第56話 上杉不識院公謙信

上杉輝虎(1530-1579)

 上杉謙信こと上杉輝虎は享禄3年(1530)1月21日、越後守護代長尾信濃守為景の末子として、春日山城で生まれた。母は栖吉長尾家の娘虎御前、寅年生まれのため幼名を虎千代という。


 彼が誕生したとき、越後は「天文の乱」の真っただ中で、決して平穏とは言えぬ状況にあった。越後守護・上杉定実の生家・上条城主、上条定憲が為景に敵対する武将たちを誘い、越後各地で為景軍と戦っていたからである。天文2年(1533)10月、上条方の坂戸城主・長尾房長、鳥坂城主・中条藤資、新発田城主・新発田綱貞らは為景派の居多神社に乱入して社殿を焼いた。その月の24日、為景は越後を平定したら社殿を造営する、と誓文を奉じ、居多神社に越後鎮定を祈願した。翌年には為景は社殿、御手洗、御橋、神門を造営し、天文4年、遷宮したということである。


 虎千代は幼い日々、観音菩薩の信者であった母のもとで育てられ、慈悲心の強い少年に育つと同時に、父からは下剋上の世を生き抜く武将としての処世術を学んだ。のちに彼は父について「漢の劉邦は生涯に70余戦したが、わが父は100余回戦った」と書状に書いて述懐している。


天文5年(1536)、7歳の時、春日山城下の林泉寺に入る。父・為景は虎千代に武将としての教育をほどこしながらも、彼を武将とすることは考えていなかったようであり、上に21歳も年上の兄・晴景がいるのだから当然といえば当然。お家騒動のもとは寺に入れて僧とするが安全、と思ったのだろう。ともあれ虎千代は名僧・天室光育のもとで厳しい禅の修行を積み、文武の道をも学んだ。天才武将・上杉謙信の素地はこのころに培われたといってよい。


天文5年8月3日、父・為景は守護代長尾家の家督を嫡男・晴景に譲り、11年12月24日、戦雲の中病死した(越中勢との戦いの中で戦死したとする説もあり、「名将言行録」ではそちらを取るが本稿では病死説を取る)。この当時も越後国内は安定には程遠い状況で、のちの弘治2年(1556)、謙信は「父が死んだとき、敵が春日山城下まで逼ったので、自分も幼少ながら甲冑をつけて葬儀に参列した」と回想している。


晴景が病弱で暗愚、国主としての器量にかけることが露見すると、前述の中条藤資や本庄城主・本庄房長、平林城主・色部勝長ら揚北衆は晴景の命に従わず、春日山城に参内することもせず、放縦の限りをつくす。武将たちの不穏な空気を察知した栃尾城主・本庄実乃は晴景に火急を伝えた。


そこで起用されたのが当時わずか14歳の虎千代、還俗して長尾平三景虎である。天文12年(1543)8月18日、晴景は本庄実乃に宛てて「弟の景虎が近日中に出陣する、勝利は目前である」と書き送った。


同年、景虎は兄を助けるため三条城に入り、ついで栃尾城に入った。翌天文13年、雪が消えるや、近隣の武将たちは景虎を若輩と侮り方々から攻撃を仕掛けてきたが、15歳の景虎は栃尾城主・本庄実乃、三条城主・山吉行盛や母の実家の栖吉長尾家らの協力を得て、敵を見事撃退、初陣を飾る。


栃尾城での景虎の人望が日増しに高まると、景虎の叔父・高梨政頼や揚北衆の中条藤資、栖吉長尾家の長尾景信らは景虎擁立を企てた。国主晴景が凡愚であるからというのが一番の理由ではあろうが、それでも元服したばかりの少年を国主にというのはやはり景虎の英傑ぶりを示す。一方で晴景は義弟の坂戸城主・長尾政景らの支援を受けて景虎討伐を決意。しかし事態は流血を見ることなく終息した。景虎と晴景が対立すれば自分の地位が危うくなると見た守護・上杉定実が、両者を和解させるべく奔走、最終的に「景虎を晴景の養子とし、守護代長尾家を相続させる」ことを晴景に承諾させたのだった。


