第53話 ロシアのミハエル・クトゥーゾフ

ミハエル・クトゥーゾフ(1745-1813)

近世ヨーロッパにおける傑出した指揮官、ミハエル・イリヤオノヴィチ・クトゥーゾフは「愛国的闘争における祖国の救済者」として知られる。彼は2つの意味で特別であった。一つはボロディノの戦いでナポレオンの無敵伝説を覆したこと、そしてもう一つはこれだけの大戦でこれほどの成果を上げながら勝利者として認められなかったことであった。 彼の不朽の名声は軍関係者や史家によってものされたものではなかったが、しかし偉大な文学者・トルストイの「戦争と平和」によって、彼はロシア人の侵略者に対する抵抗のシンボルとして不滅となった。


 クトゥーゾフの統帥術は術策の練達であった。1770-1773年のあいだ、彼は、作戦の終了するところが勝利によって飾られないのであれば戦闘を回避すべきであるとするピョートル・ルミアンツェフの麾下にあり、そして彼はピョートルの考えや信念の多くを吸収した。この戦術はロシアという巨大な帝国に敵を引きずり込み、敵に過度の不可をかけたうえ決定打を与えずしてあくまで軍隊を維持し、真綿で首を締めるようにじっくりと敵を殲滅していくというものであり、非常に有効かつ効果的なものだったが、彼の戦術が同国の同時代人に感銘を与えることはなかった。皇帝アレクサンドルはかつて、クトゥーゾフの戦術をして「不活発にして不可解」と評し明白な落胆の色を浮かべた程である。が、クトゥーゾフの戦術指揮、彼独自のロシア人精神とその大らかさ故にしばしば軽蔑を受けるところのスタイルは、やがて小作人階級の人々に慕われるようになった。彼はやがて寛大な心でもって彼らを「我が子ら」と呼んだ。


士官候補生から総督までの道のり

 クトゥーゾフは1745年9月6日、サンクト・ペテルブルグで、30余年にわたるキャリアをもつ工兵将官の父の息子として産まれた。必然的に彼は父の背を追って育ち、12歳の時、彼は自身の研究の傑出により士官候補生として軍の工学大学院に入ることを許され、1761年、16歳にして士官としての権限を認められた。翌春までに彼は小作人農兵たちによる一部隊を指揮するようになり、既に当時高名かつ有名であったアレクサンドル・スヴォーロフのもとで歩兵連隊将官として勤続し、ボルガのデルタ地帯にあった。

 後世の作戦活動において、クトゥーゾフとスヴォーロフは対トルコ戦のパートナーとなったが、両者の最初の出会いは特別劇的でもなく、素っ気なかった。クトゥーゾフは軍総督補佐としてリトアニアで3年間勤務、のちワルシャワにおけるポーランド人の武装蜂起鎮圧に参与した。エカテリーナ大帝の治世(1762-1796)下で名声を獲得し、1770年、黒海近辺のルーマニア人たちがトルコに圧迫されているのを解放するため、モルドヴァの南方に赴いたが、その3年後、クリミア南東の海岸、アルスハッタでの襲撃戦で銃弾の片眼とこめかみを撃たれ、負傷した。回復するのに長い時間を要した。

 ロシア-トルコ間の二年間の休戦が、クトゥーゾフに世界を旅行する余暇を与えた。彼はポツダムでフリードリヒ大王に会い、オランダのレイデンで目の治療を受けた後、ロンドンとウィーンを訪問した。しかし1776年までに彼は一流のハンター集団を指揮するため本国に戻り、威勢よく大胆にスヴォーロフに従い、再びクリミアに入った。トルコ人について「彼らは狡賢くて抜け目ありません、ご注意あれ!」と言えば、スヴォーロフは「誰もこの男を欺くことはできまい」とコメントした。

