第55話 フリードリヒ2世大王

フリードリヒ大王(1712ー1786)

 フリードリヒ二世は一般に「フリードリヒ大王」と呼ばれるが、近年1945年の第二次大戦終息後までは大した評価をされなかった。何故なら彼のイメージがプロイセンの軍国主義やナチズムの色眼鏡でゆがめられて伝えられ評価されたからで、彼は歴史の闇の中に放り込まれていた。しかし実際問題として彼は彼の生きた時代において時の人であり、彼の戦役は政戦両略において巨大な意義を持っていた。彼は季節を選んで戦争を行い、7年戦争の間、霜が解けて春の花が咲くとフリードリヒはそれを合図に戦争を開始した。そして日が短くなり雪が大地を覆い始めると、彼は冬営地に引き下がって詩作に耽った。よく間違われることだがフリードリヒは軍国主義者ではなかった。彼はシュラウド(幕)という軍服を着用したが、この制服の着用は偉大な戦闘マシーンとしてフリードリヒを鍛え上げ、プロシアの国益のために息子を訓育した彼の父、フレデリック・ウィリアム一世によって作られた伝統であった。1740年、フリードリヒが「プロシア王」に即位したとき、彼はアカデミーとオペラハウスの創建とその人員確保には熱心であったが、彼の軍隊の拡充については熱心でなかった。彼が征戦に乗り出すきっかけは1740年10月、神聖ローマ帝国のカール六世死亡に端を発する。カールには息子がおらず、1713年、属国ドイツの家臣らに「実践制裁」を承認させて彼の長女、マリア・テレジアのハプスブルグ家継承を認めさせた。フリードリヒはハプスブルグのシレジアに対して、領有権を主張できることを知っていた。リーグニッツ、ブルージュ、ウォーラウは1675年に絶えたポーランド、ピアスト家の傍流からプロシア領に流れたらである。フリードリヒの曾祖父はその権利を放棄したが、フリードリヒはこれを再主張することがローワー・シレジアのプロテスタントにとっての利益になると信じた。皇帝と彼の父はユーリッヒとベルグの公国で会盟し、フレデリック・ウィリアムは自己の正当性を信じていたが、さらにその父、フリードリヒの祖父は帝国の承認によって王号を得、さらに多くの栄光を得たのであって、これは若きフリードリヒが戦士として知識人として多くの人々同様に憧憬していたことであったが、彼の愛好する作家である新古典主義作家コルネイユとラシーンの作品で読んだほどには彼を熱狂させなかった。かくて中央ヨーロッパのパワーバランスを改革することが彼の心の中を長らく占める大命題となる。彼はブルンスウィックのカール兄弟に「皇帝の死はヨーロッパを血みどろの戦乱に突き落とす」と言い、それは即ち「わたしの中で長らく暖めてきた計画を実行すること」の発露であった。バイエルン人やサクソン人が先に動くかもしれないという恐れもあり、マリア・テレジアの夫フランシス・スティーブンは多くのドイツ人からフランスの道化者としか見られておらず、神聖ローマ帝国の継承者として相応しいと思われていなかったから、フリードリヒはドイツのプロテスタントやイギリスからそれなりの支持を得た。


第一次シレジア戦争

1740年、フリードリヒはシレジア占領を開始、その主要都市および衛星都市は容易に彼の手に落ちた。彼は1740年4月10日までに自分の才能を証明しなければならず、モルヴィッツのグラーフ・ヴィルヘルム・フォン・ニッパーフ率いるオーストリア軍に奇襲をかけた。ニッパーフの部隊がプロシア軍右側翼を撃破するとプロイセン軍は士気崩壊し、フリードリヒも恐慌に陥った。ブレナンの古強者、クルト・クリスト・フォン・シュヴァリーンの助言を容れてフリードリヒは逃走し、そのままオーストリア軍勝利で終るかに見えたが、シュヴェリーンは彼の「移動する壁」-即ちプロシア軍歩兵隊-を結集させ、日をまたいだ。翌朝、フリードリヒは涙ながらに彼の最初の成功から引き下がった。フリードリヒはプロシア軍騎兵隊の改革推進を決定した。彼はシレジアに彼の全力を傾注したが、バイエルンの奥に逼塞するオーストリア人は彼を買収によって手なづけようとした。オーストリアは1741年10月9日、クライン・シネレンドルフ条約でシレジアとニースを嫌々ながら譲渡したが、マリア・テレジアの夫・選帝侯カール・アルバートは1742年2月、オーストリア皇帝カール七世に選出されてフランスとバイエルンに対処する時間と力を蓄えた。フリードリヒはカールのバイエルン保有権を脅かし、この皇帝を退位させるべく再びシレジア戦争を開始した。1762年5月17日、チョトヴィッツの戦い。現代の史家が描くように、政治的なアドバンテージはフリードリヒが握っていた。純軍事的には、プロシア騎兵は当初その運用に難航しひどく不利だったが、歩兵隊と有機的に結びつくことで真価を発揮し、僅かに優勢であったオーストリア軍を撃破した。6月のブレスラフの和解で、フリードリヒはテスチェンの周辺、シレジア一帯に瑕瑾なくプロシア領を保有することが認められた。