が、ここで収まりがつかないのが晴景派の急先鋒、長尾越前守政景。天文16年4月、政景は7000余をもって栃尾城を攻める。しかし景虎は櫓に登ってこの敵を見ると「今宵、敵は引き返すであろうからその退却の出鼻を狙って出よう」と言い、宇佐美定行が「遠路はるばる来た敵がそうそうはやばやと引き返すはずがありましょうや。疾く打って出て打ち払いましょう」というも「昼から敵の情勢を見るに軍兵ばかりで兵糧方の小荷駄がない。とすれば長陣の敵ではなかろう」と答える。定行もこれに得心して、ならばと夜半、敵の退却口に突き掛り、敵を総崩れとして勝ちに乗じて追撃、定行と本庄実乃もこれに続き、柿崎の下浜で大いに戦い、大いに敵を破った。


景虎は敵が撤退するのを追撃したが、米山東坂本で「ひどく眠くなったのでしばらくここで休んでから打ち発とう」といって小屋に入って眠る。定行はこれを見て不可解に思い、「これはどうしたことでございましょう。今このまま敵を追いたてていくことは、いわば破竹の勢、この勢いを駆って追撃なさりますように」と促しましたが、景虎は眠いと言って高鼾で眠ってしまう。定行はいろいろと進言するが景虎は起きることなし。人々はわが軍ももはやこれまで、と口々に言い合ったが、景虎は敵が米山越えを3分の2ほど行ったであろう頃、突然起きて早貝を吹かせ、打ち発って米山に登って行ったので、敵が下り坂にかかろうとするところに追いつき、追い落として死者無算を獲た。定行が人々に「今日、主公が米山坂で眠られたわけがわかったか」とたずねるとみなわからないと答えたので、定行は「敵が米山に逃げ登っているとき、これを追えば敵は山の高みにいる。ゆえに必定、追い返されたであろう。主公は刻限をみはからって、眠っているふりをして上り坂を敵に登らせ、下りになったところを一気に追撃して勝利を得られたのだ。わしは若年より戦陣に望むこと数十度に及ぶが、このような見通しを立てたことは一度もない。しかるに主公はご若輩でありながらこのような臨機応変の処置に出られ、戦功かくのごとくである。まことこれ軍神の化身としか思えぬ」と言って景虎の武略を褒めたたえた。その後まもなく、政景は降人となって出てきた。景虎は上杉定実に拝謁して事の顛末を申し上げ、定実が左右のものに語って言うに「あれはまさに蛟竜である。ひとたび風雲を得た暁には、狭い池中を脱して天空高く舞い上がる人物だ」と。


天文17年(1548)12月30日、景虎は栃尾城から春日山城に入り、晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続して春日山城主となった。ときに19歳。各地の武将たちから祝賀の書状が届いた。本庄実乃が黒節城主・上野家成に宛てた書状に、「お館様の調停により、無事に養父子の義を結んで政権を譲り受け、晦日に鉢峰(春日山城)に移られた」とあり、平和裏に政権交代が行われたことがうかがわれる。


のち弘治2年(1556)、景虎は「私は若輩であったが、亡父為景、および長尾家の家名に傷がつくとならぬと思い、春日山城に入った。すると、国内はいつの間にか静謐となった」と語っている。以後、49歳で死去するまでの30年間、春日山城を根拠地に、京都・信濃・関東・北陸へと東奔西走することとなる。


景虎21歳の天文19年(1550)2月26日、守護・上杉定実死去。彼に嗣子がなかったため、越後上杉家は断絶。その二日後、景虎は13代将軍・足利義輝から「白傘袋」と「毛氈鞍覆」の使用を許され、実質的に国主大名の待遇が与えられた。


と、いえど景虎の前途は多事多難であった。同年12月、反景虎勢力の筆頭・長尾政景が坂戸城に立てこもり、謀反を起こしたのである。しかし翌天文20年8月1日、政景は景虎に誓詞を送り、降伏する。景虎は姉の仙桃院が政景に嫁いでいた関係などから許した。ここに到り、景虎の長尾家相続のときからあった長尾一族内の確執は一応除去された。


