第52話 明の王守仁(陽明)

王守仁(おう・しゅじん。1472-1528)

 王守仁、字を伯安、餘姚の人。妊娠14か月で生まれたとされ、祖母が夢に瑞雲を見たというので初名を王雲という。5歳にしてまだ語ることできずも、かえって尋常ではないということで王守仁と改名され、それ以降よく語るようになる。15歳のとき、居庸関、山海関を遊客として訪れ、時に常態しばしば出塞して北虜と戦っていたので、王守仁は山川の形勝を観て考察した。弱冠にして郷試に受かり、学業大いに進むも、むしろ好むところは兵を語ることであり、騎射に通じる。弘治12年、進士となった。最初、威寧伯・王越の葬礼があり、西北辺境の戦事が急務となると王守仁は八条の奏文を上奏して刑部主事となった。江北の囚人達に判決を下したのち、病により帰郷するも、のちまた起用され兵部主事とされる。


 正徳元年冬、奸臣・劉瑾が南京給事中御史・戴銑ら20余人を逮捕した。王守仁は剛直にしてこれに抗議を上奏、戴銑らを救わんとするも、劉瑾はこれに怒りを発し、王守仁を杖刑40に処して貴州龍場駅の丞に貶す。龍場駅は山多く草木生い茂り、苗族、僚族が雑居する蛮地であったが、王守仁はへこたれることなく彼らを教導し、夷人たちにこれを喜ばれた。王守仁は木を伐って家を造り、そこに住まう。劉瑾が誅殺されると王守仁は罪を斟酌されて中央に召され、盧陵の県知事に任ぜられた。まもなく昇進して南京刑部主事となる。吏部尚書・楊一淸が験封に改任されると、功郎中に昇進。ついで南京太僕少卿に進み、またすぐ昇進して鴻臚卿とされた。


 兵部尚書・王瓊は王守仁の奇才を認め、11年8月、右検都御史、南州・?州巡撫に昇進させる。まさにこのとき、南方で盗賊が蜂起。謝志山が横水、左渓、桶岡を占拠し、池仲容が?頭を取り、両者ともに王を称した。さらには大?の陳曰能、楽州の高快馬、?州の?福全らが府県を襲った。さらには福建・大帽山の賊、詹師富らが起こり、前任の巡撫・文森は病と称して退避。謝志山は楽昌の諸賊と会合して大いに大?を侵略し、南康、?州を攻撃して?県主簿・呉?を戦死させる。王守仁はやってくるや左右多賊の耳目を調べ、老衆を召して隷僕を詰問、隷僕たちは恐れおののきあえて王守仁を欺かなかったので、王守仁はその罪を免じ賊を偵察させ、賊の動静を知り尽くして、檄文によって福建・広東の兵力を糾合、大帽山の賊を討伐した。


 翌年正月、副使・楊璋らを率いて長富村の賊を打ち破る。賊は象湖山に迫り指揮・覃桓、県丞・紀鏞を戦死させるが、王守仁は自ら精鋭を率いて上杭に駐屯、偽装退却し、敵の不意を衝いて進発、一挙賊の寨40余を抜き斬獲7000余を得、指揮・王鎧らが詹師富を擒えまる。上奏して将が権を軽んじ、将士が命令を聞かず、旗牌を請い、提督軍務をおろそかにしているゆえにこれを懲罰すべしと請求。尚書・王瓊もまた王守仁に同意した。それまでの兵制は25人を一伍として小甲を置き、二伍を一隊として総甲を置き、四隊を一哨として長官と二人の補佐官を置き、二哨を一営として営官と二人の参謀を置き、三営で一陣として偏将を置き、二陣を一軍として副将を置いており、これらはみな事に臨んでは全権を委任され、朝廷の命をも受けないものだったので、王守仁、王瓊の主導下、副将以下を処罰した。


