入れるつもりがあるかいなかを問い、キリスト教徒がこれを軽蔑と共にはねつけたとき、スルタンは彼の剣を振り上げた。が、彼は人を殺す事に対する平素からの禁忌のため、首をはね飛ばす事が出来ず、レイナードの腕を切り落とした。このときサラディンの恥ずべき使用人は十字軍士の捕虜を虐殺した。サラディンはテンプル騎士団とホスピタル騎士団員の捕虜にあえてイスラム教徒への回収を問う事はしなかった。回答がわかりきった事であったから。彼らは全員が処刑され、一般の兵士たちは奴隷市場に売られた。


 彼は身代金のために貴族を拘束したが、サラディンはそれを獲得するより早く、すぐにエルサレムを含めた十字軍寨の大部分を奪回した。安全を感じると、ガイは約定を破ってアクレの攻囲戦に参加した。彼はイギリスのリチャード、フランスのフィリップ王らと合流した。この秋のアクレ攻囲戦の後に、リチャードは伝統的な十字軍編成を使って海岸下方に軍を置いた。海とイタリアのガレー船が彼の右脇を保護した。他方で歩兵隊の槍兵が、離れた場所でイスラム騎兵を引き留めた。


 槍兵を保護するのはイスラム弓兵をさらに上回る数を誇るクロスボウ兵で、これら従僕たちの後方に重装の騎兵がいた。イスラムの騎兵が十分近くなったとき、歩兵隊は左右に分かれて横からイスラム騎兵を囲い込むであろう。この軍隊はイスラム軍の真っ正面を横切って通ったが、リチャードはエルサレム奪還に目もくれなかった。彼はその気ならイスラム弓兵が海岸沿いからそれを阻害する事が出来ると知っていた。ゆえにエルサレムはただ野戦軍によって全面的に利用供給されるだけであった。彼はサラディンとの間に優勢ながら決着のない無為な勝負を行い、満足し、休戦協定に調印した。以後何世紀もの間、十字軍を名乗る兵士がエルサレムにやってきては、毎度失敗する事になる。


 サラディンは彼の騎士道に対する素晴らしい賞賛を獲得し、十字軍士からも尊敬された。十字軍士たちの手にかかって何千というイスラム教徒が無惨に殺されたにもかかわらず、サラディンは恩赦と、すべてのキリスト教徒へのエルサレムへの自由巡礼の権利を約束した。1193年に彼が死んだとき、政府議員は大いに驚いたという。サラディンの私財は慈善による施しによりすべて使い尽くされており、金貨三枚しか残っていなかったというのだから。

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