 1788-1789のあいだ、クトゥーゾフはオカコフ、すなわちドニエストル河口を見下ろす要塞攻囲に着手した。この戦いで彼はまた負傷し、完全に右目の視力を失うことになる。しかし彼は数週間ののち、また戦場に舞い戻る。この作戦行動はイズマーイール要塞に対する血みどろで凄惨な戦いを以て最高潮を迎えた。勝利ののち、勝ちを奏したスヴォーロフはサンクトペテルブルグに「クトゥーゾフ、我が側面を指揮せり。なれど彼は我が右腕たり」と報告した。

伝えられるところでは、「狂える皇帝」パーウェル1世(在位1796-1801)のもとではクトゥーゾフはほとんど働かなかった。彼はコンスタンティノープルとベルリンの有能な大使として働いたが、1799年、パーウェルはイタリアのロシア軍への補給ミスという致命的な失策を犯した。このときスヴォーロフはアルプス山脈を巧みに越えることによって後退戦を成功させ、その後フランス人の罠という顎から脱し、スイスで逆にフランス人を負かし、クトゥーゾフはビリニュス(リトアニアのビリニュス)総督としてスヴォーロフのそれと類似の巧妙を成し遂げてサンクトペテルブルグに凱旋した。また、彼は23歳になる王子アレクサンダーを擁立しようと画策する将校を殺した。クトゥーゾフはこの企みによってパーウェル一世が殺されることはないと重いながらも、まもなくこの件についてアレクサンダー自身がそれを承認していたことを知った。アレクサンダーとクトゥーゾフのあいだの終生続く互いへの不信感は、ここに始まる。

  

三国連合戦争

 アレクサンダーはナポレオンの脅威に対して、イギリス、オーストリアと1809年5月、三国同盟を締結する。 クトゥーゾフはバヴゥリアでオーストリア軍の進軍をサポートするべく連携訓練を行い、アレクサンダーは彼の同盟者とともにモラヴィアで合流するため、より多くの兵員を動員した。クトゥーゾフの先遣隊はウルムでオーストリアのマック大将を晩すぎた。彼は突進によってバヴァリアを侵略されることを恐れ、彼自身のルーマニア的ドクトリンを実行に移した。10月24日、彼の軍はダニューブの下方、モラヴィアの中央に向けて進軍を開始した。フランスの追撃は何度も何度も繰り返されたが、クトゥーゾフの狡知とグルジアの将帥バグラチオン公の勇気によりその都度斥けられた。ナポレオンの元帥の一人、ムラトは装甲騎兵隊の予備兵を率いたが、彼の皇帝は怒り哮って「ウィーンに些細な勝利を与えた」と叫んが、結局は進軍路を変えることを余儀無くされた。バグラチオンはショングレーベンで貴重な時間を引き延ばして遷延作戦をとることにより、11月16日勝利。その三日後、クトゥーゾフはモラヴィアのブルンに入り、ロシア-オーストリア連合軍に合流した。

 クトゥーゾフはロシア皇帝アレクサンダーとオーストリア皇帝フランシスに、ガリシアまで退くことをしきりにうながした。彼は冬が侵略者たちに破滅を与えるであろうから、その時こそ決定的な戦いでナポレオンを打倒すべしと説いたが、二人の皇帝はフランシスの主席顧問官ウェローテルの説く伝統的決戦主義を好み、クトゥーゾフの献策を斥けた。クトゥーゾフは凍てつき窪みも雪に覆われた高原辺縁の湖にて、戦場になるであろうブルンから東に15マイルのアウステルリッツに向けて待機するよう命ぜられた。彼はこの命令に服したが、おもにウェローテルの襲撃の裏をかいてフランス軍が逆撃したことを見て、最初からこの戦いはナポレオンの掌中にあったのだと思いしらされた。彼は恐れ、そしてその恐れは至当であった。彼は戦闘を避け、大惨事のなかほとんど損害を蒙る事無く撤退した。