 同年7月、王守仁は兵を大?に進める。謝志山は危急に乗じて南安を攻めたが、府知事・季?はこれを撃退、副使・楊璋らは陳曰能を擒えて帰った。ここにおいて横水、左渓討伐の議が起こり、10月、都指揮・許清、?州府知事・刑珣、寧都県知事・王天輿らはおのおの一軍を率いて横水で会合し、季?および守備・?文、汀州府知事・唐淳、県丞・舒富らはおのおの一軍をもって左渓で会合。吉安府知事・伍文定、程郷県知事・張?が賊の奔る後背を阻害し、王守仁自らは南康に駐留して横水から30里のところに。まず400人を派遣して賊の左右の山に埋伏させ、敵軍の進軍路に迫る。賊がやってくると両山から旗幟を立てた。賊は大いに驚き、官軍はその驚嘆に乗じて賊を搗き、その巣窟をことごとく毀して潰走させて勝ちに乗じて横水を抜く。謝志山およびその朋党・蕭貴模らはみな桶岡に逃げ込む。冠軍は左渓もまた打ち破り、王守仁は桶岡の堅牢を思い、営を移してこの地に迫り、禍福の利をもって賊を諭す。賊の首魁・藍廷鳳らは恐懼震撼し、使者の到来を大いに喜び、この冬投降した。刑珣と伍文定は雨の中険要に入り、賊は水陣をもって阻む。刑珣は前進して戦い、伍文定と張?は賊の右翼から出て襲い、賊は倉皇として敗走、そこに唐淳の兵がまた襲って賊を破り、衆軍一挙に桶岡を攻めて謝志山、蕭貴模、藍廷鳳を捕縛、ついに投降させその巣窟84個を破った。この戦いで斬獲6000余を数えたという。時に湖広巡撫・秦金が?福全を攻め破り、その朋党1000余がまた攻めてきたので衆将はこれらを殺し擒えた。王守仁はすぐさま横水に崇義県を設置、諸瑤への抑えとする。軍を還して?州に到り、?頭の賊を討つ。


はじめ、王守仁が詹師富を平定すると、龍州の賊・盧珂、鄭志高、陳英らは求めて投降してくる。横水討伐におよぶと、?頭の賊将・黄金巣が500人を率いて投降、しかし一人・仲容だけは投降しなかった。横水が抜かれるとようやく仲容は弟・仲安とともに投降し、厳しく戦備した。盧珂、鄭志高が仲容と仇の関係であったので、襲撃を恐れて防備を固めたものである。王守仁は盧珂らを杖刑に処し、ひそかに盧珂の弟を呼び集め、その部下を解散させ、年の初め、大いに燈火を張って楽を催す。仲容は半ば信じ半ば疑ったが、王守仁は符節財物を賜り、彼を誘って謝る。仲容は93人を率いて教場に営し、自ら数人を率いて帳中に拝謁する。王守仁はこれを斥けて曰く「貴公らはみなわが子民である。外に営を屯し、なお我を疑うか?」といって彼らをことごとく祥符宮に引き入れ、厚くこれを飲食させた。賊は過分の待遇に大いに喜び、これにより安心した。王守仁は仲容を留めて燈楽を観覧させる。正月三日、祖先の祭礼を合祀し、門の後ろに甲士を埋伏、賊衆が入ってきたところを尽く殺戮し尽くす。王守仁は自ら兵を率いて賊の巣窟を搗き、上・中・下の三?を連破、斬首2000余をあげる。余賊は九連山に逃げ込んだが、王守仁は壮士700人を選抜、賊の衣服を着せて崖下に赴かせ、賊がこれを招き入れると官軍は進攻して内外から挟撃、斬獲無算をあげる。ここにおいて下?に和平県を設立、守備の兵を置いて帰還した。これにより境内は大いに安定したという。


はじめ、朝廷は賊の勢力強となったので広東、湖広の兵を合してこれを征伐せんとしたが、王守仁は上奏してこれを制止。これは聞き入れられなかったが、湖広の兵がようやく到達したのは桶岡が平定されたとっくの後であった。?頭、広東が平定された後で檄文が到達する。「王守仁は文吏および小校を率いて数十年の巨寇を平らぐ。遠近驚きこれを神とす」として右副都御史に昇進させられ、錦衣衛百戸世襲を贈られた。まもなく副千戸に進められる。