第二次シレジア戦争

1744ー1745年の第二次シレジア戦争において、フリードリヒはプロシアの友軍を得、皇帝カール七世を追い出すために戦った。フリードリヒはボヘミアに新たな王国を作る野心を持って臨んだ。彼は容易にプラハを獲ったがそれを放棄し、シレジアに退去した。抑圧されたハンガリーの兵士は報復に出て彼の軍隊に手ひどいダメージを与えた。1745年カール七世死去。フリードリヒに対して古きハプスブルグの大物たちはシレジアへの野心をむき出しにし、条約を破棄して戦争理由を突きつけた。6月4日まで、彼はホーヘンフィルドベルクの険しい地形に追いやられて勝利を得ることができなかった。ホーヘンフィルドベルクはしばしば野戦におけるフリードリヒ最大の勝利、ロイテンの戦い(1757)と比較される。モルヴィッツ、およびチョトヴィッツの戦いの教訓に学んで、彼は騎兵隊を大幅に強化していた。勢力を増したフリードリヒは初戦で勇戦したジーテン将軍の前に援軍を派遣し、その日が終るまで敵軍を激戦で拘束した。フリードリヒはこの戦いで初めて「斜行陣」を使い、軍勢の大半を敵防衛線の片側に集中させ、線上に沿って軍を拡散させた。初撃で敵を大破したので、彼の軍隊は自在に側面から残敵を掃討することが可能だった。この機会に、攻撃が完全に思い通り進まなかったときのために、フリードリヒは戦闘局面における雄偉な実践主義を示して配されたオーストリア人とサクソン人を打ち破った。この戦争での敵の死傷者は彼の軍隊の三倍に及ぶという異様さであった。9月30日、ソールの戦い。この戦いはフリードリヒの自尊心を大いに傷つけた。プロシア人は敵の重囲に巻き込まれ、さらにオーストリア軍は作戦上重要な丘陵地帯を確保していた。この不利にもかかわらずフリードリヒは兵士を糾合し、騎兵による大虐殺を行って正午までにオーストリア軍を撤退させた。ソールの戦いにおいてオーストリア軍の死傷者はプロシアのそれに二倍したが、それでもフリードリヒの心に慚愧の念を残した。彼はただ兵士を失ったのみでなく、彼の愛好する猟犬、フルート、嗅ぎタバコに暗号手段までも失った。ソールの後、フリードリヒは“棺の中のオーストリア”について耳を澄ます必要があるかどうか迷った。最終決戦は12月14日、ケースドルフで行われ、軍を指揮するのはアルト・デッサウアーとして知られるアンハルト・デッサウ家のレオポルトであり、彼は優勢な敵に対して「猛烈無比の正面攻撃」を加えオーストリア軍の3分の1、サクソン軍の過半に達する敵兵を破った。和平調印式は1745年のクリスマスにドレスデンで署名され、フリードリヒはフランシス・スティーブンによりシレジアの主権者、神聖ローマ皇帝として認められた。プロシア人は彼らの王を「フリードリヒ大王」と呼び称えた。