 彼の遷延作戦はウェローテルの前進を補佐するべくやってきた将軍・ミロラドーヴィチに受け入れられたが、アレクサンダーは彼に兵たちを前進させるよう命じた。数分のうちに、ロシア軍はフランス軍騎兵隊の完全な包囲を受けるところとなった。そしてクトゥーゾフはまた銃弾に被弾し、頬の上を傷付けられたが、彼はバグラチオンに防衛方陣を形成してフランス軍の攻勢に注意するよう警告するなど、負傷しながらも軍統率者としてあり続けた。5時間に及ぶ戦闘の末、ロシア皇帝の弟コンスタンチンはクトゥーゾフから彼自身の主導権において騎兵突撃を指揮すると、命令なしに突撃を敢行した。その結果として調和した逆襲が不可能なほどの大損害と死傷者を出し、オーストリア軍はロシアとは別に自国だけで和平交渉をナポレオンと結び、ほぼ瓦解した状態のロシア軍は悄然としてとぼとぼと東方に帰った。

 サンクトペテルブルグに戻ってクトゥーゾフをスケープゴートにするこころみが成されたが、しかし世論の非難はウェローテルとオーストリア人に集中したのでクトゥーゾフが敗戦の烙印を押されることはなかった。しかしながら、アレクサンダーはハノーヴァリアン・ベニクセンやバークレイ・ドゥ・トリィのような非ロシア人の将帥を好む状態にあり、クトゥーゾフは軍司令官としてキエフに送られた。1806-1807年、ベニクセンはエイラゥとフリードラントにおいてミスを犯しナポレオンに打ち破られ、戦線は厳しさを増した。


トルコへの勝利.1811-1812

 ビリニュス総督としての任期を終えての1811年、クトゥーゾフは長らく続く対トルコ戦争に最終的かつ決定的な勝利を求める皇帝からダニューブ地方の軍指揮を任され、彼は彼一流の狡知によりこの一年間で大きな成果を達成した。ブルガリアで使われる代表的策略によりトルコ人はダニューブ河の低地の先に誘導され、ブカレストに進軍した。クトゥーゾフは夏の酷暑のあいだ戦闘を避けたが、9月、南の斜面上流から、トルコ人を取り囲む河を横断した。彼は正面切っての戦闘で多数の死傷者を出すより、むしろ冬のあいだの包囲戦に熱心に取り組んだ。サンクトペテルブルグで皇帝アレクサンダーは「ぐすぐずした大将」の躊躇いとブカレスト条約(1812年5月)に先立つ和平交渉の遅れに対して苛立ち、腹を立てた。しかしクトゥーゾフの軍隊と外交手腕はトルコをしてフランスとの連合から分断することに成功していた。彼はモラヴィアの北に進み、1812年末にはナポレオンの行動を掣肘する一因を成すに至った。


司令長官

 ナポレオンの侵食に対して、1812年6月24日、ロシアはリウマチ症で肥え太った、そして障害持ちなうえ健康不振のバークレーを立てた。クトゥーゾフは閑職に回され、彼が再び現場復帰することはありそうもなく思われたが、グランデ・アーミー(フランス帝国軍)がモスクワにより近く迫るに至って、「真のロシア人」を称する愛国者たちがアレクサンダーをしてバークレーをクトゥーゾフに代えるよう強く迫り、アレクサンダーはやむなくクトゥーゾフを軍最高司令官に任命した。8月29日、彼はヴャスマ近くの野戦本営に着任し、彼の到着は無為な戦いにうんざりしていた兵士たちを一躍高揚させた。

  容赦のない酷暑がナポレオン軍の兵士たちに苦役と犠牲を強いた。わずか10日で彼らは病に倒れるか脱走して、前軍の3分の1を失ったとされる。クトゥーゾフはナポレオンの苦境を察して、早期の衝突を予感し、そのための準備を整えた。彼はヴャスマの東20マイルのボロディノに堅牢な防衛陣を張った。