 14年6月、王守仁は福建の叛軍観察を命じられる。豊城で寧王・朱宸濠が謀反を企み、県知事・顧佖がこれを密告。王守仁は急ぎ吉安に走り、伍文定と徴兵して食糧、武器および舟を整え、檄文を放って朱宸濠の罪悪を掲げる。地方の大臣たちはおのおの自らの吏士を率いて勤王の兵を挙げ、都御史・王懋中、編修・鄒守益、副使・羅循、羅欽徳、郎中・曾直、御史・張鰲山、周魯、評事・羅僑、同知・郭祥鵬、進士・郭持平、降謫駅丞・王思、李中らがみなこぞって王守仁のもとに集う。御史・謝源、伍希儒が広東から還ってきたので、王守仁は彼らの功績を記録した。ここにおいて衆人集合し商議して曰く、「賊がもし長江から東下すれば、南都を保つことあたわず。われは彼らを阻むことを計り、十日のうちに患いをなからしめん」 と。ここで多くの間諜を放つ。檄文が回ってきて曰く「都督・許泰、郤永は辺境の兵を率い、都督・劉暉、桂勇は京兵を率い、おのおの4万、水陸併進すべし。南?の王守仁、湖広の秦金、両広の楊旦らはおのおの部下を糾合し総勢16万で南昌を搗くべし。軍糧の欠乏あらば軍法にのっとって処置せよ」朱宸濠は蝋書に李士実、劉養正は帰国して誠意を述べるべしと告げ、二人は従容として東下。王守仁はわざと間諜に情報を漏らさせ、朱宸濠は果たして疑心を起し、李、劉の二人とともに商議、二人は朱宸濠に対し速やかに南京に走って帝位に登れと勧めるが、朱宸濠はさらに疑心暗鬼となる。10余日後、偵察が帰って外兵到らずと知り、朱宸濠はようやく王守仁に欺かれたことに気づく。7月壬辰一日、朱宸濠は宜春王・朱拱?の留守を襲い、その部下6万人を脅迫して九江、南康を攻め下し、大江から出て安慶に逼った。


 王守仁は南昌で得たわずかな兵に大いに喜び、急ぎ樟樹鎮に向かう。臨江府知事・戴徳儒、袁州の徐璉、?州の刑珣、都指揮・余恩、瑞州通判・胡堯元、童琦、撫州の鄒琥、安吉の談儲、推官・王?、徐文英、新淦県知事・李美、泰和の李楫、萬安の王冕、寧都の王天與らとそれぞれの軍を合して集うこと八万。これを号して三十万と称した。ある人が安慶救援を建議するが、王守仁が「否。今九江、南康はすでに賊の守るところ。今南昌を越え江を上り、二郡の兵にわが後ろを絶たれれば、これ敵に背腹を撃たれるなり。南昌を搗くにしくはなし。賊の精鋭悉く出て、守りの備えうつろなり。わが軍は新たに集まって気鋭、攻めれば必ず破れる。賊は南昌が破れるを聞かば、必ず囲みを説いてこれを救わんとす。これを湖中に逆撃すれば、勝てざる道理なし」と言えば衆曰く「然り」と。己酉、豊城に駐屯、伍文定を先鋒に、まず新奉県知事・劉守緒を派遣して敵の伏兵を襲う。庚戌夜半、伍文定の兵は廣潤門に当たり、守備兵を壊滅させた。辛亥の黎明、諸軍は梯子をかけて城壁を上り、朱拱?らを捕え宮人の多くを焼き殺す。軍士の多くが殺戮と略奪を行う中、王守仁は軍令違反者10余人を斬ってこれを脅し従え、士民を安らげ、宗室を宣諭したので人心安定したという。