七年戦争:プラハ~コリン

 フリードリヒが再び戦場に立つまで10年以上を要し、その間彼は軍隊をより効果的に運用する方法を考え続けた。1748年、彼は個人的にPrincipesgeneraux de la guerre(戦争の原則)を出版した。その中で彼はザクセンを攻略するための様々な計画を立案している。戦争哲学についてのいくつかの思いつきは、カール・フォン・クラウゼヴィッツによる有名な作品(戦争論)の予告となった。フリードリヒは彼の「原則」の中で、戦争には重要な政治的目標が不可欠であると示した。プロシアは国土が肥沃でなく、常に財源に悩まされていたから、フリードリヒは最低限のコストで最大の戦闘力を有する軍隊を模索した。彼は騎兵をオーストリアのパンダース(非正規軍)に匹敵するものとするべく改革し、利益に基づいた昇進制度を持った現代式の将校団を創設した。その結果彼の軍隊は以前の一分のオーストリア人軍隊とは異なり、均一した一流のグレードを誇るようになった。フリードリヒは厳しい規律の必要性をただしく認識していた。懲罰は脱走防止や懲らしめのために頻繁に行われた。多くの場合それは鞭打ちと吊り下げで、彼の連隊の外ではガス抜きに「訓練」と称して犯罪者を兵士同士で殴らせることが行われた。7年戦争(1756ー63)の後、多くの怯懦な将帥が抑留刑を受け、一人の大佐が死刑判決を受けたが、保釈金支払いにより赦免された(フリードリヒはそれが届けられるのを嫌ったが、1757年の戦いでイギリス軍を指揮する提督ビィンにより敗北し財源が必要となった)。フリードリヒはマリア・テレジアがシレジアを取り戻したがっていることを知り、これを念頭に置いて、1756年1月、彼と彼の叔父ジョージ二世イギリス国王、およびハノーヴァー選帝侯はウエストミンスター条約に調印、前年からイギリスとの間で植民地戦争を始めたフランスをオーストリアの屯所に追い落とした。一方、オーストリアとそのクレバーな最高法務官・ウェンツェル・カウニッツは、サンクト・ペテルブルグに内在するプロシアの脅威を国民に歓喜することを決策した。プロシアがオーストリアを助けてシレジアを回復した場合、ロシアはロシア自身のため東プロシアに肩入れするかも知れないと。スウェーデンのアドルフ・フレデリック国王へのフリードリヒの妹ウルリカの輿入れにロシアへの不安、彼らを引きはがすことは容易ではなかった。フリードリヒは今や世界の主導権を握っていた。彼は確固たる利を得るため、そしてプロシアから遠くで起こることを確実にするため、先制攻撃の必要性を痛感した。フリードリヒは1756年8月26日に書いた手紙の中で「余はこの戦争に賛成ではない。余はこの事態を避けるためにできる限りの努力を払った。しかし、どれほどにか巨大に余が平和を希求しようとも、それによって人々の名誉と安全を犠牲にすることはできぬ。今となっては平和を破壊して喜悦する敵からその悦びを奪い去るべく戦う手段を講じねばならぬ時にある」と記している。フリードリヒは軍を三隊に分かち、一隊をロシアに送ると残り一隊をフランスに向け、自身は残余最大の部署を率いてオーストリアに向かった。彼のプランではこれらすべてを打ち倒して他部隊と合流する予定であった。1756年8月29日、ザクセンにおいて行われた戦闘は、のちの電撃戦の基礎となるものとなった。彼はザクセン王に、ボヘミアへの供給ラインを維持するために彼の領土を横断する旨申し入れた。オーストリア連合はフリードリヒが攻撃の正当性として利用したザクセン王以前、すでにマクデブルク公国を打ち破っていたが、ザクセンの土地を欲していたことは疑いない。フリードリヒは国家闘争の必要性、あるいは彼の意思による願望によりライン川とロシアの境界まで打って出た。西プロシアはその結果として彼の膝上に転がり込んでくるかも知れないもう一つの果実であった。下シレジア同様、ザクセンの住民の大半はルター派であり、特に王がカトリックであったから、彼はそれを切り札に使うことができた。フリードリヒの最初の戦いはボヘミアのロボシッツで行われ、彼は堅牢に守られた市街への直接攻撃を決めた。これは王の勝利で終ったが、プロシア軍はプラハに敵を追撃、オーストリア軍は都市に入り、園は以後の市門を閉ざした。1756年5月6日、オーストリアとプロシアの軍は交戦に入ったが、このときフリードリヒは食中毒に苦しみ病に陣中を過ごした。プロシア人たちは数多のミスを犯した。彼らの騎兵は砲兵のサポートを受けておらず、恐るべき「動く壁」も沼地に倒された。フリードリヒ最高の将帥ウィンターフェルトと73才になるシュヴァリーンの二人が戦死した。点在するプロシア軍人たちは涙を流し、旗持ち将校は旗を取り落として泣き叫びながら「すべての勇敢な同胞たち、わたしに続け!」と突撃したが、すぐに胸と頭に被弾して倒れた。彼の死はプロシア兵たちに「父なるシュヴァリーンの報復」の叫びを上げさせた。歩兵がオーストリア軍の前線に違和感を見つけ、それにめがけて22大隊を突撃させるに至って、形成は逆転した。しかしこの日勝利したハンス・ヨアキム・フォン・ジーテン将軍は、「稲穂を刈るように」敵を打ち負かし、フリードリヒの名をヨーロッパで不動のものとしたが、ジーテンの驍勇、フリードリヒの機略にもかかわらず、戦略的にはさほど大きな効果をもたらさなかった。これはむしろプロシアの進歩を阻害し、積極性を防衛的なものに変えた。現在でこそフリードリヒは敵を連れてくるやっかいごとを阻んだと賞賛されるが、19世紀の批評家からは彼が敵を打破できず、プラハに力を傾注しなかったことを批判された。6月18日、コリンでの彼の最初の大敗という経験がこれに続いた。フリードリヒの、下降する勢力の中で数的優位な敵に当たることへの決断は、強いる血と評判の両面から彼をひどく憔悴させた。彼は極めて迅速に攻撃命令を出し、戦後、管理しうる歩兵大隊が4隊も増えたという妄想にとりつかれた。彼は最初から最後まで全力での勝利を強く信じていた。彼がこの戦闘を乗り越えれたのはプロシア騎兵の驚異的偉功のおかげではなかったが、さもなければより多くの兵員を失っていただろう。