  1812年晩夏、ナポレオンのグランデ・アーミー相手にクトゥーゾフが選んだのは、モスクワの西75マイルの地点にある4つの村であった。すなわちボロディノとゴーリキ、セミニョフスキとウティッツァの4村落。彼らの北側面はモスコヴァ河とコロチャ河の支流によって保護された。 彼は最重要の軍隊、バークレー・ドゥ・トッロィ隷下の軍を統制下に入れることができた。コロチャ草原の南のには険阻な丘がありゴーリキと司令部のあいだの砦・・・指揮官の名を取ってレフスキー砦といわれる・・・をカバーしており、この細流によって破壊されつつあっる丘はセミョノフスキに繋がってピンと南三方に張っていて、セミョノフスキから3マイル離れたところにはバグラチオンがおり、第二軍がここに盤踞した。クトゥーゾフは強化された土塁を堀り立てた。ミロラドヴィッチ隊は強化防壁を築き、一方トクロフ将軍は南方ウティッツァの前方の森をカバーした。クトゥーゾフは総勢12000の兵士と640門の大砲を配置し、対するにナポレオンは133000人と590門の大砲を前に押し出した。

 9月5日、痛烈で苛烈な戦端がボロディノの南3マイル地点で開かれた。まずムラトがシヘバルディノの粗末な砦を占領した。日曜、クトゥーゾフは軍の再編に着手したが、この日は彼の67才の誕生日であった。戦闘は午前6時にはじまり、翌9月7日まで続いた。100門のフランス軍大砲が中央めがけて火を噴いた。イタリアのユージュヌ・ボーアルネの部隊は速やかにボロディノを占拠し、またポニアトウスキのポーランド兵はウティッツァを抑えた。ただレフスキー砦とその周囲だけが3時間にわたる包囲襲撃戦に耐えぬいた。300の大砲からなる濃密な炎と煙幕野末、熱を持った大砲は一事斉射を止めたが、バグラチオンが致命傷を負った部隊をムラトの騎兵部隊が強襲、飲み込んで揉み潰し、ロシア軍は狼狽の中に潰走した。しかし正午までにクトゥーゾフは第2軍を招集しており、再編を完了していた。午後2時、ボーアルネは銃剣装備の歩兵隊と騎兵隊の三個小隊をレフスキー砦に投入した。1時間にわたる猛攻の末、砦は落ちた。極度の疲労が彼の成功に冷や水を浴びせることをはばみ、ロシアの逆襲は遂にナポレオンの予備砲兵隊によって蹴散らされた。

 午後5時頃になって、戦いは終結を見ずに終わった。フランス軍は破壊された村の上を占拠し1マイルほどの小山を得たが33000人の犠牲を出していた。クトゥーゾフの側の損害は44000人。しかし彼の軍は次の日の戦闘を再開するのに適した、東方1000ヤードの高原に落ち着いた。しかし彼らはそうしなかった。なぜならクトゥーゾフはまだフランス軍に十分重大なダメージを与えていなかったからである。彼の戦闘教義を満たすために、クトゥーゾフは整然と自らの兵を整えた。クトゥーゾフはフランス軍を襲撃する以前に、まずナポレオンをロシアの奥深くに引きずり込む必要があった。彼は湧き上がるもやの中を通って退却してのけ、翌朝、ナポレオンは「古狐」が既に夜に乗じて撤退したことを知った。

 ボロディノはライプツィヒに次いで、ナポレオン戦争における2番目に血なまぐさい戦争であった。ナポレオンはセントヘレナに追放されて回顧して曰く「私の戦争の中で最も酷かった」と言い、また「フランス人は無敵であるロシア人にも勝ることを証明した」とも言い残した。