 廣潤門に停留すること二日、王守仁は伍文定、刑珣、徐璉、戴徳孺らにおのおの精鋭を授けて進発させ、また胡堯元らに命じて埋伏。朱宸濠は果然として安慶から軍を還し、乙卯、黄家渡で両軍遭遇。伍文定は賊の先鋒を阻むも、賊に趨勢あり。刑珣が出て賊の後背を搗いたので、伍文定、余恩はこれに乗じ、徐璉、戴徳孺は両翼を広げて賊の勢いを分ち、胡堯元らの伏兵が発したので賊兵は大いに潰走し、撤退して八字腦を守る。朱宸濠は恐懼して南康、九江の全兵力を徴発。王守仁は撫州府知事・陳槐、饒州の林城を派遣して九江を取らせ、建昌の曾?、廣信の周朝佐に南康を取らせた。丙辰、また戦い、官軍は退いたので王守仁は退いた兵を斬る。諸軍ことさらに死戦し、賊軍はまた敗れて樵舎まで下がり、?陽湖に船を連ねて方陣を組み、金宝を尽くなげうって士卒をねぎらう。翌日、朱宸濠が自己の群臣に向かったところに官軍殺到。小舟に薪を積んで風に乗じ放火。その副舟を焚き毀し、妃・婁氏以下みな身投げして水死。朱宸濠の舟は浅瀬にとられ、逃げようとしたところを王冕の部に捕らわれた。李士実、劉養正および按察使・楊璋らもみな投降して擒われる。南康、九江もまた下った。賊が起こってからわずか35日での平定であった。京師は変を聞き、諸大臣震撼したが、王瓊が大言して「南昌には王伯安がいますから必ず賊を擒えてのけることでしょう」と言い、はたして勝ちが上奏された。


 時に帝は親征を企図し、自ら威武大将軍と称し、京師の驍卒数万を率いて南下。安辺伯・許泰を副将軍となし、提督軍務に太監・張忠、平賊将軍左都督・劉暉に京軍数千を領させ、江を遡り、南昌を搗く。寵臣の小人どもは朱宸濠と通じていたが、王守仁は朱宸濠の反書を呈上して進言するに「寧王は不遜にして帝位を窺いました。願わくば阿諛追従の小人どもを罷免して天下の豪傑の心を回収すべしであります」と。これが奸臣たちの恨みを買うことになる。朱宸濠が平定されると小人たちは皇帝をそそのかして王守仁の功績を黙殺。王守仁が天子に謁見して彼らの罪状を告発すると、競って蜚語を発し、王守仁は賊と通じて謀反を企てたが事が失敗してついに挙兵したという。帝は朱宸濠をいったん釈放し、自らの手でこれを擒える。


王守仁は張忠、許泰が至る前にふたたび朱宸濠を捕え、南昌を出発。張忠、許泰が武威大将軍の檄文をもって廣信にやってくると、王守仁はここに到らず、間道を通って玉山に往き、上書して俘虜を献上、皇帝の南征を制止させた。皇帝はしかしこれを聞き入れず、銭唐に至って太監・張永とまみえる。張永は提督賛書枢密軍務として張忠、許泰の上にあり、楊一淸と交友があり、奸臣劉瑾を失脚させて天下の称賛を得た人物であった。王守仁はそこで張永とまみえ、その賢徳をたたえ、口を極めて江西の疲敞を説き、天子六軍の不徳を非難する。張永はこれに賛同して曰く、「私が聖上の加護を受けてここに来たのは、功を迎えるために非ず。今や私は公の大功を知る。ただ直情すべからざるのみ」王守仁はそこで朱宸濠を張永に預け、自らは京口に戻り行在所に迎えられることを望んだが、江西巡撫の命を受け、南昌に帰る。張忠、許泰は先に到り、朱宸濠を失ったことを恨みに思い、王守仁が軍法を犯したとその名を罵しった。王守仁はしかし動ぜず、寛厚にふるまって彼らを安撫する。病のものに薬を贈り、死者に棺を贈り、喪道に遭っては必ず車を停めて慰問した。京軍の士卒言うに王都堂(王守仁)はわれらを愛す。彼を侵犯にすべからずと。張忠、許泰は「寧府の富厚きは天下第一、今、その財物はいずこにありや?」と問うも、王守仁は「朱宸濠は京師の要人たちと内応し賄賂を贈ったので、財物は残っておりません」と返す。張忠、許泰はもとより寧王より賄賂を貰った身であったので、さすがに気焔萎え、あえて再び言うことがなかった。これよりのち、王守仁を文士と軽んじるものは彼を脅迫して矢を射かけたが、王守仁は逆に射返して三発三中。京軍みな歓呼し、張忠、許泰は意気阻喪。たまたま冬に到り、王守仁は民に命じて祭りを執り行い、しかるのち墳墓の上で哀哭した。時に乱で家族を喪ったものは悲しみに哭きくれ、朝野震撼したという。京軍は家を離れること久しく、これを聞いて泣かざる者なく帰郷を思わざる者なし。張忠、許泰はやむをえず軍を還す。皇帝に拝謁したとき、給事中・祝読、御史・章綸は讒訴百端、一人張永のみが王守仁を保護した。張忠は皇帝の面前で「王守仁は必ず背きます。試みに召せば、必ずやってくることはないでしょう」と。張忠、許泰はしばしば偽の聖旨をもって王守仁を召すが、王守仁は張永と密かに連絡をとりあって危険を察知し、京師に赴かず。しかしこれが帝の意より発されたことと知るや馳せて朝廷に赴き、張忠、許泰の計画はついに窮まりまる。王守仁はすぐにも九華山に登り、寺に入った。帝はこれを知ると「王守仁は人の道を学び、召さるるを聞けばすなわち至る。なんぞ叛くというか?」といって彼を鎮守に戻し、王守仁はようやく捷報の呈上を受けた。王守仁は上奏して威武大将軍の反乱平定方略に言を奉り、ことごとく奸臣たちの名を挙げると、江彬らはもう一言もなかったという。


