第51話 梁の韋叡

韋叡(い・えい。442-520)

 韋叡は字を懐文といい、京兆杜陵の名門貴族の出身である。その血統は漢の丞相・韋賢にまでさかのぼることができ、代々三輔の地で名声著しかった。祖父・韋玄は官途に空いて身を避け、長安は南山に隠居。宗の武帝・劉裕が召して大尉掾を授けようとしたが、官はもうたくさんと言って受けなかった。韋叡の伯父の韋祖征は宋末、光禄勛功となり、父親の韋祖帰は寧遠長史になった。韋叡は母の言うことをよく聞き孝行者として名高く、兄・韋纂、韋闡もまた世間に知名度高かったという。韋叡、韋纂ら兄弟は幼少からとにかく勉学を好み、韋闡は操を守って潔白で知られた。韋祖征は郡守を歴任するようになると、常に韋叡を州郡に連れて行ってそばに仕えさせ、秘書官のようにして息子同然に扱った。この伯父には先見の明があった、ということであろう。当時韋叡の親戚・王澄(澄の字は正しくはりっしん遍)兄嫁の弟・杜惲の二人が郷里では有名人であった。韋祖征が韋叡に「汝は自らあの二人に伍すと思うか?」と聴くも、韋叡は謙遜して答えない。韋祖征は言葉を継いで「汝の文章は些末事に拘らず、しかして学識は彼らを遥かに凌駕している。国家に手柄を立てて報い、事成就すれば、誰もが汝の風下に立つことになるであろう!」と讃えた。族兄の杜幼文が出でて梁州となると、檄文を発して韋叡の同行を求めた。梁州は土地肥えて賄賂が横行しており、韋叡はまだこのとき十代でしかなかったが、一人清廉潔白な人物として知られた。


 宋の永光八年、袁顗が雍州刺史となると、彼を見てその人相の奇であることを見て取り、引き立てて主簿とした。袁顗が雍州に到着すると鄧?が朝廷に反旗を翻しており、韋叡は求めて義成郡から出陣し、袁顗を禍から救った。のち司空・晋平王の左常侍となり、司空・桂陽王の行参軍に遷せられる。さらにのち斉の司空・柳世隆に随って郢城の守備戦を経験、荊州刺史・沈攸之の侵攻から郢城を堅守した。沈攸之の乱平定後、遷せられて前軍中兵参軍。しばらくのち、広徳県令とされ、累功により遷せられて斉興太守、本州別駕、長水校尉、右軍将軍の四職を兼任。斉末の動乱期、韋叡は遠くにあって郷を想い、請うて上庸太守、建威将軍となった。まもなく大尉・陳顕達、護軍将軍・崔慧景らが朝廷に反逆、しきりに京師建康に逼り、人心怯え倉皇として、取るべき措置を知らず。韋叡は蜀地にあって諮問を受け、「陳顕達は一大の老将といえど世を治るの才なく、崔慧景は頗る謹慎にして理知的なれど怯懦にして勇に欠けます。彼らは平定され族誅されるでしょう。天下を真に取る人は、おそらくこの州から出るはずであります」といい、二人の息子を高祖に人質として送ることで好を結んだ。


 高祖・蕭衍が挙兵すると韋叡は兵二千、軍馬二百を持って筏ではせ参じた。高祖は韋叡の参陣を大いに喜びんだという。また戦机に腰掛けて「以前あなたにまみえ、今日あなたの誠心を受けて、これで万事成功は間違いなしだ。」といった。韋叡は郢、魯に克つ方策を議し、加湖を平定する方略を数々建議し、それらが皆採用された。大軍が郢を発するに際して、郢城の留守役を誰に任せるかということになったが、高祖はなかなかこれを決められない。ついに韋叡を顧みて、「騏驥を棄てて輿にも乗ることなく、再び戻るためにこの地を任せてもよろしいか?」といい、即日冠軍将軍、江夏太守、行郢府事とした。当初郢城は天険に守られ、士卒百姓は男女およそ十万、城門を閉ざすことおよそ一年にして、疫病流行して十人中七、八が死ぬ。死体はみな床下の胎土にうず高く積み上げられ、生者が眠りから覚めて床の上を見るとそこには死屍累々、韋叡は自ら親しくこの状況を観察し、生者を慰撫して自ら蓄えていた財貨でこれを賑恤した。ここにおいて死者は正しく埋葬され、生者は安心して家業に勤しめるようになったので、百姓皆韋叡を頼った。