その翌々年の天文21年正月、関東管領・上杉憲政が越後に亡命。川越夜襲で後北条家に完膚なきまで打ちのめされ、着の身着のまま雪山を越えて越後にやってきた憲政を、景虎は御舘という館を立てて保護した。これは関東管領の権威を利用するための政治的意図があったとする説もあるものの、実のところその後の行動からみても、景虎は関東管領上杉家を保護することで受けた損失を考えても、打算だけではなかったであろう。あくまで義によって窮鳥を受け入れたというところではなかろうか。


天文22年2月10日、兄・晴景死去。享年45歳。同年上洛し、105代後奈良天皇に拝謁して最高の栄誉に浴した景虎は、将軍足利義輝にも拝謁し気に入られた。が、越後国の内憂外患はさらに続き、この年、最初の川中島合戦が行われた。武田家に奪われた旧領を回復したいという村上義清らの要請による出兵で、普通ならこんな要請に乗る必要はないのだがそこは長尾景虎、義の体現者。信濃衆のために武田軍に攻めかかりました。しかし武田軍は真っ向勝負を避けて守りに出、農民兵を使っている景虎は長期戦ができず繁農期には帰還、結局北信濃は武田信玄の手に落ちる。このとき景虎は武田信玄という終生の敵手を初めて意識し、おそらくは信玄もこのとき越後の長尾景虎を意識しただろう。それを証明するように、翌23年12月、北条城主・北条高広(きたじょう・たかひろ)が謀反を起した。信玄の巧妙な謀略のためで、12月5日、信玄の家臣・甘利昌成(あまり・まさただ)が北条城に赴き、春日山城攻略の謀議をしている。


年明け、天文24年1月14年、景虎は安田城主・安田景元に命じて「上条城に在陣している柿崎景家や琵琶島城衆らと連絡を取りながら、北条城を攻撃するように」と命じ、2月はじめに出陣して北条城攻撃の陣頭指揮をとった。景虎に包囲されて窮地に陥った北条高広は信玄に救援を求めたが、しかし武田軍はついに現れることがなかった。信玄にとっては越後を攪乱するだけで十分であり、それ以上北条に肩入れする理由も必要もなかった。孤立無援となった北条高広は景虎に屈する。


 弘治元年(1555)、2度目の川中島出兵を経て、その翌年の弘治2年3月23日、景虎は突然、出家する意向を家臣たちに伝えた。ときに景虎27歳。国はようやくに盤石となったところだが、景虎にとって国人たちの土地争いの醜さが耐えられないものだった。欲望亡者の相手などしてはいられぬとばかり、景虎は6月28日、旧師・天室光育に書状をしたためて高野山に向かう。その書状に曰く「ここ数年で越後国内の騒乱は平定され、私は越後守護代長尾家の家名を再び上げることができました。また、先年は上洛を果たし、宮中に参内し、天皇から盃をいただき将軍にも拝謁してさまざまの高い格式を許されました。これは私の誇りとするところであります。が、このところ越後国内では豊作が続いているにもかかわらず、家臣たちはかえって争いをおこしており、このままでは折角築き上げた功業もふいになってしまいそうなので、私は『功成り名遂げて身退く』の言葉に従い引退して遠くへ行きたいと思います。幸いなことに当家には優れた家臣の面々がそろっておりますれば、後のことは彼らが相談して取り仕切ってくれることでしょう。自分は遠くからそれを見守りたく思います」と。


 景虎が高野山に向かうと、箕冠(みかぶり)城主・大熊朝秀が武田信玄に内応し、挙兵した。信玄得意の攪乱戦法に乗せられたわけだが、関山権現でおいついた長尾政景の説得により還俗した景虎はすぐさま春日山城に戻り、8月23日には大熊勢を駒帰で撃破し、越後の統一を完成する。敗れた朝秀は甲斐に落ちて武田信玄に仕え、以後大熊氏は武田家の譜代の家臣以上に忠勤に励んだということ。武田信玄という大敵との戦いが激化の兆しを見せるこのころ、景虎はまた別の大戦を変えることになった。すなわち関東の雄、後北条氏との戦いである。