 この当時、ようやく奸邪煽乱のものたちは打ち破られ、禍変測るべくもなく、もし王守仁があらざれば東南の危難を防ぐことはできなかったであろうといわれるようになる。世宗はこれを諒解し、即位するとすぐさま朝廷に召して爵に封じた。しかるに大学士・楊廷和と王瓊の間が不和となり、王守仁の前後に渡る賊平定の功績がすべて王瓊に帰すことから楊廷和の不興を買う。大臣たちも多く彼の功労を忌むようになった。たまたまある人があって哀国いまだ終わらずといい、論功行賞は執り行われなかったが、王守仁は南京兵部尚書に任ぜられる。王守仁は任地に赴かず、請うて帰郷した。こののち、ようやくに論功が行われ特進して光禄大夫、柱国、新建伯、世襲および俸禄一千石。ただし世襲鉄券は与えられず、毎年の俸禄も実高通りには支給されなかった。同時に功労をあげた吉安の伍文定は大官となり、皇上の賞与を受け、その他のものもみな名目上は昇進したが、密かに貶められて排斥された。王守仁はこれにきわめて憤慨し、当時父の喪に服していたが、しばしば上奏して官爵を辞し、功労者への褒賞を請求する。喪が明けたのち、また召されるも応えず、長らくのち、彼は席書および門人の方献夫、黄綰らと親交を深め、彼らが寵幸を受けたことで張?、桂萼を告訴、召されたがまた費宏に忌まれ、復職を阻害される。しばしば兵部尚書、三辺総督、提督団営などに推されたが、結局任用されず。


 嘉靖6年、思恩、田州の土酋・盧蘇、王受が造反。総督・姚?はこれを平定することあたわず、王守仁はここで起用されて左都御史、総督両廣兼巡撫となる。黄綰は王守仁のかつての功労について上奏し、世襲鉄券と毎年の俸禄を請求、賊衆討伐の功をもって褒賞とすべしと言い、帝は然りとして同意。王守仁は路上、上奏して用兵の非を陳述、かつ説くに「思恩にはいまだ流官を設けられたことがなく、土酋は年に三千の兵を発し、官府の徴発を聞く。流官を設置せざれば、われらは叛軍に毎年数千の戍兵を置かねばならず、ここに流官を置けば無益を知るべし。かつ田州は交趾と隣接し、山深く谷は絶し、瑤族、僮族蟠踞してすなわち必ず土官を置くべし。もし土著の官職世襲を認めず、世襲の流官にあらざれば、すなわち辺境の患いとなる。われその時になってようやく兵を発さん。後悔なさるべからざるなり」と。奏文をもって兵部に章し、尚書・王時中に五箇条の奏文を陳述。皇帝は王守仁に再び議し、12月、王守仁は潯州に到着。たまたま巡按御史・石金は計略を定めて招撫するも、諸軍ことごとく解散して永順に留まり、保靖の土兵数千は甲冑を説いて休息。盧蘇、王受ははじめ安撫を受けなかったが、王守仁至ると聞くと恐れ震え上がると同時に大いに喜ぶ。王守仁が南寧に到ると二人は使者を遣わして投降を請い、王守仁の軍門を詣でる。二人は「王公は詐術巧み、恐れるはわれらが欺かれることのみ」といって入見。王守仁は二人の罪を数え上げ、杖刑をもって彼らを釈放。親しく営に招き入れ、その衆7万を慰撫した。朝廷に捷報を上奏し、用兵10条、招撫10条を陳述。ここにおいて流官を置き、田州の地を測量して一州を立てた。岑猛の次子、岑邦相をもって吏目に任じ、州事を代行させ、功労によって州知事に抜擢を受けさせる。また田州に19巡検司を置き、盧蘇、王受らをこの任に充てる。また約束して流官を府知事に約した。帝はみなこれに従う。