 当初、サンクトペテルブルグとモスクワは捷報を知り、ボロディノを祝った。皇帝アレクサンダーはクトゥーゾフに100000ルーブルの銀塊と元帥杖を送ったが、9月12日、事実を認識したモスクワ人は不安に駆られ、当方に逃げ出し始めた。翌朝、クレムリンから5マイルのところで、クトゥーゾフは小作農の家で軍事参議委員会を招集した。3人の将軍がモスクワ救援のためにクトゥーゾフを説得したが、別の3人は継続的な後退誘引作戦を主張した。クトゥーゾフ曰く「ナポレオンとは今なお我々が留めることのできない豪雨である」と。続けて「モスクワは空がからになるまで雨を吸い上げるスポンジとなるだろう」と言った。その晩、ロシア軍は人気のない道を整然と通って、空虚な大草原に溢れ出た。グランデ・アーミーは9月14-15日、モスクワに入ったが、ナポレオン以下を迎えたのは頑強な抵抗と食物資料を敵に渡すまいとする大規模な放火であり、これ以上なく雄弁に侵略者を拒んでいた。ナポレオンは彼らを籠絡しようとしたが応答はなく、ついでアレクサンダーが平和のための和平交渉を興すことを期待して、翌月、3つの懐柔案を提案した。

 ナポレオンをして「古狐」は捕捉困難であった。クトゥーゾフは西方の奥地に移動し、モスクワから55マイル南のタルティノ付近で野営地を張り、準備を緊密にしてから、予想された南唐のサンクトペテルブルグには向かわず、さらに後方奥にしりぞいた。クトゥーゾフは彼の兵士を建て直し、再度軍服を着せてこの地に4週間とどまった。秘書官に曰く「私が遷延しているあいだ、ナポレオンは自らを優勢と感じるだろう。だからこそモスクワは一旦彼の手におさめさせておくがいいのだ」と語ったが、しかし彼は同時にアレクサンダーの掲げる雄大かつ包括的、そして非現実的な壮図に悩まされた。これを不可としながら、10月23日、それを改正するという妥協案を以て最終的に承認した。クトゥーゾフは典型的な鋏撃を提案し、モラヴィアのシチャコフ海軍大将と連携してスモレンスクとミンスクのあいだで フランス軍を拿捕すべく軍を北西に向けた。ウィトゲンシュタイン将軍率いる軍団がシチャコフのそれと合流するためサンクトペテルブルグからポドリスキまで北上すると、今度は南西に軍を向けてフランス軍を押し包み、圧倒した。彼は撤退するナポレオンの後方に追いすがり、追撃を仕掛けた。

 ナポレオンは廃墟のモスクワに逃げ込んだが、クトゥーゾフは彼がまもなくモスクワにおける自らの立場を危うくするであろうことを確信した。10月18日、彼はウィンコフ近くのムラトの騎兵隊に降下奇襲作戦を銘じた。これはほとんど小競り合い以上にならなかったが、撃退されたフランス軍にとっては警鐘となった。軽い降雪もまた同じくフランス軍を苛んだ。ロシア騎兵隊と冬の始まりが彼と彼の帝国とのつながりを断ってしまう前に、ナポレオンはモスクワから撤退する必要を感じた。10月19日、彼らはモスクワを退去した。

 ナポレオンは最初カルーヴァの回りの肥沃な土地に生命の維持を求めて南西へ向かった。しかし10月24日、マロイヤスラヴェテスの戦いでドッチューロフ大将はナポレオンの先陣、イタリア人ボーアルネを捕らえた。主力軍が到着する前に、町は7回もその所有者を変えた。クトゥーゾフとナポレオンの何方にしても即興的に大戦して冒険を冒す危険に対して、準備ができていなかった。翌朝、ナポレオンは現地踏査のさなか、巡回中のコサックに捕まりそうになるがこれを幸運にも回避、数時間後、彼はモシャイスク西の破壊された道を通る事を決意し、カルーヴァ方面への行進を断念するという重大な決定を定めた。


大いなる撤退と追撃

 クトゥーゾフは翌日、追跡を開始した。彼はまずヴィヤスマの村を超え、手を替え品を替えナポレオンを追いこそうとした。ミラドヴィッチ隊とコサックたちは指揮官(ヘットマン)マットベイ・プラトゥフの下で競い合って追撃したが、しかしクトゥーゾフは各所村落の隠れていた人員を解放しつつゆっくりと進軍した。ためにナポレオンがヴャスマに着いたとき、クトゥーゾフはまたナポレオンと50マイル離れていた。フランス軍の殿軍を打ちのめす役目はミラドヴィッチおよびプラトゥフに委ねられた。