 関東管領・上杉憲政が関東の旧領を取り戻してくれと要請されれば、景虎に否やはない。普通なら2正面作戦など絶対に取らないところだが、景虎にとってはそれが正義である以上損得勘定はなかった。そして並みの大将であれば部下もついてこなかったであろうが、景虎は並外れた将才で軍神の化身と信仰されていた大将であるゆえにこの点を乗り越えた。景虎が二度目の上洛を果たした永禄2年、その帰国のときに、上杉憲政は北条氏征伐を輝虎に強く望んだ。これを受け、景虎は反北条の諸大名に呼びかけ、永禄3年、上野国の東、東上州を攻めた。北条氏にとってみればここは本拠相模国から遠く離れた最前線であり国境地帯、そこに越後軍団が突如襲来したのだからたまったものではない。北条勢はいったん東上州を放棄して撤退する。このとき景虎は厩橋城に本拠を置き、そして繁農期には北に帰るだろうという北条氏康の計算を裏切ってここで年を越す。そして年明けの永禄4年(1561)、憲政を奉じた景虎は北条氏の本拠、小田原城を攻めたのだった。とはいえ巨大な城郭都市・小田原城はいくら景虎が戦の天才と言えど力攻めで落ちるものではない。結局数十日の包囲ののち、思うような戦果なく撤退するしかなかった景虎だが、これには思わぬ余禄がついた。景虎の献身的な奉仕に感激した上杉憲政が、関東管領の職と上杉の姓を輝虎に譲りたいと申し出たのである。景虎は一度は辞退したが憲政の熱心な説得と反北条諸将の支持のもと、ついにこれを受けた。以後長尾景虎は上杉の姓を名乗り、憲政の諱から一字を拝領して上杉政虎と名乗ることになる。関東管領就任式は源氏の氏神である鎌倉鶴岡八幡宮の社殿で行われた。このことは名誉的には上杉政虎(謙信)の人生最高のものだったであろうが、結果として彼はこれで絶望的な状況に足を突っ込むことになった。関東管領である政虎には関東を成りあがりの後北条氏から奪回する義務が生じるが、いくら大挙して攻めても北条氏康が小田原城に籠城する限り、兵農分離していない農民兵主体の上杉家では絶対に落せない、つまり勝つことはできないのである。しかし政虎はまったく腐ることなく、越後に帰還して2カ月ほど兵士を農作業に専念させたのち、8月、再び13000の兵を率いて春日山城を出発した。今度の敵は北条氏康ではなく、武田信玄。ついに第4回川中島合戦が火蓋を切って落すときがやってきた。


 武田信玄と上杉政虎は過去三度対陣しているが、政虎にとって思うような戦果を挙げることはできていない。一度は村上義清らの旧領を回復しているが、上杉勢が引き上げるや否や武田勢がまた村上氏らを駆逐するからである。これも長期戦ができない弱みを突かれた形であった。また、関東と違い川中島には上杉方の出城がなく、野戦で決着がつかない限り、雪が降り出してしまえば越後軍団は本国へ引き上げざるを得ない、ということでもあった。対するに武田家には海津城という出城があり、この点大いに有利であった。とにかく正面切って戦わずにあしらっておけば政虎は引き返さざるを得ないからである。が、今回の川中島合戦はいささか趣が違っていた。政虎は関東管領に就任したこともあり、これまで決着がつかなかった信玄を今度こそは打倒して村上義清らの旧領を回復してやろうと意気込んでいた。一方で信玄も事あるごとに攻め込んできては領土拡大の邪魔をする最大の厄介者、政虎を排除せねば他国へ手を回す余裕がなく、今回こそは政虎を斃さんと頃に期するところがあったようである。それに、誰もが恐れる謙信を自らの手で倒せば、そのまま越後を武田家の版図とすることも夢ではないのだから。


