第59話 スペインのパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ
パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(一五四五-一五九二)
イタリアに生まれスペインに奉職した将軍で政治家。参加した主な戦争は主にシブリアン戦争(一五七〇-一五七三)、八十年戦争(一五六七-一六四八)、三ヘンリー戦争(一五八五-一五九八)など、主要な戦闘は一五七一年レパント(コリントとパトレー湾の間の海峡)の海戦、一五七八年カンブレー、一五七七から九二のオランダにおける多くの包囲戦を経験した。
一五四五年八月二七日、ローマにおいてオッターヴィオ・ファルネーゼ(一五四七年からバルマ公)とオーストリアの皇帝カール五世の娘マーガレットの間に生まれた。その後ブリュッセルでフィリップ二世の宮廷に入仕し、一五五九年スペインに同行。フィリップ二世の異母弟ドン・ジョアン・アウストリアと友人になる。彼の母はオランダの摂政となり(一五六五)、また彼はポルトガルのマリア・インファンタと結婚した。のちパルマに戻る。
非活動的な日々に飽いて対トルコ軍の神聖同盟艦隊に参加を求め、許可されてレパントの海戦(一五七一年十月七日)でドン・ジョアン指揮下に戦い勝利に幾ばくかの貢献をし、その後一五七四年まで地中海艦隊に残った。
ドン・ジョアンを摂政に迎えてオランダに伴い、一五七八年一月三一日、カンブレーの戦いでドン・ジョアンのため勝利に大きく貢献する。同年ドン・ジョアンが死ぬと摂政の地位を受け継ぎ(一五七八年十一月一日)、彼はその後終生そのポストにとどまることになる。エノー、アルトワ、ドゥエー諸州が叛乱から離脱して、一五七九年四月、アラス条約によりスペインに忠誠を誓った。一五八一年一二月、マーストリヒトとトゥルネーの双方を攻略。
一五八二から八三年、フランスの王位を狙うアンジュー公フランソワに反対。一八八四年にはヘント、イーペル、ブルージュ諸都市を占領。一五八五年二月二一日、シャイト川下流をからアントワープに繋がる橋を破壊し、その秋八月十七日までにアントワープを孤立させた。
父の死後パルマ公を継ぐ。レスター伯に反対して精力的に活動する。一五八七年八月スロイスを占領したが、しかし彼の計画は一五八八年、国王フィリップ二世の「陸軍と艦隊を招集しシャネルを横断して無敵艦隊(アルマダ)をもってイングランドを征服せよ」という指示によって中断された。同年七-八月、アルマダがイギリス艦隊に完敗を喫したことで、パルマ公はオランダの反乱軍に対する行動の自由を取り戻した。
彼はギーズのヘンリー、そしてフランス国王ヘンリー三世の暗殺(一五八九年八月二日)により引き起こされたフランスの危機に巻き込まれ、スペインからの資金が途絶えた彼は彼自身の軍を維持するために自ら宝飾品を売却せねばならなかった。同月即位したヘンリー四世はパリを包囲する一万五千の兵を撤退させるべく策動、十月、冬の後四半期に入って撤退した彼は、ついでナッサウのマウリッツとヘンリーという困難な二正面作戦に立ち向かわねばならず、すぐに決断して冬営所に退いた。一五九一年六-十二月、マウリッツの攻撃を凌いだが、ヘンリー四世によって敷設されたトラップに苦しめられた。十二月、国王フィリップのルーアン救済によってトラップを脱したが、このときに負った創がもとで一五九二年十二月二日夜から三日未明にかけ、セント・ヴァースト修道院で息を引き取った。
きわめて有能な指揮官、パルマ公は、断固として忍耐強く、西ヨーロッパのいかなる時代にも適応するであろうスペイン最高の将軍であった。臨機の才に富み、遠くを見据える戦略眼目を備えていた彼は、その事業とそれを成し遂げた速度および精度にによって知られるが、にもかかわらず彼はほとんど野戦を行うことがなく、ほとんどを包囲戦によって決し、そしてその分野における機動戦と術策の練達であった。これらの軍事的才能に加え、彼は外交官、管理官としての才能をも備えていた。
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