 11月4日、豪雪。猛吹雪が2日にわたって両軍を包んだ。兵士も馬も誰一人このような状態に慣れていなかったが、クトゥーゾフは冬営準備のためにより暖房性の高い服を兵士たちに着せ、馬に長靴を履かせる用意があったので、一日に16マイルを踏破することが可能であった。しかしフランス軍はあきれたことになんの準備もしていなかった。雪は軍隊を孤立させ、翌週11月15日、クトゥーゾフはナポレオンの本陣からわずか2マイルの所まで迫った。その翌日、シチャコフがミンスクを後略。ウィトゲンシュタインはピイテクスプを後略した。しかしクトゥーゾフはこの時点で彼らのポジショニングを認識できていなかった。彼はまだベレシナ川に沿って敵を南北に分断、しかるのちとどめの一撃を食らわすべく軍を護持する決意でいた。 このためクトゥーゾフはカラソーネ付近へのフランス軍の予定より3日早い到達と遭遇に対処し損ね、11月17日、フランス帝国軍の思わぬ逆撃によって後退を強いられた。皮肉なことに、カラソーネでの彼の不注意が彼の求めた「決定的一戦」に参加する権利を彼から奪った。11月25日、ナポレオンはベレシナに接近したとき、彼とフランス軍後衛は40マイル以上離れていた。このときシチャコフ軍の三部隊がすでに西の岡を占拠して橋を破壊していたが、フランス軍のウディノが南方スタディンカに向かうとフェイント、ナポレオンはその間に工兵に命じて急ぎ船橋を造らせ、シチャコフを誘き寄せた。戦いは2日にわたり、スタディンカ周辺で劇戦が繰り広げられた。やがて北東からウィトゲンシュタインが訪れて攻撃に参加し、フランス軍を圧した。ベレシナ川を渡る際においてフランス軍は25000人の兵士と28000人の非戦闘員を失っ他。死傷者の多くは浮舟の崩壊と沈没によって引き起こされた結果であったという。

 クトゥーゾフは11月の最後の29/30日、ようやくベレシナに到着した。気温は12月に入ると劇的にさがり、「冬将軍」はいかなロシアの軍人であれうんざりとするような寒さで、凍てついた落伍者はコサックの略奪者によって強奪された。これにより殺傷したフランス人より多くの死者がロシア側に出た。ナポレオンはパリに着くと12月5日、急ぎ軍を再編成してロシアに迎った。12月14日、陸軍元帥ネイが残余の兵を率いてロシアからニェメンを渡り帰国した。その翌日、クトゥーゾフおよび彼の主要な将軍らはビリニュスに入った。


クトゥーゾフの死

 12月23日、アレクサンダーは再びかれの軍に加わり、彼をしてスモレンスク公に列し高い勲章を授け、賞賛を惜しまなかった。しかしクトゥーゾフはアレクサンダーの気質と政策を尊重し重んじることができず、侵略者がロシアから追いだされた今、戦いそのものに無常を感じるようになった。一方でアレクサンダーは彼がヨーロッパを自由にするべく神がつかわした使徒と信じた。

 クトゥーゾフは嫌々ながらに最高司令官を勤め続けた。うんざりして、疲れきり、そしてナポレオンがまた新しい軍を編成したときに起こるであろうことを恐れた。彼は翌年1月中旬、皇帝に随行してポーランドに入り、前途を問われて「我々がエルベ川を渡ることは困難ではないでしょう。しかし再びエルベを渡って帰るとき、我々は血まみれになり川は酸鼻を極めるでしょう」と予測した。彼は全く正しかったが、しかし彼はそれが現実となるときまで生きることが無かった。ライプツィヒでの最終的勝利もまた同様であり、クトゥーゾフは1813年春、極度の心労に倒れて4月28日、シレジアのバウツェンで歿した。 

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