 というわけで信玄は山本勘介に政虎打倒の計略立案を下命、そして勘介が立てたのが有名な「啄木鳥の戦法」だった。

川中島に城を持たない政虎は妻女山という山の上に陣を敷いていた。川中島を見下ろす山上に居る政虎を討ち取ることは困難を極めるので、なんとしてでも川中島の平地に上杉軍を引きずり出す必要があった。そこで啄木鳥戦法。武田軍は総勢20000人、これを本体8000と別働隊12000に分ち、本体は川中島八幡原に敷いた本陣を守り、別働隊が夜陰に乗じて密かに裏側から妻女山に登り、上杉軍に夜襲をかける。上杉軍が仰天して陣地を放棄し八幡原に降りてきたところを、待ち構えた本隊8000が討つ、という寸法であった。が、政虎は軍事的天才をもってこれを見破る。


 政虎が妻女山の山上から武田軍の八幡原陣地を見ていると、いつもより飯炊きの煙が多く立ち上っていることに気づいた。余分に米を炊いているということは弁当にするということ。ということは武田軍が弁当を必要とする作戦行動に出るということで、本陣が動かないのなら弁当を持つ必要はないのだから必定、別働隊による夜襲があるものと政虎は軍師・山本勘介の計略を看破した。


 そこで政虎は敵の裏をかき、敵が夜襲を仕掛けてくるより先にこちらから動いて山を下り、八幡原の敵本陣を搗こうと考える。上杉勢は13000人、武田勢は20000人。正面切っての戦いでは圧倒的にこちらが不利。しかし別働隊と本体に分かれての作戦中に本隊を搗けば、圧倒的有利となる。政虎は全軍に隠密行動を命じ、旗や篝火はそのままに残していかにも寝静まっているように見せかけ、夜陰に乗じてこっそり正面から山を下り、千曲川を渡った。


 そして13000人のうちから1000人を割き、この渡河地点に置いた。武田軍の別働隊が裏をかかれたことを知って急ぎ戻ってきたとき、その戻りを妨害するためである。一番いいのは渡河中を妨害することなので、政虎は1000人をここに配したのだった。


 そして奇襲作戦はいかに敵に気づかれずに接近できるかに成否がかかるものだが、この点政虎は幸運でもあった。夜明けの後も川中島一帯には深い霧が立ち込めて、上杉軍の動きは武田側にまったく察知されなかったのである。そして、肉薄の直前、ついに武田軍が上杉軍の存在に気付いたところで、政虎は12000人に総攻撃を命じた。この時点で兵力比率は12000対8000、絶対有利ながら、この有利は武田軍別働隊が戻れば一気に逆転されてしまう。両軍必死の激闘が開始され、当然ながら数に勝る上杉勢有利で戦いが進められた。しかし武田家も粘りに粘り、信玄の弟で武田家の柱石ともいうべき武田左典厩信繁と軍師・山本勘介、諸角豊後守、初鹿野源五郎などの戦死をもってついに守りきり、夕刻、政虎は遺恨を抱きつつ越後に引き上げた。ちなみにこの戦いにおける両軍の死者はともに3000人。実に4人に一人、25%の人員が戦死するという大激戦だった。


 この戦いののち、政虎は足利義輝から一字を賜って輝虎と改名する栄誉に浴すが、武田信玄は相模の北条氏康と提携し、関東の上杉方諸城を攻略し続けた。ために輝虎は三国峠を越えて関東諸将を救済せねばならず、さらに輝虎の留守を狙って永禄7年4月18日、武田軍は野尻城を攻略、進んで越後領内に侵入して村々を焼き払う。たまりかねた輝虎は信玄と雌雄を決すべく5月13日、飯塚八幡宮で五壇護摩を執行し、武田晴信(信玄)を退治し、今秋中に甲府に「毘」の軍旗を立て、晴信の分国をことごとく統治下に入れることを祈願した。


 6月二四日、政虎はさらに弥彦神社に「輝虎は筋目を守り、非分をしない」という願文を掲げて関東・信濃・越中への出陣の筋目を明らかにした。

 曰く

関東へ連年出兵するのは上杉憲政から関東管領職を譲られたからで、関東の平和実現を願ってのことです。

信州川中島に出陣する第一の理由は、村上義清ら信州の武将たちが武田晴信に領土を奪われて浪人となり、輝虎に助けを求めてきたからです。また輝虎の分国西上州へ武田晴信が侵入し、川中島においてもわが家来を多く戦死させました。そこで武田晴信退治のため、出陣しているのです。非道なことはありません。