 断藤峡の瑤族が上に八塞を連ね、下に仙臺、花相ら諸洞蛮を通し、300余里にわたって連ね、数十年にわたって罹災者が続出した。王守仁はこれを討伐しようと欲し、南寧に留まり、湖廣の兵を罷めさせ再び用いることがなかった。賊の備えなしに乗じて牛腸、六寺など10余寨を抜き、峡賊を尽く平定する。ここにおいて横石江から下り、仙臺、花相、白竹、古陶、羅鳳の諸賊を抜き、布政使・林富は盧蘇、王受の兵を領して八塞を搗き、石門を抜き、副将・沈希儀が賊の退路を断って悉く八寨を平定した。


 はじめ、帝は盧蘇、王受を慰撫し、行人を遣わして璽書をもって訓諭した。断藤峡の勝ちを聞くにおよび、手ずから詔を下して閣臣・楊一淸らに問い、王守仁は自我誇大にしてかつ平生学術を好むというと、楊一淸らは答えることができなかった。王守仁は張?、桂萼を推薦。この両者は爾来王守仁と仲が悪く、ことに張?はこの傾向が強かった。のち、桂萼は吏部の長となり、張?は内閣に入って互いに謙譲せぬ間柄となる。桂萼は突然顕貴となり、功名を喜び、王守仁に交趾奪取を暗示しするが王守仁は辞して応じず。楊一淸は王守仁を諒解し、黄綰と上奏して王守仁を入閣させ政治を補佐させた。桂萼らはこれにより王守仁の征伐と討伐招撫で失職し、賞与は行われず。方献夫および霍韜は不満を抱え、上奏して弁を争わせ、言うに「諸瑶が患いを為すこと多年、当初の兵は数十万、わずかに一個田州を得て、まもなく賊寇を招致す。王守仁は隻言片語をもって思恩、田州を降す。八寨、断藤峡の賊、険阻を越え岡を絶し、国初以来いまだこれを軽んずも、今、これを一挙蕩平するは功績不朽。王守仁は命を受け思恩、田州を征伐し、八寨を抜く。丈夫辺境より出て、社稷の利、もっぱらこれをべからざるなり。いわんや王守仁は叛藩を討ち平らげ、忌むべきものの誣告に陥れられながらも賊を謀り、また誣告を受けみくるまに金帛を戴く。当時の大臣・楊廷和、喬宇はそのことを飾って今に至っても未だ申さず。忠心王守仁に如き、功績王守仁に如く。ひとたび江西を屈し、再び両廣を屈す。私は恐れ多くも臣の灰心を労い、将士を解体し、もってのちの辺境防備のこと、誰が再び陛下のためにこれを為したといいましょうや!」と。帝はこれを聞き、然りと。


 王守仁はのち病篤く、上奏して致仕を請う。?陽巡撫・林富を自分の代わりに推して帰郷。その途上、南安にて世を去った。享年57歳。霊柩は江西を渡り、軍民みな泣かざる者はいなかったという。追贈されて新建侯、諡は文成。

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