両朝建国の後、韋叡は大理とされる。高祖は即位の儀式を執り行うと、韋叡を都梁子、食邑三百戸に封じた。天監二年、永昌に改封されるが食邑は三百戸で変わらず。東宮(皇太子)が立てられると遷せられて太子右衛卒率、輔国将軍、豫州刺史、領歴陽太守。天監三年、北魏の軍が辺境を侵すと韋叡は兵を率いてこれを退ける。


 天監四年、王帥を率いて北伐、詔により韋叡は衆軍の都督とされ、全軍を統括する。韋叡は長史の王超宗、梁郡太守・馮道根らを遣わして小?城を攻めさせるも、未だ抜くこと能わず。韋叡が敵陣を視察しに出るとたちまち魏軍から数百人が打って出て城外に陣を布いたので、韋叡はこれぞ好機と撃つを欲する。諸将が言うに「我らはこのように軽装で来ているゆえ、防備の戦には向きませぬ。まずは敵の甲冑を奪い、しかるのち満を持して進攻しましょうぞ」といえば、韋叡は「然らず。魏兵はこの中になお二千人超いるのである。これが門を閉ざして堅守すれば我々は軍を保つことすら困難になる。今城外に突出してきたのはまさしく彼らの中でも精兵勇士に違いない。まず先に彼らを倒し挫けば、敵城は戦わずして陥ちるであろう」と答える。諸将は遅疑して従わなかったが、韋叡が符節を持ち出し「朝廷から預かっているこれはただの装飾品にあらず、我、韋叡の命には必ず従ってもらう」ここにおいて進撃が開始される。将士皆死戦して、魏軍は果たして敗走、こののち小?城に向かい発して猛烈な攻撃を加え、夜半ほどなくこれを落す。勢いに乗って合肥に逼る。これ以前、右軍司馬の胡略らが合肥を攻めたが落とせず。韋叡は当地の地形山水と地勢を測り、説くに「我聞き知るに汾水を落すには平陽を灌すべし、絳水を落すには安邑を灌すべしと。これはまさにそれと同じ形勢である」といって肥水を堰き止め水路に戦艦を浮かべ、自からそれを指揮する。ついで艦隊戦により合肥の東西にある小城二つを抜いた。北魏は将軍・楊霊胤に兵五万を授けて援護させたのを皮切りに、次々合肥に増援を送る。諸将は北魏の兵力を恐れたが、韋叡は泰然自若として「賊は城下に至りようよう増援を請求しているが、救難の時になにほどのこともできぬ。北賊が今から急ごしらえの武器を作ったとして、それが間に合うというのか? 況や我はむしろ増援を願い、増兵を斃さんと欲する。これ呉国が巴丘に潰え、蜀帝が白帝に倒れたのに根を同じゅうするもの。用兵の法は奇をもって勝ちを制すを貴ぶ。はたして人数の衆寡にはあらず」と言って懾れる色がなく、自ら楊霊胤と交戦してこれを撃ち破ったので、軍卒たちの心はいよいよ落ち着いた。


はじめ、韋叡は肥水に堰を立て、軍使・王懐静に城を築かせてこの岸を守らせたが、魏軍は懐静城を陥として1千余人を皆殺しにした。魏人は勝ちに乗じて韋叡の堤下に逼り、その勢甚だ盛んであったので、軍監・潘霊佑は韋叡に巣湖まで撤退することを勧めた。諸将もまた三叉までの撤退を請う。しかし韋叡は大いに怒り、「どこに撤退する道理があるか! 軍を率いる以上は血戦して前に進むべし、後退など論外である」すぐさま人に令して傘扇と軍旗を持ち出し、堤下に樹木の如く立って、毫も揺るがぬ不動の決心を見せた。韋叡は身体頗る弱く、闘う都度馬に乗れないので輿に乗って督戦激励していた。魏軍来寇し堤を壊すや、韋叡は自ら輿に乗りこれと戦い、魏軍わずかに退き、堤上に保塁を築き固守した。韋叡は戦艦隊を編成、高みから低きへと下って合肥城に攻め下り、合肥を四面から囲む。魏人は計略に窮し、互いに哭いた。韋叡が攻城具を準備している間も、堰には水が満ちており、水軍の備えがない北魏の援軍は梁の水軍の前に手も足も出なく、合肥の守将・杜元倫は城樓に上って督戦したが、石弓から発せられた矢に射抜かれて死す。ついに合肥は陥ち、韋叡は万余の俘虜と数万の牛馬、絹十間を得て、それらはすべて軍費に充てた。韋叡は常々夜が白むまで客と談話し、夜中には兵書を研究し、三更まで起きていて天が明るくなると起き、よく兵士を安撫し、兵に不備があっても怒鳴ることがなかったので、梁朝で軍隊に入る者は競って韋叡の帳下に入ることを望んだという。