ロスバッハからクンネルスドルフまで

フリードリヒは絶望から学ぶことに決した。 19世紀のプロシアの将軍アルフレッド・フォン・シュリーフェンは、「経験が無ければ知識も役に立たない」と学生たちに主張し、その後ほどなくコリン・フレデリックがリュッツェンの、「失敗を転じて勝利を可能にした計画」について概要を示した。シュリーフェンは、リュッツェンはフリードリヒにとってのカンナエであり、殲滅戦であって、フリードリヒの絶頂であったと評した。フリードリヒは敵に閉鎖され、クロスター・シュテーベン条約から逃れたイギリス人はフランス人とともにベルリンを行進していた。さらに悪いことに、ロシアは東プロシアに肉薄し、ハンガリーの将軍ハディックはベルリンを見捨てた。フリードリヒは苦境を乗り越える勇気を必要とし、ザクセンのロスバッハで薬を受け取った。1757年11月5日、21000人のプロシア人が、その倍近い数のフランス・帝国同盟軍と対峙した。彼らはフリードリヒが苦心惨憺して築いた罠に直進し、勝負はものの数分で決した。騎兵隊長フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・セイドリッツは馬上の勇者で、土パイプを投げ捨てるのと同等に平然と重騎兵突撃の信号を出した。