越中へ出陣するのは、神保長職(じんぼ・ながもと)と椎名康胤(しいな・やすたね)が争い、輝虎の意見を聞き入れてくれないからです。とくに椎名は亡父為景以来同盟を結び、長尾小四郎を養子に遣っている関係で捨てがたく、加勢しているのです。これまた非分ではありません。長尾家は坂東の統治下にあり、代々、関東管領家の意見に従ってきました。今度、輝虎が関東管領職に就任したからには、関東の平和実現のため武将たちに意見するのは当然で、輝虎の非ではありません。

今後のことはわかりのませんが、現在、何処の国でも料所は一か所もありません。このことは輝虎の責任ではないのです。

輝虎の分国においても、武士が寺社神領を横領しています。それは、世の乱れから輝虎の意見を聞かなかったり、それ相応の理由があってのことです。堂社仏堂の修理・建立・寺社神領のことも、輝虎の心の及ぶ限りやってきました。武田晴信、伊勢(北条)氏康を退治したうえは、前々のように、できる限りのことはいたします。輝虎一代においては非分をせず、大小のことは神慮に頼るのみです。輝虎は非道を知りません。このうえは、必ずや輝虎の願いを、かなえていただけることと思います。

永禄7年甲子6月24日、上杉輝虎(花押)


 こうしたのち輝虎は7月下旬、兵を率いて春日山城を発し、29日、善光寺に着陣した。8月1日、輝虎は更科八幡宮に信玄撃滅の願文を掲げて戦勝を祈願し、3日、犀川を渡って川中島に進み、武田軍との決戦に臨んだが、塩崎の信玄と対峙すること60日、ついに合戦には至らず、飯山城を修築して信玄に対する備えを十分にしてから桃井義孝、加地春綱に守らせ、10月1日、帰国の途に就いた。これが第5回川中島合戦である。


 のち、謙信はついに上洛を企図する。そのためにはまず能登の七尾城を統治下におかねばならない。七尾城は別名を松尾城ともいい、標高300メートルの典型的な中世の山城で、現在国の史跡に指定されている。


 天正2年(1574)7月、七尾城主北畠義慶(きたばたけ・よしのり)は家臣・長続連の謀略により毒殺された。そのためにわずか2歳の春王丸が父の跡を継ぐ。長続連・綱連親子、三宅長盛らが織田信長と結ぼうとしたのに対し、遊佐続光、平尭知(ひら・たかとも)らは輝虎を頼ろうとし、ために城内は二派に分かれて険悪となった。


 天正4年5月18日、輝虎と本願寺顕如との和睦が成立し、加賀・能登・越中で織田信長軍と攻防を展開することになる。将軍足利義昭は6月12日、輝虎に武田勝頼、北条氏政と和して信長を討滅し、京都を回復するよう請うたから、輝虎としてもこれは看過できない要請だった。これを受けて25日、政虎は武田・北条と和を結び、京都の回復を承諾する。こうして足利義昭、本願寺・上杉を中心とした反信長体制が成立した。信長は輝虎の機嫌を取ろうと「洛中洛外図屏風」を贈るが、輝虎が止まらないとみるや安土城を築いて上杉軍への備えとした。


 天正4年9月、輝虎は越中へ出陣。破竹の勢いで栂尾(とがのお)城、増山城を攻略し、飛騨口に二城を築き、一向一揆に備えた。


 ついで輝虎は能登へ侵攻、12月までにその大部分を平定し、19日には七尾城を包囲した。24日には石動山城を築き、直江大和守景綱らに守らせて七尾城攻略の背後の抑えとした。

 政虎は七尾城下の天神川原に陣を張り、周囲から攻めたてたが、難攻不落の名城はいっこうに動揺しない。七尾城をにらみ続けているうちに天正5年の正月を迎え、正月18日、上杉軍は木落口で七尾勢と交戦しましたが被害を受けた。2月には総攻撃を予定していたが、小田原北条氏が輝虎方の諸城を攻撃し始めたため関東諸将からしきりに救援要請があり、3月、ひとまず春日山城に戻って関東出陣の陣触れを出した。