合肥平定後、高祖は詔を下して各路馬軍を進ませ、東陵に抵御させる。東陵は魏の甕城から二十里、両軍まさに会戦の瞬間、詔が下って班帥が命ぜられる。敵軍すでに去ると雖もなお近く、兵士は恐れをなし震え上がったので、韋叡はすべての輜重を棄て、自ら小さい輿に乗って殿を努めた。魏人は韋叡の威名を知って敢えて追撃せず、よって全軍無事に京師に還る。朝廷はこれより豫州を合肥に遷す。


 五年、北魏の中山王・元英が大軍を率いて北徐州を襲い、徐州刺史・昌義之を鐘離城に囲む。軍は百万と号し、連ねるところの城は四十余。高祖は征北将軍・曹景宗に兵士二十万を督させてこれを拒ませ、曹景宗は邵陽洲に駐留し、営塞を築く。武帝は韋叡に豫州の兵を率いて曹景宗の補佐を任せ、韋叡は合肥から陰陵を経て進み、山間渓谷を通り、渓谷に飛橋を架けて渡る。軍卒たちは魏兵のあまりの多さとその威勢の盛んを見て恐怖し、韋叡に行軍速度を緩めるよう進言するが、韋叡は対して「鐘離は今困窮に陥り、我らの援軍を心待ちにしている。車を馳せて卒を走らせ、恐れるのは猶その後でできること。況や足を緩めろなどと! 魏人はすでに我が腹中に堕つ。卿ら憂うなかれ」十日をかけて邵陽に至る。高祖は初め勅命を降して曹景宗に「韋叡は卿の先達である。よろしくこれを敬え」と言った。曹景宗は韋叡に遭うなり謹直に襟を正して礼を尽くしたので。高祖はこれを聞き、「二将和すれば、師必勝なり」と語った。


 韋叡は曹景宗の陣から二十里のところに布陣し、夜、濠の溝を深め、鹿角(角つきの防馬柵のようなもの)を立てた。そして邵陽洲に急ごしらえの城を建てる。翌日朝、一夜にして城が建ったのを見て元英は非常に驚き、「何ぞこれ神なるや?」と叫んだ。翌日朝、元英自らの挑戦に対し、韋叡はいつもどおり輿に乗り如意(杖)を振るって督戦、一日数戦し、元英は梁兵の強さに驚いた。夜、魏軍は梁軍の陣営に夜襲をかけ、矢を雨の如く射かけた。韋叡の子・韋黯は韋叡に矢から身を隠すよう勧めたが、韋叡は聴かなかった。兵士が矢雨の中にいるというのに、指揮官が隠れては軍規が乱れると思ってのことであろう。名将かくあるべし。そらに軍中を驚かせたことに、韋叡は城墻に上り声を励して軍の指揮を執った。かように韋叡の適切かつ果断な指揮により大事に至ることはなかったという。


 魏軍は邵陽洲の両岸に二つの浮橋を架け、淮河を跨ぎ超えて両岸を連結した。韋叡は梁軍太守・馮道根、廬江太守・裴遂、秦郡太守・李文釗らに水軍の大艦を率いさせ、雨季、淮水が膨張するとこれを直進させた。戦艦隊は競うように発し、みな敵の塁に臨み、小舟に柴を乗せ、これに膏油を注ぎ、敵軍の浮橋にたどり着いたところで火矢を射掛け、燃やした。おりしも風怒って火は盛んとなり、灰燼晦冥、韋叡と曹景宗が決死隊を募って上流河流から柵を抜き橋を斬ると、水流また溢れ、たちまちのうちに橋も柵も悉く破壊された。馮道根らは親しく自ら転戦し、軍人奮勇、叫び声は天をどよもし、一をもって百に当たるの勢い、魏人は大敗し、元英は橋が落ちるのを見てひとり戦場を離脱、遁走した。魏軍は水に溺れて死ぬもの十余万、斬首またこれに比す。武器甲冑の類は数え切れず、虜囚となって奴婢に落とされたものは数十万に上った。勝ち得たところの牛馬は記すのも馬鹿らしいほどだったという。魏軍撤退を昌義之に伝えると、昌義之は城から出て「更生! 更生!(生き返った! 生き返った!)」と喜んだ。高祖は中書郎・周捨を派遣して全軍を慰労させ、韋叡は軍門に積み上げられた軍需物資を見上げ、それを見た周捨は韋叡に言って曰く「将軍がこれほどの手柄を立てられましたのは、熊耳山以来でしょうか」と。戦後韋叡は一連の戦いの総指揮を担った功績により、食邑七百戸を加増され、侯爵、通直散騎常侍、右衛将軍とされた。