帝国軍と戦った後、セイドリッツは18個の新規部隊を編成し、これによって逃げ散り壊走する敵軍を追い落とした。フリードリヒは敵の混乱を窓上から眺め、自己の砲兵隊にフランス軍をもまた敗走させるべく命じた。帝国軍とフランス軍併せて5000余人が撃ち殺され、ほぼ同数が捕虜となった。対するにフリードリヒ側の死者は169人、負傷者は379人にしか過ぎなかったという。約半世紀の後、フランス軍が墓穴を掘ってサラマンカまで追い落とされたのは、ロスバッハがドイツ国民のアジャンクールと同等の価値を持っていたからかも知れない。ロスバッハの国民的重要性はかくも大きかったが、このわずか1ヶ月後にシレジアで行われたリュツッェンの戦いこそが、軍事歴史家のデビッド・フレイザー将軍によればフリードリヒ最大の、世紀の勝利であったという。12月3日、フリードリヒはシレジアのパルクヴィッツで司令官を招集し、「敵を倒すか、自らの銃の前に自身を差し出すかである」という宣言を発した。2日後、彼は迅速果敢に作戦を起こした。オーストリアとザクセンの66000人に対して、フリードリヒのプロシア軍は39000。ここで彼は敵が右翼を固めた瞬間を見きってオーストリア軍左翼を攻撃し、オーストリア軍司令官のチャールズ・ロレーヌの騎兵隊を直撃。プロシア軍は騎兵と盾歩兵に保護されて小さな丘の稜線を超え、速やかにオーストリア軍の外翼を突破した。オーストリア軍を転身に追い込みその正面を攻撃、敵の優越性を打ち消す。これにもかかわらず戦線の再構築を企てるオーストリア軍に、プロシア軍歩兵隊は砲兵隊のサポートを受けつつ無慈悲な前身を続けリュッツェン村まで追い落とした。三時間にわたる戦闘の末、オーストリア軍は10000人の死傷者と捕虜12000人を出し、プロシアの犠牲はその5分の1にも満たなかった。これがフリードリヒの用兵家としての最高到達点であった。フリードリヒは以降6年、数的優位な敵に追われ続けることになる。ロシアの参戦はプロシアの将兵を特に震撼させた。1758年8月25日、ブランデンブルクのゾーンドルフではフリードリヒはかろうじて敗北を避けたが、彼の成功の多くはセイドリッツに帰せられた。プロシア軍は12000人を失いながらもロシア軍に驚異的な18000人の犠牲を強いたが、ゾーンドルフは凋落のはじまりとなった。ついで10月、ホッチキルキからロシア・オーストリア連盟に攻められ、30000人のプロシア軍は極めて優秀なオーストリア軍によって不意を撲たれた。フリードリヒは今や2対1の数量差で戦わされていた。彼は1756年以来、その保有する軍隊の半分を失っていた。次なる打撃は1759年8月、クースドルフの戦いであった。完全なる最悪の敗北。ロシア・オーストリア連合64000が、ブランデンブルクのニューマルクにあるフリードリヒを直撃した。フリードリヒの保有する戦力は50000以下で、彼の個人的勇気と活躍にもかかわらず彼の軍隊は打ち破られた。彼はこのときも敵のきわめて劣悪な探索網に救われた。ロシア軍は彼らの損失の大きさを思って前身を拒否した。残りの戦争はひたすら我慢比べであった。フリードリヒはリーグニッツ、トルガウ、ブンツェルウィッツ、ブルカースドルフ、フライベルグの戦いで勝利し、それらの勝利は王の戦闘センスを証明したが、それだけであった。クンネルスドルフの栄光は幾分か和らぎ、洗い流された。1763年2月15日、ヒューバートゥスブルクの平和が結ばれ、オーストリア人、プロイセン人、サクソン人は現状維持に戻った。かくて7年戦争は終わった。


老年と評価

年を取って、フリードリヒは1765年に皇帝ジョセフ2世になったオーストリアのジョセフに対して最後の一戦を戦った。オーストリア人に対するドイツの自由の擁護者として。サクソン人も彼の側にあった。1779年1月のハヴェルシュヴァーダットでの小さく悲しい戦いを除いて、今度は先制攻撃はなく、戦闘もなかった。ほとんどすべての評者はその理由を老人の政略戦であることに賛同する。フリードリヒは1786年8月17日、ポツダムのサンスーシの夏の宮殿で平和に死んだ。その経歴の中で、フリードリヒは常に軍隊のために富、権力、壮丁を望んでいたが、シュリーフェンが思ったにもかかわらず彼はカンナエを戦うことを望んでおらず、敵を絶滅させることを決して考えなかった。フリードリヒの戦術は遷延的だった。彼は優位を保ち、彼の利益を食い破って敵を消耗させようと戦った。彼の兄弟ヘンリーは、プロイセンの存在を脅かす荒廃した軍隊を飢えさせるために、対話の道筋をとることによって助けました。彼は15戦闘で勝利し、12勝を上げた。ホーヘンフライデベルグやリュッツェンのような戦いは、歴史上の最大の戦いの一部として埋没してしまった。フリードリヒは臆病者ではなく、勇敢であり、戦いの一番の渦中にその姿を常に見つけられた。彼は現代の兵士のように個性的であった。ナポレオンは1806年にアウシュテットとイェナでプロイセンが敗北した後、ポツダム・ギャリソン教会のフリードリヒの墓を訪ねたときに最高の敬意を払った。「紳士よ」と彼は言った。「彼がまだ生きていたなら、私はここにいないだろう」

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