 が、天正5年(1577)3月27日、前将軍足利義昭や安芸の毛利輝元から「信長が紀伊雑賀を攻めているから今こそ京都を奪還できる好機である。すぐに上洛してほしい」との書状が届く。このとき輝虎は「能登畠山氏の重臣・長続連が信長方に寝返り、輝虎方の熊木城、富木城を奪回し、穴水城に逼った」という急報を受けた。


 閏7月、輝虎は畠山義綱の弟で上条城主・上条義春を能登守護に擁立することを名分に、春日山城を出立。17日にはまた天神河原に陣を張った。


 一方、籠城軍は守備を固めたが、ここで天佑。七尾城内で疫病が流行し、閏7月21日、城主畠山春王丸をはじめ多くの城兵が病死。長綱連は主君なきあと父・続連とともに七尾城を死守し、弟を安土城の信長のもとに奔らせて救援を求めた。


 輝虎は心を寄せている遊佐親子を内応させ、遊佐親子は長続連一族100余人を殺して輝虎を七尾城に引き入れ、これによって輝虎は七尾城を攻略した。かくして守護畠山氏の能登支配は170年で幕を閉じる。


 このとき「織田信長軍総勢48000が加賀手取川を越えた」という情報を受けた輝虎は9月18日、馬を走らせる。柴田勝家を総大将に前田利家、佐々成政らの勇将が輝虎をまちかまえていましたが、織田軍は七尾城の悲報を受けて浮き足立ち、士気低下して退却を始めた。ところが運悪く手取川の増水で逃げ場を失った織田軍は、1000余人が討ち取られ、川に流され溺れる者その数を知らず、といわれたほどの大打撃を蒙った。このとき輝虎は「信長と雌雄を決する覚悟で臨んだが相手は思いのほか弱く、この分なら天下を平定することは簡単です」と足利義昭に書き送っている。


 9月26日、輝虎は改めて七尾城に登り、七尾湾から周囲の山々を眺めて感慨にふけると、ここを修築して鰺坂長実(あじさか・ながざね)、遊佐続光らに守らせ、ひとまず関東を平定してから上洛しようと春日山城に凱旋した。


12月23日、輝虎は上杉軍団81人の動員名簿『上杉家家中名字尽手本』を作成、翌年3月15日を関東出陣の日と決めたが、関東大遠征直前の天正6年3月9日午の刻、厠で倒れて人事不省となり、あらゆる医療を施し神社仏閣に平癒祈願をしたものの甲斐なく、13日未の刻、春日山城で帰らぬ人となりました。享年49歳。法名は不識院殿真光謙信。将軍家の藩屏となる夢を見て果たせず、無念であったろうことがしのばれる。遺骸には甲冑をつけ、甕に入れて密封され、春日山城内不識院に葬られました。大酒のみであることと休む間もない遠征の連続が死期を早めたのであろうといわれる。


輝虎はすでに自分の死期を悟っていたようで、死の1カ月ほど前の2月、蔵田五郎左衛門に命じて京都から画工を招き、寿像を描かせている。寿像はちょうど謙信が死去したその日に完成した。謙信寿像の裏書をした高野山無量光院の清胤と澄舜は、「かねて死期を悟りたまうか不可思議なり」と『上杉謙信寿像裏書』に書いている。

辞世の句は

四九年一睡の夢、一期の栄華一杯の杯

もう一句、こちらは名将言行録にある歌は、

 極楽も地獄もさくは有明の月ぞ心にかかる雲なき

と。のち、太田資正が北城丹後守長国に語って言うに、「謙信公の人となりを拝見すると、一〇に八つまでは大賢人で、後の二つは大悪人というべき点がある。怒りに乗じてするときは、たいていよくないことである。そこが欠点。また一方で勇猛果敢、心が清浄で器量も大きく、廉直で隠すことなく、明敏でよく洞察し、慈悲の心があって下のものを良く育て、好んで忠心の諫言を聞き入れるなど、これらは優れた点である。今後は容易に得難い名将である。それだからこそ、その八つは賢人だと人々が謂うのである」とのこと。

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