 七年、左衛将軍、安西長史、南軍太守とされ、俸禄二千石を授かる。司州刺史・馬仙碑が北伐の帰途で敵に追われ囲まれ、三関の軍師みな動揺したので、高祖は詔を下して韋叡を救援に遣わした。韋叡は安陸に至るや城を築き、塹壕を掘り、城楼を高く建てた。衆頗る韋叡の弱腰を笑ったものだが、韋叡は「然らず、まさに怯懦に当たるものは、勇者ではあるまい(どうせやってくるのは弱卒ばかりであるから、安心していい)」と。このとき元英は馬仙碑を追い、また邵陽の恥を雪がんとやってきたが、韋叡到ると聞いて軍を還した。魏の武帝はこれを聞き元英の軍籍を剥奪した。翌年、信武将軍、江州刺史。九年、徴員外散騎常侍、右衛将軍(のち左衛将軍)、太子詹事、通直散騎常侍とされる。十三年、智武将軍、丹陽尹。理由は不明だが一事免官され、しかしまもなく官に復して中護軍に起用された。


天監十四年、韋叡は平北将軍、寧蛮校尉、雍州刺史とされる。むかし、韋叡の郷で陰儁光なるものが叛逆を起こしたので、韋叡は哭いて諌めこれを止めた。韋叡が雍州に赴任するにあたり、陰儁光は路傍でこれを迎え、韋叡は笑って彼に「あのとき君の話に乗っていたら、今は乞食旅の塵となっていたであろうな」と語って耕牛十頭を与えた。韋叡はほかにも大勢の老朋友たちと語らい、ケチらずに財物をふるまい何人かを官途に推挙した。歳七十を超えてなお士大夫としてしばしば仮の板県令となるも、故郷甚だ恋しく、十五年、致仕を願って許され、徴散騎常侍、護軍将軍、楽隊一部と入殿の煩雑な形式を踏む必要なしという資格を授かる。朝廷にいて奸臣に阿らず、高祖より尊敬を受けた。生来慈愛の心が強く、孤児を己の子のように慈んで育て、俸給爵禄はすべて士卒の遺族に分け与えて家財は一切なかったという。のち護軍を授かり家事に没頭、萬石、陸賈らのひとの生きざまを恭慕し、彼らの図像を描いて自らの家の壁に掛けたという。当時すでに老年と雖も、暇な日には諸子を集めて学問を教えた。第三子の韋稜はもっとも経史に通暁し、博識として世に名高かった。韋叡は常々韋稜と対座してそのまだ未熟であるところを指摘し、韋稜はなお精励勉励することを誓ったという。高祖は当時仏教に耽溺しており、百姓大臣みな風聞して、韋叡はもとより信仰に対して淡泊であったから、彼が位殷賑を極めれば高祖も俗仰を欲せず、今日のような有様にはならなかったであろうにと。


 普通元年夏、召し返されて侍中、車騎将軍を授けられるも、病気によりこれを固辞した。八月、実家で没。享年七十九歳。遺言で葬儀は質素に行われ、喪服も一般人のそれと変わらないものが使われた。彼の死を聞いて武帝は痛哭し、銭十万、布二百匹、東園秘蔵の宝物および朝服一揃いに衣一襲を贈り、喪時の費用を給付、中書舎人監護を派遣して侍中、車騎将軍、開府儀同三司を追贈、厳候と謚した。


はじめ邵陽の役において、昌義之は韋叡の徳に感じて、曹景宗と韋叡を集め、それぞれ銭二十万を掛けた賭博をもちかけた。曹景宗は「雉」、韋叡は「廬」と出(すいませんが遠蛮にはこの賭け事がなんなのかさっぱりわかりません)、韋叡は二十万銭を受け取ったが、日ごろの韋叡の無欲を知る二人は「異なこともあるものだ」と言った。おそらくは孤児や戦死者に対して与える金子に使ったのだと思われるが、それでも人からもらった金を韋叡が使うこと自体が珍しいことではある。曹景宗は当時他の将軍たちを相手に戦功を競い合っていたが、一人韋叡だけは別格であるとして自分を一格下に置き、彼は愛耀であり自分はただ勝利を得るのみであるとして、毎度その調子であったから、世人は尤もだと韋叡の賢者ぶりを讃えた。

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